足利左馬頭義尋
禎兆二年(1582年) 九月下旬 山城国葛野・愛宕郡 京都奉行所 朽木基綱
朽木の京都支配の拠点、京都奉行所の大広間には大勢の人間が集まっていた。上段には俺、左右には朽木の重臣達が揃っている。長宗我部宮内少輔、飛鳥井曽衣、黒野重蔵、平井加賀守、伊勢兵庫頭、小山田左兵衛尉、林佐渡守、不破太郎左衛門尉、織田三十郎、織田彦七郎、織田九郎。希望者だけを京に呼んだんだが殆どが新参の者になった。近江出身の古参の重臣達は来たがらなかった。主税もだ。足利はもう沢山だという事らしい。羨ましい話だ。俺もそう言いたいよ。
そして別室には笠山敬三郎、笠山敬四郎、多賀新之助、鈴村八郎衛門、北畠次郎達が万一に備え屈強な男達を率いて控えている。奉行所の周囲は秋葉九兵衛、
千住嘉兵衛がそれぞれ千の兵を率いて警備に当たり小兵衛率いる八門、千賀地半蔵率いる伊賀衆も周囲を警戒している。槙島城にも五千の兵が有る事を思えば厳重警戒だ。
万一というのは俺を殺そうとする事だが、まあ今日は無いだろう。もっとも念のために鎖帷子は身に纏っている。俺だけじゃない、この場に居る全員が纏っている。舅殿、飛鳥井曽衣、林佐渡守は内心では重いとぼやいているだろう。三人とも歳だからな。そして脇差は皆長めの物を差している。本来なら脇差は刃渡り一尺から二尺だが俺が差しているのは二尺三寸の長脇差だ。柄の部分も長い。銘は兼信とある。朽木の刀鍛冶で関兼匡の弟子だ。未だ若いが評判は良いらしい。
「足利左馬頭様、お見えにございます」
声を張り上げたのは武田与三郎貞興だった。緊張しているのか少し声が硬い。与三郎は伊勢兵庫頭の次男で武田の菊姫を娶り武田の姓を名乗っている。父親の兵庫頭から京の施政について学んでいる様だ。夫婦仲も良いらしい。その辺りは真田の恭から時々報告が有る。
直垂姿の若い、いや少年が現れた。足利左馬頭義尋か。未だ身体は出来上がっていない、華奢で背が低いにも拘らず肩の辺りが盛り上がっているのが分かった。嫌な気分だ、栄養失調のプロレスラー、義昭に似ていると思った。左馬頭の後ろから幕臣、いや足利家臣が四人現れた。三淵大和守、槙島玄蕃頭、上野中務少輔、大舘十郎。この四人が足利の重臣という事らしい。大舘十郎は若いが他の三人は年を取ったな。都落ちは堪えただろう。
「御初に御目にかかりまする。足利左馬頭義尋にございまする」
少年が頭を下げた。後ろの四人も頭を下げた。
「朽木基綱だ。良く参られたな、左馬頭殿」
「はっ」
「御父上の事、残念であった。お悔やみ申し上げる」
「御丁寧な御言葉、有難うございまする。それから左馬頭への推任、真に有り難く心から御礼申し上げまする」
何処かぎこちないな。顔も強張っている。多分後ろに居る連中にこういう会話になるからこういう風に答えろと教え込まれたのだろう。額に汗が浮かんでいるのが見えた、緊張しているようだ。数えで十一歳だったな。現代なら小学五年生だ。緊張するのも無理は無いか……。少しだけ左馬頭が哀れに思えた。少しだけだ。
「御父上とは色々と有った。最終的には敵対する事に成ってしまった。和解出来るかと思ったがその直前にあのような事が起きてしまった。報せを聞いた時は驚いたが悲しくも有った。真に御労しい事であった」
「……」
最初に聞いた時も周囲に言った事だ。俺が義昭の死を悼んでいるのだと皆も思うだろう。左馬頭もそう思ってくれれば良いのだが……。
「左馬頭殿が薩摩から京に戻ってくれた事には感謝している。決して粗略には扱わぬ故安心して良い」
「有難うございまする。お願いがございまする」
「願い? 何かな?」
はて、何だろう? 後ろの連中も訝しげな表情をしている。領地かな? 或いは官位? 幕府は開かないから征夷大将軍をとでも言うのかな? だとしたら面倒な事になる。足利の願い事というと碌な事が無い。嫌な予感がした。溜息が出そうだ、聞きたくない……。
「御助け下さい! 殺されまする!」
はあ? 何だ? 殺されるって?
