大地震
禎兆六年(1586年) 一月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「明か……。まさか明が関係しているとはな……」
「大殿?」
「うん? 如何した、桂」
「いえ、今“明が”と仰られましたので……」
「……そうか。そんな事を言ったか。独り言だ、気にしなくて良い」
「はい」
桂が素直に答えた。不満だろうな。同衾している男が“明が”なんて言ったら。気の強い女なら“明って誰よ!”とか言うかもしれない。女じゃないからな、安心して良いぞ。謝罪じゃないけど桂を抱き寄せると大人しく身体を寄せてきた。子供を二人生んだんだが桂の身体はほっそりとしている。でも胸は結構大きい。良い匂いがした。暗闇でも良い女だと分かる。
「桂は幾つになった? 二十二、いや二十三か?」
「二十三でございます。大殿とは十五歳違いです」
「そうか、十五違いか。……嫌ではないか、歳が離れていて」
「いいえ」
桂がコロコロと笑った。少女めいた屈託の無い笑い声だ。本当に子供が二人いるのかと思ってしまう。
二十三歳で子供が二人か。確か康千代が六歳、絹が三歳だったな。若い母親だ。この時代では普通なんだが子供を産ませたのが俺だと思うと内心、忸怩たるものが有る。おまけに俺は今年で三十八だ。あと十五年は生きて子等の行末を見届ける必要がある。考えるのは止めよう、罪悪感と不安で眠れなくなる。
「大殿、もう一人和子が欲しゅうございます」
こら、甘えるな。
「うむ、そうだな。でもこればかりは天からの授かりものだからな。焦る事は無いぞ」
「はい」
良かった。もう一回とか言われるのかと思った。
小兵衛が朝鮮について報せを持ってきた。朝鮮が日本との交易拡大を望まない真の理由。物が無いだけじゃない、明が絡んでいた。とんでもない話だった。聞いた時には溜息が出たわ。小兵衛も溜息を吐いていた。日朝交易は日本と朝鮮だけの問題じゃない、明も絡む東アジアの問題だった。その核になるのが明、朝鮮の冊封体制と日本、メキシコが産出する銀だった。こんなの歴史の授業じゃ出てこない。
宗讃岐守義調は日本から朝鮮への交易品は銅と言った、銀とは言わなかった。そして交易は物々交換で銭を使わないと言った。なぜ銀、金を貨幣の代わりに使わなかったのか? 特に銀だ。銀は明でも通貨として使用されている。従属国である朝鮮が銀を使うのは少しもおかしくない。それなのに何故銀を使わないのか? 東アジアの共通貨幣は銀なのだ。もっと不思議に思うべきだった。俺って間抜けだわ。
使えないのではない、使いたくないのだ。何故ならそれが朝鮮の利益になると朝鮮の支配者層は考えているからだ。彼等は銀が国内に溢れるのを恐れている。そしてそれが明に伝わるのを恐れているのだ。明は銀を貨幣として使用している。銀は幾ら有っても良い。朝鮮に銀が溢れていると明に伝われば明は必ず朝鮮に銀を朝貢しろと言って来る。朝鮮はそれを怖れている。
実際に以前はそういう時代も有ったらしい。当然だが朝鮮にとって銀の朝貢は負担でしかなかった。だから朝鮮は国内に銀は無いと言って銀の朝貢を免じて貰った。朝鮮が国内の経済的発展に消極的だったのは儒教だけが理由ではないのだ。経済的発展によって貨幣経済が発展し銀が国内に溢れるのを怖れたのだろう。
イデオロギーと実利、その両面から朝鮮は経済的発展に消極的になった。朝鮮政府が私貿易を出来るだけ排除し公貿易に拘るのもそれが理由だろうな。銀が自分達の知らないところで朝鮮国内に溢れるのを避けるためだ。多分朝鮮国内での鉱山開発も控えているに違いない。自由貿易だなんて夢のまた夢だな。しかしなあ、これって明から見れば安保ただ乗りだろう。真実を知ったら明は怒るぞ。
