遺言
禎兆四年(1584年) 二月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木堅綱
祝いの宴が終わると次郎右衛門と共に父上の部屋に呼ばれた。部屋には火鉢が置いて有り微かに暖かかった。そして焙じ茶が用意されていた。香ばしい匂いが部屋に漂っていた。
「遠慮は要らぬ、寛ぐが良い」
「はっ、では遠慮無く」
次郎右衛門が焙じ茶を一口飲んでホウッと息を吐いた。羨ましい事だ、私には父上の前で寛ぐという事が出来ぬ。如何しても緊張してしまう。
「大樹、征夷大将軍への就任、驚いたか?」
「はい」
答えると父上が満足そうに頷かれた。
「俺が太政大臣に就任しその方が征夷大将軍に就任する。その意味、分かるか?」
父上が私と次郎右衛門を交互に見た。
「征夷大将軍は太政大臣の下、という事を皆に教えたのでしょうか? 父上が幕府を開く事に拘っていないと半兵衛に聞いた事が有ります」
私が答えると次郎右衛門が目を丸くした。幕府を開く事に拘らぬという事に驚いたのだろう。私も半兵衛から聞いた時には驚いた。一緒に聞いていた浅利彦次郎、甘利郷左衛門も驚いていた。
「幕府を開けという御方が多くてな、困ったものよ」
ぽつんと言った。御方? 父上より立場が上の御方となると公家の方々か。
「征夷大将軍とは何か、分かるか?」
征夷大将軍、武家の棟梁だが父上がそのような簡単な答えを求めているとも思えぬ。
「武家の棟梁にございます」
次郎右衛門が私を見ながら言った。
「次郎右衛門、征夷大将軍が武家の棟梁と呼ばれるようになったのは鎌倉に幕府が開かれてからだ。それ以前は蝦夷討伐の大将でしかなかった」
「……」
「朝廷はこの国を治めるために律令と呼ばれる法を作った。その際官位も定められた。その中に征夷大将軍は無い」
そうなのか、知らなかった。次郎右衛門も驚いている。
「征夷大将軍は蝦夷討伐の為に造られた臨時の官職だ、令外官と呼ばれている。鎌倉に幕府が作られ武家が天下を治めるようになってから武家の棟梁を表す官職になったが極めて曖昧なものなのだ。その職務には武家を統べる権限も天下を治める権限も無い、覚えておくが良い」
次郎右衛門と共に“はい”と答えた。
「太政大臣は律令の中で最高の官位だ。位人臣を極めると言って良い」
「父上、摂政、関白との関係は如何なりましょう?」
次郎右衛門が問い掛けると父上が微かに笑みを浮かべられた。
「摂政、関白も令外官だ。藤原氏が朝廷内で権力を振るうために作られた。妙な事に藤原氏は太政大臣に就くよりも摂政、関白になる事を望んだ。それ故太政大臣は名誉職のような物になってしまった。父が太政大臣に就く事を望んだのも律令の中で最高の官位という事の他に太政大臣ならば公家達からの反発が少ないと思ったからだ」
父上が我らを見て“分かるか”と仰られた。
「武家として武家を支配する事で天下を治めるのではない。太政大臣として公武、つまり公家、武家の上に立って天下を治めるという事だ。政の府の名称は相国府となる」
「……相国府」
次郎右衛門が呟いた。なるほど、父上が幕府を開く事に拘らぬのはこれが理由か。父上は天下を治めるには公武の上に立つ必要が有ると御考えなのだろう。
「父上、父上は先程幕府を開けという御方が多いと仰られましたが?」
問い掛けると父上が“うむ”と頷かれた。
「朝廷は先例を重んじる。新しい物を嫌うのだ。当初は幕府も受け入れられなかった。いずれは慣れる。それに太政大臣になった俺が朝廷を、帝を如何扱うかという点が不安なのだろう。これまでの事を思えば酷い事にはなるまいと思っていようが一抹の不安は有る。それ故朝廷の中では無く外で幕府を開けと言っているのだ」
溜息が出そうだ、次郎右衛門は眼を丸くしている。
「征夷大将軍など俺には不要だ。だが世の中には征夷大将軍は武家の棟梁、天下人という意識が強いのでな。阿呆共に悪用されぬ様にその方に征夷大将軍職をと頼んだ」
「……」
