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甲斐侵攻




禎兆二年(1582年)   三月下旬      駿河国安倍郡  府中 駿府城  朽木堅綱




「これが小田原城ですか」

「なるほど、確かに大きい。謙信公が攻め(あぐ)み織田様が攻め落とせなかったのも分かります」

半兵衛と新太郎が声を出した。目の前に小田原城の絵図が有った。風間出羽守が作成したものだ。旧織田家の人間は小田原城を見ているが私や半兵衛、新太郎は見ていない。そこで出羽守が小田原城の絵図を用意してくれた。車座になって半兵衛、新太郎、出羽守と見ているが絵図面からでも大きい事が分かる城だ。


「元々は二の丸までしか有りませんでした。それでも関東管領上杉謙信公の初期の攻撃を凌いでおります。しかし四度目の川中島の戦い以降、上杉家は信濃攻略に力を入れました。北条家はその間にこの三の丸」

出羽守が身を乗り出して絵図の北西の方向を指した。

「八幡山の奥、小峯御鐘ノ台から天神山の丘陵を取り込む空堀を造っておりまする」

出羽守が指をすっと南方に動かす、溜息が出そうになった。


「かなりの大工事の筈ですが?」

「その当時は人を集める事に苦労しませんでしたので……」

半兵衛の問いに出羽守が答えた。そうか、その当時は未だ北条家はかなりの力を持っていた。上杉家が信濃攻略を終わらせれば関東攻略に本格的に取り掛かると見て三の丸を造ったという事か……。北条左京大夫氏康、上杉に押されはしたが中々の人物だったのだな。


「三の丸を造った事で小田原城の防御は一層堅固な物となり申した。しかし当時の北条家の方々はこれでも守りは不十分と考えこの八幡山の北に有る谷津丘陵を取り込む空堀、土塁を造り防御を海岸まで延ばす事を考えたのでございますが……」

出羽守が口籠った。そして新太郎が息を吐いている。とんでもない事を考えるものだ。だがそれを成そうとした時には北条家にはそれを成すだけの力が無かったという事か……。


「それが出来ていればとんでもない城になっていたな」

私の言葉に皆が頷いた。

「しかしそれが無くても力攻めでは簡単には落ちぬな。損害が増えるだけだろう。父上が申されたが調略で崩していくしかないが……」

「簡単にはいきますまい。先ずは小田原城を囲む城から落としていかなければ……」

「そうだな」

調略を行うにしてもこちらの武威を一度は示さなければならないだろう。力を示さなければ相手はこちらを恐れない。それでは調略は上手く行かない。特に徳川の譜代なら。


「小田原城を囲む城と言えば湯坂城、鷹ノ巣城、宮城野城、進士城、塔ノ峰城、浜居場城、河村新城、足柄城がございます」

出羽守が懐から絵図面を出した。小田原城の絵図を畳み新しい絵図面を広げる。絵図面には小田原城を囲む城の大まかな配置が記されていた。出羽守が東海道の街道を指で指し示した。その指をずいっと湯坂城まで動かす。


「東海道を進めば先ずぶつかるのは湯坂城にございます、この城を抜かなければ小田原には進めませぬ。なれど湯坂城に向かう道は坂が多く軍を動かし易い道では有りませぬ」

「……」

「それにこの湯坂城、六つの郭から成り立ち決して容易く落とせる城とは申せませぬ」


「織田は落としたのであろう?」

半兵衛が問うと出羽守が頭を下げた。

「はっ、当時湯坂城に詰めていた者が織田に降伏致しました」

つまり織田には敵わぬと見たわけか……。そして北条が取り返し今は徳川の城になっている。

「湯坂城の城将は確か大久保新十郎、治右衛門の兄弟だったな」

問い掛けるとまた出羽守が頷いた。

「はっ、大久保氏は徳川家臣の中でも本多氏と並び忠誠心の厚い一族と言われておりまする」

甲斐守も湯坂城の重要性は理解している。となると調略は難しいか。


「足柄越えは如何か?」

問い掛けると出羽守が軽く頭を下げた。

「足柄峠を越えるとなれば足柄城を落とさねばなりませぬが足柄城も決して安易に落とせる城では有りませぬ。本丸から北西に向けて廓が四つ、それぞれ空堀にて仕切られております。それに近くには浜居場城が有りますれば後詰も容易いかと」

