憎悪と恨み
禎兆三年(1583年) 七月下旬 日向国臼杵郡 松尾村 松尾城 朽木基綱
三好孫七郎、孫八郎の兄弟が下がると重蔵が“厄介な事になりましたな”と言い他の二人の相談役が頷いた。全く同感だ、厄介な事になった。
「大殿、真にあの二人の身が危険と御考えで?」
「分からんな、曽衣。細川掃部頭は父親を三好豊前守に殺された。だが母親はその豊前守の妻になり阿波守長治を生んでいる。同じ兄弟では有っても掃部頭と阿波守では立場はかなり違う」
三人が頷いた。
「父親を殺された事、母親を奪われた事、三好家の中での立場、掃部頭にとっては全てが屈辱であろう。そして細川は三好の下剋上によって没落したのだ。全てを不当に奪われたと恨んでいるのではないかな。となればその恨みは余程に深いと俺は思うぞ」
「なるほど」
「確かに」
また三人が頷いた。
気にいらない、邪魔だと思うのと憎んでいる、恨みに思っているのでは全然違う。細川掃部頭は三好を憎み恨んでいるのだ。その憎悪が三好家の有力者である三好久介、孫七郎、孫八郎に向かっても少しもおかしくは無い。おまけに三好阿波守は短慮で粗暴な男らしい。そういう馬鹿な男がとんでもない事を仕出かしても俺は全然驚かない。六角家を崩壊させたのは敵では無く馬鹿で短慮な六角義治だったのだ。……子供の名前に治の字を付けるのは止めよう。
「厄介事は他にもある。阿波守は国人衆に法華宗への改宗を強要しているらしい。随分と反発が有るようだ」
俺の言葉に三人が顔を顰めた。
「大友が切支丹への傾斜で領内が治まらぬのを知らぬようですな」
「周囲に関心が無いのでござろう」
「だがそれでは生き残れますまい」
その通りだ、生き残れない。そして阿波守はその事に気付いていない。四国が島で周囲に敵が居ない事で鈍くなっているのだ。或いは掃部頭が唆したという事も有り得る。
元々三好家は熱心な法華宗の信者で有名だったようだ。三好長慶の父、三好筑前守元長は一向門徒に殺されたが彼が一向門徒に殺された理由の一つが一向宗と法華宗の宗教対立に有ったらしい。法華宗の庇護者である元長の勢力が大きくなるのを一向宗が好まなかったわけだ。人の心を救うなんて寝言をほざくな、糞坊主が。大事なのは信者獲得とお布施だとはっきり言え! その為なら人を殺す事も厭わないと。
阿波守が宗教問題を引き起こした以上四国では碌でもない騒動に発展するだろう。俺が宗教に政治に介入するなというのはそれも有るのだ。宗教が政治に介入しなければ政治も宗教に介入せずに済む。宗教に介入すると言う事は人の心に介入するという事だ。それでは精神面で抑圧、圧政になりかねない。俺に敵対する一向門徒達は俺を圧政者と見做すだろう。だがやらねば中世は終わらない。俺は自分のやっている事に自信が有る、うんざりだし自慢にならない事だけどな。
「朽木は政と信心は別です。大殿がそのような事を許さぬとは思わぬのでしょうか?」
曽衣が小首を傾げている。
「三好は戦に敗れて和議は結んだが降伏したとは思っていないのだ。阿波守達は俺を主君とは思っていないのだと思う」
「なるほど」
曽衣が頷くと他の二人も頷いた。
おまけにあの時は足利義昭との間で和議を結ぶという形を取った。俺はその仲介をしたに過ぎない。亡くなった豊前守、摂津守も俺の天下は認めたかもしれない。だが俺に服従したという意識はそれほど強くなかった、いや希薄だったのだろう。跡を継いだ阿波守には俺が天下の主で三好はそれに従わなくてはならないという意識は皆無に違いない。
「四国は荒れますな」
宮内少輔がぼそりと言うと皆が視線を交わした。
「荒れるだろうな。足利というのは弱い権力者だった。だから守護大名は将軍を無視して行動する事が出来た。あの連中の意識はその延長上にある。特に四国は島だからな、独立心が旺盛なのだと思う。そうだろう、宮内少輔、曽衣」
俺の問いかけに宮内少輔と曽衣が苦笑しながら頷いた。
