悪名
禎兆六年(1586年) 三月中旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 九条兼孝
「如何でございますか、地震から二ヶ月が経ちましたが」
「悪くおじゃらぬ。嫁の実家が色々と気を遣ってくれるからの、むしろ地震の前よりも良くなったのではないかの」
太閤殿下が“ほほほほほほ”と御笑いになった。確かに部屋を飾る調度の品は以前よりも賑やかになった様な気がする。話から察すると朽木の援助で揃えたらしい。
「追い返されたと聞きましたが?」
「そうらしいの。嫁は阿呆と怒鳴られたとか。滅多に怒らぬ父が怒ったと驚いておじゃった」
殿下がまた“ほほほほほほ”と御笑いになった。
「怒らぬのでございますか?」
「らしいの。相国も娘には甘い父親なのかと思ったがそういうわけでもないらしい。余り子らには怒らぬらしいの。内では穏やかな父親の様じゃ」
「はてさて」
殿下が私の顔を見て苦笑を浮かべられた。どうやら妙な顔をしてしまったらしい。だがあの相国が内では穏やかな男? 今一つ腑に落ちぬ。
「まあ一度近江で相国に厄介になった事が有ったが相国の子等は父親を恐れてはいなかったの」
「……左様で……」
近江か、殿下を近江に追ったのが父と足利義昭であった。その事を想っていると殿下が“ほほほほほほ”と御笑いになった。
「昔の事じゃ、気にしてはおらぬ」
「そうは申されましても……」
語尾を濁すと殿下がまた“ほほほほほほ”と御笑いになった。
「それに近江で過ごした日々は楽しかった。釣りや鷹狩り、淡海乃海で舟遊びもしたの」
「左様でございますか」
こちらを気遣っているのが分かった。だが表情からすると楽しかったと言うのは嘘ではないらしい。その所為だろうか? 京に戻った殿下は父に報復はしなかった。我らが今廟堂でそれなりの立場を得ているのもそれが大きい。そう言えば相国は公家にきつく当たった事は無いな。或いは相国が殿下をそれとなく止めたのかもしれぬ……。
「関白の所は如何なのじゃ? 塀の一部が崩れたと聞いたが」
「奉行所の手配で既に修理は済んでおります。もっとも奉行所からは塀も屋敷もかなり傷んでいるので落ち着いたら新たに建て直した方が良いだろうと言われました」
殿下が頷かれた。
「次に大きな地震が来れば危ないか、……だが建て直すとなればかなりの物入りじゃの」
「はい、頭の痛い事でおじゃります」
「相国に相談しては如何じゃ。あそこは銭なら幾らでも有ろう」
「五万貫でございますか」
「うむ」
相国が北野天満宮を脅して五万貫を出させた。祟りと騒いだことを咎めての事だが……。
「相国に甘えるのは気が引けるかな?」
太閤殿下が可笑しそうな表情をしている。
「そういうわけでは有りませぬが……」
太閤殿下、一条左府は相国と親しい。それに比べるとどうしても私や弟達は疎遠だ。
「父御と関白は別人であろう。今では関白と相国として協力し合う仲、相国も援助をと頼って貰った方が喜ぶと思うがの。違うかな?」
「……かもしれませぬ」
殿下がまた声を上げて御笑いになった。
「関白は如何も甘え下手のようじゃの。上手に甘えれば顔を顰めながらも喜ぶ。麿が口添えしよう、如何かな?」
「……お願い致しまする」
「うむ」
殿下が満足そうに頷かれた。そうだな、父とは政敵であった太閤殿下が我らを受け入れてくれているのだ。遠慮せぬ方が良かろう。
「先日、松梅院禅昌が参りました。例の一件で何とか相国に取り成して欲しいと……」
「麿の所にも参った。一条左府の所にも行ったようじゃ」
「左様で。それで……」
殿下が眼だけで笑った。
