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強運の人




禎兆三年(1583年)   一月下旬      山城国久世郡 槇島村  槇島城  伊勢貞良




「今年も無事に正月が過ぎる。兵庫頭、良くやってくれた。五摂家の方々、皆々お慶びであった」

「例年の事なれば左程の事は……」

大殿が笑い声を上げられた。

「謙遜するな、毎年の事だ、正月の祝いの準備など面倒なだけであろう」

「左様な事はございませぬ。御役に立てて幸いにございまする」

大殿がまた笑い声を上げられた。


宮中の正月の行事の準備を手伝う。面倒では有る。だがそれによって伊勢家は朝廷、公家達と繋がりを持てる。伊勢家にとってもそれなりに旨味は有るのだ。公家達にとっても朽木の重臣である伊勢家と親しくなる事に旨味を見出している。この仕事は面倒では有っても不快な仕事ではない。ただ気を付けなければならない。余りに朝廷に近付き過ぎれば周囲が不審を抱こう。足利は京を根拠地としていたからそれほど目立たなかった。だが朽木は近江が根拠地なのだ。京で目立つ事は気を付けねばならない。誠実に大殿の代理人として振舞わなければ……。


「月が変われば九州へ赴く。京の事は兵庫頭に頼む」

「はっ、御無事の御戻りを祈っておりまする」

大殿が“うむ”と頷かれた。

「龍造寺はこちらに付いた。戦は年内に終わるだろうと思う。九州遠征の成功をもって太政大臣に就任する形を取る。朝廷との交渉、頼むぞ」

「はっ、それと征夷大将軍を」

「うむ」

大殿に太政大臣、御屋形様に征夷大将軍。そして御屋形様には若君が誕生された。少しずつ朽木の天下の形が整って行く。


「平島公方家の五郎殿に会った」

「五郎義任様に? 如何でございましたか?」

「新たに一家を立てる事にした。美濃大垣で五千石だ。今館を建てている。それが出来るまでは八幡城で過ごして頂く事に成る」

「……」

「畿内では色々と煩かろうと思ってな。松永、内藤には話を通した、納得してもらった」

大殿が息を吐いた。


「御配慮、有難うございまする。亡き父も喜びましょう」

「そう思ってくれれば有り難い。左馬頭はあのような事になったからな、足利の血は平島公方家で保って行くしかない。まあ俺の所に関東公方の血を引く氏姫が居るが……」

大殿が沈痛な表情をしている。父伊勢守は義輝公、義昭公にとっては必ずしも忠義の臣では無かった。だが足利の家の行く末を案じていた事は間違いない。大殿はその事を理解して下さる。平島公方家への扱いは足利家に殉じた父への手向けなのだ。


「五郎殿は権大納言殿の書状を持っていた。権大納言への昇進と新たに五郎殿に一家を立てさせる事への感謝が書かれていた」

「左様でございますか」

「うむ、大分先行きに不安を持っているようだ」

大殿が此方を見ている。表情は先程と打って変わって厳しくなっていた。


「三好でございますか?」

「うむ」

三好豊前守実休が昨年暮れに死んだ。跡を継いだのは三好阿波守長治。阿波守は評判が良くない。

「摂津守殿は?」

大殿が首を横に振った。

「具合が良くないらしい。余り期待は出来んな」


阿波の三好一族も徐々に人が変わっている。三好日向守、三好豊前守が他界し安宅摂津守も長くは有るまい。その事が阿波三好一族に混乱を引き起こそうとしている。

「向こうも俺が何を考えたか分かったのかもしれん。万一の場合は五郎殿の事を頼むと丁重に書かれていた。権大納言殿から見ても三好阿波守は危ういのだろう」

「つまり、阿波は混乱し平島公方家はその混乱に巻き込まれかねぬと……」

「そう考えているようだ」

思わず息を吐いた。


「いや、覚悟をしているというべきか」

「と申されますと?」

大殿が此方を見た。切なさそうな表情だ。

「兵庫頭も権大納言殿と義昭公の和議の事を憶えていよう。あの時、三好側で和議を推し進めたのが日向守であった。権大納言殿の書状にはその恩に報いなければならぬと書いて有った。日向守無しには今の平島公方家は無いとな」