「この者達に殺されまする。父はこの者達に殺されました! 次は私です! 御助け下さい!」
左馬頭が振り返って後退りながら四人を指し示した。四人は驚愕している。“左馬頭様”、“御戯れを”等と言っている。“寄るな!”と言ってまた左馬頭が後ずさった。どうなってるんだ、これ。仲間割れか? 朽木の家臣達も顔を見合わせている。予想外の展開だ。
「容易ならぬ事だ。左馬頭殿、真か?」
「真にございまする!」
左馬頭が此方を振り向いた。
「証拠もございまする! これに」
左馬頭がにじり寄った。胸を左手で押さえる。島津、或いは教如との書状かな。後ろの連中から奪ったか。
四人が左馬頭に近寄ろうとした。気配を察したのだろう、左馬頭が振り返り後退りながら“近寄るな!”と金切り声を上げた。
「その四人を取り押さえろ!」
俺の命に長宗我部宮内少輔達が立ち上がった。四人が脇差に手をかける。別室から笠山敬三郎、敬四郎親子、多賀新之助、鈴村八郎衛門、北畠次郎が現れた。当世具足に陣羽織を身に着けている。後ろからは腹巻をした武者が現れた。鎧の音が何とも頼もしい。
多勢に無勢、武装も圧倒的な差が有る。四人は諦めたのだろう。脇差からは手を離した。
「左馬頭様の誤解でござる」
「御手向かいは致さぬ、御調べ頂ければ誤解だと判明する筈」
上野中務少輔、大館十郎が大きな声で自分達の無実を訴えた。
「死ね!」
甲高い声と共に何時の間にか左馬頭が眼前に迫っていた。右手には脇差が、白い刃が迫ってきた。拙いと思う間も無く腹を刺された。痛い! と思った時には左馬頭の顔を殴っていた。ガツン! という凄い音と共に左馬頭が左に吹っ飛んだ!
「おのれ!」
起き上がって左馬頭が凄い形相で俺を睨んだ。立烏帽子は吹っ飛び唇からは血が出ている。こいつ、吹っ飛んだのに脇差を離していない。執念だな。寒気がしたが負けてはいられない。立ち上がって体勢を整えた。長脇差に手をかける。少し右手が痺れた。ドジを踏んだ、殴るのではなく張り倒すのだった。さっきからドジを踏んでばかりだ。
「大殿!」
「騒ぐな! その者達を押さえろ!」
俺の命令を受けて笠山敬三郎達が足利の家臣四名を取り押さえた。重蔵が動く、“手出し無用!”と言って動きを抑えた。この阿呆は俺が押さえる。
「小僧、俺に一太刀斬り付けたのは褒めてやる。だがその程度の突きでは俺は殺せぬな」
嘲笑すると“おのれ”と言って左馬頭の顔が紅潮した。脇差を固く握り締めるのが見えた。大丈夫だ、俺は落ち着いている。刃渡り一尺程か。柄の握りの部分が短い。重心を爪先に掛けた。
「死ね!」
左馬頭が突っ込んできた! 右は駄目だ、追われる。左に避けつつ長脇差を抜いて十分に腰を落として気合いもろとも打ち下ろした!
「フン!」
カツンと音がして左馬頭が脇差を取り落とし、いや鍔元から折れた! 呆然としている左馬頭を渾身の力で蹴飛ばす! 左馬頭が吹っ飛んだ!
