首輪
禎兆三年(1583年) 四月下旬 筑前国嘉麻郡 中益村 益富城 北条氏基
今度は平井隊が南の出城に攻め込んでいる。鉄砲の音、喚声が響く。凄い、小田原城で籠城していた時とはまるで違う。これが戦なんだ。
「敵も必死だな、北の出城から援軍を出そうとしているようだ」
「中の出城を奪われた以上、南の出城を奪われては志祇池は完全に使えなくなりましょう。水が無くては戦えませぬ」
大殿と毛利の小早川左衛門佐様が話している。そうか、あの三つの出城を攻撃しているのは中の出城と南の出城の傍に有る志祇池を奪う為、水の手を切る為か。あの三つの出城が他の出城に比べて孤立しているからだけでは無いのだ。水の手を奪えば敵の士気は一気に落ちるに違いない。北の出城から兵が出て来た! でも鉄砲の攻撃に損害を出している。あ、中の出城の日置隊も攻撃を始めた。北の出城を出た敵は身動きが取れない。損害だけが増えている。これでは救援は無理だ。
「駄目だな、あれでは鉄砲の餌食だ。それに左門も目の前を敵兵が動くのを見逃す事は無い。北の出城は徒に兵を失うだけだ」
「それが前内府様の狙いでございましょう。それゆえ中の出城から落としたのではございませぬか?」
今度は吉川駿河守様だ。猛将と謳われる吉川様と大殿が話している。凄い、興奮する。
「まあそうだ。落とし易いのは南の出城だろう。だがあれを落とせば北の出城と中の出城が必死になるのは見えている。あの二つの出城が協力すれば落とし辛くなる、水の手も切れぬ。だから意表を突いて中の出城から落とした。胴体を失った鳥の翼と同じだな。翼だけがバタバタと動いている。だが飛ぶ事は出来ぬ」
なるほどと思った。一番落とし辛い真ん中の出城を攻め獲ったのはそれが理由か。
「北も南ももう保ちませぬな」
安国寺恵瓊殿の言葉に大殿が頷かれた。
「そうだな。南の出城は北から援軍が来ると思っただろうがあの有様だ。がっかりしただろう。劣勢の中で士気が挫ければ如何にもならん。もう直ぐ降伏する筈だ。そして北はあの有様だ、損害が多過ぎる。南が降伏すれば気力が切れるだろう」
そうか、士気、気力か。大事だっていうのは分かっていたけど実際の戦で聞くと実感する。
「あの三つの出城が落ちれば敵も動揺しましょう。尾根伝いに進めば途中出城が一つ有りますが二の丸へと辿り着きます。そして益富城のもう一つの水の手でもある水曲輪にも辿り着く。二の丸、本丸を攻めずとも水曲輪を押さえれば敵は降伏致しましょう」
戸次道雪殿の言葉に皆が頷いた。
半刻と掛からずに南の出城が降伏し北の出城も降伏した。大殿が兵を尾根伝いに送ろうとすると敵の城将、秋月宗全が降伏を申し出てきた。凄いなあ、道雪殿の言う通りになった。何かさっきから感心してばかりだ。落ち込むなあ、私は半人前だ。初陣だから仕方が無いのかもしれないけど自分の未熟さばかり思い知らされる。
大殿が降伏した秋月宗全と対面した。主君の秋月修理大夫の下に戻り降伏を促す様にと言っている。“今なら日向で三万石を与えるが古処山城で籠城するなら秋月家は潰す”。宗全は蒼白になりながら修理大夫の下に行った。その後で笠木山城の朽木主税様に益富城が落ちた事を報せる使者を送った。
多分主税様はその事を笠木山城の敵に報せるのだろう。援軍は来ない、籠城は意味が無いと相手も理解する筈だ。降伏するだろうか? 降伏すれば修理大夫の気持ちも降伏へと傾くかもしれない。まだ早いけど今日は此処で休むと決めたようだ。そして明日、千手城に向かうのだろう。敵の本拠地、古処山城までもう少しだ。
禎兆三年(1583年) 四月下旬 筑前国夜須郡 千手村 千手城 朽木基綱
千手城か、この城も結構堅固だな。ちょっと、いやかなり厄介だ。直ぐには攻めない。皆には包囲するだけで良いと言って有る。朽木勢はその命に従い千手城を包囲して警戒体制を執っている。千手城の敵は自分達を攻めあぐねているとは思わないだろう。益富城は一日で落ちたのだ。秋月方にとっては衝撃だったに違いない。