こちらも容易に落とす事は出来ないか。


「やはり今回の戦では上杉の支援に専念すべきかな?」

私の言葉に三人が頷いた。

「甲斐に侵攻しつつ相模にも圧力をかけましょう。芸が無い様に見えますが徳川にとっては一番嫌な事の筈。徳川が苛立って無理をする様ならそこを突くべきかと」

そうだな、半兵衛の言う通りだ。こちらから攻め手が無い以上徳川の失策を待つのも手だ。追い込まれている徳川が無理をする可能性は有る。


「御屋形様、巨摩郡南部では穴山の一党が御屋形様に従うと申し出ております」

「それは有難いが甲斐は上杉領になる。その辺りを穴山の者達は如何考えているのだ、出羽守」

「朽木家にて禄を頂きたいと。甲斐を捨てると申しております」

「良いのか、それで」

出羽守が頷いた。


出羽守の話では穴山一党の頭領は穴山彦八郎信邦というらしい。彦八郎は穴山家最後の当主だった穴山陸奥守の弟だ。陸奥守には彦八郎と彦九郎という弟がいた。彦九郎は若くして死んだらしい。陸奥守は織田の甲斐侵攻で死んだが彦八郎は織田の追跡を逃れた。徳川には仕えなかったらしい。だが朽木が東海道に勢力を伸ばした事、上杉が甲斐を領するとなった事で朽木に仕えようと決断したようだ。


「穴山一党が味方に付けば身延路は問題ありませぬ」

「うむ、有難い事だ。良くやってくれた、出羽守」

労うと出羽守が軽く頭を下げた。

「他にも穴山の者達が周辺の武田遺臣に声をかけております。味方は増えましょう」

「分かった。甲斐攻めは或る程度目処は立ったと思う。問題は相模攻めだ。甲斐を失えば甲斐守は益々小田原に閉じこもろう。出羽守、どんな手段をとっても良い、徳川を、甲斐守を苛立たせてくれ。頼む」

「はっ」

苛立てば城から出て来る可能性もある。家臣達が甲斐守に愛想を尽かすという事も有り得よう。いや、家臣が独断で兵を動かすという事も有る。様々な手を尽くすべきだ。


「ところで出羽守、尾張の様子は如何か?」

私の言葉に半兵衛、新太郎の表情が厳しくなった。二人も気にかかっているらしい。

「はっ、徳川の手の者が頻りに動いております。しかし今のところ問題は有りませぬ」

「三介殿もか? 出羽守」

「三介殿もにございます」

「そうか」

出羽守の答えは力強かった。予想外だな、動くと思ったのだが……。


「川並衆が動いております」

川並衆?

「木下藤吉郎殿の指示で動いているようにございます」

「木下……、そうか、城か」

出羽守が頷いた。城造りの妨げになると見て動いているという事か。父上が大分信頼していると聞いているがなるほど、城造りには三介殿の監視も含まれていたのか。となると徳川も三介殿も簡単には動けぬな。甲斐守も当てが外れただろう……。