「今後は朽木家の当主が太政大臣に、嫡男が征夷大将軍になる。そうする事で征夷大将軍は武家の棟梁、天下人を表す職では無く朽木家の世子を表す言葉になるだろう。良いな?」
父上の確認の言葉に二人で頷いた。
「まあ俺は隠居だから少々変則では有るな」
父上が御笑いになったが私には笑えない。次郎右衛門もだ。何時の間にそんな事を御考えになったのだろう。九州征伐を行ったのだ、決してお暇では無かった筈なのに……。敵わないと思った、徳川を下し小田原城を開城させた。少しは大きくなれた。だが父上にはまだまだ及ばない。
「帝より格別の御言葉を頂いた」
“今天下の大権を相国に委ね天下の政を執らしむ。天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり。二度と大乱を起こす事無く世に繁栄を齎すべし。よくよく心得て任を全うせよ”
異例の事だった。だがこの御言葉で父上が天下人だと朝廷から正式に認定された。
「あれは俺が朝廷に依頼した事だ」
「真でございますか?」
問い掛けると父上が頷かれた。
「天下万民の天下、朝廷にとっては受け入れ難い言葉だ。天下は朝廷の物、帝の物、そう思いたい気持ちが有る。だが天下を私物化すれば足利のようになるだろう。そう思ったから天下万民の天下という言葉を入れた」
「……」
「だが二度と大乱を起こす事無く世に繁栄を齎すべし、この部分は帝御自身の御言葉だ」
なんと……、声が出ない。次郎右衛門も唯々驚いている。
「俺は朽木家の代々の当主が政を私物化せぬ様にと思って帝から御言葉を頂いた。私物化すれば天下は混乱する、朽木は足利と同じになると思ったからだ。帝も同じ御思いなのだろう。応仁、文明の乱以降の混乱で朝廷は恐ろしい程に衰微した。あのまま混乱が続けば朝廷は存続すら危うくなっただろう。天下万民が混乱に苦しむ中で朝廷だけが繁栄するなどという事は無いのだ。朝廷の安寧は天下万民の安寧と共にある」
父上が我らを見た。
「二人とも忘れるなよ。天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なりだ。帝もそう御思いになっている、その事を忘れてはならん」
「はい」
声を揃えて答えると父上が頷かれた。
「俺が死んだら大樹は天下の大権を朝廷に還せ」
「父上!」
私と次郎右衛門の悲鳴が重なった。“騒ぐな!”と父上が我らを一喝された。
「天下の大権を私物化するな。一旦御還しその上で改めて大権の委任を願い出よ。その方に天下を治める力が有ると朝廷が判断すれば大権を委任されるだろう」
「……」
「それに私物化せねば足利の様にはなるまい。天下を失っても惨めな最後にはならんと思う。良いな、これは俺の遺言と思え。代々の当主に伝え続けよ」
「はい」
答えると父上が頷かれた。
「俺はこれから四国を片付けねばならん。大樹は関東を制圧せよ」
「はっ」
「父上、某も初陣を飾りとうございます。父上の、御屋形様の天下獲りの御役に立ちとうございます」
次郎右衛門が身を乗り出した。
「大樹に頼むと良い」
父上が笑いながら言うと次郎右衛門が縋る様な目で私を見た。
「構いませぬか?」
「次郎右衛門はその方の配下、その方の判断に任せる」
「兄、いえ御屋形様」
「分かった、関東に兵を出す時に連絡する。その時は駿府に参れ」
「はい!」
次郎右衛門が声を弾ませた。自分も初陣の時は嬉しかった。だが戦を嬉しいと思ったのはその時だけだ。次郎右衛門もそう思うのだろうか……。
「父上、四国遠征でございますが御疲れでは有りませぬか? 九州から戻られてから余り間が有りませぬ。朝廷との交渉もございました。余り無理をされては……」
父上が苦笑いを浮かべられた。
「案ずるな、戦は早くとも五月以降になるだろう。その頃の方が四国の混乱は収め易かろう。それまではゆっくり出来る」
そうは言っても父上の御立場では休める筈もない。
「尾張の三介が不満を漏らしているそうだ。聞いているか?」
「多少は、ただそれに同調する者は居ないと出羽守、小兵衛より聞いております」
