義昭、顕如、そして……。
禎兆二年(1582年) 一月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
パチリと主税が白石を置いた。
「三です」
「うむ、こちらも三だ」
黒石で主税の三を防ぎつつ三を作った。駄目だ、如何も上手くない。
「四」
あ、やっぱりこっちに来たか。防ぎの石を置いた。重蔵が俺と主税の五目並べを見ている。チラっと俺を見た。笑い出しそうな顔をしている。そうだよな、俺の負けだもの。
パチリと主税がこちらの三を防ぐ石を置いた。
「大殿、四三です。某の勝ちです」
「負けたか。どれ、茶でも飲むか」
「はい」
重蔵がクスクスと笑いながら茶の用意を小姓に命じた。
「何故五目並べなのでございましょう、囲碁も中々の腕前と伺っておりますが?」
「囲碁は時間がかかるのでな、五目並べなら暇潰しに良いし直ぐ止められる。それが理由だ」
重蔵が“なるほど”と頷いた。
囲碁は時間がかかる。それに主税も俺も長考するからなかなか勝負がつかない。大体何事か起きて勝負は中断だ。評定、戦、面会、夜のお勤め、という訳で俺と主税の対戦成績は十二勝十七敗七十四勝負無し、いや勝負無しは七十五だったかな? という変なものになっている。ちなみに中々の腕前というのはお世辞だ。俺も主税も下手の横好き、周囲が呆れるほどのザル碁だ。似合いの二人なのだ。
「大殿、昨年は事が多うございましたな、今年もでしょうか?」
「さあ、如何であろうな。まあ事が無いという事も無いだろう。松千代の元服も行わなくてはならん」
主税と俺の会話に重蔵が頷いた。確かに事が多かった。改元が有って織田が滅んだ。俺が隠居して弥五郎が大膳大夫になり朽木家の当主となった。足利義昭と顕如が死んだ。戦国史でも重要な一年になるだろう。
「それに駿河ではこれから本格的に戦いが起きよう」
「大殿の申される通りです、主税様。御屋形様の力量が試されましょう」
「そうですな」
昨年暮れ、駿河では大膳大夫と徳川甲斐守の間で戦いが起きた。甲斐守が仕掛け大膳大夫が受けた形だ。年が明ける前に大膳大夫の力量を確認しておこう、そんな感じだった。
戦闘は起きなかった。徳川が甲斐から攻めたが大膳大夫が兵を出すと直ぐに引いた。駿東郡に抑えの兵を置いた事が良かった。付け込む隙が無いと見たのだろうな。大膳大夫からは相模への抑えとして駿河の興国寺城、沼津城、長久保城、伊豆の山中城を強化すると文が来た。慎重だな、良い事だ。焦らずにじっくりと行けと返事を出した。銭も送った。
尾張では今年から本格的に城造りだ。昨年末に丹羽五郎左衛門と木下藤吉郎が場所が決まったと説明に来た。何処に造るのかと思ったら那古野だ。今有る城を取り壊して大体的に造ろうと言う事らしい。ちょっと不思議な気分だった、くすぐったいと言うか恥ずかしいと言うか。でも嬉しかったし楽しかった。
問題はこれからだ。具体的な縄張りは如何するのか。本丸、二の丸、三の丸を如何作るのか、防御機構である堀は如何するのか、町造りを如何するのか、まだ何も決まっていない。それにあの辺りは湿地や窪地が多いから埋め立て等で地盤を固めなければ築城は難しい筈だ。人も要れば土も要る。水を抜くために大規模な土木工事が必要になるだろう。銭は勿論だが材木、巨石も必要だ。
此方から人を送ると言った。城造りの好きな奴、土木工事の好きな奴、町造りの好きな奴を送る。沼田上野之助、黒田官兵衛、藤堂与右衛門、長九郎左衛門連龍、日置助五郎、長沼陣八郎、増田仁右衛門、建部与八郎。そこに丹羽五郎左衛門、木下藤吉郎、木下小一郎、蜂須賀彦右衛門、前野将右衛門が加わる。どんな城が出来上がるのか楽しみだ。