笠木山城は如何なるかな。主税の率いる兵に包囲され孤立している。いくら堅固な城に籠っているとはいえ城兵達にとっては心細い事だろう。そして益富城があっという間に攻略された、にも拘らず秋月修理大夫は動かない、その事に不安を感じている筈だ。自分達はどうなるのか、笠木山城は不安と孤立感を強めている。降伏という事も有るだろうな。
笠木山城が降伏すればそれを千手城に伝える。そして降伏を勧告しよう。降伏すれば良し、降伏しなければ攻撃する。今焦って攻撃する事は無い。城攻めは城の攻略よりも城兵の心を攻略した方が効果は大きいのだ。朽木は益富城を落とす事で武威を示した。ならばそれを十分に活用する事だ。犠牲も少なくて済む。
その辺りの事は皆が理解している。御蔭で朽木の本陣には戦場とは思えない長閑な空気が漂っている。もっとも目と耳を働かせる事は忘れていない。伊賀衆からの報告では秋月修理大夫は龍造寺に必死に働きかけているようだ。龍造寺には島津からも使者が来ているらしい。おそらく秋月、龍造寺、島津による朽木包囲網を作ろうというのだろうな。
残念だが秋月、島津の工作は余り上手く行っていない。龍造寺は包囲網に参加する事よりも筑後平定を優先させた。この辺りは朽木から指示を出している、筑後は切り取り次第と。もっとも龍造寺は筑前の秋月領には手を出していないから決定的に関係を悪化させようという意思は無いのだろう。
やはり龍造寺は野心を捨てていない。こちらの様子を窺っているのだ。弱みを見せればすかさず付け込んでくるだろう。肥後方面は明智十兵衛が総大将になる。状況は報せている。十兵衛も状況を楽観視してはいない。油断は禁物だと返事が有った。
十兵衛は今豊後の反大友勢力を攻略している。豊前でかなり手厳しくやったからな、豊後の反大友勢力は余り抵抗せずに降伏しているようだ。これには大友宗麟の態度も影響している。反大友勢力の中には家を保つために已むを得ず島津に付いた者も居る。その連中は当然だが大友に戻りたがった。だが宗麟がそれを認めなかった。
宗麟にとってはその連中は裏切者でしかないのだろう。惨めな想いをした事が宗麟の心を頑なにしているのかもしれない。或いは連中を赦せば宗麟の権威が低下するとでも思ったか。どちらも有りそうだな。戻れない以上家を残すためには朽木に降伏するしかなかった。豊後からは去る事になるが家は残す事が出来る。厳しい選択だ。だがこちらとしても国人衆と土地を切り離せるのは悪くない。
宗麟は随分と不満を持っているらしい。大友に反旗を翻した者を朽木が許している。これでは大友の権威はガタ落ちだと十兵衛に苦情を言ったようだ。十兵衛は不満が有るなら俺に言えと言った。要するにこれは朽木家の方針だと言ったわけだ。そう言えば大人しくなると十兵衛は思ったのだろう。だが思惑は外れた。宗麟から苦情の書状が俺に届いた。
面倒臭い奴だ、そんな事を言うなら自分で反乱を鎮圧しろと言いたい。出来ないからこうなっているんじゃないか。書状には領地の事に付いても書かれていた。豊後の他に豊前、筑前、筑後、肥前、肥後を大友の領地として認めて貰いたいそうだ。書状の末尾には大友氏は清和源氏の末流、頼朝公の流れを引く者なればと書いて有った。書状を読んだ時には眼が点になったわ。頭の中が一瞬だが真っ白になった。脳味噌が全てを拒否したな。
本気ではないだろう。もし本気なら気が狂ったのだと思う。宗麟の狙いは九州の旗頭は大友であり龍造寺は大友の下にあるべき存在だと言いたいのだと思う。宗麟は日向、薩摩、大隅に付いては何も言ってはいない。つまり島津は潰れると見ているのだ。だから除外しているのだと思う。宗麟は戦後を見据えて動き出した。
宗麟自身は領地は豊後、豊前の二ヵ国ぐらいと判断しているのだろう。その上で大友が龍造寺の上に立つ事を考えて動いているのだと思う。反乱の鎮圧の仕方について文句を言っているのも交渉の材料にしている可能性が有る。大友の面子を潰すな、反乱の鎮圧では譲るから大友を龍造寺の上にしろというわけだ、よな?