「なんと……、五郎様はその事を?」

大殿が頷かれた。


「知っている。五郎殿も同じ覚悟をされているようだ。それ故美濃で一家を立てる事を受け入れたのだと思う。そうでなければ四国で家を立てる事を望んだだろう」

「……」

「人間、野心の有るうちは他者を踏み付けにし犠牲にする事を何とも思わぬ。だが野心が無くなれば他者から受けた恩に報いなければと思う」

「……」

大殿が一つ息を吐いた。


「足利が此処まで衰微したのは野心を捨てず他者から受けた恩に報いなかったからだろうと書状には書かれていた。今自分が穏やかに暮らせるのは日向守の尽力によるもの、自分は日向守の恩に報いるつもりだと」

「なんと……」

「それと、これまでの御厚意に感謝すると書かれてあった」

死ぬ気なのだと思った。権大納言様は死ぬ気だ。五郎様も受け入れている。これは平島公方家の決定なのだと思った。


「拙い時に豊前守が死んだ。九州遠征を行えば朽木は阿波には介入出来ぬ。阿波守がそれを見過ごすとも思えぬ。そして病身の摂津守には阿波守を押さえる事は出来まい」

「……抑えようとしても細川掃部頭が阿波守を唆しましょう」

「うむ、そうだろうな」

細川掃部頭真之は阿波の、いや三好の混乱を望んでいる。阿波細川氏の復権を望んでいるのだ。つまり、掃部頭は豊前守の恩に報いる気は無いのだ。その終わりは良くあるまい。


「権大納言殿にはいざとなれば安芸に逃げるようにと返事を書いた。三好久介にも同じ内容の文を書いた。無茶をしなければ良いのだがな」

大殿の表情は暗い。危険だと考えている。

「左様でございますな」

「九州遠征の後は四国遠征となろう。太政大臣、朽木基綱の最初の仕事になるだろう」

「はっ」

「気の重い事だ」

大殿が重い何かを振り払うかのように首を横に振った。


「最近女共が九州遠征には自分達も連れて行けと煩い。戦場に女を連れて行けなど何を考えているのか、困ったものよ」

「真でございますか?」

大殿が微かに笑みを浮かべながら頷かれた。困ったものと言いながら声が明るい。敢えてこの話をされたのだろう。こちらの気持ちを軽くしようとされている。


「本来なら叱りつけるところだが外で女を作ったからな。強く出られぬ。女共は俺の事を油断出来ぬ男と思ったようだ。遠征中、他の女が俺を独り占めする事は許さない、そんなところだろう」

「それは……」

自分も笑わざるを得ない。大殿が何時の間にか外で子供まで成す女を作っていたとは思わなかった。豊千代様の存在を知った時には驚いたものだ。


「隠していたのが拙かったようだ。今もな、この槙島城に想う女が居るのだろうと疑われている」

「はてさて、真でございますか?」

大殿が声を上げて笑った。

「疑われているのは事実だが想う女は居らぬぞ。……今頃女共はやきもきしておろうな」

大殿が笑みを浮かべながらじっと私を見た。はて、何事であろう。


「女を世話したのは兵庫頭、その方だと疑っているのだ。俺がその方と会っていると知れば……」

「なんと……」

絶句していると大殿が笑い出した。


「女共はその方がどこぞの公家の娘を世話したのではないかと疑っているのよ。恨まれぬように気を付けるのだな。しかし考えて見れば正室も側室も皆武家だ。京を押さえながら公家の側室が居ないのは不自然と言えば不自然よな」

「確かに左様ではございますが……」

まさかとは思うが豊千代様の母親は公家の出なのか? しかしそんな話は聞いた事が無いが……。私の知らぬところで公家が大殿に近付いたのだろうか?


「母親が死んだというのも不自然な話だ。おまけに素性も明らかではない。不思議な事は小夜が豊千代を可愛がっている事だ。女共は不審に思っている。本当は余程の家の娘で家柄から言えば豊千代を世継ぎにしなければならぬ故敢えて母親は死んだと言っているのではないか、それ故小夜も大切に扱っているのではないかと疑っているようだ」

