通貨
禎兆五年(1585年) 十一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
久し振りに刀を磨く。先ずは大典太光世だ。天下五剣の一つで足利家に伝わる名刀なんだが足利家が潰れたからな。俺の所にやってきた。結構気に入っている。息が掛からない様に懐紙を咥える。太刀を抜いた。やっぱり良い。何と言っても身幅が広く豪壮な感じが良い。溜息が出そうだ。
打粉を振って行く。刀身に軽くポンポンポンと振る。太刀を反対にしてまた軽く打粉を振って行く。終わったら良く拭う。うん、輝きが増したような気がする。壺と一緒だな。少しの間じっと見てから鞘に収めた。収めると抜いて確かめたくなる。困ったものだ。次は鉋切り長光だ。
平九郎と彦次郎が貨幣の話を持って来た。面白いわ、久し振りに興奮した。ワクワクしたな。あの二人、金と銀の交換比率を基に貨幣を造ろうとしているらしい。史実だと関東は金、関西は銀による二重通貨体制だった筈だ。金一両が銀でどのくらいになったのかは覚えていないが変動相場制だった事は覚えている。
何故そんな面倒な事になったか? 理由は二つあると思う。その一つが銀の産出地が西日本に多く金の産出地が東日本に多かった事だ。人間、身近にある物を使う。これは自然な事でおかしな事ではない。理由のその二は政権が交代した事だ。天下を統一した豊臣政権は大坂を根拠地とした。当然だが豊臣政権は銀を通貨として重視した。
だがその後の徳川政権は江戸が根拠地だった。当然だが家康は金を通貨とする構想を持った。だが既に銀は豊臣政権下で通貨としての実績を築いていた。家康もそれを無視する事は出来なかった。強引に廃止すれば混乱が起きるだろうし徳川政権への不信にも繋がる。秀頼が大阪で健在だったという事も考慮しただろう。不本意だったと思うが二重通貨体制を採らざるを得なかったのだと思う。それに当時の東アジアの経済は銀を貨幣として動いていた。その辺りも影響したのかもしれない。
面白いよな。この世界では統一政権として通貨を造った武家政権は無い。真っ新な状態だ。そして平九郎と彦次郎には俺が金と銀を通貨として使うという発想を持っている事、金銀の交換比率を気にしているという事実しかない。そこからあの発想が出て来た。意見書を読んだ時は驚いたわ。
問題は金、銀の含有量だな。現代人の感覚からすると含有量に拘る事は無い様に思える。紙幣なんて国の保証が無ければただの紙切れだ。だが国の保証が有るから通貨として通用している。金、銀を買うことも出来る。つまり名目貨幣なのだ。武田の碁石金も量では無く刻まれた額面に価値を持たせているのだからそういう考え方は戦国時代にも有るわけだ。そう思うんだが如何なのかな? はっきり言って良く分からない。武田は例外かな。
江戸時代初期の小判は金の含有量が高かった。あれを如何見るか? 財力の誇示は有るだろうな。関西の銀に対抗するには金の含有量を多くする必要が有ったというのも有るだろう。そこに各人が望んだというのも有るのか……。平九郎と彦次郎は含有量が高い方が良いという風に見ていた。意見書に書いてなかったのは二人の間で調整が付かなかったからだろう。だが俺よりも高く見積もっていたのは確かだ。あの二人は通貨を実物貨幣、貨幣そのものに商品価値が有ると見ていたわけだ。高い方が良いのかな? もう一度検討しろとは言ったが俺も要検討だな。
良し、鉋切り長光も終了だ。この長光は六角家に伝わった刀だ。鉋切りとは妙な名前だがこの刀には大工に化けた妖怪を鉋ごと断ち切ったという言い伝えが有る。鉋切り長光の名はそこから付いたらしい。しかしな、妖怪が大工に化けた? 鉋も持っていた? 妙な話だ。本当に大工だったんじゃないのと思うのは俺だけかな? 間違って斬ってしまって変な伝説を作った。いかんな、刀を磨くのは止めて考える事に集中しよう。
金銀の含有量が高いと如何なるか? 当たり前の事だが含有量が低い場合に比べて通貨の発行量が少なくなるという現象が発生する。つまりだ、使えるお金が少ない、お金を使える人が少ないという事だ。今は良い、戦国時代で彼方此方で人が死んでいる。畿内には万単位で根切りを行う鬼畜の親玉みたいな男も居る。人口の増加は緩やか、場合によっては減っているだろう。通貨も少なければ人口も少ない、整合性は取れている。……滅入るな。
だが平和になれば人口は増加する。金銀の産出量も増加すれば良いのだがそうは行かない。横ばいか、減少だ。となればだ、相対的に通貨の発行量は減り国内において深刻な通貨不足が発生する事になる。十分な貨幣が流通しない事により経済が停滞する、いわゆるデフレ不況が発生するわけだ。俺もデフレ不況で生きてきた世代だ。最初はデフレが何なのか分からず色々調べて納得したわ。今はそれが役に立っている。妙な感じだ。