お茶が来た。三人でお茶を啜る。今日は寒い、熱いお茶は何よりの御馳走だ。月が変わったら京に行かなくてはならん。飛鳥井の伯父が帰って来る、話を聞かないと。それに義昭の死の後始末をしなければならない。多分俺が段取りを付けるのだろうな、他にやりたがる奴がいるとも思えん。ここは割り切ろう、義昭の遺児達を上洛させるには俺が義昭の為に色々と骨を折っていると思わせる必要が有る。
足利将軍家の菩提寺は等持院だ。尊氏の二百回忌法要を等持院の坊主を呼んでやらされたな、あの時はうんざりした。しかしなあ、歴代の足利将軍は初代尊氏を除いて等持院に葬られていないんだ。確か相国寺が多かった筈だ。その代り歴代将軍の木像が置かれている。如何すべきかな? 遺体は薩摩の寺で葬るとしても等持院か相国寺に改葬と言う形にした方が良いだろう。……等持院にしよう、最初と最後は等持院だ。それと義昭の木像を等持院に造らねばならん。義昭の木像? あの栄養失調のプロレスラーの木像を造る? なんか不本意だな。足利に関わると常に不本意になる。
今年の正月は松永弾正と内藤備前守から今後は息子の松永右衛門佐久通、内藤飛騨守忠俊に後を任せたいと申し出が有った。本人達は飯盛山城に詰めるらしい。今年で九歳になる千熊丸の養育に専念したいそうだ。駄目だとは言えん。あの二人にとっては千熊丸を立派な大将に育てる事が三好長慶への恩返しなのだからな。それに俺にとっては未来の娘婿だ。しっかりした人物に育てて貰わないと。二人にとって義昭が死んだのはある意味不本意だろう、怒りのぶつけ所が無くなったのだ。もしかすると息子達に後を任せたのは年齢よりもそれが有るのかもしれない。
「大叔父上の具合は如何かな?」
俺が問うと主税が困ったように笑みを浮かべた。
「まあ良くも無く悪くも無くと言ったところです」
「そうか。朽木はこちらに比べると寒い。大叔父上に風邪に注意するように伝えてくれ」
「有難うございます。祖父も喜びましょう」
ほんと、親しい人間が死ぬのは寂しいわ。蒲生下野守もいよいよいけないらしい。京へ行く前に見舞いに行こう。多分最後の見舞い、いや別れの挨拶になる筈だ。今まで有難うと礼を言おう。寂しくなると……。
禎兆二年(1582年) 二月中旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 朽木基綱
「公方の墓か」
「はい、薩摩での葬儀は已むを得ますまい。しかし京に墓が無いのはおかしな事と言えましょう。ですので京で改葬という形を取らざるを得ないと思うのですが……」
「そうでおじゃるの」
余り乗り気じゃないな、太閤近衛前久の顔を見て思った。仕方ないよ、俺だって乗り気じゃない。渋々だ。
「改めてこちらから上洛を促す使者を出さなければなりますまい。そうでなければ向こうも帰り辛い筈。遺族に義昭公の墓を改めて京に作ると言えば戻り易いと思うのですが……、殿下の御考えは如何でしょう?」
「麿の?」
「義昭公の近親者と言えば京では殿下の他には居られませぬ」
殿下が顔を顰めた。
そんな嫌な顔をする事は無いだろう。もう向こうは死んでるんだ。いや、死んでるから嫌なのかな? 死んでまで迷惑をかけられるとか。その気持ちは良く分かる。足利という家は生きていても死んでいても迷惑をかける家なんだ。おれは散々迷惑をかけられた。……あ、今度は溜息を吐いた。
「そうじゃの、仕方あるまいの」
「では等持院に改葬し木像を安置するという事で」
木像を安置という所で殿下が目を剥いた。分かる、その気持ちは良く分かるから……。俺だって不本意だ、なんであんな奴の木像を造らねばならん。でも一人だけ木像が無かったらそれはそれで問題だろう。後世で俺と殿下が反対したから木像は造られなかった、心の狭い奴、なんて言われるのは御免だぞ。あんただって嫌だろう。
