敗戦
禎兆二年(1582年) 十月上旬 甲斐国都留郡岩殿村 朽木堅綱
「申し訳ありませぬ。我等御屋形様より十分な兵を与えられていながら徳川にしてやられました」
佐脇藤八郎が血を吐くような口調で頭を下げた。蜂屋兵庫頭、金森五郎八、滝川彦右衛門が面目無さそうに藤八郎に続いて頭を下げた。蜂屋兵庫頭は腕に、金森五郎八は頭部に怪我している。包帯に血が滲み痛々しい姿だ。酷い負け戦だったようだ。
目の前に岩殿城が有った。以前に見た岩殿城と何の変りも無い。だが、あの城にはもう徳川の兵は誰もいない……。
「いや、詫びねばならぬのは私の方だ。後詰が遅れた、済まぬ」
「御屋形様、御屋形様の所為ではございませぬ。洪水さえ起きなければ……、十分に後詰は間に合った筈」
前田又左衛門が口惜しそうに言った。弟の藤八郎を助けてやれなかった、そう思っているのだろう。
「又左衛門、慰めは要らぬ」
「御屋形様、某は……」
「徳川は雨を利用したのだ。私はそれを予測出来なかった。いや半兵衛に指摘され気付いた時には遅かった。そういう事だ」
又左衛門が唇を噛んで俯いた。半兵衛も俯いている。もう少し早く助言出来ていれば、そう考えているのかもしれない。
今回の長雨で釜無川、富士川で洪水が起きた。その所為で甲府から巨摩郡の広い範囲で水が溢れた。水は街道を泥土に代え行軍は難儀なものになった。間に合わなかった、僅かに洪水の方が早かった。いや行軍中に洪水に見舞われればとんでもない被害が出た可能性もある。間に合わなかったのはむしろ幸いだったかもしれない。
徳川はその洪水を見越していたかのように軍を発した。おそらく甲斐に間者を放っていたのであろう。旧武田の忍びの者達、その者達ならばどの程度の雨が降れば洪水が起きるかは想定出来た筈だ。そして洪水が起きれば甲斐国内にて軍を動かすのは難しい。つまり岩殿城を囲む朽木軍は後詰を受けられずに孤立する。攻守は逆転すると甲斐守は読んだのだ。
「申し訳ありませぬ。我ら甲斐の生まれでありながら此度の事態、気付くのが遅れました。今少し早く気付いていれば……」
「真にもって面目無く……、恥じ入るばかりにございまする」
浅利彦次郎、甘利郷左衛門の二人が謝罪した。気にするなと言ったが項垂れたままだ。負けたのだと改めて思った。
相模より徳川甲斐守率いる四千の徳川勢が岩殿城を囲む朽木勢に襲い掛かった。相模を守る兵も要る。それを考えれば四千は精一杯の兵力だろう。だが徳川は農繁期にも拘らずそれを出した。岩殿城を見殺しにしては徳川の武威、信頼は地に落ちる。何としても岩殿城の城兵を助けねばならない。無理に無理を重ねての戦だったのだ。
援軍に対し岩殿城の城兵も呼応した。忽ち朽木勢は前後から攻撃され混乱し敗走した。死傷者は約一千、一方的な戦いにも拘らず死傷者が少ないのは徳川が朽木を打ち破る事よりも城兵の救出を優先したからだろう。長居すれば私が来ると思ったのかもしれない。徳川勢は岩殿城の守備兵と共に相模へと後退した。私が此処に来たのはそれから五日が過ぎてからだった……。いけない、怪我をした者達を労わってやらなければ。
「兵庫頭、五郎八、怪我をしたようだが大事無いか?」
「何のこれしき、大事有りませぬ!」
「掠り傷にございます! 今直ぐにも戦えまする!」
兵庫頭、五郎八が力強く答えた。
「頼もしいぞ、心強い限りだ。だが先ずはしっかりと怪我を治せ。逃げられたのは残念だが徳川を相模に押し込んだのだ。もう徳川に行き場は無い。次は相模での戦になる」
皆が頷いた。
「それにしても雨を利用するとは、甲斐守の武略、なかなかのものですな。油断は出来ませぬ」
柴田権六の言葉に皆が頷いた。自分の未熟を責められているような気がした。甲斐は洪水、水害が多い。何故その事をもっと重視しなかったのか……。父上の毛利攻めで高松城の水攻めを見ていたのに……。あの経験を無にしてしまった。