デフレを脱却しようと考えれば方法は二つだ。一つは通貨を使う人間を減らす事だ。つまり大量虐殺、戦国時代の再開だ。……却下だな。となれば通貨の供給量を増やすしかない。通貨が名目通貨、例えば紙幣なら紙とインクと印刷機の問題だ。だが実物通貨、小判の場合は金銀の含有量を減らすか小判の大きさそのものを小さくする事で対応するしかない。
徳川幕府が元禄期に貨幣改鋳を行ったのは偶然では無く必然だった。政権が安定し人口が増加、経済が発展した証拠だ。貨幣改鋳により十分な通貨の供給を受けた事で幕府はデフレを脱却、インフレが発生し元禄バブルと言われる好景気を生み出す事になる。
この貨幣改鋳を行ったのが荻原近江守重秀だ。評判は悪い。子供の頃読んだ本には悪徳役人の見本みたいに書かれていた。貨幣改鋳も仕方無しにやったのだろうと思っていたんだが違うのだな。
『貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし』
そう言ったらしい。
これを信じるなら重秀は貨幣の価値というのは材料では無く国家が付与するのだという認識を持っていた事になる。そして貨幣改鋳は江戸幕府の通貨を実物貨幣から名目貨幣へ変換させる試みだったという事だろう。凄いわ、壮大なる試みだな。本当に江戸時代の人間だったのかな? 現代からの転生者じゃないかと疑いたくなるわ。
実物貨幣で行くか、名目貨幣で行くか。どうも実物貨幣の方が受けは良さそうだが名目貨幣が全く否定されているとも思えない。それに実物貨幣の時は保険として仕舞い込んで死蔵しそうだな。そうなると益々デフレが酷くなる。通貨は経済の血液だ。血液が全身を回らなければ壊死して腐り落ちるだろう。頭が痛いわ……。
金が欲しいよ、金が。但馬国養父郡関ノ宮村で金山が見つかった。中瀬山という山らしい。近くの八木川で砂金が発見された事で見つかったようだ。近畿地方で金山というのは珍しい。でもあまり期待はしていない。名前を聞いた覚えが無いんだ。
やはり佐渡を獲ろう。俺って間抜けだ。佐渡はてっきり上杉領だと思っていた。違うんだな、上杉領じゃない。佐渡は本間氏が治めている。それに金も出ていない。佐渡を獲る。蝦夷地との交易の中継点としても必要だ。連中、朽木の船で大儲けしているらしいからな。小兵衛を呼ぼう。
禎兆五年(1585年) 十一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 黒野影昌
大殿より呼び出しを受けた。珍しい事に昼間、そして中庭への呼び出しだった。御一人だ、人払いがしてある。傍に寄り膝を着こうとすると“無用だ、寄れ”との御言葉が有った。
「畏れ入りまする、では御傍に」
「遠慮は要らぬ。例の件、如何かな。博多、堺の件だが」
「はっ、少々難しゅうございます」
大殿が俺をチラリと見た。不愉快そうな表情では無い。可笑しそうな表情をしている。
「なるほど、商人とは強かだな。八門を以てしても手に余るか」
「申し訳ありませぬ」
謝ると大殿が声を上げて御笑いになった。身の縮む思いだ。いっそ叱責された方が気が楽なのだが……。
「分かった事で良い。教えてくれ」
「はっ、先ず堺の事でございますが明確に反対しそうな者は小西が考えられまする」
大殿が“小西か”と呟かれた。
「薬を扱っていたな」
「はっ、主に高麗人参を」
「なるほど、参入者が多くなれば旨味が減るか。おまけに買い付けは厳しくなる」
「そう考えても不思議では有りませぬ」
「そうだな、となると朝鮮との戦争も論外であろうな」
「はっ」
高麗人参は高価で簡単には手が出せぬ。つまりこの日本で購入する者は少ない。朝鮮で買い付ける者が増えては競争は厳しくなろう。値は上がる。だが日本で売るためには値を下げざるを得ぬ。つまり旨味は減る事になる。小西にとっては現状の維持が望ましかろう。大殿の考える日本と朝鮮の交易の拡大など受け入れる事は出来まい。
「薬か、俺を毒殺しようと考えるかもしれんな」
大殿が顔を顰められた。有り得ぬ事では無い、用心が必要だ。
「他には?」
「読めませぬ。……嘗ては朝鮮との交易で綿糸を買い入れておりました。しかし今では国内で十分に採れまする。敢えて朝鮮から買い入れる必要は無くなったと言えます」
大殿が“うむ”と頷かれた。表情は変わらない。だが心の内では満足しておられよう。綿糸を広めたのは大殿だ。
「歩こうか」
「はっ」
大殿が歩き出した、後を追う。
「絹は如何か?」
「絹は明の物にございます。必ずしも量が豊富とは言えませぬ。明の交易船、南蛮船が堺に来る事を考えますと……」
「朝鮮に拘る必要は無いか」
