祖母
禎兆四年(1584年) 六月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
また子が出来る。雪乃、桂、藤が懐妊した。多分今年の暮れには生まれるだろう。雪乃と桂は既に子を儲けているが藤は初めてだ。歳も二十歳を越えている。現代なら未だ女子大生だがこの世界では結婚して子供の一人や二人居てもおかしくは無い年齢だ。非常に喜んでいる。藤だけじゃない。織田三十郎、織田九郎、織田彦七郎、林佐渡守も喜んでいる。坂井久助に嫁いでいる相姫からも妹の藤に祝いの文が来た。
やはり織田三介の事が不安らしい。三介は周囲に不満を漏らし酒と女に入り浸っている。三介を担ぐ奴が居ないから問題になっていないがその不行状は織田一族、旧臣にとっては不安要素でしかない。そんな中での藤の懐妊だ。織田一族にとっては待ちに待った朗報だろう。鷺山殿、そして尾張に居る織田三郎五郎も八幡城にやって来たから余程に嬉しかったのだ。
三郎五郎とは話をした。三郎五郎が預かっている信長の遺族達、そして徳川の遺族達の事だ。中には津田七兵衛の子供もいる。結構人数が多くて三郎五郎も困っているらしい。藤が懐妊したのだし周りに何人か弟妹が居てもおかしくは無い。と言う事で年長組を何人か預かる事になった。母親付でだ。年長組の母親なら歳は三十近い筈だ、子育ての手伝いにもなる。側室達も煩い事は言わないだろう。
問題は今川家の夕だ。子が出来ないのを悲しんでいる。いずれ出来るから心配するなと言っているんだが側室達の中で一人だけ子がいない。精神が不安定になってはいけないから出来るだけ声をかけるようにしている。そして今川家の人間には余り夕に子の事を言うなと注意している。未だ十七歳なんだ、可哀想だ。
先日、北畠家の御母堂が来た。俺にとっては義理の叔母に当たる女性だ。息子の右近大夫将監は全国の妖怪調査の傍ら朽木領の見回り兼特産物の調査をしている。妖怪調査の本は近衛太閤に見せたが朽木には妙な人間が居ると大笑いだった。そんなに笑う事は無いだろう、日本初の貴重な民俗学の本なんだから。右近大夫将監は内政家兼朽木家お抱えの民俗学者として順調にキャリアを積み今では一万石を食んでいる。
そして弟の次郎は武勲を重ねて越前で三万石を越える領地を得ている。北畠氏は軍事、内政でそれぞれに力を発揮しているのだ。義叔母も満足しているだろうと思っていたのだが六角家の名跡の事を考えてくれと頼まれた。義叔母にとって北畠の家は問題無いのだ、心配していたのは実家の事だった。
確かに六角家は没落したままだ。一応六角家、京極家の名跡は俺が好きにして良い事になっている。と言うより今じゃ何しても良いんだが六角左京大夫輝頼、この男が如何なったのか気になった。何時の間にか名前を聞かなくなった。重蔵に如何なったかなと言ったら妙な顔をする。如何いう事かと思ったら出家して俗世とは縁を切ったという答えだった。
冗談だと思ったんだが重蔵は大真面目だ。重蔵の話では左京大夫は何をやっても上手く行かない、周囲からは相手にされないと言う事で世の中に嫌気がさしたらしい。それに自分が殺させた右衛門督義治の幽霊に悩まされるようになったのだと言う。それで出家して坊主になったようだ。何処にいるのかと思ったら京の妙心寺に居た。俺にも小兵衛から報告したらしいが俺は関心を示さなかったらしい。如何でも良いと思ったのだろう。時期的には播磨を攻略したころの様だ。今から八年ほど前の事になる。吃驚だ。
小夜と話をして三男の亀千代が元服したら六角家の名跡を継がせようという事になった。小夜は承禎入道の養女なのだから息子の亀千代が六角家の名跡を継いでも問題は無い。評定でその事を話すと旧六角家の家臣から歓迎する声が上がった。やはり名門六角家の名跡が途絶える事を悲しんでいたようだ。亀千代の元服は四国遠征、鶴の婚儀の後だ、名前を考えなければならん。亀千代の結婚相手は北畠、或いは梅戸から選んだ方が良いかもしれないな。
今一番朽木家が重視しているのが鶴の婚儀だ。長女の竹の婚儀を派手にやったからな、それに見劣りするわけには行かないと雪乃と小夜が鼻息を荒くしている。小夜は実母じゃないんだが俺の正妻として朽木家の娘である鶴に肩身の狭い思いをさせたくないというのだ。尤もな事だ。俺も薄情な父親だ等と思われたくない。四国遠征よりも鶴の婚儀の方が重要だ。もっとも俺はもう直ぐ出陣だから後の事は綾ママ、小夜、雪乃の三人にお任せだな。
禎兆四年(1584年) 六月中旬 肥前国佐賀郡龍造寺村 佐賀城 鍋島信生
「如何思われますか?」
問い掛けたが俯いている。ややあって顔を上げてこちらを見た。顔色が良くない。
「孫四郎の言う通りだと思う」
「では?」
「……父上が御許しになるまい」
