次郎右衛門佐綱
禎兆二年(1582年) 七月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「父上、次郎右衛門佐綱にございまする」
「うむ」
元服し松千代から次郎右衛門佐綱と名を変えた息子が挨拶に来た。後ろには朽木主殿、長左兵衛、石田藤左衛門、井口新左近、磯野藤二郎、町田小十郎、今福丹後守が控えている。隅立四つ目結の紋を入れた大紋直垂が良く似合うと思った。すっきりとした顔立ちが良く映える。
随分と大人びた様な気がするな。殆ど変っていない筈なんだが……。隣で小夜が“立派になって”と言って眼を潤ませていた。大膳大夫の時は不安そうだったが今回は素直に嬉しいらしい。長男と次男の違いなのだろう。やはり俺よりも小夜に似ていると思った。
「此度は良き名を賜りました事、真に有難うございまする」
「うむ、次郎右衛門」
「はっ」
「これを遣わす、受け取るが良い」
用意しておいた太刀を差し出した。次郎右衛門が前に出て受け取ると“有難うございまする”と一礼してから下がった。
「道誉一文字と言われる業物だ」
ざわめきが起きた。次郎右衛門は驚いている。まだまだ子供だな、安心した。小夜が“良かったですね”と言うと次郎右衛門が“はい”と頷いた。
「元は婆娑羅大名と謳われた佐々木道誉殿が所持していた太刀だ。足利将軍家に献上されその後朽木家に伝わった」
ざわめきは続いている。第十二代将軍足利義晴が朽木に滞在した、いや亡命した時に御爺に与えたらしい。御爺は信頼されていたんだな、感謝もされていたんだろう。俺とは豪い違いだ。義輝からは貰ったが義昭からは物なんて貰った事が無い。
「有難うございまする。ですが宜しいのでございますか?」
「俺は余り太刀には拘らぬのでな、構わぬ」
「いえ、兄上ですが」
「大膳大夫には朽木丸が有る。家督を譲った時にあれも譲った」
朽木家重代の太刀と言われているがそれ以上の事は分からん太刀だ。俺は使った事が無い。
「ま、暇な時に眺めて楽しむのだな」
「楽しむのでございますか?」
次郎右衛門が訝しんでいる。
「そうだ、戦場には持って行くな。負け戦の時は全て投げ捨て身一つで逃げるのが一番だ。捨てるのが惜しくなるような物を身に付けてはならん。命を失う事に成る。名物は使うのではなく見て楽しむものだと心得ておけ」
「はい」
目を丸くしている。可愛いわ。思わず笑い声が出た。小夜もクスクスと笑っている。
「如何した、何を驚いている」
「いえ、父上から負け戦の心得を教えて頂くとは思わなかったので……」
「一番大事な事だ。負けるのと死ぬのは違う。生きていれば再戦し勝つ事が出来る。生きる事を諦めてはいかん。逃げる事を恥じてもいかん。勝つために耐えよ、それが大将の務めだ」
「はい」
史実の信長は何度も負けた。だが最後は勝った。諦めなかった事、勝とうとする努力を続けた事がその理由だ。信長の最大の武器は頭脳よりもメンタル面での強さ、貪欲さだと思う。
「次郎右衛門、そなたには尾張に行って貰う」
「はっ!」
次郎右衛門が力強く答えて頭を下げた。
「尾張は東海道の要衝の地だ。大膳大夫が東に進むには尾張の安定が大事となる。その方は尾張を安定させ大膳大夫の力となれ」
「はい」
「尾張は今新たな城造り、町造りが始まったばかりだ。学ぶところが多かろう、励めよ」
「はい!」
次郎右衛門は眼を輝かせている。親元を離れるのを寂しいとは思わないらしい。小夜が少し悲しそうな顔をしている。胸が痛んだ。
「皆、次郎右衛門を頼むぞ」
俺が声をかけると朽木主殿、長左兵衛、石田藤左衛門、井口新左近、磯野藤二郎、町田小十郎、今福丹後守が頭を下げた。
「尾張に行ったら早めに駿府に赴き大膳大夫に挨拶をしておけ」
「はい」
「言っておくが大膳大夫に対して兄上などと狎れてはいかんぞ。元服した以上そのような態度は許されぬ事だ。大膳大夫は朽木家の当主、御屋形様と敬え。その方は朽木家の次男、その方の下には更に弟達が居る。その方が大膳大夫に狎れれば弟達も狎れる。その方が大膳大夫を敬えば弟達も敬うだろう。その事を理解しておけ。その方に佐綱と名を付けた父の気持ちを汲んでくれよ」
「はい! 父上の御気持ちを無には致しませぬ。必ずや兄、いえ御屋形様の力になりまする」
「うむ、頼むぞ」
元服したというのに説教ばかりだ。何か祝ってやりたい、いやそれ以上にこの息子に支えとなる何かを渡したい。
「……次郎右衛門、何か欲しいものは有るか? 或いは俺に訊きたい事でも良いが……」
「では頂きたい物がございます」
「ふむ、何かな?」
次郎右衛門が恥ずかしそうな表情を見せた。はて、何だろう? まさかとは思うが嫁か?