「分かった、已むを得まいの」
扇子で顔を隠し殿下がまた溜息を吐いた。切ないよ。
「後は某にお任せ頂けましょうか?」
「うむ、頼む。……済まぬの、前内府」
「いえ、御気になされますな。これも務めと思うております」
殿下が俺をじっと見て頷いた。ほんと、務めだよこれは。不本意でもやらなければならん。しかも率先して。唯一の救いは正面の男が俺の気持ちを理解してくれている事だ。
「殿下、次の使者はどなたに?」
「未だ決まってはおじゃらぬ。だが甘露寺権大納言が最有力じゃな、多分決まりであろう」
「左様で」
甘露寺権大納言か、武家伝奏を務めていたな。まあ適任か、後で旅費でも送っておこう。親朽木派を作るチャンスを逃すべきじゃない。現代社会の政治家もこうやって人脈作りをしたのかもしれん。殿下が“ところで前内府”と声をかけてきた。表情が険しい。
「飛鳥井権大納言から妙な話を聞いた。前内府は聞いたかな?」
「聞いております。如何にも腑に落ちませぬ。殿下と話をしたいと思っておりました」
「麿もじゃ。如何思う」
殿下が身を乗り出した。
「訝しい事と思います」
「そうよな、訝しい。いや事実ならばおどろおどろしい話よ」
殿下が深刻そうな表情で頷いた。
薩摩から戻った飛鳥井の伯父は憔悴しきっていた。目の前で人が殺されたのだ、それも仕方が無い事と思ったがそれだけでは無かった。伯父は怯えていた。薩摩で殺されるのではないか、拘束されるのではないかと思ったらしい。まさかと思ったが伯父の話を聞いて俺も納得した。伯父の話が事実なら伯父が京に戻れたのは僥倖に近い、病死という形で毒殺されていてもおかしくは無かった。いや、今でもその危険性は有る。伯父には暫く八幡城に避難しろと助言した。伯父は蒼白になって頷いた。
伯父は義昭は謀殺されたと疑っている、いや確信している。俺も同感だ、裏に島津が居ると思った。だが伯父の話を聞いて考えを変えた。義昭殺害には幕臣達も絡んでいる。おそらく、島津と幕臣達の共謀だろう。
“あの時、一息入れようとなった時だが幕臣達が綺麗に居なくなった。そんな事は有り得ぬ、人払いを命じられぬ限り必ず誰かが公方の傍に居る。だが誰も居なくなった。公方も『これは如何した事か』と訝しんでおった。そして顕如が直ぐに来た。まるで計ったかのように……”
確かにおかしい、そしてタイミングが良過ぎる。伯父が疑うのも無理は無い。伯父は当初自分にかけられた嫌疑を打ち消すので必死だった。だが日が経つにつれ徐々に疑念が湧いた。そして震え上がった。
「殿下、幕臣達にとって公方は邪魔だったと思われますか?」
殿下が首を横に振った。
「分からぬ。だが権大納言の話では公方は三好、松永、内藤への謝罪に難色を示していたそうだ。元はと言えば三好は陪臣、松永、内藤は陪々臣ではないかと。公方が生きていては和議は成らぬのではないかと幕臣達が考えた可能性は有ろう」
かもしれん。或いは謝罪無しで上洛となれば三好、松永、内藤の襲撃を受けると思った可能性もある。今度こそ殺されると。
「大分困窮しておったようじゃの」
「そのようです」
天下は朽木による統一に向かっている。天下に諸大名が乱立する時代では無くなったのだ。力を失った公方に利用価値が有ると考える大名は殆どいない。義昭を受け入れた島津も何処まで義昭に利用価値を認めていたか。利用価値が無い公方など誰も見向きもしない。義輝の頃とは違い使者に礼物を持たせて送る大名など皆無に等しい。寂しいだろうし惨めであっただろう。幕臣達はその生活に耐えられなかったのかもしれない。
