強くあれ
禎兆五年(1585年) 七月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「大丈夫なのですか、本当に」
「大丈夫です」
綾ママが納得しかねる様な表情をしている。俺も腑に落ちない。綾ママは五十も半ばを過ぎたんだが外見は四十代後半だからな。段々年齢が近付いているような気がする。なんでだろう? 若返りの秘法とか有るのなら教えて欲しいものだ。
「御気になさいますな、母上。元々この件は北野社に非が有ります。それを正しただけの事。北野社もそれを理解したからこそ素直に土地を返納したのでしょう」
敢えて笑顔で話したが綾ママの表情は全く変わらなかった。不本意だな。相談役の長宗我部宮内少輔、飛鳥井曽衣、黒野重蔵、平井加賀守は俺と綾ママを見て嬉しそうにしている。綾ママに会えて嬉しいのか、俺が困っているのを見て嬉しいのか、どっちだろう?
「それなら良いのですが……」
綾ママが一つ息を吐いて立ち上がった。そして“無理はなりませぬよ”と言って部屋を出て行った。それを見届けてから相談役の四人が笑い出した。とんでもない奴らだ。
「いけませぬなあ、大方様に御心配を御掛けしては」
「曽衣、俺は北野社に対して何もしていない」
胸を張って言える。この問題は平和裏に解決した。武力発動は掛け声すら無かった。
先月、伊勢兵庫頭が太政大臣朽木基綱の命令として北野社に対して不法に占拠した大内裏の土地の返納を命じた。“朝堂院を再建する。北野社は不法に占拠した土地を朝廷に返納すべし”。ぐずると思ったんだがな、北野社は直ぐに土地を返納した。そして土地を利用していた百姓達は北野社の命令で他の土地に移動する事になった。
文句を言ったのはこの連中だった。これまで長年住んできた土地を追われるのだ、無理も無い。という事でこの連中には朽木から御見舞金みたいな感じで銭を配った。効果覿面、百姓達は銭を受け取ると大喜びで去って行った。土地の返納は何のトラブルも無く完了した。これには太閤、関白を始め公家達も吃驚したようだ。俺も吃驚したけど。
「北野社では大騒ぎになったそうでございます」
「そうそう、公家達に救けを求めたとか。しかしどなた様も首を横に振られたそうで。北野社は泣く泣く土地を返納したそうにございます」
曽衣と宮内少輔が笑いながら話している。
おかしいな、俺はそんな話は聞いた事が無いぞ。北野社も文句が有るなら引き下がらずに俺に言えば良かったのだ。兵を派遣して焼くぞと脅してやったのに。琉球の使者も俺を怒らせるととんでもない事になると理解しただろう。何で簡単に引き下がるんだ? 納得が行かん。
「公家達は天神様よりも大殿の方が恐ろしいようで」
「無理も有るまいよ、重蔵殿。比叡山は焼き打ちされ再建を未だ許されず、本願寺は消滅したからな」
舅殿の言葉に宮内少輔、曽衣、重蔵が頷いた。皆ニコニコ嬉しそうだ。俺ってそんなに怖いの? なんか不本意だ。公家達は俺よりも天神様、菅原道真を怖れるべきだろう。内裏に雷が落ちても知らないぞ。
元々天神様は祟り神なのだ。学問の神様になったのは江戸時代以降だ。正式な名称は天満大自在天神。日本太政威徳天とも呼ばれる事が有る。藤原氏はこの天満大自在天神の祟りで酷い目に遭っている。綾ママが俺を心配するのもそれが有るからだ。だがな、俺は公家じゃない、武家だ。怨霊だの祟りが怖くて戦が出来るか! そして朽木は藤原氏じゃない。宇多源氏の末裔なのだ。これを忘れてはいけない。
朽木は宇多源氏の末裔、つまり宇多天皇の子孫なのだが宇多天皇は道真を引き立て重用した人物だ。要するに俺は道真の主筋だよ。不当に占拠した土地を返せと言ってどこが悪い? しかもその土地を国のために使うのだ。これ以上正当な行為は無い。天神様だって俺の要求を正当なものだと判断するだろう。文句なんて言う筈が無い。文句を言うのは人間だけだ。
「比叡山は焼き打ちしたが天台宗を禁じてはいない。一向宗も争いはしたが滅ぼしたのは細川掃部頭だ。俺ではないぞ、舅殿」
舅殿が“左様ではございましょうが”と言って首を横に振った。
「公家達は大殿を怖れております。まあ、某も大殿が比叡山を焼き討ちなされた時は驚きました。自分に同じ事が出来るかと問い、出来ぬと思った時、大殿を恐ろしく思った事を憶えております」
恐ろしく思った? 妙だな、舅殿は懐かしそうな表情をしている。本当に恐ろしかったのか?
