比治山城にて
禎兆三年(1583年) 二月下旬 安芸国佐東郡 比治村 比治山城 小早川隆景
比治山城に前内府、朽木基綱様が到着された。安芸には既に畿内、山陽、山陰の朽木領より十二万を越える大軍が集結している。これに毛利が加われば軍勢は十三万を越える大軍になるだろう。これから最後の軍議が開かれる。私と兄、右馬頭も此処に呼ばれた。比治山城の大広間は前内府様を待つ武将達で溢れている。
比治山城か。……父元就もこの比治山を重視し城を築く事を考えていた。だが戦乱の忙しさと費用の問題で毛利家がこの地に城を築く事は無かった。そして朽木との和睦の後、明智が城を築いた。比治山城、朽木家の重臣明智十兵衛の築いた城。今では山陽道を押さえ商人達が集まり栄えている。いずれ山陽道でも屈指の町になるだろう。
負けたな、と思った。毛利はこの比治山に城を築けなかった。乱世である事を理由に吉田郡山城という堅城に籠ってしまった。だが朽木は乱世にも拘らず近江の今浜に城を築いた。今浜は繁栄し東近江最大の湊町になっている。毛利は負けた。だがそれは戦では無く国を治めるという勝負で負けたのだと今なら分かる。高松城を水攻めにした銭は領国を富ませる事で得た銭なのだ。
そして今朽木は尾張に城を築き始めた。尾張は東海道の要衝の地、そこを押さえるために城を築いている。だが藤四郎元総、次郎五郎経信からの書状によれば真の狙いは城を築く事で尾張に銭を落とし尾張の民の心を織田から朽木へと変えさせようという事らしい。尾張の城は八幡城を越える規模の城、天下無双の城になるだろうと二人の書状には書いて有った。当然だが町も大きな町になるのだろう。朽木の造った城と朽木の造った町だ。完成すれば尾張は織田から朽木の尾張になる。
織田の一族、織田の旧臣達からは大きな不満は出ていないらしい。何と言っても前内府様によって粛清された者は居ないのだ。朽木はその殆どをそのまま召し抱えた。そして嫡男の大膳大夫を僅かな家臣と共に駿府に送った。織田の旧臣達を大膳大夫に預けたというべきか、それとも織田の旧臣達に嫡男を預けたというべきか。家督を譲った事よりも嫡男を新参者の中に放り出すかのような行動に驚いた。
藤四郎によれば突然の事であったらしい。何の前触れもなく突然家督と東海道五か国を譲られた。そして徳川を倒し関東へ攻め込めと命じられた。自分に頼らず一人でやってみよと。厳しい、と思う。毛利はそうでは無かった。右馬頭を父が、私と兄が常に支え育てようとした。毛利の家臣を側に置き守ろうとした。
右馬頭が何処かで優柔不断なのは、決断出来ずに我等を頼るのはその所為かもしれぬ。我らが過保護に育て過ぎたのか……。聞くところによれば前内府様は徳川攻めで失敗し、泣いて詫びる大膳大夫に対して泣く暇が有ったら考えろ、動け、それが大将であろうと怒鳴りつけて駿府へ追い返したとか。
嫡男であろうと関東攻略を任せた以上、懈怠、甘えは許さぬという事なのであろう。それは織田の旧臣達に対する叱責でもある。信頼して嫡男を預けた以上、成果を出せという事の筈。今朽木家で一番危機感を持っているのは他でもない、織田の旧臣達であろう。
最新の藤四郎、次郎五郎からの文によれば大膳大夫は湯坂城を攻略した。悪天候の中、雪中行軍をして敵の不意を突いて城を落としたのだという。当然だが味方にも犠牲は少なくなかった。死に物狂いで勝ち取った勝利なのだ。我等も九州攻めでは懈怠は許されぬ。兄、そして右馬頭も肝に銘じて戦わねばならぬと言っている。
前内府様が現れた。南蛮鎧を身に着け陣羽織を羽織っている、兜は付けていなかった。皆が平伏して出迎える。足音と鎧の音がする。速い、あっという間に通り過ぎて行った。噂通りだ、威儀を正し重々しくゆっくり歩く等という事はしないらしい。前内府と呼ばれるようになっても変わらないという事か。亡くなられた義昭公を思い出した、何かにつけてもったいぶる男だった。義昭公が威儀を正している間に前内府様は動いていた。足利が滅ぶのも宜なるかなだな。それを担いだ我らが負けるのも道理だ。
「皆、面を上げよ」
頭を上げた。改めて前内府様を見た。表情が厳しい、九州攻めを楽観はしていないのだと思った。
「軍議を始める、主税」
