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波及




禎兆二年(1582年)   二月下旬      尾張国愛知郡那古野村 那古野城   木下長秀




「順調じゃのう、小一郎」

「はい」

目の前では大勢の人間がうごめき那古野城が解体されつつあった。兄の声は弾んでいた、だが表情には複雑な色が有った。

「如何されました、兄上」

声をかけると兄が困った様な表情をした。


「うむ、昔の事を考えておったんじゃ」

「……兄上」

兄が首を横に振った。

「分かっとる、分かっとるんじゃ、小一郎。殿様はもう居られんとな、良く分かっとる」

この那古野城は亡き弾正忠様が居城とされた城だった。だが家督を継がれた後、清州城を攻め獲り居を移された。


「妙なもんじゃ、俺が織田家に仕えて一年程で殿様は清州に移られた。この城には思い出なんぞ殆ど無い筈なんじゃがこうして取り壊していると不思議に昔を思い出すわ。皆若かったのう、懐かしいわ、随分と無茶をやったものよ。又左も内蔵助も」

「左様で」

兄が那古野城を見ながら“うむ”と頷いた。


「大殿は幕府を開かれるのでしょうか?」

「分からん、じゃが足利義昭公が亡くなられたからの。征夷大将軍に就くのに不都合は無い」

これまでは義昭公が征夷大将軍の地位にあった。実の無い将軍、実の無い幕府。だが大殿が将軍になり幕府を開けば足利の幕府とは違い強力な武家の府となろう。


「義昭公の事は唐突だったのう、小一郎」

「はい」

義昭公が殺された。しかも本願寺の顕如に。九州の片隅で起きた事では有った。だが天下を揺るがす一大事だと言えよう。征夷大将軍が、一向宗の宗主が死んだのだ。皆が驚いた筈。


「大殿は如何御考えでしょう?」

「……大殿は何処に城を築くのかを聞くのが楽しそうであったな、その事は話に出なかった」

「左様で」

余り関心が無い、或いは話せぬ何かが有る、そういう事か。


新たに城を築く場所に付いてはかなり揉めた。最初に考えたのは勝幡に城を築く事だった。勝幡は津島に近い、町造りも容易で繁栄し易いという判断からだ。だが津島は既に朽木に服属しており津島を押さえるという事に余り意味は無かった。また勝幡は土地が低く川が氾濫し易いという欠点も有った。それに勝幡は尾張の西に寄っていた。尾張全体を押さえるには不適当だろうという事になった。


勝幡の次に出たのは清州だった。尾張の中心部に位置し東海道と伊勢街道が合流し東山道にも繋がる要所だ。ここを押さえれば尾張を押さえられる。だが清州は水攻めに弱く土地も狭い。大殿の望まれる天下の巨城を造るには不適当と判断せざるを得なかった。


それに皆が口には出さなかったが清州は織田家にとって格別の地だ。城を取り壊し新たに朽木の城を築くという事が織田一族に如何いう影響を及ぼすか、正直不安が有ったと思う。城造りは尾張を安定させるためのもの、不安定にさせるのでは本末転倒になる。


清州の後に候補に挙がったのが那古野だった。那古野は土地高燥で台地は長く南に延びて熱田の海に臨んでいる。そして南北に美濃街道、東西に東海道という交通の要衝に有り大軍を動かすのにも適しているだろう。年末に兄と丹羽様が近江に報告に赴いたが大殿は大層喜ばれたという。特に那古野が海に近い事、交通の要衝である事を喜ばれた。交易を重視する大殿にとってそれは重要な利点なのだろう。


実際城造りでも海に近い事は大きな利点だ。木材、巨石を運ぶのに船が利用出来る。巨石は瀬戸内から、そして木材は飛騨、信濃、美濃から川を使って長島へ、そして長島からは海路熱田へとなる。那古野は津島を越える商業の街になるかもしれない。