そしてそれを補強するために頼朝公の流れを引く者なんて言っているのだと思う。大友は龍造寺のような成り上がりとは違う。名門中の名門なんだから九州の旗頭でも可笑しくないよね、国人衆の扱いは譲るから認めてよねという事だろう。
しかし頼朝公の流れを引く者か。そんなものに頼って如何するんだと言いたい。大友氏が頼朝の落胤の末裔だと称しているのは知っているが嘘だというのが現代での歴史家達の判断の筈だ。島津も頼朝の落胤の末裔だと称しているがこれも現代では嘘だという意見が強い。
正妻の政子が焼き餅焼きで妾の産んだ子を地方に落としたと言うんだろう。頼朝は名門の御曹司で女好き、政子は田舎の中小企業の娘で焼き餅焼き。御落胤伝説を創り易い夫婦ではある。政子も災難だよな、自分の焼き餅が原因で落胤伝説が作られるんだから。今頃あの世で“ちょっと酷いんじゃないの”とか言っているかもしれない。自業自得だ、怒りに任せて妾の家を打ち壊したりするからだ。伊豆で育ったのに小魚を骨ごと喰わなかったんだろう。カルシウムが足りなかったのだな。
宗麟には九州の仕置きは島津制圧後に定めると返事を送った。宗麟の願いは受け入れられない。唯でさえ龍造寺は不安定要因なのだ。宗麟の言い分を認めれば間違いなく龍造寺は反朽木で動くだろう。誰もが龍造寺の行動を当然だと思う筈だ。現時点で大友を九州の旗頭にするなどまともな判断ではない。龍造寺に同情が集まりかねない。下策だ。
まあ宗麟も上手く行かないとは感じているだろう。上手く行くなら返事もそれなりの物になるが俺が返した返事はそっけない物だからな。大友が豊後一国で納得するかどうか。期待薄だな。だが認める事は出来ない。……厄介だな。九州には不満を持つ大友と野心を持つ龍造寺の二大勢力が存在する事になる。眼は離せないという事だな。
禎兆三年(1583年) 五月上旬 筑前国夜須郡 千手村 千手城 朽木基綱
「龍造寺太郎四郎政家が家臣、鍋島孫四郎信生にございまする。笠木山城、千手城を攻略されました事、真におめでとうございまする」
千手城の大広間で鍋島孫四郎が頭を下げた。
「うむ、祝ってくれるとは嬉しい事だ。それで、龍造寺家の一の重臣であるその方が来るとは何用かな?」
四月の末、主税が包囲していた笠木山城が降伏した。益富城が落ちた事で気落ちしたらしい。主税の説得も良かったようだ。そして一昨日、千手城が降伏した。笠木山城が降伏した事で降伏し易くなったのだろう。この後は針目城へと向かう事になる。針目城を攻略すれば次は秋月の本拠である古処山城が攻略対象だ。対秋月戦も終盤に入って来た。
そう思っている時に鍋島孫四郎がやってきた。多分後年の鍋島直茂だろうと思う。この男、秀吉に天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りないと評された男だ。最終的に龍造寺家を乗っ取って肥前一国、四十万石程の領地を許された事を考えると秀吉は国一つぐらいは扱える男だと判断したらしい。陣の中、朽木の鎧姿の重臣達に囲まれているが平服姿の孫四郎は落ち着いている。流石だな。
龍造寺太郎四郎の家臣と言ったが龍造寺家の実権は隠居した父親の龍造寺山城守隆信、肥前の熊と呼ばれる男が握っている。孫四郎を此処へ寄越したのは当然だが父親の隠居の方だろう。目の前の男は俺に一の重臣と言われて嬉しそうな表情をしたが隠居の龍造寺山城守からは疎まれ気味だという事も分かっている。
「実は当家に秋月修理大夫様より使者が参っております」
「ほう」
「前内府様への取り成しを頼みたいと」
「今更か?」
俺が冷やかすと重臣達の間から笑い声が上がった。
「修理大夫様は大友には含む所は有れど前内府様にはそのようなものは無し、その武勇には敬服していると申されております。このような事になって困惑していると」
神妙な表情だ。信じてしまいそうだ、良い代理人だな。現代でなら職業は弁護士が適職だろう。