「勿論、取り成し等せぬ。そうであろう?」
「はい」
朝堂院を建てるための用地接収、それをあの者達は咎めたのだ。許す事は出来ぬ。院も帝もこの事を御怒りだ。それに京の都の復旧は奉行所が中心となって行われている。それを忘れてはなるまい。相国に不快を思わせる事は出来ぬのだ。
「それにしても相国も上手い事を考えるものよ。祟りと認めた上で北野社に銭を出させるとはの」
「今後は天変地異が起こる度に菅公の祟りになるとか」
殿下と顔を見合わせ同時に吹き出してしまった。
「北野社の者共も喜んでいよう。天神様の御力を認めるのだからの。文句は言えぬ筈じゃ。その代償に復興の費用を出してくれるとは、……有り難い事よのう」
チラリと殿下が私に視線を流した。ここは生真面目に答える一手だな。
「真に有難い事でございます」
“ほほほほほほ”と殿下が口元を扇子で隠しながら御笑いになられた。確かに笑える、これでは菅公が北野社に祟っているようだ。声を合わせて笑った。
「焼き討ち、根切りが待っておじゃるからのう。武家は怖いわ」
「さればこそ我等に泣き付いて来たのでおじゃりましょう」
「ほほほほほほ、坊主めに甘く見られたか。だがどちらが甘いかのう。我らが取り成し等する筈がなかろうに。愚かな事を」
上機嫌であった殿下が最後は蔑む口調になった。殿下も北野社に対して御不快の念をお持ちの様だ。
北野社はこれからも銭を吐き出し続ける事になる。その銭は復興費用に充てられる。北野社が銭を出さなければそれだけ復興が遅れる事になるのは明白。そのような取り成し等到底出来ぬ。すれば相国に蔑まれるだけであろう。公家共は何も分かっておらぬ、役に立たぬと……。
「御聞きでございましょうか? 北野社の内の事」
「内の事? いや知らぬ。何か有ったか」
訝しげな表情だ。どうやら本当に知らぬらしい。
「坊主共が今回の一件で揉めているとか」
「坊主共、三院と宮仕か、……なるほどの」
殿下が頷かれた。どうやら察したらしい。
北野社は上級社僧である祠官と下級社僧である宮仕達の対立が激しい。どうも宮仕達に祠官である松梅院の力が強過ぎるという不満が有る様だ。その不満はこれまで改善される事は無かった。だが今回の一件で松梅院禅昌が北野社に大きな損害を与えた。宮仕達はその事を待遇改善の良い機会だと捉えている。
「松梅院禅昌が泣き付いて来たのもそれが理由か」
「そのようでございます。突き上げがかなり厳しいようで」
殿下が笑い出した。
「無理も有るまい、五万貫ではの。しかも取り敢えずと聞いた」
「三宮様の事も御座います」
曼殊院への入室を取り止め。いずれは曼殊院門跡との事であったが三宮様は親王宣下の後に宮家を創設することになった。帝も阿茶局もその事を喜んでいる。そして朝堂院再建を非難した禅昌達に不快感をお持ちだ。殿下が頷かれた。
「そうよの、朝廷からも見捨てられたようなものか。で、宮仕達は何処までやる気かな?」
「禅昌の罷免と待遇の改善、おそらくは松梅院の力を抑えようという事のようで」
「さてさて」
殿下が首を横に振った。
「宮仕達は奉行所に訴え出る事を考えております」
殿下が目を瞠った。
「なるほど、相国を味方に付けようという事か」
「はい」
互いに顔を見合わせて頷いた。可能性は有ろう、今回の一件は天台宗が絡んでいる。相国もその事は理解している筈だ。となれば北野社の現状を変えようとするかもしれぬ。それは天台宗だけでなく他の宗派の者達にも警告となろう。滅多な事で政に口出しは出来なくなる。
「そう言えば延暦寺の坊主、詮舜と賢珍と言ったかな、大分禅昌の事を怒っているようだの」
「はい、今回の一件で相国は天台宗に不快感を改めて持った筈。延暦寺の再建は当分は許されますまい」
