凶報
禎兆元年(1581年) 十二月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「駒千代、御父上様ですよ」
辰が声をかけると布団の上に居た赤ん坊は俺は眠いんだという様に手足を動かしてむずかった。辰が嬉しそうにしている。分かった、俺に遠慮は要らん。無理せずに寝て良いぞ、駒千代。赤ん坊は寝るのが仕事だ。変に泣かれるよりはずっと良い。
「駒千代は大殿に良く似ておいでです」
「そうか」
似てるかなあ? 瞼がちょっと腫れぼったくてカエルみたいな感じだぞ。まあ赤ん坊だからこれから面変わりしてくるんだろうとは思うが俺に似ているとは思えない。でもそれは口には出せない事だ。そんな事を言ったら辰が泣いて悲しむだろう。家康は結構そういう事を言ったらしい。魚みたいな顔とか、恐ろしい顔とか。狸のくせにとんでもない奴だ。
「似ているか? 福」
膝に乗せた娘に問うと娘は首を傾げた。福にも似ているとは見えない様だ。辰がコロコロと笑い声を上げた。家族団欒だな。福は今三歳、俺にも辰にも余り似ていない。ちょっと綾ママに似ているような気もするが三歳だからな、はっきりするのは未だ先の事だろう。
「慶事が続きますね」
「うむ、そうだな」
慶事が続いた。弥五郎の叙任、そして小夜、雪乃、篠の懐妊。最近城に居る事が多かったからな、ポンポンと女達が妊娠した。来年の六月から七月にかけて子が生まれるだろう。暑くなる前だ、負担をかけずに済む。
家臣達からは大殿は精力絶倫なんて冷やかされている。苦労してるんだぞ、これでも。それに子供が多い事は悪い事じゃない。戦国時代、子供の数が少ない事はむしろデメリットの方が多かった。側室を入れてバンバン子供を作る。それも戦国大名の務めである事は事実だ。……なんか人間というよりも野生動物みたいだな。
小夜からは今度の出産が最後になるだろうと言われている。要するに御褥辞退という事だ。小夜は今三十四歳だがこの時代だと高齢者出産になる。子供に影響が出易いから避けるべきだという事の様だ。だから子供は作らない、避妊するという事で御褥辞退は却下した。いろいろ相談したい事だって有るし愚痴だって言いたい時は有る。そういうのは側室には言えんよ。
一番懐妊を喜んでいるのは篠だ。今度こそ男子をと強く望んでいる。竹生島に参詣に行きたいと言うから代わりに俺が行くと言った。小夜、雪乃、篠の安産と男子誕生を祈って来よう。男子誕生は雪乃も望んでいる。万千代は七歳、妹の幸は福と同い年だから三歳。大きくなって手がかからなくなってきた。男子をもう一人、そう思っているようだ。
弥五郎は、いや大膳大夫だな、大膳大夫は駿府に行った。織田の旧臣達はその大部分が駿府城に出仕する事になる。尾張に残ったのは三介とその弟妹達、それに織田三郎五郎信広だ。三郎五郎の歳は五十を越え六十に近い。若い頃は信長に謀反を起こした事も有ったが今では実直そうな老人だ。一門の長老として面倒をみて貰おう。それ以外の織田九郎信治、彦七郎信興、源五郎長益、又十郎長利は俺の下に出仕させた。徳川攻めに使おうと思ったがそれだと大膳大夫の下に付けることになる。それでは大膳大夫も織田の旧臣達も遣り辛いだろうと思ったからだ。
三郎五郎信広と大膳大夫には徳川が尾張に手を入れてくる可能性が有ると伝えている。協力して徳川の調略を潰せと命じた。但し、三介は殺すなとも言ってある。三介は一度は織田の当主に成った男だ。これを殺せば旧織田の家臣に動揺が生じる。三郎五郎も迷うだろう。徳川の狙いはその辺りにもある筈だ。三介を殺すのは下策だ。三介を殺さないと約束しておけば三郎五郎も迷う事無く動ける。
三介は思慮が足りないが心は強くない。脅し過ぎては拙いが適当に脅せば背を丸めて蹲る筈だ。そして一度脅しておけば二度と馬鹿な事は考えないだろう。むしろ厄介なのは三介を担ごうとした人間だ。そちらを排除すべきだ。三介よりも三介の周囲に気を付けろと大膳大夫に言って有る。三郎五郎は大丈夫だ、野心を持つには老いている。さて、どうなるか……。
大膳大夫は皆から御屋形様と呼ばれて照れ臭そうな顔をしていたな。慣れるのに時間がかかるだろう。俺も大殿と呼ばれるようになったが御屋形様と呼ばれるよりも楽になった感じがする。まあ呼び名が変わったのは男だけだ。女達は以前と変わらず小夜が御裏方様で奈津が御寮人様だ。本当なら小夜は大方様なのだろうが綾ママが居る、このままでと言う事らしい。
「大殿」
廊下から声がした。眼をやると黒田吉兵衛が控えていた。深刻そうな表情だ、何か起きたな。辰が不安そうな表情を見せた。
「辰、仕事だ。また来る」
「はい」
「福、辰の所に行きなさい」
「はい」
俺の膝から立ち上がると辰の元に向かい傍に座った。“寒くなるから風邪などひくなよ”と言って部屋を出た。
「吉兵衛、何が起きた」
「暦の間にて百地丹波守様が大殿をお待ちでございます」
「そうか」
丹波守が来た。となると九州かな? 義昭の上洛が決まったか? いや、吉兵衛は何が起きたかは知らないようだ。となると吉事ではないのかもしれん、吉事なら口が軽くなる。凶事が起きたと考えよう。上洛交渉は決裂したのかもしれない……。
暦の間に入ると中の人間が一斉に平伏した。六人居る、百地丹波守の他に黒野重蔵、小山田左兵衛尉、進藤山城守、目賀田次郎左衛門尉、安養寺三郎左衛門尉、林佐渡守。重蔵と丹波守を除けば皆評定衆だ。丹波守が同席を望んだのだろう。かなりの凶事らしい、嫌でも身が引き締まった。伯父が拘束でもされたか?