大殿は兄と丹羽様を助ける人間を送ると仰られた。そして沼田上野之助、黒田官兵衛、藤堂与右衛門、長九郎左衛門、日置助五郎、長沼陣八郎、増田仁右衛門、建部与八郎等が年が明けると尾張にやってきた。名の知られた者も居れば無名の者も居る。だが経歴を聞けばなるほどと頷く者ばかりだ。皆が新たな城造り、町造りに興奮している。兄の言った通り、戦などよりも遥かに面白い仕事になるだろう。


「駿河では興国寺城、沼津城、長久保城。伊豆では山中城が防備を固めていると聞きます。東海道は彼方此方で城普請ですな」

私の言葉に兄が“うむ”と頷いた。

「若殿、いや御屋形様は腰を据えて取り掛かろうとされているようじゃ。戦は徳川と上杉の間で先に起きるかもしれんな。又左や内蔵助がやきもきしていよう。ま、相手は徳川というよりも小田原城じゃ、焦らずじっくりと、そういう事じゃろう」

小田原城か、難敵では有る。時間がかかるだろう。


「兄上、徳川が御屋形様を掻き回そうとすれば駿河よりも尾張に手を入れてくる可能性は有りませぬか?」

兄が私を見た。

「その可能性は十分に有る。だが織田家の方々が簡単に動くとも思えぬ。昨年末、岩村の御坊丸様が元服なされた。景長と名乗られたが名付け親は大殿じゃ。遠山一族の通字である景と御父君の長、大殿は織田一族に対して好意的だと皆が理解した筈」


「確かに、……ですが念を入れたいと思いまする」

「……そうだな、そうしておくか。場合によってはこちらの普請にも影響が出かねん。後で小六、将右衛門に小一郎から伝えてくれ。徳川に邪魔をさせるなとな」

「はっ」

兄が満足そうに頷いた。兄は前を進む、後ろを見守るのは私の役目だ。




禎兆二年(1582年)   二月下旬       越後国頸城郡春日村 春日山城  上杉景勝




寒い、冷えると思っていたら雪が降っているようだ。小姓達が火鉢に火を足している。暖かくなるまであと一月はかかろう。兵を動かすとなれば更に半月後か。それまでは動く事は出来ぬ、この春日山でじっとしていなければならぬ。毎年、十二月の半ば過ぎから翌年の四月の半ばまで、越後は熊の様に冬眠する。雪国の宿命(さだめ)とは言え辛い事だ。


伏嗅(ふせかぎ)から報告が来ている。越中の神保、椎名に動きは無しか。昨年から今年にかけて徳川、蘆名が頻りに使者を越中に送っていると報告が有った。おそらくは寝返らせて越中方面で事を起こそう、こちらの兵力の分散を狙おうという事だろう。信玄坊主めが良くやった手だ。神保は宗右衛門尉長職から息子の宗右衛門尉長城に代替わりしている。椎名家も小四郎景直に代替わりだ。上手く行けばと思ったのだろうな。


神保と椎名が協力するという事は先ず有り得ぬ。あの両家はずっといがみ合ってきたのだ。代替わりしたからと言って関係が改善するなど有り得ぬ事だ。上杉が越中中部に領地を持つのも両者を引き離す事で直接接する事を無くそうという意味が有る。そして神保、椎名は上杉、朽木にそれぞれ前後を挟まれている。敵対すればあっという間に滅ぼされるだろう。神保も椎名もその事は良く分かっている筈だ。


徳川も蘆名も大分焦っている。蘆名はこちらが下野の那須と手を結び蘆名を攻め獲るつもりだと気付いたようだ。伊達に協力を要請しているようだが伊達の反応は思わしくない。伊達にしてみれば余計な事に手をだしてこちらを巻き込むのは止めてくれという事だろう。


徳川は朽木の動きに神経を尖らせている。朽木は弥五郎殿、いや大膳大夫殿が駿府に居を移した。対徳川戦、関東方面の戦は大膳大夫殿が責任者という事だ。昨年末に徳川が駿河に対して仕掛けたようだが大膳大夫殿は危なげ無く対処した。未だ若いが功を焦るという事は無いらしい。


