跡取り
禎兆四年(1584年) 五月下旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 朽木基綱
伊勢兵庫頭との話が終わると自室に戻った。北条新九郎、今川五郎の二人が部屋で控えている。この二人、従兄弟なのだが余り似ていない。歳は五郎の方が小さいのだが身体は少し大きいだろう。肌の白い所は似ているな。二人に茶の用意と文を書くから墨を磨る様にと命じた。面倒だよな、墨汁とか無いんだから。
五郎が淹れてくれた御茶を飲んでいると“失礼します”と声がして二人の若い女が入って来た。藤と夕だ。五郎が緊張している。夕は五郎の姉だ。姉が主君の側室って如何いう感じなんだろう? 妻なら義兄上と呼べるが側室だからな、微妙な感じがする。新九郎は文机で墨を磨る事に集中だ。
「兵庫頭様とのお話は御済みになったのですか?」
「うむ、済んだぞ」
俺が藤の問いに答えると二人が顔を見合わせた。今回、俺が京に行くと言うとこの二人が身の回りの世話をすると言って付いて来た。しかも他の側室達の推薦付きでだ。身の回りの世話と言っているが真の目的は豊千代の母親探しと俺が外で女を作る事を防ぐ事だというのは分かっている。要らぬと言ったんだが側室達が許さない。小夜も確かに不自由だろうと言って押し付けてきた。
この二人、未だ子が居ない。それも有って側室達から選ばれたらしい。織田の娘と今川の娘、不倶戴天の敵の筈なんだが共通の敵出現という事で結束しているらしい。これは二人だけじゃない、他の側室達も同じだ。その所為で朽木家の奥は至って平穏だ。悪くない。
「御伺いしても宜しゅうございますか?」
「何かな? 夕」
「兵庫頭様とは如何様な御話を」
「表の話だ、そなた達が思う様な話ではない。控えよ」
二人が不満そうな表情をした。側室達の間では俺に豊千代の母を勧めたのは兵庫頭になっている。多分また新たな女を勧めに来たのではないかと思っているのだろう。或いは豊千代の母から文でも預かって来たと思ったか。誓っていうが仕事の話をしただけだ。
「大殿、墨が」
「磨り終ったか、新九郎」
「はい」
「御苦労だったな」
新九郎が一礼して文机から下がった。代わって俺が座る。巻紙を左手で持って筆を取った。視線を感じる、藤姫と夕姫が此方をじっと見ていた。
「女子への文ではない、薩摩の左兵衛尉への文だ」
「では小山田様への」
「そうだ、慣れぬ所で苦労をしていよう。労ってやろうと思ってな」
二人が感心したように俺を見ている。新九郎、五郎も俺を見ていた。うん、なかなか気分が良い。琉球の件も有る、それと四国遠征中に大友、龍造寺が馬鹿な事をしない様に見張る仕事も有る。一筆入れておこう。
「用が済んだのなら下がりなさい」
二人が“はい”と言って下がった。まったくなあ、女房妬くほど亭主モテずと言うんだが。土佐の一条と長宗我部にも文を書いておこう。今回は戦に参加して貰う。長宗我部には阿波、一条には伊予に兵を出させる。十兵衛が安芸から伊予に、俺が讃岐に攻め込む。それで戦は簡単に終わる筈だ。
細川掃部頭が一向門徒を始末した、根切りだ。阿波、讃岐、伊予を押さえた事で一向門徒は不要になったと言う事だろう。いや、俺に認めて貰うためには一向門徒が邪魔になったのだと思う。朽木は一向宗を認めていないからな。一向門徒を放置しておいては俺との関係を築けないと思ったのだ。
掃部頭は阿波、讃岐、伊予平定後、戦勝祝いと称して祝宴を開いた。其処には教如だけではなく門徒達の指揮官クラスも呼ばれた。酒は掃部頭自らが注いで回ったそうだ。感激してガンガン飲みまくったのだろう。酔い潰され動けなくなったところを殺されたようだ。そして掃部頭は残りの門徒達を急襲し殺した。不意を突かれた事、指揮官が居ない事で一方的な惨殺になった。
史実では常陸の佐竹氏が似た様な事をやっていたな。常陸南部の国人衆を纏めて始末した。短期間に潰そうと思えば不意を突いて頭を潰し抵抗力を弱めてから全体を潰すのが常道だ、方法も似てくるのかもしれない。しかしな、自慢しないで欲しいわ、俺への文には一計を以って門徒達を誘引し一網打尽にしましたなんて得意げに書いて有った。