「うむ、これまで随分と嘆願していたようだが……」
「無駄になりました。禅昌は天台宗の僧達からも責められております」
殿下がフッと小さく笑った。
「相国にとっては願ったり叶ったりであろうの」
「左様でございますな。寺社にも影響力を持つ事が出来ます」
殿下が“うむ”と頷かれた。
「天下を治めるには公武を押さえるだけでは足りぬ。そこに寺社を加えなければの。既に浄土真宗は押さえた。天台宗も大人しくなろう。政に関わるのは危険だと理解した筈だ」
「天台宗だけでは有りませぬ。他宗の者達も此度の一件で大人しくなりましょう」
殿下が頷かれた。
「悪名を怖れぬ者というのは強いの」
ポツンとした口調であった。
「そうですな。他の者ならともかく、相国が焼き討ち、根切りと言えば怖れぬ者は居りますまい。今回の一件を見ればそれが良く分かります」
殿下が頷かれた。
「我等公家は何時からか悪名を怖れるようになった。血を怖れ穢れを怖れ恨みを、祟りを怖れるとはそういう事であろう。その事が我等公家が力を失う事になったのかもしれぬ」
「……そしてそれを成す者を野蛮と蔑んだ」
「うむ、そうする事で自らの弱さから眼を背けたのじゃ。公家が弱いままの筈よな」
否定は出来ぬ。公家は力を失い武家は力を振るう。武家で最大の存在が相国、この天下でもっとも悪名を怖れぬ者。そう思えば相国が天下を制するのは当然の事なのだろう。
「改元をせぬと聞きましたが?」
殿下が“うむ”と頷かれた。
「大地震の後なれば縁起が悪いと改元をするかと思ったがの。そのような事に銭を使うのであれば街の復興に使うとの事であった。強いわ、祟りなど微塵も恐れておらぬのであろう」
確かに強い。いや天下人とはそういうものかもしれぬ。悪名も神仏も恐れぬ強さが必要なのであろう。
「九州が乱れております」
「うむ、大友が危ういらしいの」
「はい、相国が九州へ赴くのは早くて今年の末と聞きますが?」
それで良いのだろうか? そう思ったが殿下の表情は動かない。
「已むを得まい。怪我の事も有るが畿内から北陸、東海は相国にとって最も大事な領域、放置は出来ぬ。九州遠征は復興が順調に進んでからとならざるを得ぬ」
「……龍造寺の勢いが強くなりますぞ」
殿下が含み笑いを漏らした。
「真に危ないと見れば関東から大樹を呼び戻すであろう。違うかな?」
「……確かに」
大樹は德川を降し関東の制圧にかかっている。朽木家の跡取りとしての力量は皆が認める所でもある。九州に送れば龍造寺の制圧は難しくとも伸張は押さえられよう。
「だがそれをせぬ。相国は龍造寺を恐れておらぬ」
「では相国は……」
「うむ、これを機に大友、龍造寺の双方を潰すつもりやもしれぬの」
なるほど、むしろ好都合という事か……。
禎兆六年(1586年) 三月中旬 近江国蒲生郡八幡町 立花邸 立花統虎
「義父上、御具合は如何でございますか?」
「うむ、大分良くなった。だが時折揺れるのでな、ゆっくり休めぬ事には閉口するの」
「左様ですな、それでも以前に比べれば大分減った様に思います。誾もそう申しておりますぞ」
「そうじゃな」
義父、立花道雪が微かに笑みを頬に浮かべた。この十日ばかり風邪を引いて寝込む日々が続いている。今日は起きているから具合が良いらしい。大殿から見舞いの品として頂いた綿入半纏を羽織っている。かなり暖かいらしい。
「近江は寒いの。どうも儂は寒いのは苦手だ」
向うところ敵無しの義父が寒さを苦手だと言っている。少し可笑しかった。
「九州に比べれば寒いのは仕方が有りませぬ。ですが意外に雪が多いのには驚きました」