「某も藤吉郎から似た様な事を」
なるほど、木下藤吉郎か。川並衆だな。父上も頷かれている。
「それなら良い。問題は無いと思うが油断はするなよ。特に尾張に居る次郎右衛門は気を付ける事だ。あの者は思慮が浅い、そういう人間は危険だ」
「はい」
「父上、九州はあれで宜しいのでございますか?」
「……」
父上が無言で私を見ている。
「父上は大友を評価していませぬ。なのに大友に大領を許した。訝しい事だと思います。私だけでは有りません、半兵衛も訝しんでいます」
父上が御笑いになった。
「いずれな、いずれ大友と龍造寺は潰す。四国遠征の後になるだろう」
やはりそうか。次郎右衛門が吃驚している。
「しかし大友も龍造寺も父上に従ったのではありませぬか?」
「そうではない、次郎右衛門。大友は俺を利用しただけだ、今頃は高笑いをしておろうな。そして龍造寺は野心を捨てておらん。どちらも放置は出来ぬ。潰す」
“父上”と次郎右衛門が呟いた。声が震えている。次郎右衛門も父上の恐ろしさがようやく分かったようだ。
禎兆四年(1584年) 二月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「藤林長門守にございます」
「うむ、良く来てくれた」
「夜中、寝所にお呼び頂けるとは、御信任有難うございまする」
「長門守、闇の中の方が闊達ではないか」
「畏れ入りまする。この方が気が楽でございますれば」
闇の中、藤林長門守が微かに笑うのが分かった。いつもは大仏なのに、ちょっと可笑しかった。
考えてみれば伊賀衆を寝所に呼ぶのは初めてだな。もしかすると寂しかったとか……。今度は風間出羽守を呼んでみよう。
「して、御用は」
「頼みたい事が有る。だが先ずは四国の状況を聞きたい。一向門徒が細川掃部頭に与したというのは真か?」
「真にございます」
返事を聞いて思わず溜息が出た。
「あいつら碌な連中じゃないな。四国の混乱は酷くなるだろう」
俺の言葉に長門守が“真に”と含み笑いを漏らした。
三好久介が死んだ。まあこれは想定通りだ。俺が出した使者に対して久介は権大納言が死んだ以上、逃げる事は出来ない、息子達を頼むと返事を寄越した。阿波守は異父兄、細川掃部頭真之と共に久介を殺して伊予を完全に自分の物にした。だが配下の重臣達からはそっぽを向かれた。特に篠原親子との反目は痛かった。
篠原家は阿波守の父親である豊前守に仕えて信頼が厚かった。父親の篠原右京進長房、息子の篠原大和守長重。長重は阿波守の妹を娶っている。もっとも力になってくれる筈の篠原家との反目……。放置は出来ない、本来なら関係改善に動く。だが篠原親子は阿波守を見限っていた。そして阿波守も関係改善よりも自分を蔑にする篠原親子を攻め潰す方を選んだ。
何かにつけて父豊前守と比較して自分を押さえ付けようとする篠原親子を阿波守も疎んじていたのだ。掃部頭が焚き付けたようだがその内容はこのままでは実権を篠原親子に奪われるというものだったようだ。豊前守の晩年、体調を崩して寝込む豊前守に代わって政を取り仕切ったのは篠原右京進、大和守親子だった。
篠原親子の排除には阿波守の異父兄、掃部頭だけでなく実弟十河民部大輔存保も加わっている。民部大輔は十河家の当主で讃岐を治めている。民部大輔が加わったという事は危機感は阿波守だけのものではなく民部大輔にも同じ危機感が有ったという事だろう。三好も細川から実権を奪った事を思えば危機感は深刻だったのかもしれない。
篠原親子を攻め滅ぼすと掃部頭は阿波守に反旗を翻した。上手いものだ、打倒三好家のために邪魔になりそうな者を阿波守に殺させたのだからな。阿波守も謀られた事を理解しただろうし阿波の国人衆も阿波守の愚かさを笑っただろう。掃部頭には福良出羽守連経、小笠原長門守成助、新開遠江守実綱、日和佐肥前守祐安、多田筑後守元次、伊沢藤四郎頼俊が味方に付いたが阿波守に味方した者は殆ど居ないらしい。