「その阿呆を取り押さえろ!」
俺が命じるよりも早く兵が飛び掛かっていた。
「敬三郎、その者共を別々の部屋に監禁しろ。俺の許しなく何人といえども接触する事は許さぬ。宮内少輔、曽衣、その者共を厳しく調べろ。左兵衛尉、秋葉九兵衛と共に足利の家臣共を全て捕えろ、その者共も同様にしろ!」
長宗我部宮内少輔、飛鳥井曽衣、小山田左兵衛尉が俺の指示を受けて動く。左馬頭、足利の家臣達が引き立てられた。“成り上がり!”、“謀反人!”と俺を非難する左馬頭の言葉が聞こえた。成り上がり? 謀反人? 笑わせるな、足利とて最初から天下人だったわけじゃないだろう。成り上がり、謀反人はそちらの方が先だ。
「大殿、大事有りませぬか?」
近付いて来た重蔵が心配そうな表情で気遣ってくれた。右手には懐紙で包んだ脇差の刃が有った。斬ったのか? 折ったのか? それとも折れたのか……。右手に持った兼信の長脇差を見た。刃毀れは無かった。不思議に思いつつ鞘に納めた。
「大事無い。鎖帷子が役に立った。多少は傷を負ったかもしれぬが掠り傷だろう」
腹の左側の衣服が切られている。
「高を括ってはなりませぬ。手当を致しましょう。傷をお見せくだされ」
「この場でか?」
重蔵が怖い顔で頷く。そして晒しを用意しろと大声で怒鳴った。
「大殿、重蔵殿の言う通りになさいませ」
舅殿も怖い顔で俺を睨んでいる。やれやれだ。
上半身を諸肌脱ぎになって腹部の左側を見せた。少し切れている。大きさは五分程か。僅かだが出血もしていた。
「鎖帷子も御脱ぎ下され」
「分かった」
腰紐を解いて胴回りを緩める。上から鎖帷子を脱ごうとすると重蔵が手伝ってくれた。少し傷が痛んだ。
重蔵が懐から塗り薬を出し傷に塗ってくれた。少しひりひりするような感じがした。何から作った薬なのかは聞かなかった。サンショウウオの粉末を温泉のお湯で捏ねたなんて言われたら治る傷も治らなくなる。
「危ない所でございましたな、左馬頭様が大殿を突かれた時はヒヤリとしました」
「真、大殿は御運がよろしい」
林佐渡守、不破太郎左衛門尉の言葉に皆が頷いた。鎖帷子は万能ではない、斬撃に比べると刺突に弱い。刺突の方が力が一点に集中し易いせいだろう。防ぎきれないのだ。
「左馬頭は背が低かった。斬ったのでは俺に致命傷を与えられぬと思ったのだろうな」
間違ってはいない。身に帯びていた武器は脇差だ。人を確実に殺すのなら遠くから斬るのではなく近付いて刺すのが武士の心得だ。だが十一歳の子供だ、力が十分ではなかった。二、三年後ならもう少し違った結果になったかもしれない。それに刃渡りが短かった、柄も短い。
あと一尺刃渡りが長ければもう少し俺を深く突く事が出来た。そして柄が長ければ突いた後に両手で脇差を押し込む事も出来た筈だ。俺は右手は痺れていたが柄が長かったから左手を添えることが出来た。だから渾身の力で打ち下ろす事が出来た。柄の差で勝ったな。だが使用する武器を選ぶのも武略だ。ついでに言えばこちらの長脇差を見て用心していると察するべきだった。小僧、まだまだ未熟だ。
重蔵が傷口に布を当て届いた晒しを巻いていく。一回、二回、三回、四回、五回まで巻いて終わった。服を着ると皆にその場に坐れと命じた。
「先程の騒動、如何思う? 示し合わせての事と思うか?」
皆が微妙な表情をした。
「確かに家臣達に殺されると怯えて逃げるように見せて大殿に近付きましたな。家臣達が左馬頭様に近付き、左馬頭様は更に逃げる事で大殿に近付く。一見すると協力しているように見えますが……」
織田三十郎は首を傾げている、否定的だ。三十郎の言葉に頷いている人間が居る、同じ想いらしい。そうだろうな、左馬頭の独断だろう。しかし十一歳の子供に命を狙われるか、余程に嫌われたな。
「左馬頭の独断なら島津にとっては予想外の事態だろう。まあ今更退けんだろうが……」
「……」
「俺が深手を負って暫くは動けぬと噂を立てさせよう。九州の諸大名は大友領の奪い合いで忙しくなる筈だ」
皆が頷いた。上手く行けば秋月、龍造寺、島津で潰し合いが始まるだろう。潰し合いで疲弊してくれれば万々歳だ。
「左馬頭と家臣達だが、取り調べの後は腹を切らせる事に成ろう。兵庫頭、済まぬな、伊勢守との約束は果たせなくなった」
兵庫頭が首を横に振った。
「已むを得ぬ事にございます。大殿の御命を狙い傷を負わせた以上、放置は出来ませぬ。父も納得致しておりましょう」