もう一つ、驚いた事が有る。俺の記憶じゃこの時期日本から銀が大量に国外に、明に流れた筈だった。だがこの世界ではどうも違うらしい。理由の一つとして硝石を俺が作った事が有る。朽木が勢力を拡大するにつれて硝石を使用する量も増大した。当然だが大叔父と主殿の硝石作りも増大した。
二人が熱心に硝石作りをしたおかげで高島郡、伊香郡、浅井郡を中心に近江国は硝石の一大産地だ。一番大きな朽木が、そして一番鉄砲を持っている朽木が自分で硝石を作っている。つまり海外から硝石を購入する必要が少ないという事になる。当然だがその分だけ銀の流出は少ない。
第二に朽木が生野、石見銀山を押さえた事だ。これも銀の流出に歯止めをかける事になった。そしてそれを助長したのが金貨、銀貨の製造計画だ。未だ金貨も銀貨も造ってはいない。だが造るから金銀を蓄えよとは命じた。命じられた御倉奉行の荒川平九郎と川勝彦治郎は忠実に命令を実行した。
確認したんだが朽木の倉の中は金と銀のインゴットでてんこ盛りだ。何時の間にか南蛮吹きとかいうのを取り入れて銅鉱石から金銀を抽出していた。吃驚したわ。朝鮮が公貿易に拘るのも日本の銅が銅鉱石だからだろう。銅鉱石から金銀を取り出せるのだ。私貿易を許せば朝鮮国内に銀が溢れかねない。安心して良いぞ、今じゃ銅鉱石は朽木が買い漁っているからな。朝鮮に運ばれる量は減っている筈だ。
朽木の人間って真面目なのか仕事熱心なのか俺の命令を百二十パーセント、いや百五十パーセントぐらいに受け止めてやってくれる。去年倉の底が抜けたと報告が有ったのは銅銭によるものじゃない、金銀の重みでだった。小兵衛から指摘されるまでまるで気付かなかったわ。俺って本当に間抜けだ。朽木抜け作基綱と改名したくなった。溜息が出そうになって慌てて堪えた。桂に不審を抱かせてはいかん。
倉で呆然とする俺に平九郎と彦治郎は出来るだけ銅銭を使う様にしていますと胸を張って言ってくれた。道理であの二人、金銀の含有率を高くしようと言う筈だよ。物は有るんだからな。悔しかったからまだまだ足りない、もっと蓄えろと言ってやった。あの二人、まだ足りませんかって悲痛な顔をしてたな。ザマアミロ。
そして三つ目、日明間の貿易収支だが驚いた事にどうも日本の黒字らしいんじゃないかと思われる節が有る。と言うのも明では銀不足から銀の価値が上がっているらしいのだ。つまりだ、明から日本へは銅銭だけじゃなく銀も流れているんじゃないか……。史実とは逆の現象が起きている可能性が有るんじゃないか……。
検証していくと十分に有り得るんだ。硝石は日本では産出しなかった。史実では明、インド辺りから購入していたと思う。その代価が銀だった筈だ。膨大な取引だった筈だがこの世界では小さくなった。鉄砲の玉の原料である鉛は国内産も有るが中国、安南、シャム辺りからも購入しているようだ。安南は多分ベトナムの事だろう、シャムはタイだ。ポルトガル商人が絡んだのはこれだと思う。ここで銀が使われた。つまり明の比重は小さい。
日本からは明に対して銅、硫黄、石鹸、干し椎茸が輸出されている。だが最近では銅の輸出は低調らしい。理由は朽木が銅鉱石では無く銅を売っているからだ。明は銅鉱石を朽木以外から購入している。その量は決して多くない。そして朽木は蝦夷地、琉球とも交易している。それらで得た産物も明にも売られている。その代価が銀。明は以前に比べれば銀の流入は減り流出が増えている。トータルでは流出なのだろう……。
頭痛いわ。これ、どうなるんだろう。銀不足、つまり通貨が不足しているわけだから明はデフレ状態になる筈だ。銭が無いんだから物も動かない。国内の経済状況は停滞気味って事だよな。メキシコの銀が日本の銀の代わりになるのかな? 量の問題も有るだろうが何を銀と交換するんだ?
