暗君
禎兆五年(1585年) 五月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 小早川隆景
恵瓊と共に通された部屋には四人の男が居た。相国様、児玉三郎右衛門、黒野重蔵。残りの一人は初対面だが誰かは容易に想像が付いた。重蔵に良く似ている、そして若い。おそらくは八門の頭領、小兵衛であろう。恵瓊と共に相国様の御前に進み頭を下げた。
「此度は真にもって面目次第もございませぬ」
謝罪をすると“面を上げられよ”と声が有った。声に怒りは感じられなかった。その事にホッとしつつ顔を上げた。大丈夫だ、怒ってはいない。もっとも呆れてはいるかもしれぬ。
「久しいな、左衛門佐殿。隣の坊主の顔は良く見るが左衛門佐殿の顔はなかなか見られぬ。元気そうで何よりだ。駿河守殿は息災かな?」
「息災にございまする」
答えると相国様が頷かれた。
「そうか、では此度の一件、駿河守殿はさぞかし苦虫を潰しておいでであろうな。右馬頭殿も気の毒な事よ」
重蔵、小兵衛の両名が笑いを堪えている。恵瓊も顔を歪めていた。笑い事ではあるまい! 唯一人、三郎右衛門だけが無表情だった。
右馬頭が愚かにも三郎右衛門の娘、周を攫う為に家中の者を近江に送っていた。その事に気付いた三郎右衛門は我等に助けを求めたのでは手遅れになると判断し已むを得ず御台所様を通して相国様に縋った。相国様は直ぐに八門を動かし右馬頭が送った者達を捕えた。周は今、八幡城にて匿われている。御台所様の元に居るらしい。
三郎右衛門から報せが届いた時は何かの間違いではないかと思った。だが続いて届いた相国様からの文にて間違いではないのだと漸く理解した。いや、理解出来た。兄と共に右馬頭を問い詰め右馬頭が事実だと認めた時には思わず殴り付けていた。三十を過ぎた当主を殴らねばならぬとは……、何とも情けない事よ……。
「捕えた者達の事は案ずるには及ばぬ。捕えられた時に多少の手傷を負った者も居るがいずれも掠り傷だ。手当もした故もう癒えたであろう。帰る時に連れて戻られるが良い」
「はっ、有難うございまする」
いっそ死んでくれれば良かったのだ。右馬頭の命がどれほど馬鹿げたものであるのか分からぬのか! 何故私か兄、或いは重臣達に相談せぬ。その程度の判断力も無いような阿呆など役に立たぬ! いやそのような阿呆だから右馬頭が選んだのであろう。多少は右馬頭にも人を見る目は有るという事か。慰めにもならぬ。
「先ず言っておかねばならぬ事が有る。今回の一件で右馬頭殿に責めを負わせる事は無い。事は未遂に終わったし死人も出ておらぬ。殆どの者が何が起きたか知らぬ筈だ。右馬頭殿に責めを負わせれば全てが明るみになる。それでは右馬頭殿の立場が無い」
「御配慮、有難うございまする」
礼を言うと相国様が首を横に振った。
「それにこれは色恋の問題だからな、人を想うのを責める事は出来ぬ。まあ手段は誉められぬがな」
相国様が苦笑いを浮かべられた。
「礼なら三郎右衛門に言われよ。事を内密に収めたいと俺に頼んだのは三郎右衛門だ。毛利の家が不利益を被る事の無い様に頼むと俺に頭を下げて頼んできた。毛利家は其処の坊主といい三郎右衛門といい良い家臣をお持ちだ。左衛門佐殿、駿河守殿の御蔭だな。御二人の右馬頭殿を支える姿を見れば自然と皆そうなるのかもしれぬ」
「畏れ入りまする。三郎右衛門、済まぬ」
恵瓊と二人で頭を下げた。相国様の言葉は有り難い限りだが素直に喜べぬ。目の前の相国様と右馬頭は左程に歳も変わらぬというのに何とも頼りない。少しはましになったと安堵していたのに……。
「さて、問題は周の処遇と児玉家の事だ」
「はっ」
「厄介な事に周が右馬頭殿の側室になると言い出した」
「なんと……」
思わず三郎右衛門に視線を送った。三郎右衛門は苦い表情をしている。相国様に視線を向けると同じように苦い表情をしていた。
「本意では有りますまい。児玉の家の事を案じてでございましょう」
恵瓊の言葉に相国様が頷いた。
「恵瓊の言うとおりだ。周の本意ではない。右馬頭殿の執心を知ってこれを断れば児玉の家が立ち行かなくなるのではないかと怯えているのだ。三郎右衛門がいくら説得しても頑として聞き入れぬ。そして三郎右衛門も周の不安を杞憂だと否定しきれず苦慮している」
哀れな……。右馬頭の愚か者が! 己がどれ程までに周を、三郎右衛門を追い込んだか、分からぬのか!