自信が付いたのかな、文には淡路を共に攻めようと誘いが書いて有った。三好は二代に亘って三人の主殺しを行う悪逆の家、許す事は出来ないそうだ。二代と言うのは三好実休、長治親子の事だろう。三人と言うのは自分の父、義輝、義助の事だな。確かに三人殺している。こういうのは祟るな。三好を非難するときには必ず出る言葉だろう。
文には領地の事も書いて有った。阿波の他に讃岐も領有を認めて欲しいそうだ。そして俺が伊予と淡路。以前は阿波一国と言っていたんだがな、気が変わったらしい。もっとも石高で見れば伊予一国で阿波、讃岐を合わせたよりも大きい。それに淡路は戦略上重要な島だ。淡路を押さえれば畿内、四国を海から睨むことが出来る。
そして九州再征の時は先鋒を務めたいとも書いて有った。俺が九州の状況に満足していないと見ているらしい。自分を潰すよりも利用した方が得だと言っている。それなりに見る目は有るのだ。三好の下では自分の能力を持て余しただろう。三好に対する憎悪も親を殺されたという事よりも自分の能力を発揮出来ない環境にしたという事の方が大きいのかもしれない。
返事は出していない。さて、それを如何見るか……。
禎兆四年(1584年) 六月中旬 周防国吉敷郡上宇野令村 高嶺城 小早川隆景
兄と共に右馬頭の部屋に赴くとそこには見慣れた巨頭の坊主が居た。
「戻ったか、恵瓊」
声をかけると無言で一礼した。その様子を見た兄が気にいらぬと言わんばかりにフンと鼻を鳴らした。いつもの事だ。
「恵瓊、叔父上方に御話しせよ」
恵瓊が“はい”と答えてこちらに向き直った。はて、京で相国様と会ってきた筈だがどのような話をしてきたのか。表情は暗くない、悪い話を持ち返ったようでは無いようだが……。
「京で相国様にお会いしました」
「仲が良いな」
兄が皮肉ると恵瓊が軽く笑みを浮かべまた一礼した。兄の真意は毛利の家臣である事を忘れるなという事だろう。毛利家中でも恵瓊が相国様に近過ぎると不安に思う声が有るのだ。もっとも現状では恵瓊が毛利に不利益をもたらした事は無い。恵瓊は毛利家の利益と安泰を図りつつ朽木家との関係を円滑ならしめている。その事は兄も理解している。ならばこその皮肉だろう。詰まらぬ疑いから失うには痛い男なのだ。
「相国様は御次男次郎右衛門様の妻を毛利家から迎えたいと仰られております」
毛利家から? 兄と顔を見合わせ、右馬頭の顔を見た。
「しかし……」
「はい、右馬頭様には釣り合う様な姫君は居られませぬ」
姫どころか子もいない。右馬頭は未だ若いが世継ぎ問題は徐々に問題になりつつある。
「それで、如何したのだ?」
兄が問うと恵瓊が“はい”と答えた。
「その事を申し上げますると養女で良いと。日頼様の血を引く御方を右馬頭様の養女とすれば問題は有るまいと申されました」
「……」
「相国様の御正室も六角家の養女でございます。相国様は朽木家と毛利家の縁を結びたいという事でございましょう」
「そのような話、藤四郎からは来ておらぬが……」
兄に目を向けると兄が頷いた。
「次郎五郎からも来ておらぬ。真か、恵瓊」
「真にございます」
兄が唸っている。藤四郎め、近江に送ったのは情報の収集という任務も有るのに……、弛んでいるな。一度会って厳しく言わねばならぬ。近江に行くか。
「如何でございましょう?」
「ふむ、悪くは無いと思うが」
「私も兄と同意見だ」
我等が答えると恵瓊と右馬頭が頷いた。妙な事よ、二人は余り嬉しそうではない……。
「となりますと少輔四郎様の御息女、弓姫様となりましょう」
「幾つになったかな? 十歳を越えたか?」
問い掛けると恵瓊が首を横に振った。
「いえ、未だ九歳で」
兄が渋い表情をした。十歳を越えていれば何とか形は付くが九歳か……。
「今直ぐ婚儀をという事では有りますまい。今は婚約を結び年頃になってから祝言で宜しゅうございましょう。相国様も毛利と結ぶ事が眼目の筈、駄目とは言いますまい」
「言わぬだろうな、となると婚儀は早くて三年後か」
兄の言う通りだな、婚儀は早くて三年後だ。
「或いは形だけでも婚儀をというかもしれませぬ。ですので婚儀の前に話しておかねばならぬ事がございます」
話しておかねばならぬ事? はて、何であろう、兄も訝しげにしている。
「毛利家の世継ぎの問題でございます」
毛利家の世継ぎ? ……なるほど、そういう事か。右馬頭が無言でいるのもそれが理由か。婚姻により毛利と朽木の絆は強まる。だが右馬頭にとっては……。