それにしても舅殿も思い切った事をしたものよ。家督を譲り東海道五か国を譲るとは。奈津からの文によれば突然の事であったらしい、皆が驚いたとか。そうであろうな、舅殿は三十代半ば、大膳大夫殿は十代半ば。舅殿には身体の具合が悪い等という話は聞かぬ。家督を譲る必要など何処にも無い。織田、そして上杉の事が頭に有ったのであろう。後継者を決め経験を積ませるという事だ。官位の事と言い舅殿らしい周到さよ。驚くわ。


その舅殿から足利義昭公と顕如の一件について文が来た。顕如が義昭公を弑し自ら命を断ったと言う事であったが舅殿の文には訝しい、不審が有ると記されていた。なにやら裏が有るらしい。だがこれで足利将軍家も一向宗も一層の凋落を免れまい。その分だけ舅殿の権威が増す。舅殿はまた一歩天下に近付いたと言える。


養父は義昭公の死に複雑そうな表情であった。何かと頼られた事を思ったのかもしれぬ。しかし俺にとっては困ったお方でしかなかった。朽木家との縁組、関東管領への就任、いずれも邪魔をした。俺の立場を強めようとはしてくれなかった。到底その死を悲しむ事など出来ぬ。おそらく舅殿も同じであろうな。随分と迷惑を掛けられている。良く殺さなかったものだ。俺なら何処かで我慢出来なかったかもしれぬ。


戸が開いて母が入って来た。小姓達に席を外す様に言っている。小姓達が俺を見た。頷くと部屋を出て行った。それを見てから母が目の前に座った。人払いをしたと言う事は表向きの話ではない、内向きの話だろう。表情が険しい、厄介事の様だ。気が重かった。


「何事でしょう、母上」

「そなた、竹姫の事を如何するつもりです?」

「……」

竹姫? 如何する?

「床入りの事です、今年でもう十四歳ですよ」

床入り? 十四歳? ……つまり、その……、そういう事か?


「そなた、竹姫が嫌いですか? 他に想う女子が居るのですか?」

「そのような事は」

「無いのですね。ならば」

「あ、いや、母上、今少し大人びてからでも」

母が眉を顰めた。いかん、御機嫌を損ねたか。


「そなた、分かっているのですか?」

「は?」

「足利義昭公が亡くなられました」

「はい」

「征夷大将軍職は空位となったのですよ」

「……」

なるほど、舅殿が幕府を開く事が出来るという事か。母が俺を見てゆっくりと頷いた。


「これからは朽木家が天下を率いるのです。その中で上杉家が如何いう位置を占めるかを考えなければなりませぬ」

「……」

「大膳大夫様に奈津が嫁いでいます。いずれ子が出来ればその子が天下を治める事に成ります。上杉の血を引く子が天下を治めるのです」

「……」

まあ、そうなるか。しかしあの奈津の産んだ子が天下を治める? 寒気がするな、出来れば朽木の血が強く出て貰いたいものだ。そうでなければ天下が騒々しくなる。皆が目を瞑って耳を塞ぐだろう。そして口を閉じるに違いない。


「その時、そなたと竹姫の間に生まれた子が如何いう意味を持つか、分かりますね?」

「はい」

父方から見ても母方から見ても従兄弟だ。親兄弟を除けばもっとも近しい親族だな。

「上杉を守るという意味においてもそなたは竹姫との間に子を作らねばなりませぬ」

母がじっと俺を見ている。なるほど、朽木家が天下を治めた時、最大の大名が上杉家となる。危険という事か。


「母上のお話は良く分かりました。もっともな事と思います。明年では如何ですか? その頃になればずっと大人びましょう」

「……」

「あまり無理はさせたくありませぬ」

小さい声で言うと母が渋々頷いた。

「……分かりました、明年ですね、頼みましたよ」

不満そうでは有ったが母は部屋を去った。


母が去ると部屋に小姓達が戻って来た。皆、もの問いたげな表情をしている。敢えて無視して顔を顰めると小姓達がこちらを見ない様に視線を逸らせた。それで良い。床入れか、何と言うか、幼い時に預かったから妻というより妹の様な感覚だった。妻か……。


