遺恨
禎兆三年(1583年) 五月上旬 筑前国夜須郡 千手村 千手城 鍋島信生
前内府様が笑みを浮かべて私を見ている。だが眼は笑っていない。
「ま、そんなに緊張するな、孫四郎。俺が不安に思うではないか」
「これは御無礼を」
いかぬ、緊張を気付かれた。慌てて一礼した。前内府様が声を上げて笑った。落ち着くのだ、孫四郎。前内府様が私を見ている事を忘れてはならぬ。龍造寺家の者達が思っている以上に主、山城守様は危険だと思われている。この事を意識しなくてはならぬ。
「念のために言っただけだ。山城守も一の重臣であるそなたに腹を切らせるような事はせぬさ。そうだろう?」
「畏れ入りまする」
笑みを浮かべているが相変らず眼は笑っていない。前内府様は当主の太郎四郎様の事は一言も口にされぬ。やはり前内府様の目は山城守様に向かっている。いかぬ、顔が引き攣る。落ち着くのだ。
周囲を見た。立花道雪、高橋紹運の姿が見えた。二人はこちらを冷たい目で見ている。それは已むを得ぬ。だが他に左右に控える者達の中にも好意的な表情をしている者は居ない。前内府様だけではないのだ、朽木家が龍造寺家を、山城守様を危険視している。秋月、島津に厳しく当たるのも大友では無く当家が原因かもしれぬ。龍造寺家が両家を利用しようとしていると見ているのだ。そしてそれが危険だと見ている。同時に龍造寺家に対する警告でもあるのだろう。前内府様は朽木を甘く見るなと言っている。
危険だと思った。龍造寺家は危険だ、それ以上に私の身が危険だ。いずれこのままでは山城守様と朽木家の間で板挟みになるだろう。前内府様は笑みを浮かべて私を見ている。背中に寒気が走った。狙われているのは私だ。前内府様は私と山城守様の間が思わしくない事も知っているのだろう。私を絡め取ろうとしている。いかぬ、落ち着け。未だ大事な事を確認していない。
「畏れながら御伺いしたい事がございます」
「何かな?」
「九州征伐後の龍造寺家の扱いにございます」
前内府様が訝しげな表情をした。
「龍造寺家の扱いか、九州征伐後に定めるつもりだが何か望みが有るのかな?」
「いえ、そうではございませぬ。九州の旗頭は大友家になるという噂がございます。龍造寺家は大友家から命を受ける立場になると。それは事実でございましょうか?」
前内府様の表情が厳しくなった。
「孫四郎、それは噂か?」
「……申し訳ありませぬ、立花殿、高橋殿の手前噂と申し上げました。真実は大友家よりそのような内容の書状が参りました。九州征伐後は九州の旗頭は大友になる故、龍造寺家は大友に従うべしと。当家はかつては大友家に臣従しておりました。しかし先年の和議より龍造寺家は大友家と対等の立場になったと考えております。大友家は頼朝公の血を引く名家なれば龍造寺家は下に付けと言われるのは納得が参りませぬ」
前内府様の表情が苦みを帯びた。
「道雪、紹運、その方等は知っていたか?」
責める様な口調では無かった。だが道雪、紹運の二人が面目無さそうな表情をした。
「誓って申し上げまするが存じませぬ」
「面目無き次第にございます」
二人が知らないと言った。表情が苦い、おそらくは本当だろう。
「宗麟も今少しその方等の立場を慮ってくれれば良いものを。それともその方等が取り成してくれるだろうとでも思ったかな」
二人が切なそうな顔をしている。主の宗麟よりも前内府様に気遣われている事が辛いのだろう。大友も振るわぬ筈よ。前内府様がこちらを見た。
「孫四郎、宗麟から大友を九州の旗頭にして欲しいという願いが有ったのは事実だ。それに対しては何も約束はしておらぬ。九州の仕置きは九州征伐が終わってから定める事に成る」
「はっ」
朽木は大友の願いを認めていない! これで最悪は免れる事が出来る。
「龍造寺家の言い分は分かった。何を恐れているのかもな。俺には龍造寺を貶める意図は無い。もっとも朽木の天下を認めるならという条件は付く。認められるか?」
「勿論でございます」
「それならば心配は要らぬ」
「はっ、有難うございまする」
朽木の天下を認めると言った。いや言わされた。これでまた一つ枷を付けられた。だが前内府様は大友に対して必ずしも好意的ではない事も分かった。其処が大事だ。