川を堰き止め、梅雨を利用して城を水に沈めた。川を利用するのも雨を利用するのも同じではないか。戦とは兵を戦わせるだけではないのだ。地形を利用し天候を利用し自然を利用する事も戦の一つなのだと教わっていたのに……。徳川を撃破し弱体化させる千載一遇の機会を逸した。いや、それどころか徳川の武威を高めてしまった……。
もうじき子も生まれるというのに何とも頼りない父親だ。奈津も不安に思おうな。……相模攻めは困難を極めるだろう。その分だけ死傷者も多くなる筈だ。特にこの者達、雪辱をと逸りかねぬ。その辺りを注意しなければ……。父上に報告し謝罪せねばなるまい。一からやり直しだ。
禎兆二年(1582年) 十月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「次郎右衛門から父上が御怪我をされたと報せが届いた時には本当に驚きました。もう宜しいのでございますか?」
「見ての通りだ、何ともない」
「しかし、腹を刺されたと」
息子が心配そうな顔でこちらを見ている。同席している黒野重蔵、長宗我部宮内少輔、平井加賀守、飛鳥井曽衣、朽木主税の視線が集中する。少し照れ臭かったから声を上げて笑う事で誤魔化した。
「大膳大夫は心配性だな。刺されたといってもほんの少し刃が腹に触った程度だ。掠り傷よ」
「それなら宜しいのでございますが……」
「鎖帷子を纏っていたからな、大した事は無い。それに相手は未だ十一歳だ、力も弱い。不意を突かれはしたが大事には至らぬ」
大膳大夫が小首を傾げた。
「鎖帷子でございますか?」
「うむ、まあ足利の者達が俺を暗殺するかもしれぬという疑いが有ってな。もっともあの場で左馬頭が行うとは思っていなかった。いずれ日を改めて足利の家臣達が狙って来ると思っていたのだが……、念のために鎖帷子を身に着けていたのが役に立ったな」
「なるほど、左様で」
頷いている。納得したようだ。だがその後で“無理は御控え下さい”と言われた。
最近、如何いうわけか皆から気遣われているような気がする。次郎右衛門も尾張から京に飛んできた。丹羽五郎左衛門、木下藤吉郎と一緒にだ。まあ五郎左と藤吉郎は城の進捗を報告したいという気持ちも有ったらしい。ようやく名古屋台地北部の湿地帯の埋立が終わりこれから縄張りに入るようだ。次郎右衛門も毎日が楽しいと言っていた。外に出して正解だな。
松永弾正、内藤備前守も見舞いに来た。二人とも歳を取った。髪の毛なんて真っ白だ。二人とも俺の無事を喜んでくれた。足利左馬頭には腹を切らせる事になるかもしれないと言うと二人とも複雑そうな顔をしていた。二人にとって足利義昭は許せる存在ではない、その息子の左馬頭義尋も同様だろう。だが三好千熊丸は母方から足利の血を引いているのだ。左馬頭は従兄弟だ。簡単には割り切れないものがあるだろう。
……そうか、足利の血は千熊丸にも流れているのだ。いずれ千熊丸の子孫に足利の名跡を継がせる事を考えて見よう。弾正、備前守からは鶴と近衛前基の婚約の祝いを受けた。これで千熊丸は朽木、上杉、近衛と繋がりを持つ事になる。しっかりした男になって欲しいものだ。三好は決して大きくは無いが畿内に領地を有するし松永、内藤とも強い結び付きを持つ非常に大事な家だ。いずれは松永、内藤と朽木の繋がりも強めよう。そうする事で三好、松永、内藤の結び付きを相対的に薄める事が必要だ。
安芸からは明智十兵衛が来た。顔を見た途端、鼻の奥がツンと痛んだ。涙が出そうになったが何とか堪えて安芸の状況を十兵衛から直接聞いた。やはり人が足らん。一向門徒を追い払った事、そして毛利から安芸を取り上げた時に毛利に付いて行った百姓も結構多いらしい。積極的に人を入れているがまだまだ足りない。
戦争で全国的に人が減少しているという現実も有る。簡単には行かない。十兵衛には九州攻めでは安芸の国人衆を纏めて戦って貰う事になる。その事を言うと嬉しそうにしていたな。四国の情勢を聞いてみた、不安定になりつつあるというのが十兵衛の判断だ。日向守の遺族が安芸に落ちる事も有る。受け入れを改めて頼んだ。
「父上、申し訳ありませぬ。父上に御骨折り頂いたにも拘らず岩殿城の徳川勢を取り逃がしました。甲斐守の後詰を防げませんでした。面目次第もございませぬ」
