強襲
禎兆三年(1583年) 九月中旬 大隅国肝属郡鹿屋村 鹿屋城 朽木基綱
島津軍八千が鹿屋城に籠って防御を固めている。鹿屋か、俺の意識では鹿屋というと軍事基地の拠点というイメージが有る。古くは日本海軍航空隊の基地が有って特攻隊の出撃拠点だ。第二次世界大戦終了時には高須海岸から占領軍が上陸した。そして現代では海上自衛隊の鹿屋航空基地が置かれている。軍には縁の深い場所だ。かのやばら園の美しさなど吹っ飛んでしまうな。もっとも今は未だそんなものは無いが。
あっという間に薩摩は崩れた。九鬼孫次郎が兵一万を薩摩に上陸させた。田沢又兵衛率いる一万の兵に居城である内城を押さえられ坊津を獲られると島津は混乱した。島津は朽木が日向に上陸すると思っていた。彼らの考えた防衛戦略が根本から崩れたという訳だ、混乱は当然だな。そして薩摩を押さえられた事は後方支援の拠点を奪われただけでは無く島津の家臣にとっては故郷を奪われた事でもある。内城には新たに服属した国人衆から集めた人質もいるのだ。放置は出来ない。
放置しては家臣、国人衆の統制が取れなくなる。慌てた島津は日向南部に集めた兵、二万を本拠地奪回のために薩摩に向けた。途中、兵を集めながら内城に向かうつもりだったのだろう。そしてそこを堀内新次郎に突かれた。大淀川の近くに一万の兵が上陸した。島津は背後に兵が上陸した事で動けなくなった。背後の兵を無視して突き進めば後を追われる。内城に迫っても前後から挟撃されかねない。
一万の兵を率いたのは鯰江満介貞景、鯰江小次郎氏秀だ。二人は島津とは戦おうとはしなかった。追いはしたが戦わない。追われれば逃げた。日数を無駄に潰している間に俺が北から南下してきた。堅城の松尾城に抑えを置いて天下城、西階城、井上城を先に落とした。そのうえで松尾城に降伏を促すと簡単に降伏した。
城を守っていたのは土持弾正忠久綱、土持次郎親信だが島津に与して土持氏は一度滅びている。二度も滅ぶのは避けたかったのだろう。土持氏の存続を条件に降伏してきた。本領安堵を願わないのは評価出来る。一度滅んだ事で家名を保つ事の難しさが身に染みているのだろう。島津で嫌な想いをした事が有るのかもしれない。
更に南下すると門川城、塩見城、山陰城は廃棄されていた。そしてその先で島津軍が待っていた。伊集院掃部助忠棟率いる一向門徒と門川城、塩見城、山陰城の島津兵を中核とした軍勢だ。兵力は二万五千程、耳川を挟んで対峙する事になった。俺を足止めしてその間に薩摩を取り返そうと考えていたようだ。耳川は縁起が良いとでも思ったかもしれない。
手間取ると面倒だ。正面から銃で攻撃しつつ渡河する様な動きを見せて敵を牽制した。その上で一隊を耳川の上流に回して側面を突かせた。この側面を突いたのは立花道雪、高橋紹運だ。それに合わせて耳川を渡河させて攻撃をかけた。正面と側面からの攻撃で敵は混乱し敗走した。側面からの攻撃が効いたようだ。流石は道雪、紹運だ。
死者は四千程だろう。名の有る者としては伊地知丹後守、吉利下総守が死んだ。伊集院掃部助も死んだ。これで一揆勢を纏める人間が居なくなった。敗走した島津兵と一揆勢は佐土原城、都於郡城に籠った。島津兵が佐土原城に、都於郡城には一揆勢が籠った。一緒に籠っては混乱すると思ったようだ。或いは一揆勢と一緒に居て根切りに有っては堪らないと思ったか。
佐土原城は直ぐに開城した。八千の兵が降伏した。条件は武装解除と行動の自由の保証。都於郡城は一揆勢が一万三千程籠っている。簡単に開城はしないだろうと思ったから佐土原城に兵を一万五千程入れ都於郡城の抑えとして先に進んだ。叩き潰すのは後でも良い。そして鯰江満介、小次郎の兵と合流した。丁度良い所だった。何と言っても兵力は相手の半分だ。牽制といっても限界は有る。