「周を右馬頭殿の側室にする、一つの解決策では有る。右馬頭殿も長年の想いが叶えば心落ち着くであろう。それに児玉の家も安泰と言える。周が哀れでは有るが惨めな立場になるわけではない。勿論、右馬頭殿の御内室にはその辺りを理解してもらわなければならぬが……」
どうやら相国様は毛利内部の騒ぎを御存知の様だ。八門に探らせたのだろう。相国様の言葉に溜息が出そうになった。
南の方にそのような配慮などとても期待出来そうにない。この一件が毛利に届いた時、誰よりも怒りまくったのが右馬頭の正室である南の方とその母である宍戸の姉上であった。“天下に恥を晒した”、“人攫い”、“盗賊”と散々に右馬頭を罵った。南の方は余程に腹が立ったのか気持ち悪い、離縁する、実家に帰ると大変な剣幕であった。
其処に兄上の妻、新庄局が参戦しいつもの口喧嘩が始まった。女達は次第に興奮し新庄局がそんな事だから右馬頭は側室に走るのだと言い放った時には掴み合い、蹴飛ばし合い、組み討ちの大喧嘩になった。私が姉上を、兄上が新庄局を、右馬頭が南の方を羽交い絞めにして何とか抑えたが我ら三人、顔にはひっかき傷が出来ていた。一番酷かったのが右馬頭であった。右目に青痣が出来ていた。自業自得だ。
私も兄上も最初は右馬頭を叱責していたが最後は姉上と南の方と新庄局を宥める事で精も根も尽き果てていた。何時の間にか兄上と私、右馬頭で愚痴を零し合っていたほどだ。あれではとてもではないが右馬頭と南の方との間に子は出来まい。右馬頭が側室を求めるのも已むを得ぬ。右馬頭は子が欲しいのではなく癒しが欲しいのだろう。
「畏れながら、右馬頭は此度の一件について深く反省しております。もはや周を側室にとは望んでおりませぬ」
右馬頭は“懲りた”、“二度とあんな思いはしたくない”とぼそぼそと呟いていた。本心だろう、あの騒ぎを見て懲りぬとは思えぬ。それに私も兄上も次は助けぬと言った。右馬頭一人ではあの騒動は捌けまい。
相国様が頷かれた。
「そうか、では周はこのまま朽木家で預かる。周の嫁ぎ先はこちらで探す、それで良いかな」
「異存ございませぬ」
「そのように願えますれば幸いにございまする」
私と恵瓊が答えると相国様がまた頷かれた。もう間違いはないと思うが念を入れた方が良い。それに毛利家中では周が嫁ぎ先を捜すのは難しかろう。三郎右衛門がホッとしたように表情を緩めるのが見えた。
「では後は児玉の家の事だな」
「はっ」
三郎右衛門の表情がまた硬くなった。
「如何かな、起請文を取り交わさぬか。右馬頭殿が俺と三郎右衛門に対して児玉家を粗略に扱わぬという起請文を出す。そして三郎右衛門は児玉家は此度の事を根に持たず今後もなお一層の忠義を励むという起請文を右馬頭殿と俺に対して出す。俺は右馬頭殿、毛利家重臣達に対して右馬頭殿の後継は右馬頭殿と毛利家重臣達の合議に任せるという起請文を出す。今回の一件に毛利家の跡継ぎ問題が関係しているのは確かだ。次郎右衛門と弓姫の婚儀が引き金になったのもな。騒動の芽は摘んでおきたい」
なるほど、相国様には毛利の世継ぎ問題に関与する意思はないか。この一件で得た唯一の成果だな。恵瓊に視線を向けると微かに頷いた。
「御配慮有難うございまする。異存ございませぬ」
ホッとした。思った以上に上首尾に終わった。多少バツは悪いが毛利家に咎めは無い。そして世継ぎ問題に関しても朽木家の関与は無いとの起請文を得ることが出来る。
危うい所であったな。九州に大友、龍造寺が居る事が今回の沙汰に繋がった。相国様は九州再征の前に毛利を咎めるのは得策ではないと見たのだ。最悪の場合、毛利が大友、龍造寺に与しかねぬ、そう思ったのであろう。運が良かった。もし、九州再征の必要が無ければ毛利に対する沙汰はもっと厳しい物になったやもしれぬ。それこそ右馬頭の隠居と次郎右衛門様の家督相続という事もあっただろう。