大膳大夫が頭を下げた。そのまま伏せている。少し肩が震えていた。胸が痛い、この世界で初めて持った息子が苦しんでいる。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
「頭を上げろ、大膳大夫」
「なれど……」
「それでは話が出来ぬではないか」
敢えて軽い口調で促すとのろのろと頭を上げた。苦労をしていると思った。舅殿が痛ましそうな表情をしている。孫が苦労しているのだ、当然か。御爺を思い出した。時々御爺も似た様な表情をしていた。義輝に対して、俺に対して……。
「何が有ったかは知っている。上手く徳川に雨を利用されたな」
「はい、無念にございます」
大膳大夫が唇を噛み締めた。
「少し待ちすぎたな」
「待ちすぎた?」
大膳大夫が訝しそうな表情をした。
「うむ、余りに有利になり過ぎた。甲斐守を引き摺り出し決戦で打ち破る。決戦で甲斐守を打ち破れば一気に形勢は変わる、武名を上げる事が出来る、そう思ったのであろう。だから甲斐守が出て来る事を待った。それに拘り過ぎた。違うかな?」
大膳大夫が“かもしれませぬ”と小さい声で答えた。
「狙いは悪くない。だが相手の出方を待つだけではならぬ。圧力をかけながら待つべきであったな」
「……圧力でございますか……、東海道に兵を出すべきであったと?」
「なんだ、分かっているではないか。大膳大夫、甲斐守に勝つ必要は無いのだ。城を落とす必要もない。だがその方が東海道に兵を出せば甲斐守は無視する事は出来ぬ、そちらに対応せねばならん。岩殿城を如何すべきかと悩んでいる甲斐守にとっては何よりも嫌な事だ、苛立つであろうな」
「確かに」
大膳大夫が頷いた。
「そうなれば甲斐守も思い切って甲斐に兵を出す事は出来なかったかもしれぬ。兵が少なければ包囲を打ち破れぬからな」
「なるほど」
「まあ、そう言えるのも終わったからであってな。俺もその方の立場であれば同じように待ったかもしれぬ。余り気にせずに良い経験をしたと思う事だ」
慰めにはならんか、大膳大夫の表情は沈んだままだ。
「甲斐守、なかなかの武略よ。いや、あれは武略かな? どうも乾坤一擲の博奕のようにも見えるが」
「博奕、にございますか」
「うむ」
不思議そうな顔をしている。
「追い詰められて死に物狂いになったのであろう」
「そうかもしれませぬ」
大膳大夫が頷いた。家康にはそういうところが有る。初動は決して速くない。周囲の反応を確かめるため遅いのだ。弱小勢力の為、周りを伺う。だが追い詰められると破れかぶれの博奕に出る。史実では三方ヶ原の戦い、この世界では北条と組んでの信長殺し、そして今回の後詰……。
「今頃は余りに上手く行ったと拍子抜けしているやもしれぬ。或いは自分は運が良いとでも言って周囲を鼓舞しているか……」
「某は武運に恵まれませぬ」
苦渋に満ちた声だった。二十歳前の若い男の出す声じゃない。余程に堪えている。わざと声を上げて笑ってやった。
「笑止な事よ」
「……笑止、にございますか?」
驚いている、落ち込むよりは良い。
「ああ、甲斐守が自分が運が良い等と言って周囲を鼓舞しているなら笑止でしかないな。大膳大夫、その方が武運に恵まれぬと言うのも同じだ。何も分かっておらぬ」
「……」
「良く見よ、甲斐守に将来が有るか? 甲斐を失い相模一国に押し込められた。会津の蘆名はとても頼りにはならぬ。この先どうやって徳川の家を保つ、どうやって大きくする?」
「……」
「小田原城が有るか? だがそれが何の役に立つ。甲斐守はもうあの城から離れられぬぞ。離れれば潰される、或いは城を奪われる。かつての北条の様にな。それを恐れてあの城で居竦んでいるしかあるまい。大膳大夫、何処に徳川の将来が有るのだ?」
大膳大夫が“なるほど”と呟いた。重蔵、宮内少輔、舅殿、曽衣、主税が頷いている。
「甲斐守がそれで周囲を鼓舞しているのなら哀れな事よ。甲斐守自身がその哀れさを噛み締めていよう」
「……」