そう言うと龍造寺家当主、太郎四郎政家様はホウッと息を吐いた。
「しかし若殿、このままでは御家の為になりませぬぞ」
「……」
「お解りでございましょう。四国討伐に朽木家は九州勢を使おうとはしませぬ。我等に対する遠慮などでは有りませぬぞ。我等を信じておらぬからです。だから毛利勢も動かしませぬ。我等に対する抑えとして置いて於く」
「……」
大友も竜造寺も四国討伐への参陣を命じられていない。四国は九州から近いのだ。動かさぬ理由は二つだ。信じておらぬ事、武勲など挙げられては迷惑な事だ。潰し辛くなる。
「若殿が御自ら出陣されれば、朽木家の若殿に対する覚えも良くなりましょう。その分だけ龍造寺は安泰でございます。大軍を率いる必要は有りませぬ、千か二千で良いのです。それならば大友も領内を通る事に目くじらを立てる事は有りますまい。参陣したという実績さえ作れば……」
若殿が首を横に振った。
「そんな事をすれば私は殺されてしまう」
「若殿……」
若殿が怯えた目で私を見ている。
「父上は恐ろしい御方だ。意に沿わぬ者は容赦無く殺す。例え身内でもだ、私も殺される」
「そのような事は……」
“無い”と言おうとしたが若殿が首を激しく振って遮った。
「蒲池の事を忘れたとは言わさぬぞ、孫四郎。そなたもあの件には絡んでいた。違うか?」
「それは……」
口中が苦い。蒲池民部大輔鎮漣、殿の命で已むを得ずとはいえ謀った。島津に通じた民部大輔を許す事は出来なかったのだ。
民部大輔は柳川城からこの佐賀城に来て歓待された。その翌日、須古城に向かう途中で殺された。そして蒲池氏は滅んだ。あの時、民部大輔は誅しても蒲池の家は残すべきだと進言したが殿は蒲池氏を滅ぼすべきだと言って譲らなかった。そして柳川城と柳川の地を手に入れるべきだと……。
「妹の玉鶴も死んだ。聞けば玉鶴は父上の事を信用出来ぬから須古城に行ってはならぬと止めたと言うではないか。私は何も知らなかった。何も知らずに民部大輔を歓待した。民部大輔は私を信じ、龍造寺を信じたのだ。そして殺された。私はその方等に利用された……」
「……」
「殺される、そんな事をすれば父上に殺される」
小刻みに震えながら譫言のように呟いている。
家督を譲られたにも拘らず若殿と呼ばれるのも已むを得ぬ。父親である殿を異常なまでに畏れている。元々病弱な御方では有るが……。
「では某が兵を率いて参陣致します。如何?」
「父上の御許しが有るならば良い」
「勿論でございます」
若殿がホッとしたように頷かれた。ま、予定通りか。
殿の御許しを得なければなるまい。大友が兵を出せば龍造寺の立場が悪くなると言えば駄目とは言わぬ筈だ。兵は千五百程で良かろう。鍋島が出陣したという実績が作れれば良いのだ。多少周囲がざわつくかもしれぬが龍造寺の為に働く。その名分で鍋島を朽木に売り込む。そういう形で相国様との関係を深めて行けば良い。龍造寺が滅んでも鍋島は生き残れよう……。
禎兆四年(1584年) 六月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「三好千熊丸にございます」
高い声が部屋に響いた。俺の前には少年と付添いの老人、松永弾正、内藤備前守の二人が居る。今年で確か十一歳か、大きくなった。そして弾正と備前守はもう頭が真っ白だ。皺深い顔で眼を細めて少年を見ている。元服までもう少しだ、そう思っているだろう。
「大きくなられたな、千熊丸殿」
声をかけるとちょっと困惑した様な表情をした。そうだよな、昔会ったのは父親の葬儀の時だ、三歳のころだから覚えてはいないだろう。
「知っているかな? 俺と千熊丸殿の父、左京大夫殿は歳が一緒でな。生きておられればこんな感じだろう」
俺が両腕を広げてみせると弾正と備前守が笑みを浮かべた。
「真でございますか?」
目を丸くしている。
「真だ。だが男振りは左京大夫殿の方が大分上であったな。そうであろう、弾正、備前守」
声をかけると二人が苦笑を浮かべながら“それは”とか“はて”とか言った。千熊丸は優しげな顔をしている。父親の左京大夫には余り似ていないようだ。母親に似たのかもしれない。
「俺は二歳で父を戦で失った。千熊丸殿同様幼くして父を失った。そう思うと他人とは思えぬ。大きくなられた、元服が楽しみだな」
「その折は相国様に烏帽子親をお願いしたく思いまする」
「勿論だ。喜んで務めさせてもらうぞ、弾正」
「有り難き幸せ」
弾正、備前守が頭を下げると千熊丸も頭を下げた。結構しっかりしてるな。
「つきましては婚儀の方も進めて頂きたく思いまする。我等も歳なれば……」
備前守の言葉に弾正が頷いた。
「尤もな事だ、異存は無い。千熊丸殿の元服に合わせて婚儀を進めよう。元服は何時頃にする?」
「出来ますれば来年には」
