天下の大権
禎兆二年(1582年) 九月上旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 伊勢貞良
「兵庫頭、良くやってくれた」
「はっ」
上座で大殿が満足そうに笑みを浮かべていた。
「源氏長者への就任だけでなく正二位への昇進とは、朝廷も大分奮発したな」
「左馬頭様の京への帰還は認めても我儘は認めぬという事でございましょう」
「折角九州から戻ったと言うのに、手荒い歓迎だ」
大殿が軽やかに笑う。
「それに源氏長者となれば征夷大将軍への就任も容易になりまする」
「なるほど、狙いはそちらかな」
「はい」
大殿が笑いを収められた。先月の大評定で大殿が源氏長者への就任を望まれた。それを受けて朝廷との折衝を行ったが淳和奨学院両院別当職への就任から源氏長者への就任は思った以上に簡単に実現した。というよりも朝廷は大殿を源氏長者にしたかったのだとしか思えない。その意味する所は明白だろう。
「それと左馬頭様が征夷大将軍職を望まれましても大殿を越えての就任は有り得ぬと撥ねつける事が出来ましょう」
「うむ。となると朝廷は征夷大将軍職は足利の家職という印象を打ち消そうとしているのかもしれぬな」
なるほど、有り得るかもしれない。足利の持つ特権意識を打ち砕こうという事か……。
「では正二位への昇進を兵庫頭は何と読む」
大殿がじっと私を見た。
「はっ、おそらくは太政大臣就任への地均しかと思いまする。太政大臣は正一位、従一位が官位相当となりますれば……」
大殿が微かに御笑いになった。
「公家というのは喰えぬな。何とも強かだ。両方用意したか」
「はっ」
征夷大将軍として幕府を開くか、太政大臣として相国府を開くか。大殿を怒らせたくないのだろう。五摂家は慎重に動いている。大殿が征夷大将軍に就くのを望みながらも太政大臣就任への準備も怠らない。
「ふむ、征夷大将軍か。……それほどまでに拘るのであれば利用する事を考えた方が良いかもしれぬな」
「大殿?」
まさか、幕府を開くのか?
「大膳大夫に征夷大将軍を貰うか」
「は? それは御屋形様に幕府を開かせるとの御考えで?」
大殿が声を上げて笑った。大殿が楽しい悪戯を思い付いたかの様に眼を輝かせている。
「そうではない、朽木の棟梁は太政大臣になって相国府を開く。跡取りは征夷大将軍の称号を受け棟梁を助ける。如何かな? これは」
「それは、……征夷大将軍を朽木家の世継ぎの称号になされると」
「その通りだ、面白かろう」
大殿がまた声を上げて笑った。
何という事を御考えになるのか……。もしこれを左馬頭様が知れば如何思うであろう。征夷大将軍は足利家の家職、そして武家の棟梁の地位であった。だが大殿はそれを根こそぎ否定しようとしている。これが実現すれば征夷大将軍は何の権限も無い、朽木家の世継ぎを表すだけの称号になる。そして太政大臣こそが天下人なのだと理解するだろう。
「太閤殿下、関白殿下に御伝え致しますか?」
「いや、それには及ばぬ。近々太閤殿下に会う、その時に俺から伝えよう。他にも話さねばならん事が有るのでな」
「はっ」
「八門から報せが有った。左馬頭は大分怒っているらしい」
「源氏長者の件でございますか?」
大殿が首を横に振られた。
「それも有るが俺が主人面するのが気にいらぬらしい。俺に頭を下げるのが我慢出来ぬらしいな」
これまで義昭公も幕臣達も大殿を悪し様に罵ってきた筈、左馬頭様はそれを間近で見てこられた。大殿に臣従する事に納得がいかぬのだろうという事は容易に想像が付く。
「足利の当主として天下に立とうとするよりも俺の下に居た方が安全なのだが……」
「真に」