「何か有るのか? 確かに殿には世継ぎは無い。だが未だ御若いのだ。これから世継ぎを儲ける事は十分に可能だろう。急ぐ必要は有るまい」
「いや、兄上、そうでは有りませぬ」
兄が私を見た。
「何か有るのか? 左衛門佐」
「有ります。そうであろう、恵瓊」
恵瓊が頷いた。
「既に右馬頭様には御話ししておりますが次郎右衛門様、弓姫様の婚儀が三年後、その後に男子が産まれれば、その時に右馬頭様に御子が無ければ、生まれた御子を右馬頭様の養子にという話が起きましょう。或いは次郎右衛門様その人を世継ぎにという話が出かねませぬ」
兄が唸り声を上げた。
「朽木家と縁を強めるという意味ではそれも良策ではございます」
「恵瓊!」
兄が叱責すると恵瓊が“分かっております”と言って二度頷いた。
「嫁を娶って子を産ませるのと養子を取るのでは違いますからな。毛利家には親族が多うございます。それらの方々を置いて朽木家から養子を取るのは穏やかでは有りませぬ。毛利家内部もざわつきましょう」
兄が“分かっているなら口にするな”と言うと恵瓊が頭をつるりと撫でた。兄は面白くなさそうにそれを見ている。
「しかし兄上、殿に養子をと持ちかけられた場合、断るのは難しいですぞ。何と言っても生まれた子は日頼様の血と相国様の血を引いているのです」
「そうだな、その前に毛利家の跡取り問題を片付けておかなくてはならぬな。一番良いのは殿に御子が誕生する事だ。それなら何の問題も無い、問題は御子が出来ぬ時だな。誰を養子に迎えるかという話になる」
兄が顔を顰めた。
「今すぐ決める必要は有るまい。弓が懐妊してからで良い筈だ。今はそのような問題が有ると認識していれば良かろう」
右馬頭の言葉に皆が頷いた。
「ま、私も励むつもりだ。皆の心配を解消するためにな」
座に笑い声が上がった。良い潮だ、話を変えよう。
「恵瓊、他に話しは無いのか?」
「四国の事でお話が」
「出陣か?」
兄が嬉しそうにしたが恵瓊は首を横に振った。
「いえ、改めて九州の抑えをと」
「抑えか」
詰まらなさそうにしている。鹿屋城では戦う事が出来なかった。その事で大分口惜しがっていた。今度こそ、と思ったのだろう。
「龍造寺山城守でございますが大分荒んでおりますそうで。相国様よりそのように伺いました」
恵瓊の言葉に皆が顔を見合わせた。
「世鬼の調べでも同じ報告が上がっている」
右馬頭がぼそっと呟いた。
「大友は領内が纏まりませぬ」
恵瓊の言葉にまた皆が顔を見合わせた。
「九州への抑えか、より正確に言えば何時でも九州に攻め込めるように準備をせよ、そう受け取るべきだな」
「駿河守様の申される通りかと。相国様が申されておりましたな。山城守は齢は五十を越え人生も残り僅か。ならばこそ己が野心に忠実に悔いなく生きたいと思っているのではないかと」
兄が大きく頷いた。兄も私も五十を越えた、ならばこそ残りの人生を悔いなくという想いは理解出来る。我ら兄弟には毛利を守るという願いが有るが山城守は……。まして大友は領内が治まらない。
「来年かな?」
「早ければ。四国は年内に終わらせると。近衛内府様と二の姫様の婚儀が秋から冬と決まったと伺いました」
という事は夏から秋にかけての遠征か。準備は整いつつあるという事か。
「それより少々気になる事が」
恵瓊が気遣わしげな表情をしている。珍しい事だ。
「京で伊勢兵庫頭殿に会いました。その折、対馬の宗氏の事が話題になったのですが相国様は大分宗氏の事、朝鮮の事を気にかけておいでの様です」
皆が顔を見合わせた。
「宗氏が朝鮮に服属していたという事を問題視する声が朝廷では強いのだとか。琉球が来春には来聘しますからな、余計でしょう。相国様もそれを無視出来ぬようで」
兄が大きく息を吐いた。
「宗氏に預けた牙符が問題になるという事か」
私が問うと恵瓊が頷いた。
「いずれはそうなるやもしれませぬ」
「取り返した方が良いか? しかしそうなれば宗氏が我らに朝鮮から手に入れた物を流す事は無くなろう。それは痛い。隠岐を失った今、朝鮮との交易は宗氏を通してしか行えぬのだ」
兄が言い終って顔を顰めた。
「恵瓊、あちらは何処まで知っているのだ。こちらにカマをかけてきたという事か? 或いは好意で教えてくれたという事か?」
恵瓊が一礼した。