こちらが合流した事で島津勢は後退した。後退といっても薩摩には戻れない。大隅に後退し鹿屋城に籠っている。鹿屋城には島津四兄弟が居る様だ。もっとも兵力は八千程に減っている、引き連れていた日向の国人衆を始めとして島津に服して日の浅い国人衆、不満を持つ国人衆はあっという間に逃げてしまった。そしてその鹿屋城を朽木軍八万が囲んでいる。鹿屋城は簡単には落とせない。本城を七つの曲輪が囲んでいる。外側に四つ、内に三つ、その奥に本城。将棋の穴熊みたいな城だ。もう囲んで十日が経つ。
既に大隅の有力国人である北郷、伊地知などは下した。大隅で島津に味方する者はいない。そして島津に不満を持っていた蒲生統四郎、東郷大和守、菱刈左衛門尉、入来院弾正少弼、肝付左馬頭兼亮、右京亮兼樹、三郎四郎兼護が此方の味方に付いた。東郷と入来院は薩摩の国人、蒲生、菱刈、肝付は大隅の国人だ。島津による薩摩、大隅統一の中で勢力を弱められた事を不当に思っている。島津の現状をザマアミロと思っているだろう。
一度降伏を勧めた。降伏条件は大隅半国の領有だ、ざっと十万石程だろう。使者を城中に送ったのだが食事を馳走になって帰ってきた。島津は降伏を断って来た、せめて薩摩一国は頂きたいというのが言い分だった。予想通りだ、薩摩では無く大隅、石高は十万石。島津には受け入れ辛い条件を提示したのだからな。受け入れれば俺に服したと認めてやる。後世の歴史家は悩むだろう、この状況で俺が提示した大隅半国は苛酷か、妥当か。島津が要求した薩摩一国は過大か、妥当かで。
肥後方面は相良遠江守義陽、阿蘇大宮司惟種がこちらに付いた事、島津の兵力が少なかった事も有って十兵衛が問題無く攻略した。その後は薩摩に侵攻、薩摩半島を南下し抵抗する国人衆を下している。簡単には行かない様だ、激しく抵抗しているらしい。川田、比志島、山田、喜入、佐多、頴娃。
連中の考えは分かっている。激しく抵抗する事で島津の講和条件を緩めようというのだろう。史実で秀吉相手にやったことだ。秀吉は天下統一を急いだために講和条件を緩めた。元々薩摩一国だったのが薩摩、大隅、日向の一部になった筈だ。だが俺は秀吉じゃない、島津に薩摩一国など与えるつもりは無い。
薩摩の抵抗が終わった後、大隅にて五万石でもう一度使者を送ろう。大隅半国より条件は厳しいが薩摩が平定された以上当然の事だ。島津にとっては大隅半国以上に受け入れられない案だろうが俺にとってはかなり譲歩した案だ。拒否した時は容赦なく潰す。次は無い。そう思っていたんだがな、頭が痛いわ、上手く行かない……。
「風が生温かいな、湿っているような気がする。海が近いせいかな?」
「野分が近付いているのかもしれませぬ」
俺の言葉に答えたのは田沢又兵衛だった。しきりに曇り空を眺め臭いを嗅ぐ様な素振りをする。こいつも長いな、俺の初陣から付き合っている。五郎衛門、新次郎亡き後は又兵衛と左門が古参譜代の代表だ。
「だとすると厄介な事になるな、皆を呼べ、軍議だ」
俺の声に応えて使番が走った。皆が揃うまで三十分程かかった。仕方が無い、人数が多いんだから。
「天気が良くない、野分が来そうだ」
俺の言葉に皆が頷いた。不安そうに空を見ている者も居る。
「鉄砲が使えぬ。島津が討って出て来る可能性が有ると思う。皆は如何思うか?」
「某も討って出て来ると思いまする、島津は兵糧に不安を抱えております。このまま城に籠っていては飢え殺しになりましょう」