“はっ”と返事をして一人の男が畏まった。朽木主税か、朽木一族で軍略方に任じられ前内府様の信頼も厚いと聞く。
「九州において明確に朽木に敵対しているのは島津、そして秋月にござる。龍造寺はこちらに付き申した。但し、戦局次第では敵になる可能性も有ると軍略方では判断しております。されば九州攻めでは龍造寺のふぐりを掴む事が肝要と軍略方では判断しておりまする」
大広間に笑い声が上がった。兄、右馬頭も笑っている。ふぐりを掴むとは上手い事を言うものよ。
「先ず豊前を押さえまする。豊前を押さえる事で秋月の動きを止める。そして軍を二手に分け一軍を持って豊後に進ませ豊後を押さえる。残りの一軍を持って筑前へ侵攻、秋月を攻める。秋月を降し九州北部を制圧する」
朽木主税が言葉を切り大広間を見渡した。誰も言葉を挟まない。先ず九州北部を安定させる。誰が考えても同じだろう。豊前を押さえれば豊後に攻め込んだ秋月は背後を遮断されるのを恐れて豊後から兵を退く筈だ。上手く行けば筑前に退くところを攻撃出来るかもしれない。
「正直に申し上げる。豊前、豊後を押さえるにあたっては秋月は厄介な敵ではござらぬ。筑前に攻め込む姿勢を見せれば兵を退きましょう。問題は豊前、豊後で大友に反旗を翻した国人衆にござる。彼らには逃げ場がない、死に物狂いで抵抗しかねない」
「如何なされるおつもりか?」
見慣れぬ武将が問いを発した。
「先ず降伏を促す。条件は降伏すれば朽木家の家臣として扱う事を約束する。領地に付いては九州攻めの後、新たに宛がうものとする。降伏を受け入れぬ場合は潰す」
彼方此方で頷く姿が有った。大友の家臣ではなくす、大友の領地からは外すという事か。同時にこれまでの土地との結び付きを断ち切ろうというのであろう。国人領主の厄介な所は地元と結び付いた強固な地縁だ。
上手いやり方だ。反逆を起こした者共も滅びるのは望むまい。大友の配下に戻るのも望まぬ筈。大友の家臣では無く朽木の直臣になるとなれば立場としては大友と同格、彼らの自尊心を擽ろう。ふむ、大友が如何考えているかは知らぬが大友に許される領地は少ないな。不満に思っても何も出来まい、国人衆が大友から去ってしまえば兵が集まらぬ。
「筑前の秋月はこれを徹底的に叩く。それによって龍造寺を威圧する。諸将にはそのように御考え頂きたい」
秋月か、我等毛利とも浅からぬ因縁が有る男だ。しぶとい男では有るが此度ばかりはどうにもなるまい。秋月は龍造寺への恫喝として潰される事になる。容赦はない筈だ。
「北九州を制圧後は一手を持って日向方面を、一手を持って肥後方面を攻略する事になります。なお、詳しくは言えませぬが水軍を使って薩摩、日向への攻撃も考えております。島津は厄介な相手では有りますが油断せずに戦えば負ける事は有りませぬ」
藤四郎からの文によれば薩摩、日向に兵を上陸させる事で島津を混乱させようという事らしい。水軍が上陸させる兵だけで二万を越える。島津が日向、肥後方面に兵を集中させれば薩摩はがら空き、とんでもない混乱が生じるだろう。
「聞いての通りだ。楽な戦ではないが油断せねば勝利は間違いない。されば、各人己が心を引き締めよ」
前内府様の言葉に皆が畏まった。
「特に島津の兵が逃げ出した時には注意する事だ。あの連中は伎人でな。逃げるふりをして敵を引き付けて叩くという戦いを得意とする。それに引っかかるととんでもない損害が発生する。無理に追わずに弓、鉄砲で追い打ちをかけよ。いずれは追い詰めて逃げ場のない所で叩き潰す」
また皆が畏まった。
「聞いての通り軍は二手に分かれる。一手は明智十兵衛を大将とし残り一手は俺が率いる。十兵衛の軍は豊前から豊後を押さえる、俺が筑前を押さえる。その後は十兵衛が肥後、俺が日向に向かう。主税、軍の編成を伝えよ」
「はっ」
軍の編成が発表された。毛利軍一万五千は前内府様の本隊に組み込まれた。それに朽木軍六万が加わり合計七万五千の大軍になる。朽木軍六万は畿内、東海の兵を中心としている。別働隊の明智軍六万には山陰、山陽の兵が配置された。そして明智十兵衛には“命に従わぬ者は斬れ”の言葉と共に鋼斬りの長脇差が預けられた。
禎兆三年(1583年) 二月下旬 安芸国佐東郡 比治村 比治山城 朽木基綱
