豊千代
禎兆二年(1582年) 十二月中旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 上杉景勝
「読み上げよ」
「宜しいのでございますか?」
頷くと千坂対馬守景親が朽木の舅殿から届いた文に視線を落とし、また俺を見た。
「御隠居様は?」
「朽木家からそれとほぼ同じ物が届いている」
内容は殆ど同じ。大きな違いは末尾だ。俺には娘を宜しく、養父には御身御大切に。
対馬守が皆を見回した。直江与兵衛尉、斎藤下野守、竹俣右兵衛尉、甘粕近江守、そして父長尾越前守。今春日山城に詰めている重臣達はこれだけだ。
「前内府様よりの文にはこの度、二の姫鶴姫様と内大臣近衛前基様の婚約が調ったと記してあります」
皆が声を上げた。
「おめでとうございまする。これで上杉家は近衛家と朽木家を通して相婿となり申した」
竹俣右兵衛尉が言祝ぐと皆が“おめでとうございまする”と唱和した。皆に笑顔が有る。
「対馬守殿、婚儀は何時頃になろうか?」
斉藤下野守が問う、皆が知りたそうな表情をした。
「この文には来年は九州遠征を行うので再来年頃になるだろうと記されております」
ざわめきが起きた。
「いよいよ九州攻めか」
「はて、どれほどの兵力を動かすのか」
「島津、龍造寺が勢いを増していると聞くが」
皆が騒ぐ中、対馬守が俺を見た。頷く。
「お静かに。足利左馬頭様、幕臣の方々の処遇が決まり申した」
シンとした。先程まで有った華やかな空気は消えた。
「朝廷からの助命嘆願により左馬頭様は出家、等持院へのお預けとなり申す。幕臣達は切腹」
皆が顔を見合わせた。
「ま、已むを得ますまい」
直江与兵衛尉の言葉に異議を唱える者は居ない。島津と組んで舅殿の命を狙った以上、切腹の処置は已むを得ない事だ。むしろ斬首でない事を感謝すべきであろう。武士としての名誉は守られた。
「それにしても危のうございましたな」
「うむ、鎖帷子で危うい所を免れたと聞いた。御運が強い」
「そうでなくては天下は獲れまい」
「前内府様は左馬頭様の脇差を斬ったと聞いたが」
「朽木は新当流が盛んじゃ、前内府様も御遣いになるのであろう。それにしても脇差を斬るとは相当な腕前よな」
皆が頷いている。鋼斬りか、関兼信の作と聞くが一度見てみたいものだ。養父が兼信の師である兼匡の刀を持っているが確かに刃紋が美しく匂う様な凄みと艶を感じさせる刀であった。俺も上方に人をやって兼信を手に入れるか。ついでに壺も買わせよう。奈津の話では大膳大夫殿は時折壺を磨いているとか。刀の手入れだけでは皆に笑われよう。壺とはどんなものか、試してみるのも悪くない。
「これで、幕府は終焉か」
「そうなろうな」
「阿波に平島公方家が有るが担ぐ者が居るとは思えぬ」
「関東管領職は如何なるのでござろう」
皆が顔を見合わせた。そして対馬守に視線を向ける。対馬守が困った様な表情を見せた。
「この文にはその件について特に記載はござらぬ」
皆が俺を見た。
「新たに幕府を開き関東は関東公方に任せるのでございましょうか?」
「であれば関東管領職はこのままという事になりましょうが……」
「しかし関東公方を置きますかな?」
直江与兵衛尉、斎藤下野守、甘粕近江守、いずれも困惑を顔に浮かべている。関東公方はしばしば京の将軍家と対立した。戦いになった事も有る。その事を思ったのであろう。それに関東公方を置くとして、関東管領を上杉家に任せるという保証は無い。
「ま、あまり期待はせぬ方が良かろう。関東に公方が置かれるとは限らぬし関東管領職が上杉家に委ねられるかもわからぬ。幸い上杉家は朽木家と強い結び付き持っている。それを基に新たな立場を築く、そう思った方が良いのではないかな?」