答えたのは加藤孫六だった。偉いぞ、孫六。俺もそれが気になっているんだ。鹿屋城に八千もの兵を養えるだけの兵糧が有るとは思えない。おまけに今は九月中旬、米の収穫はこれからだ。城内の米は元々少なかった筈だ。こっちの使者に食事を出したのだから飢えてはいないだろうが危機感は有るだろう。となれば乾坤一擲とばかりに打って出てくる可能性は十分過ぎる程に有る。
「如何すべきだと思うか?」
皆顔を見合わせている。安心したわ、待ち受けて迎え撃つなんて言う阿呆が居なくて。台風が来れば雨と風に見舞われる事に成る。身体は冷えるし気力も萎える。おまけに島津はいつ来るか分からない。その状態で迎え撃つなんて言っても簡単に出来る事じゃない。まして相手は狂戦士揃いの島津なのだ。大友の馬鹿野郎! お前の所為でしなくて良い苦労を俺はしている! 口に出せたらすっきりするんだが道雪達がいるからな。大名なんて思った事の半分も口に出せない、不自由過ぎる!
「野分は何時頃来ましょうか?」
「徐々に風が強くなっている。夜には雨が降るのではないかな。降り出せばあっという間に野分だろう」
「では夕餉は早めに済ませた方が良いか」
おいおい、未だ昼を過ぎたばかりだぞ。もう夕飯の心配か? しかし雨が降れば火が使えない、夕餉を早く済ませようというのは分かるな。野分が来れば糒を兜に貯めた水で溶かしながら食べる事になる。美味くないんだ、あれ。
「島津が仕掛けてくるとすれば未明、朝駆けでございましょう。こちらは身体が冷えておりますし気も緩んでおります、動きは鈍い。十分に勝機が有ると考える筈。それに夜討ちでは戦果がはっきりしませぬが朝駆けなら徐々に明るくなります、戦果も拡大し易い」
流石だな、左門。如何にも古強者らしい意見だ。眉にも白い毛が目立ってきた。白ゲジゲジ二代目だな。襲名を許すぞ。近江に帰ったら襲名式だ。
「となると夕餉の後は仮眠を取りましょうな。戦支度はその後にございましょう。そして未明に打って出る」
「なるほど、敵は気力に溢れ味方は疲労困憊、厄介な事になります」
御宿監物と小山田左兵衛尉の言葉に皆が頷いた。
「ならば、不意を突いて夜襲というのは如何にございましょう」
真田源五郎の言葉に皆が顔を見合わせた。
「雨が降り出した後、多少兵を動かして雨を避ける様な動きを見せます。その上で夜半に攻撃をかけるのです。島津の機先を制する事が出来ましょう」
誰も何も言わない、無言だ。おそらくは皆が一度は考えた筈だ、俺も考えたからな。だがなあ……。
「源五郎、野分は何時収まるか分からぬ。一日か、二日か。一旦戦が始まれば止める事は難しいぞ。下手な止め方をすれば逆撃を喰らう事になる」
源五郎が俺を見た。睨むように見ている。
「已むを得ませぬ。このままでは島津の攻撃を受けるだけにございます。その方が危険でございましょう。木の芽峠の夜襲になりかねませぬ」
彼方此方から唸り声が聞こえた。木の芽峠の夜襲か、懐かしいわ。一向一揆勢に夜襲をかけたな。あの時も野分だった。泥に塗れて門徒達を殺した。稲光で戦況を確認しながら戦った。あの戦で朽木は天下に名を轟かせた。常識外れの戦いだったな、皆が呆れていた。だが勝った、北近江の国人衆はあれで俺を認めた。戦なんてキチガイになった方が勝ちか……。
「源五郎の意見を採ろうと思うが如何か?」
問い掛けたが反対意見は無かった。
「軍を四つに分ける。それぞれ二万五千、二万、二万、一万五千だ。一つは又兵衛が指揮を執れ、二万だ」
「はっ」
又兵衛が畏まった。
「俺も二万の兵を指揮する。そして左門が二万五千、毛利の一万五千だ」
皆が頷いた。