秋月修理大夫は大友宗麟に父親を殺され一度は家を滅ぼされた。宗麟に対して含む所が有るのは事実だろう。だがこの件で大友を一方的に悪者扱いするのはちょっと無理が有ると思う。修理大夫の祖父は大友氏に仕えていたが自立を図って大内氏に近付いた。その為大友氏の怒りを買って攻撃を受けたという前科が有るのだ。修理大夫の祖父は大内氏の仲介で大友氏に降伏した。大内氏の仲介が有ったという事は秋月氏の自立には大内氏も何らかの形で関わっていたのだろう。
その所為かもしれないが修理大夫の父親、秋月中務大輔の頃には秋月氏は大内氏に服属している。大友氏と大内氏は北九州で争ったが秋月氏は両者の和睦に携わり功績が有ったようだ。大内ではかなり優遇されたらしい。だが陶晴賢の謀反で大内氏が没落すると大友氏に服属した。そして毛利が台頭すると元就の調略に応じて大友を裏切った。宗麟から見れば秋月氏は信用出来ない裏切者でしかない。これでは潰されても仕方が無いだろう。俺が宗麟の立場でも秋月は潰すだろう。
「俺の方が御し易いとでも思ったかな」
「左様な事は」
「首輪の紐は長い方が動き易いからな。俺なら畿内だ、今までの誰よりも紐は長い」
孫四郎が神妙にしている。内心では腹を抱えて笑っているだろうな。
秋月の離反を検証すると面白い事に気付く。秋月は必ず大友を裏切って中国地方の勢力に付いている事だ。普通ならすぐ傍にいる大勢力に服属する事で安全を図る。だが秋月はそれをしない。何故か? 要するに秋月は自由にやりたい、大きくなりたいという意思が強いのだと思う。傍に居る大友では監視が厳しく遣り辛くて仕方が無い。だから中国の大内、毛利と結んだのだと思う。大友もその辺りの事は気付いていた筈だ、それも有って秋月には厳しい対応をしたのだろう。
「それで、修理大夫は何と言っているのだ?」
「はっ、以後は前内府様に従うと申されております。それ故秋月で所領を頂きたいと。石高は前内府様の御沙汰に従うと」
上目使いで俺を窺っている。俺の反応を確かめているのだろう、器量も。それが孫四郎の仕事だとは分かっているが不愉快だった。
「日向で三万石だ。それ以外は認めぬ。あくまで秋月の地に拘るのなら潰すしかない」
「秋月での御沙汰はなりませぬか?」
「ならぬ。俺を甘く見るな、孫四郎」
孫四郎が視線を伏せた。手強いと見たかな。しかし許す事は出来ない。修理大夫が秋月の地に拘るのは秋月なら一旦事が起きれば復権が可能だと見ているからだ。一度滅んだ秋月氏が復活した事を忘れてはいけない。強い地縁を持った国人領主は極めて厄介な存在なのだ。
「次は島津の取り成しか?」
「そのような事は」
否定したが重臣達の間から低い笑い声が上がった。居心地が悪そうだな、孫四郎。
「島津からも龍造寺に使者が来ているそうではないか」
「……」
「俺に秋月と島津を叩かせ適当な所で仲裁に入って恩を売るつもりか? 秋月と島津を龍造寺の下に置こうと考えているなら無駄だぞ」
表情が動いた。図星か。
「畏れながら、それは誤解にございます。秋月、島津からは何度か共に戦おうという使者が参った事は事実でございます。なれど龍造寺家はそれに与するつもりはございませぬ」
「そうか、誤解か」
「はい、誤解にございます。龍造寺家は前内府様に異心はございませぬ」
きっぱりと言い切った。うん、見事だ。
「その言葉、覚えておこう。龍造寺家の一の重臣が俺に龍造寺家の潔白を誓ったとな」
「はっ」
「鍋島孫四郎、その方が腹を切る事が無い様に忠告しておく。龍造寺の隠居殿が俺に誤解されるような行動をせぬように気を付ける事だ。隠居の火遊び等という言い訳は俺には通用せぬと思え。忘れるなよ、その方が俺に龍造寺家の潔白を誓った事を」
「はっ」
孫四郎の顔が強張った。当然だな、肥前の熊が馬鹿な真似をすれば自分が責めを負う事に成るのだ。
龍造寺山城守隆信が動くと決心すれば鍋島孫四郎が幾ら止めても無駄だろう。鍋島孫四郎に止められるとは期待していない。忠告は無意味なものになる。だが両者の間の溝が深まれば意味は有る。孫四郎は腹を切りたくないと思えば俺に繋がらざるを得ない。自分は必死に止めたのだが敵わなかったと訴えるしかないのだ。つまり首輪を付けた、今後の主人は俺という事だ。龍造寺山城守隆信の動向は鍋島孫四郎から分かるだろう。