「足利の血も細くなってしまった。関東公方家は途絶え残っているのは阿波の平島公方家と左馬頭ぐらいのものであろう」
「関東の安房に小弓公方家の血を引く方が居ると聞きまする」
大殿が“ほう”と声を発した。
「そうか、未だ残っていたか。だがいずれにしても心細い事だ」
その通りだ。長い戦乱の中で力を失い少しずつ血が細くなっていった。同族での殺し合いも原因の一つだ。
「その方の父、亡き伊勢守との約束も有る。左馬頭は力は無いが程々の名門として存続させていく。良いな?」
「はっ」
「例え足利家臣の者達が馬鹿げた事をしてもそれは変わらぬ。連中も左馬頭は無関係という形を取るであろうしな」
「御配慮、有難うございまする。父も喜びましょう」
律儀な御方だ。今なら約束を反故にも出来ように……。
「謁見は何時頃になりましょう」
「今月の末だ、今は堺見物に余念が無いらしい」
「時間稼ぎでございますか?」
大殿が“だろうな”と頷かれた。
「島津はかなりの勢いで大友を攻めている。大友宗麟は防戦一方、いや防戦すら儘ならん状態の様だ。居城の臼杵城は難攻不落の堅城の様だが何時まで耐えられるか……」
「……」
「大友が危ういとなれば俺が慌てるとでも思っているのだろう。そこに付け込もうと言うのだろうが……、困ったものだ」
憂欝そうな御顔だ。足利には振り回される、そんな想いが有るのだろう。
「ところで大殿、太閤殿下より二の姫様の事についてお訊ねがございました。既に嫁ぎ先は決まっているのかと」
「鶴の事か?」
「はい」
「いや、決まっていないが……」
大殿が困惑している。
「兵庫頭、まさかとは思うが……」
「はっ、太閤殿下は二の姫様を御嫡男内大臣様の北の方にとお望みでございます」
「そうか、……悪い縁ではない。いや、良い御縁だ。こちらとしては願っても無い事だが……」
大殿が小首を傾げている。
「如何なされましたか? 何か御不審でも」
「いや、近衛家と朽木家が縁を結ぶ等という事が有るとは思わなかったのでな。少々困惑した」
大殿が微かに笑みを漏らした。苦笑か?
「朽木家は京を押さえ天下を統一せんと致しております。近衛家が朽木家との強い結び付きを求めるのは不思議では有りませぬ」
「そうだな、不思議ではないな」
そう、不思議ではない。近衛家は一の姫である竹姫様を養女とし上杉家に嫁がせた。これによって近衛家は上杉家と朽木家という天下の二強と縁を結ぶ事になった。今鶴姫様を内大臣様の北の方にというのはその結び付きを更に強めようというのだろう。上杉家と朽木家は相互に娘を嫁がせ縁を重ねている。近衛家は鶴姫様を迎える事で朽木家と縁を強め間接的に上杉家との縁も強めようとしているのは間違いない。
「大殿、言うまでも無い事ですがこれから朽木家と縁を結びたがる公家は益々増えましょう」
「うむ、そうだな。では期待に応えるために子作りに精を出すとしようか」
「はっ、それが宜しいかと」
敢えて生真面目に答えると大殿が声を上げて御笑いになった。冗談と御取りになったのか、だがこれは冗談ではない。
天下を治めるには武力と財力が要る。そしてもう一つ、血が要る。天下の要所に血を張り巡らせる事で強い絆を創らねば天下は安定しない。足利の幕府が不安定だったのは幕府創成時にそれが出来なかった事が一因として有る。内部で争いを起こしてしまい血を使って絆を強める事が出来なかった。
朽木家は上杉家と強い絆を結んだ。これは大きい。御屋形様に御子が出来るが男子ならその絆は更に強まるだろう。そして御次男、次郎右衛門佐綱様が尾張に在る。少しずつ血が張り巡らされていく。近衛家との縁談もその一つだ。飛鳥井、一条、西園寺は朽木というよりも飛鳥井の血脈と言える。朽木との繋がりは決して強くない。近衛家との縁談はその意味でも大きい。実現すれば朝廷に対する影響力は今一つ大きくなったといえるだろう。