「左門は予備だ、俺が中央、又兵衛は右に、右馬頭は左に陣を布く。最初に俺が攻める」
「大殿!」
彼方此方から声が上がったが“騒ぐな”と抑えた。皆不満そうだ。
「攻めた後で兵を退く。俺が目の前に居るのだ、島津が追いかけてくれば其処を又兵衛と右馬頭が左右から、俺が正面から叩く」
「追ってこなければ如何なさいます?」
決まっているだろう、左門。
「その時は右馬頭が攻める。そして一刻程攻めて兵を退く。その次は又兵衛だ。何度も繰り返し攻めて敵を苛立たせるのだ。必ず出てくるだろう、俺の首を求めてな。出てきた敵を包囲したら左門は城を獲るのだ」
俺の側には主税、小山田左兵衛尉、立花親子、高橋紹運を置こう。久々に戦らしい戦になる。楽しくなりそうだ。
禎兆三年(1583年) 九月中旬 大隅国肝属郡鹿屋村 鹿屋城 安国寺恵瓊
夕餉を早めに済ませると待つ事も無く雨が降り出した。徐々に雨が、風が強くなった。遠くでゴロゴロと遠雷が鳴っている。間違いなく野分が近付いている。毛利軍一万五千が雨に叩かれ、風に叩かれながら息を凝らして戦が始まるのを待っている。右馬頭様が静かに息を吐いた。
「如何なされました? もしや、寒うございますか?」
問い掛けると右馬頭様が首を横に振った。しずくが此方に掛かったがそれも気にならない程に雨が強い。
「いや、雨中での戦は経験が有るが野分の中での戦など経験が無い。この暗闇の中で戦が出来るのかと思ったのだ」
「稲光を頼りにするしかありませぬ」
「うむ」
右馬頭様が大きく頷いた。寒くは無いかともう一度問うと寒くは無いと答えが有った。
「厳島の戦いも野分で大嵐になったと聞く。その時は嵐の中で戦ったのかと心躍ったがまさか自分がその立場になるとは……」
信じられぬという事か。この方が毛利を継いだ時はすでに毛利家は西国の大大名だった。そして吉川、小早川の頼りになる叔父が居た。自ら厳しい戦をする事は無かった。
今回の戦は良い経験になるかもしれぬ。高松城では戦う事無く敗れた。今回の戦、前内府様は自ら先陣を切られる。それを聞いた時この御方は驚きの表情を浮かべられていた。必要と有らば自らを駒として使う、勝つために自らを囮として使うという事が驚きだったのだろう。この御方がこの戦で何を得られるのか……。
光った! 闇の中に鹿屋城が浮かんだ。本城を六つの曲輪が守る形で並んでいる。一瞬では有るが見えた。そして今は僅かに城から漏れる灯りだけが見えている。元は肝付氏の城であったが肝付氏が島津に服属後は伊集院氏に与えられている。肝付氏は故郷を追われたのだ。肝付氏が島津を見限ったのもそれが一因として有る。中々に堅固な城だ、島津がこの城に籠ったのも分からぬでもない。そしてその曲輪の一つに前内府様の二万の兵が近付きつつある事を稲光が教えてくれた。
「そろそろ始まるな」
囁くような口調だったが不思議と良く聞こえた。風が運んだのか。
「そろそろ始まりましょう」
右馬頭様が頷かれた。稲光で城が見えた。城からはこちらが見えただろう。そしてこちらが攻撃態勢を取っている事、最も近い敵に前内府様の九字の旗が翻っている事も見えた筈だ。目の前に前内府様が居る。その事を島津は如何見たか……。
“うわあー”
喚声が上がった! 風の所為か途切れ途切れに聞こえる。鉄砲の音が聞こえた! この闇の中だ、狙いが付けられたとも思えない、目暗撃ちだろう。城の灯りが増した! 灯りが強くなった。はっきりと城が見える。対応が速いような気がする。こちらの動きを察知したのか? それとも読んだ? いや待て、先程の鉄砲の音はまばらだった、不意を突かれたのだ!