禎兆二年(1582年)   四月中旬      近江国蒲生郡八幡町  八幡城  朽木基綱




「大丈夫でおじゃるかのう」

不安そうな声を出したのは伯父、飛鳥井権大納言雅春だった。

「御心配には及びませぬ。この城の中で伯父上に危害を加えようとする者は居りませぬ」

「いや、そうではないのじゃ。甘露寺権大納言の事を案じておる。薩摩に向かったとの事じゃが何も無ければ良いのでおじゃるが……」

「御安心なされませ。甘露寺権大納言は何も知りませぬ。あちらも滅多な事はしますまい」

「それなら良いのじゃが……」

心配そうな表情だ。甘露寺権大納言は三月の半ば頃に薩摩に向かった。もう薩摩で交渉に入っている筈だ。直ぐに終わるだろう、俺と太閤殿下の予想が当たっているなら。


「武家は怖いわ、つくづく思った」

「……顕如は僧ですが」

「あれが僧と言えようか。人を殺し国を獲り武家と変わるまい」

伯父が顔を顰めて吐き捨てた。まあそうだな、如何見てもあれは僧には見えなかった。伯父の示した嫌悪は飛鳥井家が一向宗と敵対する宗派と親しいからだとは言い切れないものが有る。


「そなたの事も怖いと思った事が有る」

「左様で」

昔の事だ、だがその所為で伯父の息子達は俺に近付こうとしない。余程に伯父は怯えたのだろう。

「今回は目の前で公方が死んだ。公方を抱え起こした時、手にべったりと血が付いた。何ともおぞましい感触で有った。あの感触を未だに忘れ去る事が出来ぬ」

「……」

伯父が自分の手を見ている。胸が痛んだ。多分これからも記憶から消える事は無いだろう。


「そなたは如何じゃ? そのような経験は無いのか?」

「某は大将にござれば自ら敵を殺す、首を挙げる等という事は滅多に有りませぬ」

「そうか」

若い時に一、二度有っただけだ。雨が降っていたな、土砂降りだった。血なんか綺麗に流れ落ちたわ。敵を追うのに忙しくておぞましいなんて感傷を抱く暇は無かった。ずぶ濡れなのにやたらと身体は熱かった、その事の方が強く記憶に残っている。


「なれど負ければ皆がこの首を求めて群がって来るという事は理解しております」

伯父が目を瞠って俺を見た。そして“武家は厳しいのう”と言った。その通り、武家は厳しいのだ、恐ろしいのだ。殺さなければ殺される、負ければ味方が大勢死ぬ。だから負けない様に、殺されない様に死力を尽くして勝つ! 何万人殺そうと後悔はしない。後悔するのは死んでからで良い。そう思い定めている。


「戦になるのか?」

「……」

「九州に攻め込むのであろう?」

「未だ分かりませぬ。ですが攻め込むにしても公方の遺族を京に引き取ってからに成りましょう」

伯父が“左様か”と言った。如何も元気が無いな。余程に堪えたらしい。少し元気付けようか。


「年内に准大臣に昇進されると聞きました。楽しみですな、伯父上」

「うむ」

「二代に亘って准大臣です。飛鳥井家は羽林家の中でも頭一つ抜け出したのではありませぬか?」

「そうでおじゃるの」

漸く伯父が笑みを浮かべた。羽林家の上の家格と言えば大臣家だが大臣家は正親町三条家、三条西家、中院家の三家しかない。だが大臣家と言えども必ず大臣に成れるわけではない。摂関家、清華家の人間も居るのだから大臣への競争率は厳しい。むしろ大臣に成れない人間の方が多いのだ。それを考えれば飛鳥井家で二代続けて准大臣を出した事はかなり異例だ。大臣家の人間は羨んでいるだろう。