困った阿波守は実弟の民部大輔に助けを求めたが掃部頭の手は讃岐にも及んでいた。讃岐の国人衆の香川五郎次郎之景や香西伊賀守佳清が反三好で旗を上げた。足元で反乱が起きた以上助けには行けない。阿波守は孤立した。そして九州を追われた一向門徒が細川に合流した……。なかなか手際が良い、呼び寄せたのかな? やるものだ。
「こうなると阿波守は危ないな」
「はい、右京進の予想通りになりそうで」
「そうだな」
篠原右京進長房は三好久介の死後、周囲に阿波はいずれ三好家の物ではなくなるだろうと漏らしたらしい。馬鹿を担ぐ事の難しさを骨身に沁みて理解したのだろう。その気持ちは良く分かる。俺も馬鹿には随分と振り回された。
「亡き豊前守殿が娘を大和守に嫁がせたのも阿波守の将来を案じての事だとか」
「ま、そうだろうな。だが無駄になった」
阿波守は妹もろとも篠原親子を攻め滅ぼした。父親の配慮など気にも留めない、そういう事を察せられない性格なのだとしか思えない。人の上に立ち纏める事など出来ない資質なのだ。
「大殿は御運がよろしい」
長門守が冷やかす様に含み笑いを漏らした。
「如何いう事だ?」
問い返すと長門守が笑うのを止めた。
「大殿に似合の年頃の男子が居れば豊前守殿は娘を嫁がせた筈、或いは大殿に適当な娘が居れば阿波守の嫁にと申しこんできた事でしょう」
「なるほど」
「厄介な事になったでしょうな」
確かにそうだな。危ない所だったのかもしれない。断れば三好との友誼が壊れる、受ければ阿波守を持て余しただろう。一条兼定の事を思い出した、うんざりだ。
「それで、阿波守は如何なると見る?」
「阿波守は法華宗への改宗を国人達に強制しておりました。一向門徒にとっては叩き易い相手でございます」
阿波守の祖父、三好筑前守元長は一向門徒に攻められ腸を天井に投げつけて死んだ。孫の阿波守もそうなるかもしれん。まあ自業自得だ、元長を憐れとは思っても阿波守を憐れとは思えない。
「門徒達だがどれ程いるのだ?」
「ざっと一万程にござる」
「随分と減ったな、元は一万五千は居ただろう」
「将来が見えませぬからな。それに大殿は阿弥陀の教えを否定しておられませぬ。門徒達は教如から離れ高田派等に転じたようにございます」
「そうか」
良い傾向だ。教如は徐々に求心力を失っている。
「それだけに教如は必死にございます。甲冑を纏い自ら戦う姿勢を示しているとか」
「教如が自ら甲冑を纏うか、もはや坊主とは言えんな」
島津の為に戦い掃部頭の為に戦う、まるで傭兵だ。俺に降伏は出来んのだろうな、憐れな奴……。しかしこんな連中を相手にするのだ、阿波守は助からんだろう。となると阿波の支配者は掃部頭か。
「実はな、長門守。先日、ある者が掃部頭の文を持って来た。知っているかな?」
「……もしや堺の……」
「うむ、今井宗薫だ。掃部頭、阿波守に武器弾薬を売って大分儲けている。もしかすると煽っているかもしれんな。掃部頭に俺に文を届けてくれと頼まれたようだ」
「……」
あれ、黙ったな。もしかすると情報網に漏れが有ったとか思っているのかな。
「文には阿波一国の領有を認めて貰いたいと書いて有った。そして一向門徒は自分が始末すると」
「なんと……」
「一向門徒は阿波守との戦いで磨り潰されるぞ、その後は掃部頭に潰される。憐れな話だ」
「……」
妙な沈黙だな。
「意外か?」
「いささか」
「俺は一向門徒を滅ぼす事を目的にはしておらん。あの連中が武器を捨て俺の政に従うならな」
「……掃部頭への返事は?」
「無い」
「……」
言質は与えない、そういう事だ。掃部頭が如何判断しようと構わん。四国制圧は既定路線だ。
「一向門徒に流しますか?」
「無用だ」
「……」
「誰が見ても一向門徒は邪魔なのだ。力が有ったから畏れられたが力が無くなれば利用され潰されるのが道理だ。その道理が分からぬ以上滅びるのは当然の事、そうであろう?」
「御意」
或いは現実から目を逸らしているだけなのかもしれない。嘗ての栄光を忘れられずにいる。だがこの乱世で現実から目を背けるなど許される事では無い。滅びるのが当然だな。