そうとしか言いようがないよな。しかし十一歳の子供に腹を切らせるか、武家の世界は酷いわ。せめてもの償いだ、平島公方家への扱いを重くしよう。義助が中納言だったな、大納言へ進めようか。それと義助には弟が居た、新たに一家を構えさせよう。畿内へ呼ぼうか? これから四国は不安定になる。争いに巻き込まれれば平島公方家そのものの存続が危うくなるかもしれない。打診してみよう。彼らが四国を如何見ているかという事も分かる筈だ。
「輿を用意しろ。槙島城に移る。十日程槙島城で過ごす。俺が深手を負って槙島城で養生していると皆が思うだろう」
この京には島津、龍造寺、秋月等の九州の諸大名の間者が居る筈だ。連中の眼を欺かなくては……。槙島城では横になって過ごすとしようか……。
禎兆二年(1582年) 九月下旬 駿河国安倍郡 府中 駿府城 朽木堅綱
評定が終えるとホッとした様な空気が漂った。領内の米の出来具合は豊作とは言えないが悪くはないらしい。近年、駿河は戦続きで農村は疲弊している。不作に成らずに済んだ事に感謝だ。
「鬱陶しい雨ですな。良く降るものだ」
池田勝三郎が外を憂鬱そうに見ている。此処四、五日雨が続いているから気が塞ぐのだろう。
「勝三郎、駿河は雨が多いのか?」
問い掛けると勝三郎が“さて”と小首を傾げた。
「尾張に比べれば幾分多いかもしれませぬ」
「この時期か?」
「左様、夏の終わりから秋の終わりが多いかと」
勝三郎が私を見た。
「御屋形様、近江は如何にございましょう?」
「近江か、……雨はこの時期よりも梅雨時の方が多かったような気がする。幼い頃は塩津浜、清水山の城に居たが雪が多かった。清水山では半兵衛や新太郎と雪合戦で遊んだものだ。雪達磨も作って貰ったな」
半兵衛と新太郎が苦笑しながら“左様な事もございました”、“真に”と言うと彼方此方から笑い声が上がった。
「近江は雪が多いのでございますか?」
柴田権六が不思議そうに問い掛けてきた。鍾馗のような剛い髭を扱いている。武勇の誉れ高い男に相応しい容貌だ。
「湖北から湖西は酷く雪が多い。今は朽木の本拠は南近江の八幡山だがやはり冬には雪が積もる。意外かもしれぬが近江は山が多く雪が多いのだ」
“ほう”という声が彼方此方から上がった。
「まあそうですな、この駿河も山の方は雪が降りまする」
佐久間右衛門尉が言うと“冬の富士は美しい”、“真に”、“いくら見ても見飽きぬ”と声が上がった。そうだな、雪を被った富士の美しさは格別だ。
「如何した? 郷左衛門、彦次郎。先程から浮かぬ顔だが」
甘利郷左衛門、浅利彦次郎の二人が“はっ”と畏まった。
「こうも雨が続きますと甲斐は如何かと」
「出水、或いは洪水になっているのではないかと思いまして」
シンとした。
冷害で米の収穫に被害が出るだろうと思っていたが出水と洪水か。信玄公が造った堤防も結局は補修がされず打ち捨てられたと聞く。水害は今も甲斐の百姓を苦しめている。戦に負けるという事は領民達にも重く圧し掛かるのだ。甲斐は凶作、或いは飢饉になるやもしれぬな。銭を払うだけでは足りぬかもしれぬ。上杉の義兄に相談した方が良いだろう。
「御屋形様」
半兵衛が私を呼んだ。声が硬い。如何いう事だ?
「急ぎ甲斐へ兵を出されるべきかと思いまする」
座がざわめいた。先程までの柔らかな空気が消え皆の眼が鋭さを増した。
「しかし徳川は未だ動かぬと」
半兵衛が首を横に振った。
「郷左衛門殿、彦次郎殿の懸念が当たっていれば甲斐国内の街道は泥濘、或いは水没しているやもしれませぬ」
「まさか……」
呆然としていると半兵衛が首を横に振った。
「まさかではございませぬ。徳川は我等よりも甲斐の事を良く知っておりまする。この時期に雨が多く降る事、それによる水害が起きる事を利用しようと考えたとしてもおかしくはございませぬ。我等の後詰が無ければその分だけ徳川は有利になるのです」
有り得るだろうか? 郷左衛門、彦次郎の顔が強張っている。有り得る、万一に備えるのが戦だ。
「分かった。半兵衛の言う通りだ。それに秋になるのに徳川に動きが見えぬ事も訝しい。皆、出陣の用意を致せ!」
“おう!”と声が上がった。誰も反対しない、皆も危険だと見ているのかもしれない。してやられたか、焼け付くような焦りを感じた。急がなければならない……。