俺が綿糸を広めた所為で海外から綿糸の輸入は激減した。中国からも殆ど輸入していない。となると絹? 陶磁器? さっぱり分からん。いや、もしかするとメキシコ産の銀も中国経由で日本に循環しているのかもしれない。それに皇帝はボンクラだから明は悪政と経済不況のダブルパンチに襲われる事になるだろう。
冗談抜きで明はヤバイんじゃないだろうか? 朝鮮出兵なんてしなくても内部崩壊するんじゃないかと思ってしまう。軍事的脅威というのは眼で分かる。だから対処は比較的容易だ、防げるかどうかは別としてな。だが経済的な脅威というのは眼には見えない。その所為か気が付けば手遅れという状況になる事が多い。
多分、朽木が大きくなるまでは銀は明に流れていた。その銀が明のデフレを防いでいた。明の人間はそれほど不景気感を感じずにいただろう。だが朽木が大きくなるにつれて明に流れる銀は減って行った筈だ。徐々に不景気感が強くなってくる。そして暗君万暦帝が即位……。凶作が起きて流民が溢れる様になれば終わりだ。明は農民の反乱で滅びる事になる。
「大殿?」
「ん、如何した?」
「溜息を吐いておいででしたので……、お寝みになれませぬか」
「済まぬな。ちょっと考え事をしていてな」
いかんな、桂が心配している。此処は子供の話で気を逸らそう。母親にとっては最大の関心事だ。
「康千代は俺に似ているかな? それとも桂の父御、左京大夫殿に似ているかな?」
「目鼻立ちは父に似ているかもしれませぬ」
「そうだな、康千代の目鼻立ちは整っている」
「そういうわけでは……」
「本当の事だ」
北条氏の代々の当主って皆美丈夫だよな。肖像画を見るとそう思う。特に北条氏康は美男だ。俺の肖像画なんて平凡なオジちゃんの絵になるだろう。歴史資料的価値はともかく美術的価値は無いだろうな。モデルが平凡過ぎる。
「ですが性格は大殿に似ていると思います」
「俺に?」
「はい、優しいのです」
「俺は優しいかな? 皆からは怖がられていると思うが」
そうじゃなければ面白がられているかだ。
「そんな事は有りませぬ。大殿はお優しいと思います。今も皆の為に悩んでおいでなのでは有りませぬか?」
「……多分優しいのは桂に似たのだろう。俺は今そなたが傍に居てくれて助かっている」
「まあ」
抱き寄せると素直に頭を俺の胸の上に置いた。これじゃ勝頼が死ぬまで離さない筈だよ。愛されるために生まれてきたような女だ。幸せにしてやらないと……。
朝鮮との交易は拡大可能だ。明にちょっと囁けば良い。“日朝貿易を拡大すれば銀が朝鮮に入る。それを朝貢させれば明の銀不足の解消に役立つ”。明は喜んで朝鮮に圧力を掛けてくれるだろう。日朝貿易は拡大し交易によって得た利の殆どが明に奪われる事になる。多少は中国の銀不足を解消するかな? 分からんがまるで朝鮮は鵜飼の鵜だな。
朝鮮国内からは物も無くなるが銀も無くなる事になるな。これ、どうなるんだろう? インフレか? それともデフレ? いや、物が無いのだから物の値が上がるな。インフレだろう。だがそれ以上に拙い事は朝鮮が貧しくなる事だ。これは危険だ。朝鮮が公貿易に拘るようだと朝鮮政府が貧しくなる。税を重くして回避しようとすれば百姓が苦しむ。酷くなれば一揆が起こるだろう。朝鮮も崩壊だな。
私貿易を許し其処に税をかけるようにすれば如何か? 税を重くすると脱税しようとする人間が増えるだろうな。明からの要求がどの程度のものになるか、それにも因るのだろうが明への反感が強まり政府と商人達の間で税を巡る仁義無き戦いが勃発する筈だ。そして税が重くなればその分だけ物価が上がる。やはりインフレだ。それは一般庶民への負担となる。いずれ商人達、一般庶民の不満が爆発する事になる。混乱は避けられない。
東アジアは大混乱だな。明と朝鮮が混乱する事になる。外圧では無く内圧による混乱、分裂という事になるのかもしれない。それに乗じる形で北東アジアでヌルハチが勢力を拡大するという事になるのかな? 分からん。だが明と朝鮮は危険だろう。間違いなく不安定な状況になる。
日朝交易は制限貿易で我慢しよう。それで朝鮮の混乱は防げる筈だ。それよりも領土問題をはっきりさせた方が良い。宗氏は対馬から別な場所に移そう。そして対馬は朽木家の直轄領にする。此処を海軍の基地にして同時に交易の拠点とする。その方が良いだろう。宗氏は九州に移そう。一応交易が出来る場所、だが交易に頼らずとも生きて行ける場所に置く。その方が良い。ん? 何だ? 地震?