「今も怖いのかな?」
舅殿が首を横に振った。
「そのような事は有りませぬ。今ならば分かります。あれは出来ぬと思った事を大殿が軽々と越えられた事に対する驚き、畏怖であったのでしょう」
畏怖か。中世は宗教の権威は強いからな。それを無視した俺は異端児では有る。畏れられて当然か。
「今は亡き承禎入道様が亡くなられる直前に申されておりました」
「……何と申された?」
「惜しい事だと」
「惜しい?」
問い返すと舅殿が頷いた。昔を懐かしむような表情だ。宮内少輔、曽衣、重蔵がそんな舅殿をじっと見ていた。舅殿は気付いていない。惜しいとは一体如何いう事だろう。
「六角家と朽木家が共に手を取って三好家と戦う事は出来ぬだろうかと某が問いました。入道様は比叡山が有る以上、それは難しかろうと。やはり越前、若狭方面に進まざるを得ぬ。惜しい事だと……」
「そうか、それが惜しいか」
なるほどな、承禎入道も舅殿も俺が畿内で勢力を伸ばすとは考えていなかったのだ。いや、想定出来なかったのだ。
俺自身、最初は北に進むつもりだった。堅田の一向門徒衆が俺に敵対しなければ、比叡山がそれに連動しなければ、そして六角が崩れなければ、俺は北近江から越前、加賀方面を領する一大名で終わっただろう。精々百五十万石から二百万石の大名だった筈だ。だが一向門徒の動きがそれを許さなくした。俺は比叡山を焼き滋賀郡を獲った。それによって朽木は京への道を切り開いた。舅殿にとっては衝撃だったのだろう。
もしそれが無ければ足利の世は続いたかもしれないな。三好も畿内を制したままだったかもしれない。……やらなければならない事だからやった。信長がやった事だから躊躇なく出来た。それだけの事だ。それが無ければ俺だって出来なかっただろう。だがそれが有るから今の朽木が有る。不思議な話だな……。いかんな、過去を振り返るのは年老いてからで良い。今は遣らねばならぬ事が有る。
「土地の接収が済んだ以上、朝堂院を建てるのに支障は無くなった」
俺の言葉に皆が頷いた。
「先ず大極殿を建てる。今後帝は異国からの使者とはそこで謁見する。その事を全国の諸大名に伝える」
また皆が頷いた。
京の朝廷が朽木によって権威を回復しつつある事を全国の諸大名に教えるのだ。北野社も朽木の命に素直に従ったという事もアピールしよう。朽木の権威は天神様よりも上なのだと皆も理解するだろう。特に関東では天神様は八幡神と共に武家から尊崇されているからな。影響は小さくない筈だ。
「琉球もここ二、三年の内に服属するだろうと付け加えよう」
「宜しいのでございますか?」
曽衣が問い掛けてきた。
「構わない。その頃には九州も片付くだろう。琉球もその意味は分かる筈だ。違うか?」
俺の問いに皆が頷いた。龍造寺、大友が無くなれば九州から琉球へと兵を出せる条件が整う。朽木は四国と九州の二方面から琉球へ兵を出す事が可能になるのだ。薩摩に置いた二万の兵は九州の安定のためでは無く琉球征伐のための兵になるだろう。直ぐに武力を使うつもりは無い。だが力を見せる事も重要だ。力の裏付けの無い外交はどうしても重みが無い。
龍造寺の隠居にとってはまた一つ憤懣の種が出来たな。面白く有るまい。不満に思っている筈だ。そろそろ伊賀衆に九州で騒乱を起こさせる様に命じよう。龍造寺と大友の間で派手に花火を起こさせる。一度は調停しよう。朝廷から争いを止めるようにという宣旨を貰い紛争を収めるのだ。だがその後で直ぐに再発させる。そして許さずに潰す。当然だ、朝廷の御扱いを踏み躙ったのだからな。今年から来年にかけて実行だ。
禎兆五年(1585年) 七月下旬 近江高島郡朽木谷 朽木城 朽木基綱
「父上、此処が朽木でございますか?」
「そうだ、三郎右衛門。此処が朽木谷だ。我らの先祖が此処に居を定めた事から朽木氏と称する事になった」
元服して三郎右衛門滋綱と名乗る様になった亀千代が不思議そうな表情をしている。
湖に面していない山奥の小さな村。繁栄はしているが朽木領内なら珍しい事では無い。其処が朽木一族のルーツだと言われてもピンと来ないのだろう。傅役の黒田休夢、千種三郎左衛門も不思議そうに見ている。同行している主税は懐かしそうだ。戻るのは久し振りだろう。
「山奥だが此処は京に近いのだ。京の大原から朽木までは約六里と言ったところか。そして此処は若狭の海も近い。若狭の海産物を京に運ぶには此処を通る。此処は交通の要所と言って良い」
三郎右衛門、休夢、三郎左衛門が頷いた。
恵まれた土地だ。守るに易く攻めるに難い。足利将軍家が何度も此処に逃げて来たのも道理だ。だがこの土地に安住しては大きくは成れない。大きくなるには外に出る必要が有る。高島郡で大きくなるか、若狭に出て大きくなるか。俺も高島七頭と戦った後は清水山城に居を移した。本当は若狭に出たかったが若狭は六角家、足利家と密接に繋がっていた。