恵瓊が落ち着いた表情で座っている。大凡の所は恵瓊の予想通りになった。だが何時までも相国様の好意が続くと思うのは危険だ。好意を受けた以上、その分は返さなければならぬ。次の九州再征、先陣を請わねばなるまい。
禎兆五年(1585年) 五月下旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 朽木基綱
「では服属も有り得ると?」
「はい」
関白九条兼孝の問いに答えると唸り声が幾つも聞こえた。幾つもと言っても席に居るのは俺の他に太閤近衛前久、関白九条兼孝、左大臣一条内基、右大臣二条昭実、内大臣近衛前基、権大納言鷹司晴房、いつもの面子に准大臣飛鳥井雅春、権大納言西園寺実益の八人だ。
准大臣飛鳥井雅春、権大納言西園寺実益の二人は院、帝の御指名らしい。今日ここで琉球からの来聘について話し合うという事で参加を命じた様だ。伯父はそれなりに信頼を得ているようだ。結構な事だ。それに院、帝も関心を示している。それも悪くない。多分公家達も関心を持って見ているだろう。しかしな、これはあくまで非公式の会議だ。
「どうも明がおかしいようです。近年失政が目立つとか。現皇帝は暗君なのかもしれませぬ」
今度は溜息が出た。
「琉球はその事に不安を持っております。明の皇帝が暗君ならば明が混乱するのではないかと考えている。それが何を意味するか……」
皆を見回すと何人かが視線を逸らした。なんか頼りないわ。
「明との交易に支障が出るか」
「それもございますが異国に攻められるのではないかという怖れも有りましょう。南蛮、そして我が国」
「なるほど、どちらも琉球にとっては死活問題でおじゃるの」
太閤殿下が頷いた。
「それ故我が国との絆を強めたいと思っている。いや強める必要が有ると考えているようです。日本は戦乱が収まり統一へと向かいつつある。その力はどれ程のものなのか、かつての足利の様なものなのか。交易も含めて検討しなければなりませぬ。今回の来聘は何処まで日本との関係を強めるか、それを見極めるためのものでございましょう」
また唸り声が出た。
琉球から来た使者との会談は言葉が通じないために通訳付きの会談だった。はっきり言って驚いたわ。通訳付きの会談だなんて琉球は異国なんだと改めて認識した。もっとも琉球では漢字とひらがなを使っているから筆談は可能だ。漢字は中国から導入したのかな。それとも日本だろうか。ひらがなは日本から持ち込んだのだから同じ時期に漢字を導入した可能性も有るのかもしれない。となると琉球に文字が伝わったのは平安時代頃という事になる。少し遅いかな? 漢字だけが先に中国から伝わったというのも有りそうだ。
通訳付きの会談で分かった事は琉球が明を酷く不安視しているという事だった。俺の認識だとこの時代の明は万暦帝の時代で混乱していると思っていたのだがそうじゃないらしい。数年前まで明は内政、外政に成果を上げ繁栄と安定を享受していたようだ。その理由は皇帝が幼く宰相が政治の全権を握っていたからだった。
だが数年前に執政であった宰相が病死した。そして皇帝が親政を始めるとおかしくなりだした。この皇帝が万暦帝だ。本当は別の名前なのだがこの皇帝の治世の元号が万暦だったために万暦帝と日本では呼ばれている。そして明の元号は万暦だから間違いはない。今は万暦帝の治世だ。
はっきり言ってこの皇帝の評価は低い。万暦帝の時に明は滅びたと評価されているくらいだ。それほどまでに失政が酷かった。しかも在位期間が無駄に長かった、五十年くらい皇帝をやっていた筈だ。宰相が実権を握っていたのが約十年、残りが皇帝の親政。最悪だな、逆なら良かったのに。だがこの時代に秀吉の朝鮮遠征を退けている。流石大明帝国だな、底力が有るわ。
明が安定している間、琉球は明との交易、東南アジア、日本との交易で繁栄していた。南蛮船の来航、明の海禁政策の緩和などが有ったがそれでも上手くやって来ただろう。近年の不安定要因は九州で島津が勢力を拡大し琉球へ圧力を掛けてきた事だった。だがその島津も朽木によって滅ぼされた。ホッとしたと思う。