「他に何か有るかな?」
「いえ、ございませぬ」
「ならば肥前に戻り山城守、太郎四郎に今回の事、確と伝えて欲しい」
「はっ」
「何か困った事が有れば遠慮せずに俺を頼るが良い。何時でも相談に乗るぞ」
「はっ」
前内府様が笑みを浮かべている。何か困った事か、社交辞令では有るまい。おそらく山城守様が妙な事を考えるようであれば報せを送れという事であろう。そうでなければ……。
龍造寺の家中に認識させねばならぬ。朽木家は山城守様を危険視している。いかなる意味でも朽木家を軽視するのは危険だと。重臣達の力を集めて山城守様を抑えなければ。太郎四郎様にも事の次第を御話しして協力を仰がねばなるまい。厄介な事に成った……。
禎兆三年(1583年) 五月中旬 筑前国夜須郡 千手村 千手城 朽木基綱
「秋月修理大夫種実にございまする」
「うむ、朽木家に降伏すると聞いた。相違ないか?」
「相違ございませぬ」
「では新たなる領地は日向で三万石になるがそれも承知だな」
「……はっ」
返事に間が有った。不満そうだな、と思った。
千手城の大広間、重臣達が左右に控える中、目の前に秋月修理大夫種実が居た。体格は決して大きくは無い。だが平服でもがっしりとして鍛え抜かれた身体をしている事が分かった。目鼻立ちも眼光が鋭く眉が跳ね上がっている。意志の強そうな鋭い顔立ちだ。だが眉が幾分細いような気がする。鋭さ、しぶとさは感じるが頼もしさはあまり感じられない。確か歳は俺より一歳上の筈だ。
「不満か、修理大夫」
「いえ、そのような事は」
「隠さずとも良い、不満であろう。だが決定は変えぬ。俺は秋月修理大夫という武将を高く評価しているのだ。秋月に置いておくのは危険だと思っている。だから日向に移す」
修理大夫が困惑している。悪くない、多少は自尊心が癒されるだろう。それに本当の事だからな、胸も痛まない。修理大夫はもごもご言いながら下がった。
北九州制圧、早かったのか遅かったのか、微妙な所だ。千手城は笠木山城が落ちた事を知ると直ぐに開城した。そしてその直後に秋月修理大夫が降伏を申し出てきた。龍造寺から交渉は上手く行かなかったと報せを受けたのだろう。降伏の条件として秋月での所領をと自ら提示してきた。そして人質と楢柴肩衝の茶入れ、国俊の刀を送ってきた。これで勘弁してくれという事だろう。
全部突き返した。阿呆か、茶入れだの名刀だのに何の意味が有る。俺個人が楽しんで終わりだろうが。どれほどの価値が有ろうがそれでは意味が無い。欲しければ自分で買うわ。どうせなら鉄砲二百丁に太刀千振りも持ってくれば良いのだ。朽木の軍備を増強してくれていると評価出来る。米でも良いぞ、兵糧はいくら有っても良いのだ。それなら少しは考えてやれた。周囲も納得したのだ。人質は娘だったがそれも要らん。側室は十分に足りている。俺の望む物を持って来ない以上秋月は日向で三万石だ。
秋月氏の城は全て引き渡される事になっている。修理大夫と主だった家臣達は古処山城で引っ越しの準備だ。但し古処山城には毛利の家臣、熊谷二郎三郎元直が監視役として入る。いや既に入っている。どうも右馬頭と二郎三郎の関係は必ずしも良好ではないらしい。それで留守番を言い付けたようだ。嫌な予感がする、伊賀衆には修理大夫と二郎三郎から目を離すなと命じた。念のためだ、念のため。
「これより益富城に戻る。そこで明智十兵衛率いる別働隊と落ち合う。それ以後は日向方面に転進する。準備に掛かれ」
「はっ」
「道雪と紹運は残れ。ちと相談が有る。相談役も残れ」
皆が立ち上がり部屋を出て行く。黒野重蔵、長宗我部宮内少輔、飛鳥井曽衣、道雪、紹運が残った。近くに寄る様にと言うと相談役三人は素直に従ったが残りの二人は困惑を浮かべながら近付いたが二間程の所で止まった。
「もそっと寄れ、遠慮は要らん」
二人が顔を見合わせている。この二人は陪臣だ、その所為で会議の場ではいつも末席に居る。遠慮は要らんと言われても中々近付けないようだ。
「もそっと寄れ!」
強い口調で言うとようやく一間程迄近付いた。もう少し、手招きすると更に一尺程寄って来た。容易じゃないな、まるでデカい魚を引き寄せているみたいだ。そう思うと可笑しかった。相談役三人も笑みを浮かべている。立花道雪と高橋紹運、確かにデカい魚だわ。引きも強い。