「恵瓊」
右馬頭様が愚僧を呼んだ。視線を向けると僅かに震えている。
「寒うございますか?」
まさかとは思うが怖いのか?
「そうではない。もどかしいのだ、待っているのが」
逸っているのか? 怯えているよりは良い、しかし……。
「今しばらくお待ちください」
「分かっている。だが敵は不意を突かれたぞ、私は戦いたい」
不意を突かれた? この御方は何処まで分かっておいでなのだろう……。
禎兆三年(1583年) 九月中旬 大隅国肝属郡鹿屋村 鹿屋城 朽木基綱
「申し上げまする!」
使番が馬上で声を張り上げた。風で声が途切れるな。
「何事か!」
左兵衛尉が使番に負けじと声を張り上げた。
「肝付三郎四郎様より島津勢は曲輪を放棄、次の曲輪に撤退しつつあるとの事にございまする!」
俺の周囲でどよめきが起こった。一つこじ開けたか。一番外に突き出た曲輪を攻略した。外側にある四つの曲輪の内、左から二つ目の曲輪だ。一番左の曲輪を攻略すれば内側の三つの曲輪に迫れる。
「見事である! 働き、確かに見届けた、そのまま曲輪を守れと三郎四郎に伝えよ!」
「はっ!」
使番が馬に鞭を入れて去ってゆく。あの男、確か秋葉市兵衛だったな。九州遠征が終わったら俺の側で百人程を指揮させよう。生き残れよ、市兵衛。
肝付三郎四郎、必死だな。先陣を願い出てきたが見事なものだ。島津を降したら鹿屋の地は肝付一族に与えよう。その為に連中は命を懸けたのだから。
「不意を突いた様でございますな。島津はこちらが夜襲をかけて来るとは思わなかったようで」
「大軍だからな、無理はせぬと思ったのかもしれん」
俺が左兵衛尉の問いに答えると周囲から曇りの無い笑い声が上がった。良い傾向だ、嵐の中、笑い声が出る。戦況は有利だという事で士気が上がっているのだ。
「もう片方の曲輪だが獲れるかな?」
「さて、如何でございましょう。戦況は悪くないようでございますが……」
「そうだな、道雪。ここからでは見えぬ」
また笑い声が上がった。今度は弱い。そうなんだ、時々光る稲光と使番の報告だけで戦況を把握しなければならない。その所為で今一つはっきりとしたことが分からない。
「しかし声は徐々に遠ざかっております。味方が押しておりましょう」
立花彌七郎だった。左兵衛尉が“ホウ”と声を上げた。
「流石だな、彌七郎。親父二人は偉物だがどちらに似たかな?」
冷やかすと道雪と紹運が照れ臭そうに笑ったようだ。暗くて見えないんだが感じで分かる。彌七郎が誉められて嬉しいらしい。声が遠ざかるという事は兵が前に進んでいる事、押している事だ。逆に声が近付けば押されている、味方は敗勢に有るという事になる。風で途切れてはいるが喚声は遠ざかっている。味方が押しているのは間違いない。
「そろそろ右馬頭と交代すべきかな? 兵を下げるべきだと思うか?」
「……」
俺が問い掛けると皆が沈黙した。不同意か。
「畏れながら、今後退しても島津は喰い付いて来ますまい。余りにも不自然にございます。むしろ今少し押すべきかと思いまする」
「そうだな、そうするか」
紹運の言う通りだ。今は攻める時だ。右馬頭、又兵衛、左門に使番を走らせよう。不意を突いたのだ、獲れるところまで獲ろう。となるとこのまま攻城戦になるかもしれんな。