三好、上杉、大友、龍造寺。独立意識の強い家は幾つか有る。大友と龍造寺は潰す。必ずだ、絶対に許さん。三好も今回の騒動をきっかけに排除する。細川なんて過去の遺物を担いで騒ぐ連中も纏めて排除だ。四国はそれで整理がつくだろう。問題は上杉だな、竹が嫁いでいるし奈津が嫁いできている。ここは懐柔で服属させよう。時間はかかるし面倒だが已むを得ん。
「西は落ち着いていて東が進まないと思っていたのだが様子が変わって来たな」
俺の言葉に三人が苦笑を漏らした。“真にそのようで”、“不思議ですな”なんて言っている。そうなんだ、不思議なんだ。ちょっとした事で形勢が変わる。天下は落ち着いていないという事だな。
大膳大夫が徳川の忍びを寝返らせた。元は武田の忍びだ、徳川に忠誠心は無い。彼らが徳川に従ったのは徳川が甲斐を押さえたからだ。徳川が甲斐を失った以上、彼らが徳川に忠誠を誓う事は無い。大膳大夫は其処を突いた。簡単に寝返ったようだ。少しずつ成長している、頼もしくなってきた。
「徳川は小田原城に籠っていると聞きましたが」
重蔵が問い掛けてきた。
「うむ、支城は大膳大夫に攻略されるか放棄したようだ。目と耳を失った以上機敏に動けぬ。兵力が少ない以上籠城は已むを得まい」
「何処まで耐えられるか」
「簡単には落ちまい、小田原城は名立たる堅城だ」
「しかし無限には耐えられぬ」
三人の声が明るい。さっきまでとは雲泥の差だな。
長くは耐えられない筈だ。寝返ったのは忍びだけではない、徳川に服属していた水軍衆も寝返った。三崎十人衆と言われる男達らしい。これまでは朽木が箱根の険を越えるのは難しいと見て徳川に付いていたが大膳大夫が支城を落とし小田原城を包囲した事で徳川を見離した、いや寝返っても徳川に報復を受ける事は無いと判断したようだ。
元々三崎十人衆は北条の水軍で織田との戦いの時、俺が援軍に出した朽木の水軍に散々に負けた事が有る。敵わないと見て寝返りのタイミングを見計らっていたのだろう。その時が来たと言う事だ。これで徳川は海も失った。後は籠城して耐えるしかない。だが後詰が無いのだ、勝利の可能性は無い。補給も乏しい。徐々にだが気力が弱まり何のために籠城するのかと疑問に思うだろう。そして何時かは気力が尽きる……。
「島津は主力を日向に集めているようだ。伊賀衆から報告が有った」
俺の言葉に三人が頷いた。千賀地半蔵の奴、夜中にこっそり報告に来るんだからな。やっぱり重蔵の前では遣り辛いのかもしれん。もっとも重蔵の事だから半蔵が来た事は知っていたかもしれない。
「では薩摩は手薄ですな」
曽衣が嬉しそうに言う。島津は日向に兵を集めている。門川城、日知屋城、塩見城、山陰城、田代城、石ノ城……。拠点にもかなり兵を置いているようだ。理由は水軍だ。島津は朽木が日向に上陸すると思っているらしい。以前日向に兵を上陸させると脅した事が効いているようだ。でもこの事は宮内少輔の前では言えない。何と言ってもあの時は宮内少輔を隠居させたからな。嫌な思いをさせる事は無い。
「三位入道の調略を畏れているようだな。大友が日向に攻め込んだ時、かなりの国人衆が寝返ったらしい。兵を日向に集中させる事で国人衆の動揺を抑えようと言うのだろう」
「三位入道様、やりますな」
重蔵が笑いながら言うと宮内少輔と曽衣が声を揃えて笑った。これも事実だ。島津は三位入道の調略は日向上陸の為に行われているのだと考えているらしい。日向が主戦場になると判断しているのだ。島津はこちらの作戦を読み間違った。
面白くない事も有る。島津は肥後方面にはそれほど兵を配置していない。これを如何見るか? 日向方面を重視している事も有るだろうが龍造寺と何処かで組んでいるんじゃないかと思う。はっきりとした取り決めは無くても阿吽の呼吸は有るだろう。兵力が少ないと見て高を括ると後ろから龍造寺が襲うという事だ。それを話すと三人とも危険性は有ると同意した。後で十兵衛に気を付けろと使者を送らなければならん。