軍議が終わると書院でお茶会になった。出席者は俺の他には十兵衛、朽木主税、黒野重蔵、真田源五郎、宮川重三郎、荒川平四郎、蒲生忠三郎、鯰江左近。十兵衛とは親しくしていた面々だ。相談役の飛鳥井曽衣と長宗我部宮内少輔は広島グルメツアーだ。宮内少輔は土佐と近江と京ぐらいしか知らない。今回の遠征を楽しみにしていたらしい。
牡蠣を食べに行くと言っていたな。厳島にも行くと言っていた。一応俺の戦勝祈願だそうだ。秋の紅葉が見られないのが残念と言っていた。遠足じゃないんだけど困ったものだ。舅殿は近江で留守番だ。十兵衛の倅の十五郎は仕事が有ると言って参加するのを遠慮した。豪い親父が苦手らしい。まあ出立は五日後だ、親子水入らずの会話をする機会は十分に有るだろう。
「十兵衛、今回の遠征では苦労をかける」
十兵衛が破顔した。
「何を仰せられます、これほどの大軍を率いる事、武門の誉れにございます。また御信頼を頂きました事、心から感謝しております」
拙いな、罪悪感が……。
「そう言ってくれるのは嬉しい。しかし肥後方面は龍造寺を警戒しながらの戦になる。楽な戦ではない筈だ」
十兵衛を除く皆が頷いた。
「大殿が肥後方面の大将になられては龍造寺が妙な事を考えぬとも限りませぬ。肥後はこの十兵衛にお任せあれ」
十兵衛が嬉しそうに言った。有り難いわ、それに頼もしい。心が軽くなる。
「今回の九州遠征だが龍造寺の事が不安だ」
「大殿は龍造寺が裏切ると御考えで?」
十兵衛が問い掛けてきたので首を横に振った。
「いや、島津攻めが順調なら裏切る事は無いと思う。問題は龍造寺を残す事だ。山城守は五州二島の太守と称する程の野心家だからな。後々面倒な事に成るのではないかと思っている」
俺の言葉に皆が頷いた。
「その辺りは毛利とは違いますな」
「うむ、俺もそう思う」
毛利は積極的にこちらに従う姿勢を見せている。今の所毛利に不穏な動きは無い。というより領内を治めるので精一杯の様だ。領地が狭くなり銀山も失った。それに代わる財源を交易に求めている。徐々にだが米ではなく銭へと比重を移しているようだ。
「龍造寺山城守、俺に反発しているのかもしれん。負けたくないとな」
「反発でございますか? 何故でございましょう」
蒲生忠三郎が小首を傾げている。
「忠三郎には分かるまい。その方が元服したころには朽木はもう大きくなっていたからな。だが朽木は元は高島郡の国人領主に過ぎなかった。龍造寺もそうだ、少弐氏に服属する国人領主であった。立場は同じなのだ。何故俺に頭を下げねばならんのか、そう思っていたとしても驚かんな」
皆が顔を見合わせた。
「しかし立場は同じと申されますがそれは元の事で有りましょう。龍造寺は九州の一大名、大殿は天下人、今では大分違いますぞ。それに山城守は年も五十を越えております。将来は無い。大殿に反発など持ちましょうか?」
真田源五郎が小首を傾げている。
「五十を越えたからだ、源五郎。人生も残り少ない。若い時なら将来を信じて我慢も出来るが老いれば将来が無い、我慢が出来なくなるとは思わぬか? 此度も重臣の鍋島がかなり強硬に山城守を諌めたらしい。だから大友に攻めかかるのを我慢したがそうでなければ……」
源五郎が、いや源五郎だけじゃない、皆が深刻な表情をしている。龍造寺隆信が危険だと思ったのだろう。龍造寺は毛利や上杉とは違う。豊臣政権下の徳川の様な存在になりかねない。隙あらば天下を伺う、そういう存在だ。
「大友からは使者が参っておりますか?」
空気を変えようというのだろう。十兵衛が問い掛けてきた。
「来る。早く助けてくれと大騒ぎだ。まあ無理も無い、今では大友領は宗麟が直接治める虫食いだらけの豊後と立花、高橋が守る筑前の一部ぐらいのものだ。他は皆島津、秋月に獲られるか、国人衆が反乱を起こしている。一向一揆の連中も荒らしまわっている、宗麟を仏敵と罵ってな。宗麟は孤立しているのだ。不安なのだろう」
大友が弱体化したのは敗戦も有るが国内が纏まっていない事が理由だ。どちらかと言えば自滅に近い。
「大殿、大友の扱いを如何なさいますか?」
十兵衛が問い掛けてきた。
「豊後半国だ」
十兵衛は何も言わない。まともに国を治められないのだ。仕方が無いと思っているのだろう。