父、越前守の言葉に皆が頷いた。上杉家と朽木家は相互に縁を結んでいる。その意味は大きい。やれやれ、又母が騒ぐな。早く夫婦の契りをせよ、子を儲けよと。
「皆に言っておく。舅殿は幕府を開こうとは考えておらぬようじゃ」
「真でございますか?」
直江与兵衛尉が驚きの声を上げた。他の者も驚いている。その中に父もいた。狸だな、驚いた振りがなかなか上手い。
「以前に文を頂いた折り、そのような事が記されていた。勿論、その頃は義昭公が健在であられた。征夷大将軍に就任し幕府を開くのは難しいと思われての事かもしれぬ。しかし、幕府ではない別の形での天下を御考えになったのかもしれぬ」
重臣達が頷いている。“なるほど”、“確かに”、そのような声が聞こえた。
「先程、父越前守が申した通り、我等は新たな関係を朽木家と築く、そう考えるべきであろう」
皆が頷いている。
「九州攻めが終われば残るは関東、奥州だけになる。天下統一は一気に進むであろう。その事を確と心得るように。良いな」
皆が畏まった。蘆名攻めを急がなくてはならん。
禎兆二年(1582年) 十二月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木小夜
「入るぞ、小夜」
声と共に大殿が部屋に入って来た。
「まあ、もうお戻りになられたのですか?」
「うむ、今戻った。今日の主役は俺ではない、亡くなった者達だ。余り長居をしては却って気を遣わせるからな。早々に退出した」
大殿が腰を下ろした。喉が渇いている筈、女中に急いで御茶を用意するように命じた。
「良い法事でございましたか?」
「ああ、良い法事であった。今川、北条、武田の者達が集まった。小山田、真田、御宿、芦田も参列した。俺が声をかけたからな、参列し易いのだろう。今頃は故人を偲んでいる筈だ」
「左様でございますね」
今日は永源寺で今川、北条、武田の合同の法事が有った。毎年この時期に行われる。朽木家には武田家所縁の者が多い。そして今川、北条、武田は相互に縁を結んだ事で複雑に血が入り混じっている。そしてその多くが同じ時期に戦で死んだ。
「かつての主家の者と家臣が同じ家に仕える。その辺りは配慮せぬとな」
「はい」
大殿は武田信玄公の事を時折お褒めになる。他にも朽木仮名目録は今川仮名目録を手本とした事、北条家の仁の政、織田弾正忠様を自分と同じ考えを持った方だと口にされる。決して貶める様な事は口にされない。それは六角家に対しても同じだ。良く承禎入道様の事をお話になられる。でも右衛門督様、細川家から入られた左京大夫様の事を口にする事は無い。
女中が御茶を持って来た。熱いのだろう、大殿が息を吹きかけて冷ましながらゆっくりと一口飲んだ。何かを考えている。
「そろそろ北条家の千寿丸を元服させねばならん。気が付けばもう十五歳だ、早いものよ」
「まあ、もうそのように」
大殿が頷かれた。
「身体が余り大きくないから先送りにしていたが年を越せば十六歳、だが来年は九州へ行かねばならん。戻りは何時になるか……。九州に行く前に元服させねばなるまい」
「忙しゅうございますね」
大殿が“うむ”と頷かれた。そしてまた一口。
「今川家の龍王丸も十三歳だ。九州遠征が終わったら元服させようと思っている。嶺松院殿からも頼まれている」
「そうですか、……不安なのでございましょうね」
「そうだな、北条家と比べるとどうしても不安に感じるだろう」
今川家には成人男子は居ない。そして大殿との縁を結ぶのも一度失敗した。夕姫が改めて側室に入ったが子が居ない事を思えば極めて不安定な立場にあると言える。