「そなた、征夷大将軍には成らぬのか?」

「……」

伯父が俺の顔を覗き込んでいる。

「左府から伺った。そなたが太政大臣になって政の府を開きたがっていると」

左大臣一条内基か……。

「その事、結構噂になっているのでしょうか?」

伯父が首を横に振った。

「いや、皆知るまい。皆の関心は公方の方に向いていよう。麿は左大臣ともそなたとも縁戚じゃ。それ故左大臣も教えてくれたのであろう」

「左様で」


「伯父上は如何思われます」

伯父が少し考える素振りを見せた。

「そうよな、征夷大将軍の方が収まりは良かろうな」

「太政大臣では反発が大きいと?」

「いや、反発も有ろうが戸惑いの方が大きいのではないかと思う。皆、如何して良いのか悩むのではないかな」

「なるほど」

公家社会は前例至上主義だ。前例の無いものは嫌がる。どう対応して良いか分からないからな。相国府はそういう面での反発が大きいかもしれない。


公家社会で広まっていないという事はこの件は五摂家で止まっているという事だろう。つまり五摂家の中でも意見が割れているのだ、いや反対勢力がかなり強いのかもしれない。公家社会に広まっていないのは分裂がそのまま公家社会に広がるのを恐れたのだろう。公になるのを恐れているのだ。もし俺が相国府を撤回し幕府を開けば俺の顔を潰す事に成る。そして反対を押し切って相国府を開けば反対派の顔を潰す事に成る。どちらにしてもしこりは残る。あくまで内々に収めたいのだ。


反対勢力の筆頭は関白九条兼孝か、となるとそれに与するのは弟の二条、鷹司と言ったところだな。相国府に好意的なのは太閤と内大臣の近衛親子、それに一条左大臣といったところだろう。拙い所で義昭が死んだな、反対派に勢いを与えた様な物だ。


「余り無理はせぬ事じゃ」

「……」

「詰めを誤っては元も子も無いからの」

「御忠告、有難うございます。少し考えてみます」

「うむ」

訂正、一条左大臣も反対かもしれないな。一度五摂家を集めてきちんと話そう。だがその前に準備が要るな。こちらが朝廷を、帝を軽んずる意思は無いと周囲に理解させなければならん。さて如何したものか……。




禎兆二年(1582年)   四月下旬      信濃国筑摩郡塩尻町村    上杉景勝




千国街道(ちくにかいどう)を使って越後から信濃府中へ、そして塩尻へと出た。今宵は此処で陣を張る。諏訪郡はもう目の前だ。明日には攻略に取り掛かれるだろう。そして今、最後の軍議が開かれている。

「高島城、島崎城、桑原城、上原城、順に攻めなければなりませぬ」

直江与兵衛尉の言葉に集まっている家臣達が頷いた。


「問題は後詰だが……」

「難しかろう、朽木勢が甲斐に入った、動けまい」

ボソボソと話したのは上野中務大輔と本庄越前守か。皆が越前守の言葉に頷いた。朽木軍が南から甲斐に侵攻していると伏嗅(ふせかぎ)から報せが有った。速い、駿河の方が甲斐には近いがそれでも速いと言わざるを得ぬ。既に巨摩郡の南部を押さえたようだ。つまり諏訪に後詰に出て甲府を突かれれば徳川は後ろを遮断される事に成る。徳川も慌てていよう。後詰は出せまい。


「となると籠城して時を稼ぎその間に甲斐で朽木勢を退け後詰に出ると考えるであろうな」

「そう上手く行きますかな、下野守殿。甲府には精々六千程しか兵は有りますまい。朽木勢は軽く万を越えますぞ」

今度は斎藤下野守と安田筑前守だ。同意する声が上がった。朽木勢は総力を挙げれば三万を越え四万に近い。相模の抑えに一万を置けば甲斐守も簡単には動けぬ。


「与兵衛尉、諏訪衆は間違いなくこちらの味方になるのだな」

「間違いありませぬ。伏嗅が確認しておりまする」

問い掛けると与兵衛尉が答えた。与兵衛尉は与六に比べれば切れる感じではないが手抜かりが無い。

「では諏訪衆からそれぞれの城の弱点を聞き出せ」

与兵衛尉が“はっ”と言って頭を下げた。


「攻める前に先ず降伏を促す。朽木勢が巨摩郡に入った事を教えれば後詰が無い事は理解出来よう」

「降伏を拒絶した場合は?」

柿崎和泉守だった。試す様な目で俺を見ている。

「根切りにせよ。勧告は一度だけだ。上杉を甘く見る事は許さぬ」

和泉守が、皆が満足そうに頷くのが見えた。気が重いがやらねばならぬ。






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