「もっとも立花、高橋が何とかしてくれと言って来るだろう。あの二人を敵に回したくない。あの二人に免じて大友の領地は豊後一国とする。宗麟は不満かもしれんが立花と高橋は俺に感謝してくれる筈だ。あの二人が宗麟を宥めてくれるだろう」
「なるほど、左様ですな」
十兵衛が頷いた。他の面々も頷いている。本当はあの二人は俺の直臣にしたい。だが嫌がるかもしれん。それに宗麟も主家を裏切ったと不満に思うだろう。いや、待て。豊後一国を許す代わりに二人を俺の直臣にしよう。九州に置いて龍造寺の抑えにする。厄介な事に大友は宗麟の倅、義統も期待は出来ない。
だから立花、高橋の両家は俺が特別な配慮を示した家という扱いにしよう。幸い立花、高橋の両家は次代も期待出来る。立花の跡継ぎは西国一の弓取と評された立花宗茂だ。今は統虎と名乗っているが戦だけじゃない、誠実さも思慮深さも有る男だ。あの二人を九州の核にする。そういう形で九州を安定させるしかない。
「島津は如何なさいます?」
「潰すつもりだ」
俺が十兵衛の問いに答えると座がシンとした。
「薩摩、大隅は決して治めやすい土地ではない。野分が多く、桜島という島が爆発して灰が降る事も有るようだ。そのため土地は地味が豊かとは言えぬらしい。甲斐程ではないが農作物の収穫は安定せぬな。それを考えれば島津を叩いた後で薩摩一国を与えるというやり方も有る」
皆が頷いた。
「しかしな、薩摩は九州の南端で中央からは眼が届き難い。それに坊津という湊が有る。琉球、南蛮、明との交易で富を得易いのだ。ここが甲斐とは違う。簡単に島津は力を取り戻すだろう。それを考えると島津を放置というのは下策だと俺は考えている」
「なるほど」
十兵衛が頷く、皆も頷いた。
「それに琉球の問題が有る」
「琉球でございますか?」
重蔵が訝しげな表情をした。
「九州制圧後は琉球を日本に服属させようと考えている」
皆が顔を見合わせた。目ん玉飛び出そうだな。俺が一口茶を飲むと皆も茶を飲んだ。
「そのためには九州を制圧し南部に兵力を置く必要が有る」
「琉球を威圧するのでございますな」
荒川平四郎が呟く。
「そうだ、平四郎。だが島津を薩摩に置いてはそれが出来ぬ。そして琉球との交渉において必ず島津は口を出そうとするだろう。邪魔だ」
皆が頷いた。
史実の秀吉は琉球にはそれほど関心を示さなかった。服属しろとは要求したが琉球に兵は出してはいない。秀吉の眼は朝鮮半島から中国大陸へと向いていた。朝鮮出兵時に琉球が遠征軍に食料を提供した事で十分だと判断したらしい。中国を征服すれば琉球も服属してくると考えたという事も有るだろう。島津が生き残ったのもそのあたりが影響していると思う。
もし秀吉の眼が琉球から台湾、フィリピンへと向かっていたらどうだっただろう。領土拡張ではなく交易を重視していたら……。九州南端を見る秀吉の眼には島津は邪魔だと映ったんじゃないかと思う。少なくとも俺の眼には島津は邪魔だ。
「もう一つ島津を残せぬ理由が有る」
皆が俺を見た。
「龍造寺だ。俺が山城守なら島津の赦免に動く。そうする事で島津に恩を着せ龍造寺の影響下に置く。分かるな? 俺の九州制圧に力を貸すと見せかけて龍造寺の勢力拡大を図るというわけだ」
呻き声が聞こえた。そんな驚くなよ、例は有るんだ。幕末の島津が毛利に対してやったのがそれだ。討幕運動は島津が主、毛利は従で行われた。
「龍造寺を残す以上、島津、秋月は潰さざるを得ぬ。龍造寺が口を出すかもしれんが許す事は無い」
皆が頷いた。
「では伊東三位入道、民部大輔に期待ですな」
主税の言葉に皆が笑い出した。俺も笑った。伊東三位入道義祐、伊東民部大輔祐兵、元は日向を支配した親子だ。今年、遠征の直前になって近江に現れた。俺の為に日向の国人衆を寝返らせてくれるらしい。自信満々だったな、話の調子では今にも日向は俺の物になりそうな勢いだった。愉快な親子だ。
「そうだな、期待させて貰おう。国人衆が島津を裏切るかどうかは分からぬ。だが島津が疑心を持ってくれればそれなりに意味は有る」
伊東氏が日向を島津に追われて十年にならない。未だ伊東氏への情は有るだろう。こちらが有利になれば三位入道、民部大輔を通して寝返ってくる者も居る筈だ。頑張ってくれよ。