弾正が答えた。俺の予想よりも早い。もしかすると弾正、備前守は健康に不安が有るのかもしれない。それで元服を急いでいる……。
「良いだろう、その方向で進めよう。細かい話は四国遠征、近衛家との婚儀が終わってから、それで良いか?」
弾正、備前守、千熊丸が“有難うございまする”と言った。千熊丸は顔が上気している。元服が嬉しいのだろうな、それとも嬉しいのは嫁取りかな? 喜べ、小夜が生んだ百合はかなりの美形だぞ。年頃になればもっと綺麗になるだろう。
「ところで、四国の事だがな」
話を変えると弾正、備前守の顔が引き締まった。千熊丸は困惑顔だ。
「淡路の安宅甚太郎が助けてくれと泣き付いて来た。以後は朽木の配下になると言っている。細川掃部頭の圧力を重く感じているようだ」
「……」
これまで讃岐、阿波は三好の物だった。それが敵対する細川の物になった、どう対処して良いか分からないという事も有るだろう。
「細川掃部頭は俺との関係改善に必死だ。だが許す事は出来ぬ。権大納言が殺されているからな。殺したのは三好阿波守だがそうなったのには掃部頭が大きく関与している。これを放置する事は出来ぬ」
弾正、備前守が頷いた。殺された権大納言足利義助に対する朝廷の評価は高い。自ら身を引く事で足利の内紛を押さえ天下を安定させたというものだ。その分だけ義昭に対する評価は低い。義昭への評価は安定した天下を混乱させた阿呆だ。
「今回の騒乱で四国の三好家は没落した。残っているのは淡路の安宅家と故日向守殿の孫の孫七郎、孫八郎だけになった」
「……」
弾正、備前守は神妙な顔をしている。一度は主家の人間として仕えそして敵対した。心の内は複雑だろう。千熊丸も多少は一族の軋轢を聞いているのだろう、複雑そうな表情をしている。
「それでな、阿波の三好郡を三好孫七郎に与えようと思っている。如何かな?」
弾正、備前守が異存は無いと言った。千熊丸も無言だ。三好郡は三好一族発祥の地だ、或いは異議を唱えるかと思ったが無かった。三好、松永、内藤の三家は畿内の大名なのだ。四国には感傷は有っても関心は薄いのだろう。
四国を制圧したら三好孫七郎を阿波に、孫八郎を伊予に置く。それぞれ三万石だ。そして平島公方家を再興しよう。義助は死んだが義助の子が弟の義任の元に居る。それに継がせる。その後は義助に准大臣を追贈だな。朝廷も文句は言わないだろう。そして平島公方家は程々の名門として扱っていこう。
禎兆四年(1584年) 六月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 雪乃
「雪乃、入るぞ」
声と共に大殿が部屋に入ってきました。座って寛ぎながらニコニコしておられます。良い事が有ったのでしょう。
「如何なされました?」
「上杉から使者が来た」
「上杉から?」
では竹の事?
「竹が懐妊したそうだ。今年の暮れには子が生まれるらしい。男か女かは分からぬが目出度い事だな」
「まあ」
「同じ頃にそなたも子を産む。不思議な事だ、母娘というのはそういう所も似るのかな?」
「恥ずかしゅうございます、母娘で一緒に子を産むなど……」
「目出度い事だ、恥ずかしがる事ではないだろう」
そうは言っても……。
「竹は初産だ、色々と不安も有るだろう。文を書いてやるのだな、気付いた事を教えてやれ。喜ぶだろう」
「はい」
「あちらでも大層喜んでいるらしい。特に姑殿がな」
「左様でございますか」
大殿が頷かれました。
「婿殿も間もなく三十だ。上杉家にとって跡継ぎが居ない事は不安だっただろう。あの時は上杉家が混乱していた為当家を頼ったが家が安定すれば跡継ぎで頭を痛めたと思う。助けて貰った手前側室を置くのは憚られるからな。男子が生まれて欲しいと思っている筈だ」
「左様でございますね」
相槌を打つと大殿が頷かれました。
「男子が生まれれば竹若丸にとってはもっとも年の近い従兄弟になる。その辺りも大きい。上杉と朽木はより近付く事になる」
「はい」
大殿が私を見てクスクスと笑い始めました。
「如何なさいました?」
「いや、そなたも祖母様と呼ばれるようになったのだと思ったのだ」
「まあ!」
私が祖母様!
「若い祖母様だな。そなたの産む子は叔父か叔母か、どちらかな?」
「酷うございます!」
大殿が声を上げて笑いました。生まれたばかりで叔父、叔母だなんて……。
「大宮司殿にも報せてやれ、喜ぶだろう」
「はい」
父は喜ぶでしょう。曾孫が生まれる事も有りますが氣比大宮司家は朽木家、上杉家、近衛家と繋がりを持つのですから。不思議な事です、初めて大殿とお会いした時、大殿が何を御考えなのか、何処へ行こうとしているのかを知りたいと思いました。そして気が付けば此処に……。でもまだまだです、天下は統一されていませんし国造りも始まったばかりなのですから……。