上段に坐り“皆、面を上げろ”と声をかけた。
「丹波守、何事が起きた」
「はっ、足利義昭公が御命を落とされました」
皆が顔を見合わせた。評定衆も今知ったらしい。命を落としたか、自然死ではないな、事故、事件が起きたようだ。
「殺されたのか?」
「はっ」
「誰だ?」
まさか島津? 面目を潰されて怒り狂って義昭を殺した? 可能性は有るが単純過ぎる!
「顕如にございまする」
“顕如!”、“坊主か”と声が上がった。顕如か、驚きは無かった。義昭が殺された事も、顕如が殺した事も。何と言うか、別世界の話を聞いたような気がした。何処か現実感が無い。
「間違いないのか?」
「ございませぬ、飛鳥井権大納言様から大殿へと」
「伯父上が」
丹波守が頷いた。そうか、伯父の周辺に人を付けたか。
「一体何が起きたのだ?」
問い掛けると“されば”と言って丹波守が言葉を続けた。
それによると義昭が殺されたのは上洛の交渉の場での事らしい。義昭は本気で京に戻るつもりだったのだろう。飛鳥井の伯父と義昭の交渉は難航はしていたが少しずつ進んでいたようだ。進展が有れば雰囲気も明るくなる。交渉の場では笑い声が上がる事も有ったらしい。
事件が起きた時は交渉が長時間になったので一息入れていたところだったようだ。交渉に参加していた幕臣達も小用を済ませに行ったり茶の用意をしようとしたりで部屋には義昭と飛鳥井の伯父、二人しかいなかったらしい。義昭の周辺は手薄になっていた。そんなところに顕如が入って来た。顕如に不審な点は無かったのだろう、義昭も飛鳥井の伯父も顕如に何の警戒心も抱かなかったようだ。
その理由の一つに義昭が俺と顕如の和解を考えていた事が有る。義昭はその事を伯父に打診していたようだ。勿論顕如はその事を知っていた。顕如と安芸門徒達は苦しい立場にいる。義昭は俺と顕如を和解させ顕如を京へ、安芸門徒を安芸へ戻そうと考えていた。何と言っても彼らの苦境は義昭に加担した事が原因だった。責任を感じたのかもしれないし或いは和解の仲裁をする事で顕如達に影響力を残そうと考えたのかもしれない。
俺に自分の利用価値を認めさせようと考えた可能性も有る。義昭は和解は顕如達の為になると信じていた。そして顕如達の存在を島津は負担に感じているとも思っていたようだ。自分が去るのは不義理では有るが顕如達が居なくなればその分だけ負担は減ると思ったのだろう。
京へ戻り俺と島津の仲裁をするつもりだった可能性も有る。となれば自分の行動が島津を裏切る事になるとは思っていなかったかもしれない。俺と顕如の和解を成功させる、その外交成果をもって俺と島津の和解を促す。義昭なら考えるかもしれない。つまり俺との対立ではなく協調の中で征夷大将軍の権威を高める事に方針を変更した……。可能性は有るな。狙いは其処か? だとすれば良い所で死んでくれた。一つ間違うと征夷大将軍と太政大臣の間で影響力を競い合う事に成っただろう。
惨劇は一瞬だったようだ。顕如は座っている義昭に話しかけるような感じで近付いたようだ。そして懐から短刀を出し二度、三度と義昭を刺したらしい。らしいと言うのは飛鳥井の伯父は眼を逸らしていてその現場を見ていなかったからだ。そして顕如は何事も無かったように部屋から立ち去った。伯父は顕如が義昭を刺した事に気付かなかった。義昭は声を出さなかったというから最初の一刺しで死んだのだろう。
義昭が横倒しに倒れたのは顕如が部屋から去った後で義昭が倒れた事で伯父は異変に気付いた。だがその時は具合が悪いのかと思ったらしい。義昭が死んでいると分かったのは義昭の身体を起こした時、大量の血が流れ出たからだった。伯父は腰を抜かして大声で人を呼んだ。幕臣達が集まり何が有ったのかを伯父に訊ねた。いや問い詰めた。最初幕臣達は伯父を疑ったらしい。
当然だが伯父は否定したし幕臣達も直ぐに疑いを解いた。何と言っても伯父は刃物を持っていなかったし伯父には義昭を殺す理由が無かった。その時になって伯父は初めて顕如が義昭を殺したのかと疑いを持ったらしい。だが伯父は疑いは持ってもどうにも信じられなかったようだ。それほど顕如の動きには不自然さは無かった。幕臣達も顕如が犯人だという言葉には首を捻ったようだ。だが万一の事が有る。幕臣達は顕如を探した。