朽木城に入りこの城が朽木一族の本城だと言うと三郎右衛門はまた不思議そうな顔をした。八幡城に比べれば小さ過ぎる城だ。信じられないのだろう。三郎右衛門は清水山城で生まれたが清水山城の事は殆ど覚えていないらしい。覚えていなくて幸いだ。清水山城は八幡城よりも小さい。そして朽木城はその清水山城よりも小さいのだ。その事を言うと三郎右衛門は“信じられない”と呟いた。
「これから大叔父上を見舞う。そなたも知ってはいようが大叔父上は一族の長老であり主税の祖父に当たる方だ。長年に亘り俺を助けてくれた方でもある。粗相の無い様にせよ」
「はい」
主税が俺に“有難うございまする、祖父も喜びましょう”と言って頭を下げた。大叔父は数年前から病勝ちで寝たり起きたりの生活が続いている。文の遣り取りはしているが最近では字に震えが見えるようになった。体力の衰えが酷いのだろう。
大叔父は自室で横になっていた。単衣を掛けている。俺を見ると嬉しそうな表情を見せて起きようとした。傍に控えていた女中が傍に寄ってそれを助けようとした。
「無用だ、大叔父上。横になられよ」
「何の、大したことは有りませぬ。些か暑さ負けしましてな、横になっていただけにござる」
鼻の奥がツンとした。
「かもしれぬな。だがわざわざ起きて疲れる事も無い。俺と大叔父上の仲ではないか。遠慮は要らぬ」
主税が傍に寄って大叔父に“無理は成りませぬ”と言って横にならせた。大叔父は逆らわなかった。やはり起きるのは辛いのだ。大叔父の傍に寄って腰を下ろした。三郎右衛門、休夢、三郎左衛門が横に並んだ。
「亀千代を元服させた。三郎右衛門滋綱と名乗らせる事にした。滋は滋養の滋という字を当てる。潤い、草木が育つ様を表すからな。朽木に潤いを齎し、育てる男になって欲しいと願って付けた。三郎右衛門、挨拶せよ」
「三郎右衛門にございます」
三郎右衛門が頭を下げると大叔父が“おお”と声を上げた。
「大殿の御若い頃に良く似ておいでじゃ」
大叔父の言葉に三郎右衛門が照れ臭そうな表情をした。
「似ているかな、大叔父上」
「似ておりますな。大樹公よりも似ておられましょう」
三郎右衛門が嬉しそうにしている。まあ俺も嬉しいんだが素直に喜べない。俺に似ているという事は美男子じゃないという事だ。
「三郎右衛門には良い日を選んで六角家を継がせる事になる。六角三郎右衛門滋綱の誕生だ」
「六角家の名を汚さぬように努めまする」
三郎右衛門が強い口調で答えた。その様子を大叔父が眼を細めて見ている。昔の俺を想っているのかな。
三郎右衛門は六角家を継ぐ事を嫌がるかと思ったのだがそういう事は無かった。三郎右衛門には六角家は母方の養家、近江源氏の名門という認識が有るらしい。六角家を継ぐのは名誉だと思っている様だ。後は嫁だな、出来れば六角家の血を引く娘が良い。と言っても今では六角の血を伝えているのは北畠か梅戸くらいだ。難しいかもしれん。
「今日は三郎右衛門に朽木を教えるために来た。それに三郎右衛門は御爺の死後に生まれた。元服したのだし挨拶させねばな」
「御隠居様もお慶びなされましょう」
大叔父が嬉しそうに顔を綻ばせた。御隠居様か、大叔父にとっては今でも御爺は御隠居様なのだ。
「朽木は大きくなった。だが元はこの朽木谷を領する国人領主に過ぎなかった。その事を忘れさせたくない」
大叔父が頷いた。
「そうですな。大きいという事に慣れれば、それに奢れば下の者達の心が分からなくなります。それが原因で滅んだ家が幾つ有る事か……」
「全くだ」
六角家もその一つだ。六角家が国人衆の心を掴めなくなった時、代わりに彼らの心を掴んだのが俺だった。六角家は滅ぶというよりも融ける様に無くなった。いずれ三郎右衛門にはその辺りも伝えなければならん。
「見事に九州を征し、四国を征されましたな。残りは関東と奥州だけになりました」
「うむ」
「楽しみでございます。大殿が、朽木が天下を統一する。その日が来るのが……」
「そうだな、大樹が今関東を攻略しているがもう直ぐ埒が明こう。そうなれば奥州だけだ。直ぐに服属するだろう。それまで元気でいてくれなくては困るぞ、大叔父上」
俺の言葉に大叔父が顔をクシャクシャにして喜んだ。胸が痛い。関東、奥州も有るが九州の再遠征も有るのだ。
「大殿」
「何かな」
「良い天下人に御成り下され」
「……」
大叔父が手を伸ばして俺の手を握った。
「弱い天下人では無く天下を守る強い天下人に」
「勿論だ、大叔父上」
俺が手を握り返すと大叔父が嬉しそうに頷いた。
大叔父が想った事は足利だろう。朽木は足利に頼られ、いや祟られた。天下の将軍が八千石の朽木にしがみ付いたのだ。そして足利の権威を保つ為に周囲を混乱させた。天下人は強く無ければならん。強く無ければ……。そうでなければ天下は乱れるのだから……。