「もう間もなく薩摩に上陸する筈だ、そうなれば一気に戦局は動く」
三人が頷いた。薩摩上陸は九鬼孫四郎が指揮を執っている。配下の小浜久太郎景隆が坊津攻略を担当する。本拠地と坊津を奪われれば島津も慌てるだろう。俺が動かない理由が島津勢を日向に引き寄せる事、薩摩を手薄にする事だと判断する筈だ。
兵力の配置を間違えたとなれば島津はその兵力配置を修正しようとする。日向の兵力を使って本拠地奪還へと向かうだろう。日向の国人衆の寝返りを防ぐために国人衆を連れて行く筈だ。残るのは日向北方の松尾城を中心としたこの辺りだろう。つまり日向中部から南部にかけてが手薄な状況になる。その隙を堀内新次郎率いる熊野水軍が突く。其処まで行ったら水軍は引き上げさせよう。そろそろ台風が発生する時期だからな。
禎兆三年(1583年) 八月中旬 尾張国愛知郡 那古野村 木下長秀
城造りの普請場を見ていた人物が溜息を吐いた。後ろから見ていても分かる。相手は故弾正忠様の甥御様、失礼が有ってはならぬ。
「如何なされました、和泉守様」
私が声をかけると津島の有力者、大橋和泉守長将が振り返った。表情には笑みが有る。
「見る度に溜息が出ますな。真、大きい」
「和泉守様、未だ城は出来ておりませぬ。縄張りが済んで城造りはこれからでござる」
「それ故でござるよ、木下殿。出来上がればどのような城になるのかと。想像する度に圧倒されそうになる」
「なるほど」
確かにその気持ちは理解出来る。完成した城を想像するとその巨大さに驚く。そして誇らしくなる。自分が造ったのだと。
普請場は大勢の人に溢れ活気に満ちていた。
「津島の方々には感謝しております。我らが心置きなく城造りに励めるのも津島の協力があればこそ。和泉守様、有難うございまする」
和泉守様が困惑を顔に浮かべながら手を振った。
「いやいや、こちらこそ今回の城造りで潤っております。礼を言わねばなりませぬ」
「大殿からは金に糸目は付けるなと言われておりまする」
「有難い事ですな」
「真に」
和泉守様が頷いている。穏やかな表情だが胸中は如何であろう。津島が今回の城造りで大きな利を得ているのは事実だ。城造りのための物資が続々と津島を通して集まっている。そして尾張は城造りによって嘗てない賑わいを見せている。近隣から職を求めて人が集まりそれを見込んで商売をする人間が集まっているのだ。
それらの人々は城造りが進むにつれ城の巨大さと朽木の勢威に圧倒されて行く。徐々に徐々に尾張において朽木の名が重みを増していく。織田の尾張から朽木の尾張になっていくのだ。その事を和泉守様は如何思っているのか。津島が潤っているからと言って単純には喜べまい……。
「島津攻めも順調なようですな」
穏やかな声だった。
「ほう、報せが入りましたか?」
問い掛けると和泉守様が頷かれた。
「九鬼孫四郎殿から文が届きました。九鬼殿が島津の居城、内城を攻略したそうにござる」
「なんと!」
水軍を使うとは聞いていたが島津の本拠を落としたか。
「そして配下の者が坊津を押さえたとか」
「坊津を」
問い返すと和泉守様が頷かれた。
「坊津は三津七湊の一つ、島津氏にとっては大事な湊にござる。本拠地を奪われ坊津を奪われては兵糧、武器弾薬にも事欠きましょう」
「確かに」
本拠地を奪われたとあっては島津は混乱していよう。兵糧、武器弾薬にも事欠くようになっては戦は出来ぬ。島津は剽悍と言われているが思ったよりも早く戦は終わるかもしれない。この事、皆に報せなければ……、そうか、和泉守様が此処に来たのはそれを報せるためか。
三介様の御振舞い、必ずしも芳しからず。朽木に対する不満を周囲に漏らすと聞く。その事で旧織田家臣には眉を顰める者も多い。特に織田の親族にとっては三介様は頭痛の種だ。自分達も朽木に対して不満を持っているのではないかと疑われかねない。和泉守様は島津攻めが順調である事を喜んでいると皆に知って欲しいのだ。その為にここに来て私と話している。