「大殿」
桂が怯えたような声を出して縋ってきた。
「地震だな」
「はい」
揺れている。少し長い。嫌な感じだ。ガタガタ、ミシミシと音がする。東日本大震災を思い出した。……大きく揺れた! 地鳴りがした、跳ね起きると桂も身を起こした。彼方此方から悲鳴が聞こえ始めた。
「桂、逃げろ!」
「はい」
「中庭に行け、大きな木に縋れ」
「子らは」
康千代と絹か。近くにいた筈だな。
「分かった。二人を連れて中庭に行け。俺は皆に逃げるように言わねばならん。急げ!」
「はい」
きつく言うと桂が奥へと走って行った。
廊下に出ると悲鳴が更に大きく聞こえた。揺れは益々大きくなっている。
「中庭に行け! 屋内に居るな! 中庭に行け!」
声を張り上げるとバラバラと人が出て来た。女が多い。
「声を合わせろ! 中庭に行け! 屋内に居るな! 中庭に行け!」
皆が声を合わせ始めた。これで室内での圧死とかは大分防げるだろう。
禎兆六年(1586年) 二月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木堅綱
「来たのか」
「来たのかでは有りませぬ。地震で大怪我をしたと聞きました」
目の前の父は脇息に身を預け不機嫌そうにしている。白い寝間着に紺の胴服、厚みが有るから多分綿の入った物だろう。右腕を首から吊り右足にも木を添えている。
「尾張で次郎右衛門には会わなかったのか?」
「会えませんでした。父上の見舞いに行ったと……、入れ違いになったようです」
「やれやれだ。あれにも言ったのだがな。その方等が慌てて此処に駆けつければ俺の容体はかなり悪いのだと皆が思う。その方が危険だと」
「……」
「先ず心配するのは俺の事よりも領民、家臣の事であろう。そんな事も分からぬとは……」
父上が不機嫌なのは怪我よりもそれの所為か。
「見ての通り、右腕と右足に怪我をした。両方とも折れている。中庭に逃げようとしたのだが転んでいる者が居てな、それを避けようとして俺も転んだ。そこに倒れ込んできた者が居て腕と足を折った。命には別条ない、案ずるな」
「はっ」
御命には係わる事は無かろう。だが右腕、右足を骨折したとなれば日常ではかなり不便な筈。
「関東は大丈夫なのか?」
「権六、勝三郎が居ります、半兵衛、新太郎も。取り敢えずは問題有りませぬ。千葉は滅びましたので上総と常陸を分断する事が出来ましょう。一つに纏まらなければ案ずるには及びませぬ」
「そうか、頼もしい事よ」
父上が声を上げて御笑いになった。
千葉氏は双子の兄弟、千葉介良胤と新介邦胤がいがみ合っていた。そして家臣達もそれぞれに付いて分裂していた。そこを利用して潰すのは難しくは無かった。……豊千代を父上にお渡ししたのは間違ってはいなかった。奈津も千葉氏の滅亡を見て納得している。或いはお腹に子供が居る事も関係しているのかもしれぬ。
「大分大きかったと聞きますが?」
父上が顔を顰められた。
「うむ、今も頻繁に小さな地震が有る。大きな地震の後は小さな地震が続くのだ。覚えておくが良い」
「はい」
「八門、伊賀衆に被害の状況を調べさせている。酷いな、畿内を中心に東海、北陸にまで及んでいるようだ」
「それほどに……」
朽木の支配地の中核となる部分が……。
「家屋が倒壊したところも有る。放置は出来ぬ、近くの寺で収容するようにと命令を出した。勿論、寺には朽木からその分だけ援助をする。それと壊れた家屋、或いは壊れそうな家屋は撤去させるようにと命令を出した。その分の費用も出さねばならん。国人衆達と折半だな」
「大変な出費でございますが」
「已むを得ぬ。朽木の支配なら安心出来ると思わせなければならんのだ。誰の為でもない、朽木の為だ」
「はい」
それでも思ってしまう。父上以外の者が天下人であったら如何だろうと。
「暫くは復興に力を入れなければならん。本当は自分で見て回りたいところだがこれでは出来ん。もどかしい事だ」
父上が太腿の辺りをぴしゃりと叩いた。
「夜中の地震で幸いであった」
「と申されますと?」
父上がジロリと私を見た。
「昼間なら火を使っていよう。火事が起きた可能性が有る。そうなればもっと死者も出た筈だ。悲惨な事になっていような。家を失いこの寒空に放り出されれば凍え死ぬ者も出る」
「確かに」
父上の仰る通りだ。昼間ならもっと被害は大きくなっていたかもしれない。
今日、書店に寄ったら淡海乃海の第二巻が置いてありました。しかもサイン本です。ちょっとびっくりでした。嬉しかったですね。御買い上げ頂いた方、感謝しております。楽しんで頂ければ幸いです。