「うむ、そうじゃの。ところで彌七郎、何の用だ?」
「失礼しました。義父上に文が届いております」
「儂に?」
義父が眉を寄せた。懐から文を取り出し“田原紹忍殿です”と答えると義父が唸り声を上げながら文を受け取った。義父が文を読む。読むにつれて表情が厳しくなった。そして読み終わるとホウっと息を吐いた。
「文には何と?」
「近日中に大友家から朽木家に使者が来る。利光宗魚殿だ」
「義叔父上が?」
「うむ、吉弘左近大夫統幸殿も付き添いで来るらしい」
「何と!」
「そなたの従兄弟だな」
「はい」
宗魚殿は義父の妹を妻に迎えている。そして吉弘家は父の実家で吉弘家から出て高橋氏の名跡を継いだ。左近大夫は父の兄の息子、甥になる。
「大友家の状況は思わしくない、いや龍造寺に攻められて相当に悪いようだ」
「では?」
「うむ。朽木家の援軍を願うらしい。おそらくは我らの口添えを期待しているのだろう」
「拝見しても宜しいですか?」
義父が“うむ”と頷いて文を差し出した。それを受け取って中を読む。確かに良くない。
筑前の大友領はあっという間に失われた。豊前の国人衆は田原殿が宇佐、下毛勢と共に抵抗しているが他は殆どが寝返ったらしい。豊後では志賀少左衛門尉親次が岡城、佐伯太郎惟定が栂牟礼城、木付中務少輔鎮直が木付城で抵抗している。他にも何人か節を曲げずに大友に忠誠を誓っている者が居るようだ。大友の御隠居様、御屋形様は臼杵城で籠城している。あの城は簡単には落ちまい。だが……。
「紹忍殿も苦しかろうな。我らにこのような文を送って来るとは……」
「それを言うならば使者である義叔父上達も同様でしょう」
「そうじゃな、一縷の望みをかけておるのじゃろうが……」
紹忍殿、義叔父上達も朽木家が大友に良い感情を持っていないのは理解していよう。本来なら助け等願いたくは有るまい。だがそれをせざるを得ない程に大友家は追い込まれている。
「如何なされます?」
「……口添えは出来ぬ。……その方も分かっておろう」
「はい」
義父も父も大友家に忠誠を尽くしてきた。だが大友の御隠居様は我らよりも筑前二十万石を選んだのだ。そして大殿は朽木の天下取りに協力しなかった大友と龍造寺を許していない。
「それに大殿は地震で御怪我をなされた。ようやく骨はくっ付いた様だが未だ歩くのには不自由しておられる。兵を出す事は難しかろう」
「領内の復興の事も有ります。京の復興も大事ですが今浜が大きな被害を出した事で美濃、尾張との物流にも影響が出ているそうです。今浜の復旧は急がねばなりませぬ」
義父が笑い出した。
「彌七郎、随分と詳しいの」
義父に冷やかされて顔が熱くなるのを感じた。
「兵糧方の北条新九郎殿と親しくしております。新九郎殿が色々と教えてくれました。兵糧方は兵糧、武器弾薬の扱いだけでは有りませぬ。街道の整備や物の流れにも深く関わっております」
兵糧方は朽木独特の組織だ。如何いう物かと思ったが戦だけでは無い、平時の繁栄にも大きく関わっている。
「良い事じゃの。戦が無くなれば大事になるのが領内を豊かにする事だ。色々と聞いておけ」
「はい」
いずれは領地を頂く事も有ろう。その時は朽木の施策を取り入れて繁栄させたい。そのためにも色々と学ばねば……。義父が太い息を吐いた。
「彌七郎。明日、紹運殿と共に登城する。その方も同道せよ」
「はっ、大殿に文を御見せするのですな」
「うむ、おそらく紹運殿の元にも文は届いていよう。我らは朽木家の家臣、大友家のために動く事は出来ぬ。大殿に二心無い事を御見せする」
「はっ」
義父も父も辛かろうな。だが我ら家臣は心を疑われる様な事が有ってはならぬ。特に新参の者は……。