「武運に恵まれぬと言ったな、大膳大夫。確かに甲斐守にしてやられた。一千程の死傷者を出した。だがその方は四万近い兵を動かすのだ。此度の敗戦など掠り傷でしかあるまい。俺の腹の傷と同じだ。痛くも無ければ痒くも有るまい。いや、多少はむず痒いか。何を気に病む事が有る」
「それは……」
死んだ兵には悪いがそれが事実だ。いや、そう思わなければ戦など出来ない。戦えと命じる事は死ねと命じる事なのだ。生きて帰れた奴はたまたま運が良かっただけだ。
「その方は負けた事が無い。それ故此度の敗戦を重く感じているのだろう。だが負けた時こそ冷静にならねばならぬ。冷静になれば此度の敗戦など大した事では無いと分かる筈だ」
「……ですが、周囲は某の事を頼り無いと思いましょう。口惜しゅうございます」
大膳大夫がポロポロと涙を零した。
「泣くな」
「……」
泣き止まない。
「泣くな! 泣く暇が有ったら考えろ! 動け! 朽木大膳大夫は敗戦などものともせぬと皆に示せ! それが大将であろう!」
思わず怒鳴りつけていた。泣き止んだ。俺を見ている。
「大膳大夫、わざわざの見舞い、大儀であったな。だが俺はこの通り元気だ。心配は要らぬ。親孝行なのは嬉しいが心配は程々にな」
「……父上」
大膳大夫が呆然と俺を見ている。
「駿府に戻るが良い。あそこにはその方を待っている者達が居る。その方が居らぬ事を不安に思っていよう」
今度は俺では無く舅殿に視線を向けた。舅殿が微かに頷くのが見えた。
「新たに弟、妹が生まれている。顔を見て行け」
「はい」
「奈津の事、労わってやれよ。初産で不安な筈だからな」
「はい」
「俺への気遣いは無用だ。思う様にやれ、その方にはそれが出来るのだ」
「はい」
駄目だな。全然声に力が無い。
「俺は九州へ兵を出す。おそらく来年には九州の平定が済むだろう。その後は天下の政の仕組みを考えようと思っている」
「天下の政の仕組み、でございますか?」
「うむ。その時はその方の考えも聞く事が有ろう。頼むぞ、その方は俺の後を継ぐのだ」
「はっ」
ようやく声に力が戻って来た。
大膳大夫が俺の前を下がると舅殿が話しかけてきた。
「歯痒うございますか?」
「多少はそういう部分は有る。此度の敗戦など気にする事は無いのだ。この程度の敗戦で朽木家が揺らぐ様な事は無い。そうであろう?」
皆が頷いた。長篠の戦の様な大敗を喫したわけでは無い。徳川秀忠の様に決戦に間に合わなかったわけでもないのだ。
「良くやっているのは分かっている。苦労をさせていると思う、哀れだともな。だが耐えて貰わねばならん。そう思うとな、如何声をかけて良いか分からぬ。気が付けば怒鳴っていた」
思わず溜息が出た。舅殿が俺を痛ましそうに見ていた。いや重蔵、宮内少輔、曽衣、主税も同じ様な眼で俺を見ていた。哀れまれているのは俺も同じか。
「……大殿は負けた事がございませぬ。御屋形様にすれば規模はともかく負けたという事を気になさるのでございましょう」
「舅殿、負けた事は無いかもしれぬが苦い想いをした事は何度も有る。勝ったとは喜べなかった事もな」
一向一揆にはそのしつこさに手を焼かされた。伊勢の北畠には何度も煮え湯を飲まされた。備前、美作では怪我をした。義輝、義昭の身勝手さには苛立たされるばかりだった。土佐の問題では……、思い出したくもない。楽に勝ってきたわけでは無いのだ。……昔は泣いてる暇など無かった。周りは敵だらけだった。大きくなって泣かずとも済むようになった。それだけだ。だがそういう部分は見えないのだろう。見えるのは華やかな部分だけだ。
徳川甲斐守家康か、しぶといからな、荷は重いかもしれん。だが少しずつにせよ追い込んでいるのだ。焦る事無く攻めて行けば良い。相撲で言えば横綱と十両ぐらいの差は有るだろう。いずれは力負けする筈だ……。
「舅殿、舅殿から大膳大夫に文を書いてやってくれぬか」
俺が頼むと舅殿が目を瞠った。
「御自らお書きになっては如何でございます?」
「俺はどう書いてよいか分からぬ。何を書いても大膳大夫の為にはならぬような気がするのでな。頼む」
「……分かりました」
舅殿が頷いた。耐えて貰わねばならん、耐えて貰わねば……。