乱世流転、本当にそう思う。かつて勢威を振るった北条、武田、今川の三家は勢いを失い朽木と繋がりを持つ事で家を保とうとしている。彼らが勢威を振るった頃、朽木家は小さな国人領主でしかなかった……。あの頃、今を予想出来た人は居なかっただろう。それ程までにこの二十年の世の移り変わりは激しい。
「その頃には亀千代も元服でございますね」
「そうだな、元服させねばなるまい」
「鶴姫も嫁ぎますし祝い事が続きますわ」
「そうだな。……いかん、北条の駒姫の事を忘れていた。あれは鶴と大して歳は変わらぬ筈、再来年には嫁ぎ先を考えねばならん」
大殿が息を吐き、そして私を見た。
「そなたも考えてくれぬか?」
「駒姫の嫁ぎ先をですか?」
「そうだ」
「それは構いませぬが……、難しゅうございますよ」
「分かっている、頼む」
北条家からは桂殿が大殿の側室に、そして菊殿が冷泉家に嫁いでいる。それを考えれば滅多な所には嫁がせられない。
「あまり難しく考えずに幾つか候補を見つけてくれればよい。公家、武家、適当に混ぜてな。嫁がせる時は俺の養女として嫁がせよう。粗略には扱われぬ筈だ」
「大殿は子沢山でございますね、これからも大変」
軽くからかうと大殿が神妙な表情をした。いけない!
「そなたには苦労をかける」
「そういう意味で申し上げたのではございませぬ。悪く取られては困ります。ちょっと可笑しく思ったのです」
「そうか」
大殿が不得要領に頷いた。気を付けなければ……。
大殿ほどの御身分なら多数の側室を持ち子を持つのは当たり前の事と言える。誰からも非難される事はない。でも大殿は朽木家という国人領主の家に生まれた。その所為か側室を入れる事に積極的ではない。周囲から薦められて側室を入れているがその度に私に済まなさそうにする。
「駿府ではもう生まれたでしょうか?」
「さて、如何かな。そろそろ報せが来るころだとは思うが……」
話題を変えたが大殿の表情は変わらない。
「何か心配事でもございますか?」
視線を逸らした。
「子供というのは近くに居ても遠くに居ても心配ばかりだ。……先日はついあれを怒鳴りつけてしまった……」
「……」
「あれはただ俺に慰めて欲しかったのかもしれん。本人は認めぬだろうが何処かで寂しかったのではないかと思うのだ。良くやっている、泣くなと言ってやれば良かったのではないか。怒鳴るよりも背を撫でて一緒に泣いてやれば良かったのではないかとな……。埒も無い事を考えるわ。阿呆な話よな」
大殿が低く笑った。自らを嘲笑うかのように笑った。
「父より大殿の御気持ちは聞いております。間違った事をなされたとは思いませぬ。もう直ぐ子が生まれます、大膳大夫も父親になるのです。そうなれば泣いている暇など無いと、大殿の御気持ちが分かる筈にございます」
「そうだと良いが……」
大殿が呟いた。視線は遠くを見ている。切なくなるような視線だった。
禎兆三年(1583年) 一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
小鼓と笛の楽が鳴る。そして能舞台の男達が謡い出した。
「どうどうたらりたらりら。たらりららりららりどう」
「ちりやたらりたらりら。たらりららりららりどう」
何を言っているのかさっぱり分からん。何かの呪文だと思うんだが……。でもな、俺以外の観客、綾ママ、小夜、雪乃を始めとして女達は真剣な表情で舞台を見ている。舅殿、重蔵等の相談衆、そして林佐渡守等評定衆も同様だ。
「所千代までおわしませ」
「われらも千秋さむらおう」
「鶴と亀との齢にて」
「幸い心にまかせたり」
此処は日本語だな。少しは俺にも分かる。鶴と亀との齢か、つまり長寿と言う事だろう。目出度い限りだ。