「その方達、俺の直臣になれ」
二人がまた顔を見合わせた。
「畏れながら我等は……」
「分かっている。その方等の家は大友家に代々仕えてきた、主家を捨てるが如き行為は取れぬと言うのであろう、道雪」
「はっ」
二人が頭を下げた。
「分かった上で言うぞ。もう大友への忠義は十分に尽くしたであろう。これ以後は俺の為に、いや天下の為に働け」
「天下の為……」
紹運が呟いた。道雪は眉を寄せている。俺の言葉を口説き文句とでも取ったのだろう。
「得心が行かぬか。まあ、俺の話を聞け」
「はっ」
二人が頷いた。
「その方等の前だが大友は駄目だ。あれ程までに反乱が起きる、収拾がつかぬというのは宗麟には国を纏める力が無いのだとしか思えぬ。酷なようだが大友に任せられるのは豊後一国だ。それも譲歩してだ。本当なら半国でも良いがその方等が納得するまい。そう思ったから豊後一国だ。その他に豊前、筑前、日向、そのいずれを与えても混乱するだけだろう。碌な事にはならぬ」
二人は悲痛な顔をしたが抗弁はしなかった。二人から見ても宗麟には統治者として欠点が有るのだろう。一度は北九州に覇を唱えた事を考えれば力量が落ちたか。
「しかしな、豊後一国ではその方等を抱えられまい。その方等は大き過ぎる、豊後一国の中で召し抱えればその分だけ大友は小さくなる。宗麟がそれを許すと思うか? 何かにつけてその方等の力を削ごうとするだろう。それでは今までの忠義が無駄になるぞ」
「……」
俺の言葉に相談役の三人が頷いた。大名にとって大き過ぎる家臣など邪魔なだけだ。何かにつけて勢力を削ごうとするだろう。尼子における新宮党処分、毛利における井上一族処分、血生臭い粛清が起きた。史実における観音寺騒動の原因となった後藤但馬もその一例だろう。
「それに今回大友は小細工をした」
「……」
皆無言だ、俺が何を言っているか分かったのだろう。
「例の九州の旗頭の件だがな、俺は最初大友が龍造寺の上に立とうとしての事だと思っていた。だが先日鍋島孫四郎と話をして宗麟には別な意図が有ったのではないかと疑っている」
“分かるか”と問うと四人が訝しげな表情を見せ一人だけが無表情だった。朽木の天下取りの裏を見てきた男だ、察したらしい。流石だな、重蔵。
「重蔵、その方も疑っているか?」
重蔵が軽く頭を下げた。
「はっ、疑っておりまする。おそらくは大殿と同じ疑いではないかと」
“皆に話せ”と言うと“されば”と答えて話し出した。
「宗麟公が真に大友家を九州の旗頭にと御考えなら此処に居られる道雪殿、紹運殿を使って大殿に働きかけをさせましょう。然るにそれが有りませぬ、訝しい事でございます」
四人が頷いた。
「次に何故それを今龍造寺家に伝えるのか? 龍造寺家が大友家が九州の旗頭になるのを嫌い島津攻めに積極的に関わるなら九州の旗頭は大友ではなく龍造寺にという事になりかねませぬ。真、九州の旗頭になる事を望むのであれば九州遠征が終了するまでそのような事は言いませぬ」
“なるほど”、“確かに”という声が聞こえた。
「そこから先は俺が言おう。宗麟は龍造寺家が暴発する事を望んだのだ」
シンとした。宮内少輔と曽衣は顔を見合わせている。道雪と紹運は蒼白だ。胆力に優れた二人だが予想外の事だったのだろう。
「島津が健在で秋月が余力のある時、その時を選んで龍造寺家に九州遠征後は大友に従えと言ったのだ。豊前、豊後は元より筑前、筑後、肥前、肥後を大友の領地とする、大友は頼朝公の血を引く名門、いずれも龍造寺にとっては侮辱でしかあるまい」
「では宗麟公の狙いは龍造寺を暴発させ我等に潰させる事……」
「そうだ、宮内少輔。秋月、島津に加えて龍造寺を潰させる。そうなれば九州の旗頭は大友になる。俺に約束させるより確実だな」
“なんと”と曽衣が呻いた。
「宗麟は長年龍造寺山城守と向き合ってきた。あの男が大きな野心を持った男だと分かっているのだ。そして自尊心も強いとな。だからその自尊心を突いて暴発させようとした、俺はそう見ている。重蔵もそうではないか」
「はっ」
重蔵が頭を下げた。
「道雪殿、紹運殿」