「……余程の家と言いますと五摂家……」

恐る恐る訊ねると大殿が頷かれた。

「或いは宮家か」

「なんと……」

また大殿が御笑いになった。


「言ったであろう、この城に想う女が居るのではないかと疑っていると」

「つまり、それは豊千代様の御母君……」

「まあそういう事だな」

「……」

「そんな女は居ないのだがな。噂だけが先行し皆で幻を追っている。困ったものよ」

大殿は不機嫌そうな表情をしていない。どちらかと言えば楽しんでいる? はてさて、豊千代様の御母君はどのような素性の方なのか……。




禎兆三年(1583年)   二月中旬      山城国葛野郡    近衛前久邸  九条兼孝




「朽木の軍勢が九州へ向かっております」

「かなりの大軍らしいの」

太閤殿下が目を伏せながら茶椀を口に運んだ。

「七万は越えましょう」

太閤殿下が“そうか”と頷かれた。朽木の大軍が京を通り過ぎて行く。だがこれは九州遠征軍の一部に過ぎない。山陽、山陰の兵が加われば十万を軽く越えよう。


「伊勢にも兵が集まっていると聞きます」

内府が口元に笑みを浮かべながら言った。内府と朽木の二の姫との婚約が整った。上杉に嫁いだ一の姫が近衛家の養女である事を思えば近衛家と朽木、上杉との関係は極めて深い。近衛家は武家との関係強化に熱心だ。かつては足利とも強い繋がりを持っていた。


「四国で騒動が起きそうだとか、関白は聞いているかな?」

太閤がこちらを見た。試す様な視線だ。

「三好阿波守でございますか? 粗暴で短慮とは聞いております。その事に皆が不安を持っているとも」

太閤殿下が私を見て笑い出した。


「不安だけなら良いがの、逃げ出す者も居る。平島公方家の者を前内府が庇護しておる。美濃で一家を立てるのだとか。足利の血を絶やしてはならぬという事であろう」

「……」

「九州の後は四国か、前内府も忙しい事よ」

「左様ですな」


喉が渇いたと思いながら相槌を打つと殿下が笑いを収めた。そして強い視線で私を見た。慌てて茶碗に伸ばしかけた手を戻した。

「もっとも、これで四国も朽木の物になるの」

私と内府が頷いた。殿下が口元に笑みを浮かべた。

「喉が渇いたのであろう。遠慮は要らぬ、茶を飲むが良い」

「畏れ入りまする」

顔が熱い、及ばぬと思った。口中に含んだ茶が苦かった。


「九州遠征は上手く行きましょうか? 島津は強勢と聞き及びますが……」

「朽木には及ぶまい。あの者、運に恵まれておる」

「運、でございますか?」

殿下が“うむ”と頷かれた。運? なんともあやふやな物だが。内府も訝しげな表情をしている。我ら二人を見て殿下が苦笑を漏らされた。


「両名とも得心が行かぬようだの」

内府と顔を見合わせた。

「父上、運と仰られますが些か……」

「あやふやで頼りのうございます」

私の言葉に内府が頷く。それを見て殿下が“困ったものよ”と呟かれた。


「あやふやなればこそ大事なのだとは思わぬか? あやふやな物を味方に出来るから強いと。天下人には運が不可欠と麿は思うがの」

「……」

我らを見て殿下が軽くお笑いになられた。

「納得出来ぬか。……ならば我らの祖を思うが良い。あのお方は九条流の末っ子であった。本来なら天下を獲れる御方では無かった。だが兄達、廟堂の実力者達が皆死んだ、或いは自滅した。そして天下を思うが儘に差配した。“この世をば、わが世とぞ思ふ”と豪語する程にの。これでもその方等は頼りないと言うか?」

「……」


反論は出来ぬ。“この世をば、わが世とぞ思ふ。望月の欠けたる事も無しと思へば”。あのお方は強運の持ち主であった、強運過ぎる程に強運な御方であった……。

「前内府も強運の持ち主だと?」

問い掛けると殿下が頷かれた。

「皆、都合の良い時に転ぶわ。六角は家督争いで転んだ、三好も転んだ、織田もそうじゃ。前内府にとって邪魔になってきた頃に転ぶ。不思議なものよ。上杉も転んだの、かつては対等の立場であったが今では……。まあ滅ばぬだけましか……」

太閤殿下が低く笑い声を漏らした。


「足利も左馬頭が馬鹿をやった所為で終わりよ。平島公方家も四国の混乱の中で滅ぼう。もう見えておる。これからは前内府の庇護のもとに細々と生きるだけであろう。前内府が遠慮せねばならぬ相手が次々と転ぶ。面白いとは思わぬか?」