禎兆二年(1582年) 九月中旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 朽木基綱
「ではこの話に異存は無いと?」
「はっ、良い御話しと思いまする」
俺が答えると太閤、近衛前久が嬉しそうに笑い声を上げた。異存は無い、朽木の女達もこの話には大喜びだ。
「良かったのう、内府。嫁御が決まったぞ」
「はっ、有難うございまする」
内大臣近衛前基が頭を下げた。
「不束な娘なれど良しなに願いまする」
「こちらこそ良しなに願いまする」
未来の舅と娘婿が挨拶を交わした。近衛前基、あまり公家っぽくないな。十代の後半、すらっとしてはいるがひ弱そうな感じはしない。これから歳を重ねれば逞しさが増すだろう。もっとも父親の太閤も公家の持つひ弱さとは無縁の男だ。似ているのだと思った。
「内大臣殿は竹とは面識は御有りだろうが鶴とは面識が御有りかな?」
「清水山城にて何度か」
太閤が“ほほほほほほ”と笑った。
「未だ赤子であった鶴姫を抱いてあやしたそうじゃ」
「それはそれは」
前基が顔を赤らめている。そうか、この二人が清水山城に来ていたのは十年程前だから鶴は未だ生まれたばかりか。義昭が京に戻った直後だった。もうあれから十年か……。
「不思議な縁よの」
「真に」
太閤と二人、頷き合った。あの時俺は二十代前半、目の前の太閤に天下を獲れと嗾けられたのだった。……不思議だな、その十年前は戦国大名として自立した時だった。ほぼ十年単位で節目が訪れている。
「左馬頭との謁見は今月の末と聞いたが」
「はい。その後、九州遠征に。年内に軍を発し来年には終わらせようと考えております」
太閤がじっと俺を見た。
「身辺には気を付ける事じゃ」
「はい」
太閤が頷いた。内大臣も訝しそうな表情はしていない。知っているのだろう。
「九州遠征が終わりましたら太政大臣に就任したいと思っております」
また太閤がじっと俺を見た。今度は内大臣も俺をじっと見た。
「そうか、幕府は開かぬか、相国府を選ぶのじゃな」
「はい」
「関白は、残念であろうな」
太閤殿下、眼が笑っているよ。多分、関白の努力を醒めた目で見ていたんだろう。無駄な事をするって。
「征夷大将軍は大膳大夫に頂ければと思いまする」
「ほう」
「朽木の跡継ぎに相応しいかと」
「ほほほほほほ」
太閤殿下が口元を抑えながら笑い出した。
「当主は太政大臣、跡継ぎは征夷大将軍か。面白い事を考えるものよ。そうは思わぬか、内府」
「真に」
太閤と内大臣、親子で笑っている。
「征夷大将軍を有名無実にしようというのだな、前内府」
太閤が俺の顔を覗き込むように見た。
「それだけでは有りませぬ。他の者に征夷大将軍を悪用されぬためにございます」
「なるほど、拘る者が居るからのう」
太閤と内大臣が顔を見合わせて頷き合っている。その通りだ、足利だけじゃない。公家にも関白を始めとして征夷大将軍をと薦めて来る者が居る。だから、征夷大将軍を無視するのでは無く、これまでとは別な形で使う。武家の棟梁の地位では無く、朽木家の世継ぎを表す役職として……。
「元気かな、大膳大夫は。甲斐で城攻めをしていると聞いたが」
「岩殿城という堅城を締め上げておりまする」
「ほう、そうか」
締め上げている。このままで行けば城は落ちる。その前に徳川が後詰に出る筈だ。その徳川を叩いて城を落とす……。狙いは良い。だが気に入らん。俺なら東海道でも軍事行動を起こす。そして甲斐守家康を苛立たせる……。助言するか? いや、止めよう。