「父上御愛用の丹波焼の壺を」
「……ハハハハハハ」
思わず笑い声が出てしまった。顔は小夜に似たが嗜好は俺に似たらしい。若いのに壺か。こいつも変わり者だな。小夜も可笑しそうに口元を押さえている。いや、後ろに控える主殿達もだ。
「良かろう、持って行け。……そうだ、大膳大夫にも一つ持って行ってくれ。織田焼の壺が良いだろう。心が乱れた時は壺を愛でて心を落ち着けよと伝えてくれ」
「はい!」
次郎右衛門が嬉しそうに頷く。東海道でも壺好きが増えるかもしれない。それも悪くない、尾張は焼き物が盛んだ。良い壺が作られるだろう。楽しみだな……。
禎兆二年(1582年) 七月下旬 摂津国島上郡原村 芥川山城 平井定武
突然に大殿が芥川山城にお見えになった。供には長宗我部宮内少輔、飛鳥井曽衣、黒野重蔵、そして小姓を含め僅かな供回り。総勢五百騎ほどの小勢だ。天下を掌中に収めつつある御方には相応しくない。もっとも大袈裟な事を御嫌いになる大殿なら可笑しくも無いと言える。今でも時折領内の見回りに自ら赴くと聞く。
「如何なされました」
問い掛けると穏やかな笑みを浮かべられた。
「うむ、急に舅殿の顔が見たくなってな、寄らせて貰った」
「それは……、有り難い事ではございますがこの年寄りの顔など見ても面白くはございますまい」
「そうでもない、俺は年寄りの顔が好きだ」
周りから笑い声が起きた。宮内少輔、曽衣、重蔵の三人が苦笑している。
はて、年寄りの顔が好きというのは嘘では無いかもしれぬ。大殿は側室は多いが周囲に若い女子を侍らせるというような事はせぬ。傍に居るのは相談役である事が多い。
「進藤と目賀田が評定衆を辞めたいと言ってきた」
「左様ですか」
「うむ、相談役として傍に居てくれと言ったのだが断られた。もう歳だから許して欲しいと言われた。……寂しい事だ」
寂しい、そう思った。あの二人が表舞台から降りようとしている。
「あの二人にとって俺は良い主人で有ったのかな?」
「大殿?」
驚いて大殿の顔を見た。ぼんやりと何かを考えている。すっと視線をこちらに向けた。
「あの二人だけではない、下野守、舅殿にとって俺は良い主人だったのだろうか?」
「良い主君でございます。領地を広げ、天下を獲ろうとされている方が悪い主君で有る筈が無いでは有りませぬか」
「そうかな」
大殿は納得していない。
「俺は領地を広げた。御爺は喜んでいたな。だが足利の忠臣には成れなかった。御爺はその事を何処かで物足りなく思っていたかもしれぬ」
「……」
「俺はその事を御爺に訊かなかった。多分訊くのが怖かったからだろう。その所為で真実は分からず仕舞いだ」
「……」
「俺は六角家の人間ではない、舅殿はその事を寂しく思った事は無いか?」
思わず息を飲んだ。宮内少輔、曽衣、重蔵も驚いている。
「一度も無かったとは申しませぬ。ですが武士は良い主君を得なければなりませぬ。そうでなければ一生を後悔しましょう。家を滅ぼす事にもなります。某は朽木基綱という良い主君を得ました。それは某だけの想いではない筈にございます」
「そうか……、そうだな、そう思うしかないな。真田弾正も似た様な事を言っていた」
大殿がゆっくりと頷いた。
「進藤、目賀田の後任は駒井美作守秀勝、青地駿河守茂綱に決めた。次の評定から参加する事になる」
いつもの大殿に戻られた。駒井、青地か。駿河守は亡くなった蒲生下野守の二男だったな。青地家に養子に行った……。
「舅殿、舅殿にも評定衆に加わって欲しいのだがな」
「某も歳でございます、そろそろ楽隠居をと考えておりました」
もう年寄りの出番ではあるまい。進藤、目賀田も隠居したのだ。
「ではこの城を弥太郎に任せ相談役として俺を助けてはくれぬか」
「相談役でございますか」
「うむ、俺に舅殿の知恵を貸して欲しい。乱世を生き抜いた舅殿の知恵をな。俺にはそれが必要だ」
乱世を生き抜いた、……生き抜いただけだ。纏めつつあるのは大殿、この私の知恵などどれだけ役に立つか……。だがここまで頼まれては断れぬな。それに断れば大殿はまた悩まれるだろう。
「某で御役に立つのであれば」
「では決まりだ」
大殿が嬉しそうに笑った。良い笑顔をなされる、何とも人誑しな……。後悔はしておらぬよ、下野守殿、山城守殿、次郎左衛門尉殿。平井加賀守は良い主君を持ったのだ。それはお主達も同じ想いであろう……。
禎兆二年(1582年) 八月上旬 駿河国安倍郡 府中 駿府城 朽木堅綱
「よく来たな、松千代。いや次郎右衛門佐綱か。久しく見ぬうちに随分と変わった、頼もしくなったものだ」
背が伸びたな。顔付も凛々しくなった。やはり元服すると変わるのだろうか?