義昭の側には義輝に従って朽木に逃げた幕臣もいる。朽木に居た頃は諸大名から使者が来た。謙信の様に大名が直接来た事も有る。朽木も経済的な援助は惜しまなかった。流浪の将軍では有ったが貧しくは無かったし希望も有ったのだ。京にも近かった。今とはまるで違う、時代が変わったと嫌でも認めざるを得なかった筈だ。彼らが本当に打倒朽木を信じられたのは毛利を頼った時までだろう。その先は惰性だろうな。
「跡取りは十歳ぐらいであろう。公方よりは御し易かろうな」
「謝罪も厳しいものには出来ませぬ」
殿下が微かに頷く。つまり幕臣達にとって義昭は和解への障害と見えた可能性が有る。幕臣達が義昭と俺の和解では無く足利家と俺の和解と考えたならば、いやそう考える事で自分達を正当化しようとしたならば義昭殺害は十分に成り立つ。そして島津にとっても自分達を捨てようとする義昭は許せるものではなかった筈だ。しかし分からぬ事も有る。
「殿下、顕如は何故公方を殺したのでしょう。伯父の話では顕如は朽木との和解を望んでいたという事ですが……」
俺が問うと殿下も困った様な表情を見せた。
「麿にも分からぬ。心を病んでいたとも聞いているが公方は顕如と前内府の和解を考えていた。顕如もそれを了承していた。それが事実なら顕如に公方を殺す理由は無い」
そうなんだ。如何見ても顕如が義昭を殺す理由が無い。殿下の扇子がパチリと音を立てた。
「前内府、九州に移ってから一向宗は大きな動きを見せておらぬ。そこに顕如の意思が有ったとは考えられぬか?」
「と申されますと?」
殿下がぐっと身を乗り出した。
「これ以上、政に関わるのは危険と見たのよ。そなたと和解するためには動かぬ方が得策と見た。有り得ぬかの?」
……有り得るかもしれない。
「しかし顕如の影響力は小さくなっていると聞いておりますが?」
「かもしれぬ。じゃが顕如が戦はならぬと言えば門徒達も簡単には戦は出来ぬとは思わぬか?」
なるほど、顕如がギリギリのところで門徒達を抑えた可能性は有る。或いはそこに義昭の意思も絡んでいたかもしれない。殿下にそれを指摘すると“有り得る事よ”と殿下も頷いた。
「某は公方が朽木との敵対では無く朽木の天下獲りに協力する事で征夷大将軍の影響力を残そうと考えたのではないかと思っております。顕如との和解、その後は島津との和睦。そうする事で一向宗、島津を残し征夷大将軍の影響力を維持しようとした……。有り得ぬと思われますか?」
殿下が顔を顰めた。
「あの男なら考えそうな事よ。だが前内府はあの男を信じられるかな? その話に乗れるかな?」
「……」
難しいな。一向宗との和解は考えても良い。朽木の法を守るなら問題は無い。だが島津との和睦? それは朽木の覇権を認める事なのかな。それに義昭の協力というのが本心からの協力なのか、それとも雌伏という協力なのか。どうにもあやふやだ。俺が無言でいると殿下が頷いた。
「そうであろうの、信じられまい。だがそれはそなただけでは無かろう。島津も公方を信じられなかったのではないかな?」
「……つまり島津は和睦に否定的だった。となると島津にとって顕如、公方は邪魔でしょうな」
「そうよな、島津だけではない、顕如の息子、教如にとっても邪魔であっただろう。かなり気性が激しいと聞く。石山での戦いの折、最後まで朽木と戦う事を主張していたのは教如であった。あの時、朝廷の扱いという形を取ったのも教如を中心とした強硬派を抑えるのが目的じゃ」
教如か、史実でも主戦派として知られている。大体において和平を結ぶ時、厄介なのは敵よりも味方の強硬派だ。またパチリと音がした