「太政大臣就任時には畏れ多い事では有りますが帝より格別な詔勅を戴きたいと思います」
あ、二人の眼が鋭くなった。やはり公家は帝に関わる事には煩い。
「如何様な詔勅かな?」
「されば、今天下の大権を相国に委ね天下の政を執らしむ。天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり。よくよく心得て任を全うせよ。……如何でございましょうか?」
太閤が唸り声を上げた。内大臣は眼が飛び出そうな表情だ。
「一人の天下に非ずして天下万民の天下なり、か。それは足利の事を言うておるのかな?」
「はっ、足利にはそれが無かったと思います。それゆえ天下を私し戦乱が起きた。他山の石と成すべきでございましょう。天下が乱れれば朝廷も衰微致します。二度とあのような事が有ってはなりませぬ。一つ間違えば朝廷は無くなっていたかもしれぬのです」
また太閤が唸り声を上げた。
天下万民の天下、朝廷にとっては面白くない言葉かもしれない。天下は帝の物という想いも有るだろうから一人の天下という言葉には帝への批判も有るのかとも思うだろう。だが世の中が乱れれば朝廷が困窮するのは事実だ。その所為で応仁の乱以降、朝廷は酷く惨めな想いをせざるを得なかった。天下が繁栄してこそ朝廷も安定する。となれば為政者は天下万民のためにという覚悟で政治を行うべきだろう。それは朝廷への軽視、帝への軽視とは別な次元で捉えるべき問題だ。その事を言うと太閤、内大臣が大きく頷いた。
「いずれ某が死んだ場合、或いは太政大臣を辞した場合は帝へ天下の大権を奉還するという形式をとりたいと思います」
太閤が眉を寄せた。考えている。
「なるほど、大権の委任と奉還か。あくまで天下は借り物と申すか」
「はい」
それで良い。その気になれば天下は朽木の物、万民のために政治を行えと言う事も出来る。だが何時かは朽木の天下も揺らぐ。
その時出て来るのが天下は朝廷の物だ、朽木は不当に奪った、だから取り返せ、朽木を討てという意見だろう。江戸時代の末期がそれだった。形式にせよ天下は借り物だと言っておけば不当に奪ったとは言えない。そして天下万民のために政を執ると言っておけば帝のために、朝廷のために朽木を討つとは言い辛くなる。いずれは国民主権へと繋がるだろう、それも悪くない。代替わり毎に詔勅を貰おう。天下は天下の天下なり、一人の天下に非ずして天下万民の天下なり。これを徹底させるのだ。
「帝には、そして帝を輔弼する諸卿には天下の大権を誰に委ねるかを選んでいただき、その者に望む役職を与えて頂ければ宜しゅうございます」
「……それは、朽木でなくても良いという事か?」
「構いませぬ」
俺が答えると太閤は黙り込んだ。内大臣は父親と俺を交互に見ている。まだまだ胆は据わっていないらしい。
選ぶという事は責任が生じるという事なのだ。一旦朽木を執政者に選べば簡単には切れない。別な人間を選んでも良いがそれによって世の中が混乱した時はその責任は当然朝廷にも及ぶ。詰まらん権力争いや面子で朝廷を危うくする事は出来ないだろう。太政大臣に反対する関白達も朝廷には世の中の動きを見定め天下の執政者を誰にするかを選ぶという責任が有るのだと理解する筈だ。朝廷の方が立場が上だと分かれば文句は言わないだろう。
朝廷には他にも権限を持たせる。日本という国の安全保障と外交問題だ。国内が統一されれば国外との関係が問題になる。条約締結、戦争等は勅許を得るという形にしよう。天下は借り物なのだ。内政はともかく外政の最終責任者は帝という事に成る。現代だって批准が有るのだからそれと思えば良い。だが時間稼ぎ等を行われて責任回避を図られるのは拙い。何らかの歯止めは要る。その辺りも考えなくては……。