「確かに」

「フフフ、怖いものよ。……天下人とは運を味方に付けられる者の事やもしれぬの」

殿下が低い声で呟いた。


「伊勢兵庫頭が九州遠征後に前内府に太政大臣、大膳大夫に征夷大将軍をと言ってきた。関白にもその話は来ていよう」

「はっ」

「如何するつもりじゃ」

太閤殿下がじっとこちらを見た。


「望み通り、前内府を太政大臣に、大膳大夫を征夷大将軍に推任致しまする」

殿下が頷かれた。

「それで良い。では詔勅は?」

「……」

「決断出来ぬか?」

太閤殿下の問いに頷いた。


「……天下の大権を委ねるのは已むを得ますまい。しかし……」

「天下は天下の天下なりか」

「はっ」

天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり。これを表明すれば天下は帝の物ではなくなってしまう。勿論、天下を治める心構えで有る事は分かっている。しかし、詔勅となれば帝の御言葉。帝御自らが天下は帝の物では無いと認めた事に成る。そして言葉とは一度出してしまえば消える事は無いのだ。


「何とかそれを外した形で詔勅をと考えておりまする」

内府が頷いた。この件については左府、右府も同じ様に考えている。

「無駄であろう」

「無駄、でございますか?」

問い掛けると殿下が頷かれた。


「鎌倉の府は武家の府であった。武家を守るという理念の元に作られた。武家を守るためなら朝廷とも戦った」

「承久の乱でございますな?」

内府が問うと太閤殿下が頷かれた。はて、太閤殿下は何を……。


「足利の府には理念は無かった。足利尊氏は後醍醐の帝との戦いの中で生きるために已むを得ず幕府を作ったと麿は見る。それ故明徳の和約以降は幕府は何のために存在するのかが分からなくなった。応仁、文明の乱以降は特にそうじゃの」

「……前内府の作る相国府の理は天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり、にございますか?」

殿下が頷かれた。


「前内府の天下とは天下万民の天下という事よ。天下万民が安定し繁栄してこそ朝廷の安定と繁栄が有る。朽木の安定と繁栄が有る」

内府が大きく頷いた。

「……父上、朽木の印は君臣豊楽でしたな」

殿下が頷く、そして私を見た。

「分かるであろう? 関白がどのように拒もうとしても必ずあの男はそれを要求する。無意味な事は止めておけ」

「……なれど」

殿下が低く笑い声を立てた。


「帝の恩為にならん、そう言ってもか?」

「……」

「朝廷が天下万民の事を考えぬのなら朝廷との縁を切る。そう言いかねぬぞ」

「まさか」

太閤殿下が首を横に振った。

「そなたらは知るまいがの、昔からそういう所が有る。……これからの朝廷は朽木に協力して繁栄を築いていくしかないのだ」

「……それは分かっております」

また殿下が低く笑った。


「本当に分かっていれば良いがの」

「……御信じ頂けませぬか?」

「あの男、天下を還すと言った。他の者に預けても構わぬと」

「そのように聞いております」

殿下がじっと私を見た。


「それと天下万民を紐付けて見よ。前内府はそれが天下万民のために成るなら朽木は従うと言っているのだ。天下が乱れ混乱すれば当然だがその責めを問うてくる。朝廷は何故天下を乱すのか、何故天下を混乱させるのか……。あの男が公方を、幕府をどのように扱ったかを思え。容赦はせぬぞ」

「……」


「朝廷をかつての幕府の様にしては成らぬ、帝をかつての足利の様にしては成らぬ。朽木が天下とは天下万民の天下と唱える以上、朝廷もそれを唱えなければならぬ。そうでなければ朝廷と朽木が対立する事に成る。その事を良く覚えておく事だ」

殿下が茶を一口飲んだ。

「……ふむ、冷えたの。新しいのを貰うとするか」

殿下が人を呼び新しい茶を持って来るようにと命じた。


天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり。……皆を説得せねばなるまい。そして詔勅を出さねば……。厄介な事に成った……。





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この世界、誕生日という概念は無いし、祖父の子と父の子なら顔が似てても誰も不審に思わないからこそできる荒業ですね。双子だからと、処分されなくて本当に良かった。 神の子だから帝。その血が尊いものだからこそ…
[一言] まあ朝廷と足利幕府。何も変わりやしない。足利が弱い頼りにならん。と散々言われて来たけども、そもそもそれを頼りにしなきゃどうにもならなかった朝廷こそが諸悪の根源なんだから。
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