「右馬頭様、愚僧の見る所ではそのどちらでも有りませぬ。話は琉球の来聘のついでに出た様な次第で」
おそらくは知らぬという事か。気休めにはなるな。
「牙符は取り返そう。相国様に問われた時は正直に話そう」
「殿!」
兄が声を上げたが右馬頭が首を横に振った。
「欺かれて喜ぶ主君はおらぬ。そうではないか、叔父上」
「……」
兄が何かを言いかけて止めた。尤もだと思ったのだろう。
「宗氏に牙符を預けそれによって宗氏を通して朝鮮から産物を得ていた。だが宗氏が朝鮮に服属していたとは知らなかった。だから牙符は取り返した」
皆が頷いた。少輔四郎に弓の事を言わねばならぬ。だが四郎は九州に居る。恵瓊が右馬頭の書状を持って九州に行く事に成った。そして宗氏から牙符を取り戻す。近江に行くのはその後になるだろう。
右馬頭の前を下がると兄が少し話したい事が有ると言って兄の部屋に誘った。こちらも話したい事が有る。望むところだ。部屋に入って座るなり兄が話しかけてきた。
「どうも近江が弱いな」
「そうですな。兵糧方、軍略方に入ってそれなりにやってはいるようですが……」
「相国様の内懐には入れぬ」
兄の言葉に頷いた。吉川次郎五郎、小早川藤四郎、二人ともまだ若い。荷が重いのかもしれぬ。
「兄上、某が近江に行って二人の尻を叩いて来ましょう」
「……いや、左衛門佐。近江に重臣を置かぬか。屋敷を建てる許可を貰って朽木家の動向を注視する任務を負わせるのよ」
「なるほど、良い案ですな。兄上には珍しい事で」
からかうと兄が笑いながら“畏れ入ったか”と胸を反らしたので一礼して敬意を表した。
「誰を置きます? 恵瓊を御考えですか?」
問い掛けると兄が首を横に振った。
「いや、恵瓊は今でも相国様に近いと言われているのだ。別な人間の方が良かろう。それに右馬頭の傍には恵瓊が必要だ。気に入らぬ坊主だが切れる」
「そうですな。となると……」
「児玉三郎右衛門をと考えている」
「三郎右衛門は五奉行の一人ですぞ」
驚いて問うと兄が“訳が有る”と言った。
「三郎右衛門の娘を知っているか? 上の娘だが」
「知っております。周という娘でしょう。大分美形だとか。杉小次郎に嫁ぐと聞いております」
「やはり知らなんだか。それは破談になった」
「……」
「右馬頭が眼を付けておる」
「まさか」
兄が真だという様に頷いた。
「右馬頭が度々三郎右衛門の家に足を運んでいたであろう」
「はい、今でも時折……、そういう事ですか」
「そうだ、あれは周を見るためだ」
「……」
兄の表情が暗い。少しはましになったと思っていたが……。
「三郎右衛門はそういう右馬頭の行いが気に入らず杉小次郎を許嫁に定めたのだ。だが右馬頭は諦めきれずに三郎右衛門の家に遊びに行った」
「……」
兄が溜息を吐いた。
「厄介な事に杉家でもその事に気付いた。それでな、小次郎の父、次郎左衛門が婚約を白紙にしたいと言って来たらしい。六十を越えた次郎左衛門が頭を下げて頼んだそうだ。三郎右衛門も已むを得ず破談を受け入れた。つい先日の事だ。直ぐに広まろう」
今度は私が溜息を吐いた。
「良くご存じで」
兄が顔を顰めた。
「三郎右衛門に愚痴られたのよ。如何いう教育をしたのだとな。儂から右馬頭に意見したが右馬頭は不満そうであった」
「……世継ぎの問題が生じましたな」
兄がウムと頷いた。
「右馬頭は周を側室にと言い易い状況になった。だが三郎右衛門はそれを受け入れまい。右馬頭と三郎右衛門の関係は悪化し周は何処にも嫁げぬ事に成る」
「……それで近江へ」
兄が頷いた。
「そうだ、右馬頭と三郎右衛門を引き離す。周も近江に行かせる。美人を朽木に取られるのは癪だが朽木の家臣に嫁げば右馬頭も諦めるであろう」
「そうですな」
なんともまあ……。兄上の良案は右馬頭の色恋が原因か。
「聞いて貰った以上、左衛門佐にも手伝って貰うぞ」
「……」
無言でいると兄がぐっと顔を近付けてきた。
「周の件が宍戸の姉上に知られてみろ、文句の礫が飛んでくるぞ。それで良いのか?」
思わず顔を顰めた。
「冗談はお止め下さい」
「冗談では無いわ、儂は百万の大軍でも恐れはせぬが姉上の小言だけは勘弁だ。それに張り合う我が女房殿の癇癪にもな」
「某もです」
右馬頭も正室の小言にうんざりしているのだろう。多分姉上に似ているのだろうな、母娘なのだから……。