「良い御話しを伺いました。和泉守様、御好意忝のうございまする。早速丹羽様、兄に伝えまする」
「それが宜しかろう」
和泉守様が笑みを浮かべている。
「この報せ、駿府へも伝えなければなりませぬな。丹羽様、兄から伝えて貰いましょう、皆喜んでくれる筈。和泉守様に感謝しましょう」
「うむ、そうして貰えると有り難い」
笑みが大きくなった。どうやら満足して貰えたようだ。
禎兆三年(1583年) 八月下旬 肥前国杵島郡堤村 須古城 鍋島信生
「島津も大隅に押し込められたか」
「薩摩を取り戻したかったのでしょうが朽木の動きがそれを許しませぬ」
「うむ、流石というべきかの」
上段の間で主君、龍造寺山城守隆信様が脇息に寄り掛かりながら面白くなさそうに頷いた。
「それにしても島津も口ほどにも無いわ」
「……」
「今少しは踏ん張れると思ったのだが……、四国も混乱の兆しが見えているというのに、腹立たしい事よ!」
主が脇息を強く叩いた。大分憤懣が溜まっている。
四国が揺れている。阿波の三好阿波守は人の上に立つ器量ではないようだ。このままなら阿波は、いや四国は必ず混乱する。島津が奮戦し朽木が手古摺るようなら島津に加担するのも悪くないと主は考えていた。九州で朽木に損害を与えれば簡単には再征は出来まい、その間に筑前を攻め取り豊前、豊後を攻め取る。その後は島津との関係を如何するかだが朽木が攻めて来るようなら同盟を、攻めて来ないなら決戦をと考えていたようだ。
だが朽木の動きは島津の意表を突いた。水軍を使って薩摩に兵を送った。島津の居城、内城は海の近くにある。簡単に占拠されたらしい。そして坊津も押さえられた。兵を日向に集中し過ぎたな。日向北部で少しずつ損害を与え南部で決戦とでも考えていたのだろう。耳川の戦いの再現を狙ったか。宗麟と前内府様を一緒にするとは、島津も前内府様を随分と甘く見たものよ。
「こうなると孫四郎、そなたが正しかったの」
「畏れ入りまする」
褒めてはいるが目には猜疑の光が有る。朽木に付くべきだと進言した事で朽木に通じているのではないか、通じようとしているのではないかと疑っているのだ。厄介な事よ、前内府様は龍造寺の心底を疑っているというのに……。
前内府様は肥後方面に来なかった。筑前から日向へと向かった。おそらく龍造寺に背中を見せる事を嫌ったのだろう。肥後方面を攻めた明智軍にも油断は無かった。常に龍造寺に対する抑えの軍勢が用意されていた。筑前にも十分な兵が残されていたのだ。それを考えれば島津に与する事など不可能だ。自殺行為に等しい。阿蘇、相良は明智軍が近付くとあっという間に島津から離れた。南肥後は朽木家の勢力範囲になった。
「大友が豊前、豊後に筑前の半ばか……」
不満そうな口調だ。大友が大領を許された事が面白くないのだ。だがこの件については前内府様もかなり不満を持っていると聞く。
「殿」
「面白くないの」
言葉を続けようとして遮られた。殿か、隠居しても殿と呼ばせる、形だけでも若殿を当主として認めれば良いものをそれさえもせぬ。
「前内府様はその事で大友に対して強い不満をお持ちだとか」
「だが龍造寺が有る限り大友は必要であろう」
「かもしれませぬ。ですが大友には人が居りませぬ。あれは張子の虎で有りましょう。左様に御気になされる事はございますまい」
「……」
顎に力が入った。未だ納得なされぬか。
「それに九州の旗頭は毛利にございます。前内府様は龍造寺の立場を十分に……」
「分かった、その方の言いたい事はな。下がれ」
「はっ」
御前を下がりながら思った。大友は今回の一件で前内府様の不興を買った。そのままで済むとは思えぬ。そして大友が没落すれば龍造寺は孤立する。前内府様にとって龍造寺は不要な家になるのだ。それを考えれば大人しくせざるを得ないのだが……。