チラッと人影が見えた。八門、警護の者だった。俺を認めると微かに目礼してきた。他にも何人か居る筈だ。
「それに琉球からも絹は入って来ます。伊勢の大湊には堺の商人達の出店が有りまする」
「なるほどな」
大殿は歩きながら庭の草木を見ている。だが視線は厳しい。庭を愛でる視線では無い。
「日本からは銅、硫黄、昆布、石鹸等が朝鮮に売られております。朝鮮との交渉が上手く行き、交易が拡大されるなら、小西を除けば明確に反対する者は居ないのではないかと思いまする。特に納屋衆は喜びましょう」
「……そうだな。納屋の利用が増えるか」
「はい」
納屋衆がそれを望まぬとは思えぬ。そして納屋衆は堺の商人達の中でも大きな力を持つ。彼らが賛成すれば他の堺の商人達も反対はせぬ筈だ。小西を除けばだが。
「ただ……」
「うむ、何か?」
「朝鮮が交易の拡大を望まぬのではないかと」
「……」
大殿が口元に力を入れたのが分かった。不満に思っておられる。
「先に申し上げましたが日本からは銅、硫黄、昆布、石鹸等が朝鮮に売られております。そして朝鮮からは高麗人参、絹、陶磁器、経典を買っております」
「うむ」
「問題は扱う量にございまする。高麗人参も絹もそれほど量は多くないようで朝鮮側は売る物に困っているのではないかと」
大殿が足を止めて俺を見た。酷く驚いておられる、予想外の答えだったのだろう。
「そうか、物々交換だったな」
「はい」
唸り声が聞こえた。
「以前の事でございますが朝鮮が綿布と銅の交換を渋った事が有るそうでございます。理由は朝鮮から綿布が無くなってしまうと恐れたのだとか。同じ様な状況になるかもしれませぬ」
「なるほどな。……交易を拡大すれば朝鮮にとってはむしろ負担になりかねぬか」
「はい」
また唸り声が聞こえた。大殿が歩き出した。
「小兵衛、博多は如何かな?」
「こちらは危ういかと」
「……」
「島井宗室、神屋宗湛、大賀宗九、いずれも朝鮮、明との交易で財を築いております。朝鮮との交易の拡大は喜びましょうが競争相手が増えるのは喜ばぬかもしれませぬ」
「……なるほど」
「それに明も絡むとなれば……」
「尚更か」
「はい」
大殿が大きく頷かれた。博多の方が朝鮮に近い。それだけに朝鮮との結び付きが強いのだ。交易の拡大を商いの拡大の機会と捉えてくれれば良い。そうでなければこれまで築いた地位を奪われると考えよう。どちらに転ぶか、その辺りの判断が付かぬ……。
「小兵衛、博多の商人達は朝鮮の内情に詳しかろう。となると朝鮮が交易の拡大を望まぬと察するかもしれぬな」
確かにその懸念もある。
「それと宗氏の事がございます」
「宗氏? 讃岐守か?」
大殿が訝しそうな表情をしている。宗氏の当主、讃岐守義調を大殿はそれなりに評価しているようだ。
「左様では有りませぬ。宗氏の家臣達にございます」
「……如何いう事だ、小兵衛。何が有る?」
「対馬は米が獲れませぬ」
「うむ」
「知行の代わりが交易の権利でございます。もし、その権利が脅かされるとなれば……」
「なるほど、危機感を覚えるか」
「はっ。毛利家が牙符を取り返した時はかなり混乱したそうにございます。幸い毛利家はまた牙符を宗氏に預けました故収まりましたが……」
大殿の表情が厳しい。
「朝鮮との交渉に宗氏は使えぬという事だな?」
「はっ、宗氏の家臣達は現状維持を望みましょう。讃岐守殿が朽木に忠節を尽くすつもりでも反対して説き伏せる、或いは表面上は協力しても裏では敵対するという事になるやもしれませぬ」
「やれやれだな、小兵衛。ここまで悪い条件が重なると溜息も出ぬわ。厄介な事よ」
大殿が足を止められ苦笑いを浮かべられた。
「報告し辛かったであろうな」
「畏れ入りまする」
「済まぬがもう少し博多、宗氏の事を調べてくれるか。それと朝鮮が交易の拡大を望まぬ理由、本当に物が無いだけなのか。その辺りも知りたい」
「はっ」
「念のため大友、龍造寺との繋がりもな。伊賀衆には俺から話しておく」
「はっ」
もう笑っていない。大友、龍造寺か、無いとは言えぬ。
「それとな、今一つ頼まれて欲しい」
「はっ、何なりと」
「佐渡を探って欲しい。佐渡の内情、それと上杉との関係だな。朽木が佐渡を攻め獲れるのか、その辺りを知りたい」
佐渡攻め、蝦夷地との交易における中継地点の確保という事か。琉球との交易における土佐の様な物だな。
「承知しました。……氣比大宮司家にはお訊き為されましたか?」
氣比大宮司家は嘗て越後、佐渡に大きな勢力を持っていた。今も影響力は保持していよう。得る所は有る筈だ。
「いや、訊いていない。そうか、そっちが有ったか。確認してみよう」
「某も急ぎ調べまする」
「うむ、頼む」
一礼して大殿の御前を下がった。これから雪が酷くなる。だがやらねばなるまい。