「のう、前内府。公方と顕如を邪魔だと思う人間があの二人の周囲には少なからず居たとは思わぬか。幕臣達もそなたの一向宗への厳しさを見ておる。そなたと顕如の間を取り持つなど危険と見たやもしれぬぞ」
「なるほど」
島津、教如、幕臣達。立場や望みは違うがそのいずれもが義昭と顕如を邪魔だと思った。あの二人、孤立していたのかもしれん。となると……。
「島津、教如、幕臣。皆で顕如の耳に公方が一向宗を利用して自分だけ利を得ようとしている。或いは一向宗を贄にして自分だけが助かろうとしていると吹込みましたか」
「おそらくはそうでおじゃろうな。そして顕如も公方を信じきれなかった……」
殿下が大きく息を吐いた。特に幕臣達の吹込みが大きかっただろうな。何と言っても義昭の周辺からの情報なのだ。そして義昭には信用が無い、常に誰かを利用しようとする。自らの力が無い所為だが顕如が義昭を疑うには十分過ぎる状況が揃ったという事だろう。顕如は孤立し追い込まれた……。
「顕如は孤立し追い込まれていたのかもしれん」
「……」
「こうなってみると飛鳥井権大納言を使者に送ったのも拙かったかもしれんの。前内府、そうは思わぬか?」
「なるほど」
言われてみればその通りだ。飛鳥井家は一向宗と敵対する高田派、佛光寺派と密接に繋がっている。その飛鳥井と公方がこそこそと何やら話している。顕如にとっては十分に疑うべき事であっただろう。
「……顕如は、真に自殺したと思われますか?」
殿下が驚いたように俺を見た。そしてホウッと息を吐いた。
「疑っておるか。……そうよの、それも十分に有り得る事よの。何故公方を殺したかが明らかになれば不都合が生じよう。となれば口封じに動いたやもしれぬの。幕臣達が公方の周りから居なくなったのはそれも有ったのかもしれぬ」
疲れた様な口調だった。気持は分かる。俺も何とも遣る瀬無い思いだ。
「我らの推測が真なら、教如は公方が一向宗を犠牲にする事で朽木と和睦を図った。或いは朽木が一向宗の根絶と引き換えに和睦を打診した、公方はそれを受け入れた。そのような事を言って顕如の行動を擁護し門徒達を自分の元に引き付けようと致しましょう」
「そうなるの。如何致す?」
殿下が俺を見た。如何する? 決まっているさ、望み通り根絶やしにしてやる。あれ? 殿下が顔を青褪めさせている。俺、悪い笑みでも浮かべたか? それとも殺気が出た?
「今一つ気になる事が有ります」
「分かっておる、公方の遺族、幕臣が戻るかでおじゃろう」
「はい、島津が素直に戻すか。殿下と話していて疑問に思いました」
戻れば幕臣達が生き残る可能性は高くなる。そして島津、一向宗の滅亡の可能性は高くなる。これでは割が合わん。役に立つかどうかはともかく人質に取るんじゃないだろうか。
「戻すであろうよ」
殿下が冷たい笑みを浮かべている。俺を笑っているのか?
「分からぬか? そなたを殺すために戻る」
「某を殺す……」
「戦では島津も教如もそなたには勝てまい。このままでは滅びを待つだけよ。となれば如何する? 幕臣達が和解を装ってそなたに近付き命を奪う、そうは思わぬか?」
殿下が扇子で口元を隠す様にした。何時の間にか声が小さくなっていた。
「なるほど、しかし公方の若君が居りますぞ」
「あくまで無関係を装って殺す」
「……」
「そなたが死ねば全てが変わる。島津も足利も一向宗も、全てが息を吹き返す。それが事実かどうかは分からぬ。だがあの者達はそう思っていよう」
確かに和解なんかよりも俺を殺した方が一向宗も島津も生き残る可能性が高い事は事実だ。そして近付くのも容易いだろう。島津の事、教如の事、報せたい事が有ると言えば……。もしかするとこれって三重交換殺人なのか? 顕如が義昭を殺す、そして足利が俺を殺す、となると顕如を殺したのは島津? しかし有り得るだろうか?