曽衣が低い声で話しかけると二人が我に返ったように姿勢を正した。
「短い期間では有るが貴殿達がどのような御方かは分かったつもりだ。おそらく、今の事には関わりは有るまい。だが如何であろう、宗麟公は今の大殿が申された事を考えたと思われるか?」
二人の顔が歪んだ。
「曽衣よ、それ以上は許してやれ。二人には答えられまい」
曽衣が頭を下げた。道雪と紹運の二人は益々苦しげだ。辛いのだろうな。
「おそらく龍造寺の家中ではかなり強い争いが有ったのではないかと思う。当然だが山城守は兵を挙げたがったであろう。今回の遠征でも鍋島に止められてこちらに味方したと聞いている。混乱しただろうな、それ故先ずは真実を突きとめようとなったのだと思う。鍋島が俺を訪ねて来たのは秋月の為ではない、その辺りを見極めるためだ」
「では?」
宮内少輔が問い掛けてきたので頷いた。
「俺が大友に好意的ではないと理解した筈だ。大友が九州の旗頭になる事も無いと判断しただろう。おそらくそれを以って山城守を説得するだろうな」
皆が頷いた。鍋島孫四郎はホッとしただろうが同時に重荷を背負わされたとも思っているだろう。これから先は俺と山城守のどちらを取るかという判断を迫られる事になる。知恵と勇気も有るが大気は無い、おそらくは博奕は出来ない。そういう男なら俺に付くだろう。
「十中八までは龍造寺は動かぬ。だが用心は必要だ。十兵衛にはその辺りも伝えねばなるまい」
「左様ですな」
重蔵の言葉に皆が同意した。
「だがこれで大友と龍造寺の遺恨は以前にも増して強まった。何か有れば衝突するだろう。九州は火種を抱え不安定なままという事になる。おそらくもう一度遠征が必要になるだろう」
皆、渋い表情をしている。俺もだろうな、今回の九州遠征は中途半端だ。いっそ龍造寺を暴発させた方が良かったか? いや、敵は分断して叩くのが常道だ。龍造寺は敵なのだ。今回は秋月と島津を叩く。次が龍造寺だ。
「道雪、紹運。分かるな、俺には九州に信頼出来る味方が必要だ。それをお主達に頼みたい」
「……」
苦しそうな表情をしている。
「筑前の秋月領は三十万石程有る筈だ。その方達二人に朽木からも人を出して別け与える。豊前は半国を毛利に、残り半国を朽木の譜代に与えるつもりだ。筑前、豊前を確保しなければ再遠征は簡単には行かぬ。そして筑前を失えば豊前の毛利が如何動くかも判断が付かぬ」
「毛利が朽木を裏切りましょうか?」
曽衣が首を傾げた。
「安宅摂津守が死んだ」
皆が息を飲んだ。ついさっき届いた報せだ。厄介な事になった。
「三好は混乱するだろう。三好の混乱は瀬戸内にも影響する。俺は先ず四国に渡り三好の混乱を鎮めなければならぬ。それを毛利が如何見るか」
「大殿は毛利が好機と見ると御考えで?」
宮内少輔が訊ねて来た。
「分からぬ。直ぐには動くまい。だが龍造寺が大きくなれば、四国で俺が苦戦すればどうなるかは分からぬ。十中八までは大丈夫だと思う。だが残りの二は……」
皆がそれぞれの表情で頷いている。
「最悪なのは三好の混乱が土佐にまで及ぶ事だ。そうなれば琉球への交易が途絶えかねん。それに合わせて龍造寺が南下すれば琉球との交易は龍造寺が独占する事になる。軍資金に苦労する事は無かろう。そこまで行けば毛利が動くか否かは五分五分だろう」
そして朽木は砂糖を失う。北との交易にも影響が出るのは間違いない。宮内少輔と曽衣が頷いている。二人とも土佐の事は良く分かっている。俺の危惧が有りうる事だと思ったのだろう。
「道雪、紹運、お主らが大友家の中に居ても大友のためにはならぬぞ。むしろ俺の直臣になり筑前に居た方が大友を助ける事が出来るかもしれん。龍造寺にとってお主らが筑前に居る事は何よりも嫌な筈だ。そして宗麟とて俺が何を考えてお主らを筑前に置いたかは直ぐに分かるだろう。不忠とは言うまい。それでも受け入れられぬか? 俺を助けてはくれぬか?」
道雪と紹運が顔を見合わせ頷いた。
「前内府様に従いまする」
「朽木家の家臣になりまする」
「うむ、頼むぞ」
これで良い、なんとか北九州に橋頭保を確保出来る。後は島津を如何叩くかだ。圧倒的に勝つ、それが出来れば龍造寺が動いても積極的に味方する人間は居ない筈だ。その分だけ混乱は広がらずに済むだろう。