「御屋形様こそ以前よりもずっと大きく見えまする」
「何だ、次郎右衛門。随分と畏まった言い方をするではないか。御屋形様等と」
冷やかしたが次郎右衛門はニコリともしなかった。
「父上から決して狎れてはならぬと戒められております」
「父上から」
問い掛けると次郎右衛門が“はい”と頷いた。
「某が御屋形様に狎れれば弟達も御屋形様に狎れましょう。そのような事をしてはならぬと」
「……」
「元服した以上そのような態度は許されぬ、大膳大夫は朽木家の当主、御屋形様と敬えと。その方に佐綱と名を付けた父の気持ちを無にするなと」
鼻の奥にツンとした痛みが走った。目を逸らすと控えていた池田勝三郎、前田又左衛門、佐々内蔵助が頷いているのが見えた。
「勝三郎、又左衛門、内蔵助。織田家でもそうであったか?」
問い掛けると三人が頭を下げた。
「はっ、勘九郎様は格別の御扱いでございました」
「弾正忠様は勘九郎様に雑用を一切させなかったと覚えておりまする」
「織田家の世継ぎとして武将として出陣する前から弾正忠様に連れられ、戦を学んでおられました」
「なるほど、そうか」
織田家では弾正忠殿の代に家督争いが有ったと聞く。厳しくけじめを付けたのはそのせいかもしれない。朽木家ではそうではなかった。我等兄弟は緩やかに育てられた。母親が違っても差別される事は無かった。だがそれは元服前までという事か……。
「御屋形様、父上からお預かりしている物が有りまする」
「私にか?」
「はい、織田焼の壺にございます」
「織田焼の壺?」
問い返すと次郎右衛門が悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「実は某、父上に強請りまして丹波焼きの壺を頂戴致しました。その際、父上より御屋形様に織田焼の壺をお渡しせよと申し付かっております」
「そなた、父上の壺を強請ったのか」
「はい!」
次郎右衛門が嬉しそうに胸を張った。思わず吹き出してしまった。次郎右衛門も楽しげに笑う。久し振りに笑ったような気がした。
「呆れた奴だ、御愛用の品なのだぞ」
「欲しい物は無いかと問われましたので、つい……。心が乱れた時は壺を愛でて心を落ち着けよと言付かっております」
心を落ち着けよか、壺を磨けという事だな。勝三郎、又左衛門、内蔵助が不思議そうな顔をしている。父上御愛用の壺か、見れば驚くだろう。なんの変哲もない大きな壺。だが磨き込まれた事で何とも言えない艶が有る。
「次郎右衛門、尾張の城造りは如何か?」
「大きな城になると思います。古い城を壊し新たな城造りの為に縄張りをしておりますがどのような城になるのか想像も付きませぬ」
次郎右衛門は眼を輝かせている。
「そうか、それほどの巨城造りに関われるとは羨ましい事だ」
「父上から城造り、町造りを良く学べと言われております」
本当に羨ましいと思う。それほどの巨城を造るなど中々有る事ではない。次郎右衛門にとっては得難い経験になるだろう。
「御屋形様、城攻めの方は如何でございますか。岩殿城は難攻不落の堅城と聞いておりますが……」
次郎右衛門が心配そうに訊ねてきた。
「周囲に付城を築いて締め上げているところだ。間もなく秋の取り入れだが許さぬ。あの城に兵糧がどれ程あるかは分からない。だが年が明けても耐えられるだけの兵糧が有るとも思えぬ」
次郎右衛門が頷いている。
「では徳川の後詰が?」
「おそらく、あの城を救うために小田原の甲斐守が兵を動かす筈だ。年内にな」
「年内?」
問い掛けて来たので頷いた。
「一番可能性が高いのは取り入れの直前だ。包囲する朽木軍を破り取り入れを行う、そう考えているのではないかと思う」
「取り入れの前と言えば間もなくでは有りませぬか?」
「そうだ、徳川は戦の準備を整えつつある」
「某もその戦に参加しとうございます」
眼を輝かせている。そうか、初陣は未だだったな。だが次の戦は厳しいものになる。とても初陣に相応しい戦では無い。
「戦よりも城造りを頼む」
不満そうな表情をしている。昔の自分もこんな感じだったのだろうと思うと可笑しかった。
「その方の役目は尾張を安定させる事だ、頼む」
次郎右衛門が不承不承頷いた。いずれ、父上と相談して初陣を済まさなければならないだろうな。
「年内に岩殿城を攻略し相模に攻め込もうと思っている」
「順調なのですね」
「順調?」
思わず苦笑いが漏れた。
「戸惑ってばかりだ」
「……」
次郎右衛門が訝しげな表情をしている。
「大将として決断しなくてはならぬ。重いわ、その重さに潰されそうになる。今更では有るが父上は本当に御強いのだと思った」
父上も苦労されている筈だ。だがその苦労を皆に見せる事は無い。周囲もその苦労を感じない。何時の日か、そういう大将になりたいものだ。