「有り得ぬと思っておるか?」
驚いて殿下を見た。心を読まれたのか?
「昔の事だが幕臣が三好修理大夫を殺そうとした事を忘れてはなるまい。未遂に終わったがあれは当時の公方、義輝の差金の筈。その時の幕臣達が義昭の傍に居たのだ。その者達が同じ事を考えぬと思うか?」
暗い声だ、殿下がじっと俺を見ていた。なるほど、そんな事も有ったな。確か暗殺者は進士、進士一族からは義輝の側室が出ていた。そして人間は過去の出来事を参考にする……。義昭と顕如の死、次は俺か。
「となると伯父が戻って来たのは当然ですな。伯父に万一の事が有っては某を怒らせる事に成ります。戦になりかねませぬ」
「そういう事よの」
「……十分に注意致しましょう」
「それが良いの」
殿下が頷いた。この話はここまでにしよう。あまり愉快な話じゃない。
「先日関白殿下から文を頂きました。公方が亡くなられた以上、征夷大将軍は空位となった。征夷大将軍に就任し幕府を開いては如何かと」
「そうか、麿の所にもその話は有った。関白は相国府には今一つ賛成出来ぬらしい。朝廷の権威が低下するのではないかと危惧しておる」
それだけじゃない、関白九条兼孝は俺の立場が高くなり過ぎると心配している。簒奪の意思は無くても帝に並ぶのではないかと不安視しているのだ。
「今回の一件で征夷大将軍には益々就けぬ事になりました。それをやれば某を征夷大将軍に就けるために顕如を唆したなどという噂が流れかねませぬ」
「なるほど」
「その時に疑われるのは某、太閤殿下、関白殿下となりましょう」
「馬鹿な」
殿下が顔を顰めた。しかしな、必ず疑いの目は俺を含めた三人に行く。まして年内に伯父は准大臣に昇進するのだ。如何見ても伯父を使って顕如を使嗾した事への褒賞でしかないだろう。疑いはますます強くなる。
「それに義昭公が征夷大将軍を返上し某が征夷大将軍に就任するならともかく義昭公が殺された後に征夷大将軍に就こうとすれば平島公方家が征夷大将軍職は足利家の家職であると言い出しかねませぬ。勿論、征夷大将軍職は某に下されましょうが後々に火種を残しかねない恐れが有ります」
「なるほど」
殿下の渋面が更に酷くなった。今の所平島公方家に動きは無い。だが必ず関心を持って見守っている筈だ。征夷大将軍職に価値が有るなどと思わせてはならんのだ。
「朝廷の権威、帝の権威を冒すつもりは有りませぬ。それについては納得していただけるだけの方策を考えます」
「うむ」
殿下が頷いた。僅かに喜色が見える。この男にもやはり不安は有るのだと思った。俺はそんなつもりは無いんだ。簒奪とか帝に並ぶとか考えた事は無い。安定した政権、政治体制を作りたいだけだ。それがこの国の発展に繋がる筈だ。何故それを理解しようとしないのか。……寂しいわ。
「殿下、いずれ九州では戦が始まりましょう」
「そうじゃの」
「九州から目は離せませぬ」
「うむ」
枷を外した門徒達が動く筈だ。動くのは俺を殺す準備が出来た時だろう。その時、おそらくは大友領に入って戦の切っ掛けを作る筈だ。そして島津が動けば龍造寺、秋月も動く。最初に潰れるのは大友という事になるのかもしれない。ま、史実とほぼ同じだな。