いかん、そんな事を考えている場合ではないな。四月半ばになれば兵を動かす。諏訪から甲斐に攻め込む。諏訪衆は徳川を離れこちらに付くと約束してきた。大分徳川に不満が有るらしい。武田最後の当主、信頼は諏訪の血を引いていた。その所為で徳川は今一つ諏訪衆を信じていないらしい。諏訪衆はその事を面白くなく思っている。駿河から大膳大夫殿に甲斐へ動いて貰おう。使者を出さなければならん。使者は舅殿にも出した方が良いだろうな。




禎兆二年(1582年)   二月下旬      近江国蒲生郡八幡町  八幡城  朽木小夜




「寂しくは有りませぬか?」

「もう慣れましてございます」

「それなら良いのですが」

大方様がホウッと大きく息を吐かれた。大膳大夫が駿河に行ってから大方様は時折私を慰めて下さる。でも寂しいのは大方様も同じ、時折今の様に深い息を吐かれる事が有る。


「今年は正月を一緒に祝えませんでした。寂しい事です」

「戦がございましたから已むを得ぬ事でございます。来年は共に祝えましょう」

「そうですね。それにしても何時になったら戦が無くなるのか……」

また大方様が息を吐かれた。今度は俯いて小さく。駿河で戦が起きたと聞いた時は胸が潰れるかと思った。一人で戦が出来るのだろうか? 大事にならぬのだろうかと。


これまで何度も大殿を戦場に送った、でも一度としてそのような想いはしなかった。負ける等という事は微塵も思わなかった。おそらく大方様も同じであろう。改めて大殿があの子を駿河に送った理由が分かった様な気がする。家臣達も同じ事を思ったのではないだろうか。


戦にならずに徳川が兵を退いたと聞いた時には心からホッとした。何時か、あの子が戦に赴いても平然と受け入れる事が出来る日が来るのだろうか……。あの子が出陣すればもう大丈夫と思える日が来るのだろうか。とても想像が付かない。でもそうなって貰わなければ……。


「大方様、大殿が天下を統一されれば戦は無くなりましょう」

「その日が何時来るのか……」

「十年とはかからぬ筈でございます」

「十年ですか」

大方様が息を吐かれた。十年、過ぎ去ってみれば短いけれど十年を待つのは確かに長い。


そして十年後には息子達はこの近江を離れて各地に散らばるのだろう。既に松千代は尾張に行く事が決まっている。息子達だけではない、娘も散らばるだろう。雪乃殿の娘、竹は上杉に嫁いでいる。私の娘、百合も三好家に嫁ぐ事が決まっている。少しずつ私の周りは寂しくなっていくに違いない。


「気の重い話をしても仕方ありませんね。小夜殿、お腹の子に障りは有りませぬか?」

「はい、すくすくと育っております」

「嬉しい事です」

お腹の子は順調に育っている。生まれるのは六月の末から七月の初め、雪乃殿、篠も同じ頃に子を産む筈。篠の産む子が男子ならば良いのだけれど。大殿もそれを願っている。


「孫が生まれるのは嬉しいのですけれど、そろそろ曾孫の顔も見たいと思います。小夜殿も孫の顔が見たいのではありませぬか?」

「そうでございますね、私もそろそろ御祖母様と呼ばれてもおかしくない年になりました」

二人で顔を見合わせて笑った。子を産むのはこれが最後、この後は孫が生まれるのが楽しみになるだろう。松千代も元服を迎える、先ずは松千代の嫁を決めなければ……。






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