今能舞台で演じられているのは翁と呼ばれる能の演目の一つだ。この能は一番最初に演じられる。脇能なのではない、その前に位置する。要するに別格に扱われている。翁は能にして能にあらずと言われるが天下泰平、国土安全、五穀豊穣を祈願する儀式としての舞のみの能だ。ストーリーは無い。この呪文も何かの祈祷なのだろうと思う。
つまり俺にとっての翁は良く分からん呪文を唱えて踊っているだけにしか見えん。一度綾ママにそれを言ったが白い目で睨まれた。罰当たりな息子だとでも思ったのだろう。こいつが終われば脇能の竹生島、そして修羅物は八島へと続く。俺はストーリーの有るそっちの方が好きだ。特に八島は良い。
昨年、大膳大夫に子が出来た。男の子だ、目出度い。だが目出度くない事も有る。生まれたのが双子だった事だ。この時代、双子は畜生腹と言われて忌み嫌われた。現代なら馬鹿馬鹿しいと一笑するのだがこの時代は家の相続問題が絡む。その所為で家督争いの原因になりそうな双子は忌まわしい存在と嫌われてきた。
当然だが双子の事は秘匿された。大膳大夫は俺や小夜にも報せなかった。嫡男誕生と報告され双子の一人が竹若丸と名付けられた。問題はもう一人の赤子だ。こういう場合、心利いた家臣が両親の知らない家に預ける。そして誰に預けたかも教えない。会いたくても会えない状況にするのだ。酷いと思うかもしれない。だがそうする事で親子の絆を断とうとする。それが将来の禍根を立つ事に成る。
だが母親なら当然の事だが奈津が子を手放すのを嫌がった。そして小夜に助けを求めた。俺が思っている以上に奈津と小夜の間には信頼関係が有るらしい。小夜は報せを受けて驚いた、そして俺に相談した。俺も話を聞いた時は驚いた。まさかそんな事に成っているとは思わなかったからな。
誰にも相談出来ない。二人だけで話した。俺は外に出すべきだと言った。天下は一つ、天下人も一人。朽木の家で家督争いが起きるような要因は排除しなければならない。天下を混乱させるような事はすべきではないと。小夜もそれに同意した。その上で生まれた子を俺の子として、朽木の人間として育てる事は出来ないかと提案してきた。せめて朽木の人間として育てられれば奈津も納得するのではないかと。
正直驚いた。確かにその通りだ、一理ある。大膳大夫の子供だから家督争いの種になるのだ。俺の子供なら争いの種にはならない。それで良いかと思った。現代の感覚から言えば双子を忌み嫌うなんてナンセンスだという思いも有る。親の愛情は受けられないかもしれないが祖父母の愛情は受けられる。奈津も安心するだろう。
赤子には豊千代と名を付けた。豊かな人生を送れるようにという願いを込めて小夜が付けた。俺が外で作った子供で母親は産後の肥立ちが悪く死んだという事になっている。母親は京の女で槙島城で俺と関係を持った。妊娠したのが分かると宿下がりをして子供を産んだという設定だ。これからは八幡城に引き取られ小夜が育てる事に成る。
豊千代は朽木家の庶子の一人として育つ。喩え竹若丸が不幸にして育たず亡くなっても大膳大夫と奈津の元に戻る事は無い。俺の子として育てられる。その事は奈津も納得している。豊千代の素性を知るのは俺と小夜、大膳大夫と奈津、風間出羽守、黒野重蔵と小兵衛、他は奈津の傍近くに仕える女中だけだ。おかげで俺は女に手の早い油断のならん男、隠し事の上手な男と言われている。不本意だが已むを得ん。
「どうどうたらりたらりら」
「ちりやたらりたらりら。たらりららりららりどう」
いかん、又呪文に戻ったな。
「鳴るは瀧の水。鳴るは瀧の水。日は照るとも」
「たえずとうたり。ありうどうどう」
「たえずとうたり。たえずとうたり」
たえずとうたりか。良く分からん舞だ。だがいずれは翁の良さが分かるようになるだろう。……期待薄だな。