だがホッとしたのも束の間、明がおかしくなり始めた。明の皇帝は若い、失政は続くかもしれない、そういう不安を持った時に俺が琉球に対して日本に服属しては如何かと言い出した。琉球はかなり混乱したらしい。何処の国だって他国に服属するのは面白くない。それに明に知られたら明が如何思うかという不安も有る。
しかし俺が提示した条件はそれほど厳しい物ではない。交易の自由は保障しているし安全保障の面でも庇護が受けられる。旨味は多い。特に琉球が重視しているのは朽木が扱う蝦夷地との交易品だった。砂糖と交換しこいつを中国へ持って行く、或いは東南諸国に売る。儲かるのだ。南蛮船、明の私貿易船もこの蝦夷地の産物を扱っている。
「しかし、信じられぬな」
関白殿下の言葉に皆が頷いた。
「勿論決まったわけでは有りませぬ。琉球国内では某からの提案を受けるべきという勢力とこれまで通りにすべきだという勢力で拮抗しているようです。今回の使者もそれぞれの勢力から一人ずつ、そして中立の人間が一人、計三人で来ています」
割れてはいても使者を送って来たのだ。反対している人間もこちらに関心を持っているのは確かだろう。そして明に不安を持っている事も確かな筈だ。
「使者は今何処に?」
「八幡城に居ります、伯父上。今頃は淡海乃海で舟遊びでもしているかもしれませぬな」
琵琶湖が湖だという事が信じられないようだったな。そして湖を多くの船が往来している事にも驚いていた。琵琶湖を利用した活発な経済活動、物流の豊かさにもだ。
「琉球と明、琉球と日本、どちらがより琉球に近いかといえば日本の方が近い。遠方にある明が混乱しつつある時、近い日本が一つに纏まりつつある。琉球が国を守ろうと考えればどちらを重視するべきか? その辺りを説いていこうと思います」
「日本に服属した方が得策だというのでおじゃるな」
一条左大臣が問い掛けてきた。
「如何にも。琉球が敵に攻められた時、明が救援の兵を出せるか? 甚だ疑問でありましょう。琉球もそれを理解しております。だから使者が日本に来た。そして日本は以前とは違うのです。琉球に兵を出すのは難しくありませぬ。救う事も攻める事も出来ます」
シンとした。
これまでとは違うのだ。足利の命令はしばしば守護に無視された。無視されてもそれを咎める事は出来なかった。統一政権としては室町幕府は脆弱だった。だが朽木は違う。足利よりも遥かに強大だ。今も二万の兵が薩摩に居る。琉球の使者もその事を知っていた。
何故かと問い掛けて来たから占領直後で安定させるためだと答えたが半信半疑の様子だったな。琉球遠征用の兵じゃないかと疑っている様だ。実際に江戸時代になると琉球は島津氏によって攻められているから使者達の心配は杞憂とは言えない。この時に明は琉球を見殺しにしている。
明はもう末期で国力が低下していたから已むを得なかったのだろうが他にも理由が有ると思う。明に限らず代々の統一中国王朝は海外遠征を好まなかった。彼らは大陸国家としての性格を濃厚に持っていたのだ。朝鮮は援けても琉球は援けないという明の行動にはそれが有ると思う。
例外なのは元のフビライと明の永楽帝ぐらいのものだ。やはり朝鮮への出兵は避けるべきだ。軍事力を使うのならあくまで外交交渉の補助としてだろう。そして進むのなら琉球から台湾だな。そっちなら明は煩い事は言わない筈だ。秀吉は失敗したな、琉球から台湾、東南アジア方面に出るべきだった。目指せ! 海洋帝国日本!
「まさか斯様な事に成ろうとは……」
一条左大臣が首を振りつつ息を吐いた。そうだな、最初は土佐一条家を救うために琉球との交易を餌に朽木を土佐に関与させた。それ以上では無かった筈だ。だが今では日本と琉球の外交、安全保障問題にまで発展している。まあ世の中なんてそんなものだよ。切掛けと結果はまるで違う事なんて幾らでも有る。後は謁見だな。
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