「それで、顕如は?」
「自らの部屋で首筋を切り自裁していたそうにございます」
丹波守の答えに重臣達から唸り声が聞こえた。頸動脈を切って自殺か。部屋は噴出した血で血溜りが出来ていたに違いない。二部屋も駄目にされたんだ、島津の家臣も後始末が大変だっただろうな。それにしても義昭が顕如に殺され顕如は自殺か。史実とは随分違う。
「大殿」
誰かが俺を呼んだ。皆が俺を心配そうに見ている。いかんなあ、トリップしていたか。
「いや、御労しい事だと思ったのだ。征夷大将軍の御位にある御方が坊主に殺されるとは……、さぞかし御無念であられたろう」
ちょっと俯く仕草をすると座がシンとした。演技も必要だ。これで敵の死を喜ぶ嫌な奴という声は防げるだろう。征夷大将軍の権威がまた一つ下がったと思った。
「大殿、飛鳥井権大納言様はこの後の事を知りたがっておられます」
「この後の事か」
「はい、公方様の若君、そして幕臣達。それと権大納言様は戻りたいとの御希望をお持ちでございます」
そうだな、それが残っているな。だが義昭が死んだ以上もう政治的な価値はゼロだろう。義昭の子供は元服前だ。……待てよ、という事は平島公方家が存在感を増すという事か? いかんな、足利家の人間は直ぐに将軍になりたがる癖が有る。後で三好豊前守、安宅摂津守、三好日向守に文を送ろう。間違っても妙な事は考えさせないようにしないと。
「上洛させねばなるまいな。だが交渉は一旦中断だ。伯父上には戻って頂く。御疲れであろうし色々と話も聞きたい。そう伝えてくれるか」
「はっ」
丹波守が手の者に伝えて来ると言って中座した。朝廷に伝えて新たな交渉者を選んで貰わなければならん。京に行かねばならん、その辺りを詰めないと。
しかしなあ、顕如が義昭を殺し自殺した。どういう事だ? 顕如は俺との和解を望んでいなかったのか? だとすれば義昭は顕如に警戒心を抱いた筈だ。簡単に近付くのを義昭も周囲も許したとは思えない。それに安芸門徒達の事を思えば和解はおかしな話じゃない。顕如は精神的におかしくなっていたのか? 一番考えられるのはそれだが……。皆も首を傾げながら話し合っている。丹波守が戻って来た。
「丹波守殿、顕如の後は誰が一向宗の宗主になるのだ?」
「年齢から言って長男の教如でありましょう。二十歳を越えていた筈。次男は十代半ば、三男は未だ幼児にございます」
「その長男の教如でございますが気性が荒く石山からの退去も最後まで反対したと聞いております」
丹波守と重蔵の言葉にうんざりした。坊主なのに気性が荒いってどういう事だ?
気になるのは島津修理大夫と伊集院掃部助が頻りに連絡を取り合っていたという事だな。その部分を如何見るか。
「丹波守、今回の一件を如何見る。顕如は使嗾されたと見るか? それとも気が触れたと見るか?」
「両方かと思いまする」
ざわっとした。皆が顔を見合わせている。
「今回の一件で利を得たのは島津でございましょう。安芸門徒達は行き場が無くなった、嫌でも島津のために働かなくてはなりませぬ。そして顕如が居ない以上安芸門徒を纏めるのは伊集院掃部助になりましょう。若い教如では纏まりますまい」
「しかし丹波守殿、島津はどうやって顕如を使嗾したのだ。義昭公は顕如と安芸門徒のために権大納言様と交渉していたのであろう」
林佐渡守の言葉に皆が頷いた。佐渡守、少しは朽木に慣れて来たかな。
丹波守が首を横に振った。
「分かりませぬ。ですが顕如は大分追い詰められていたようです。言動も不安定な所が有ったとか」
丹波守の言葉になるほどと思った。義昭が一向宗を取引材料にして自分だけが利を得ようとしているとでも吹き込めば有り得るかもしれない。そして義昭ならやりそうでは有る。島津がその辺りを上手く利用した……。筋は通るが納得はいかん。伯父上の話を聞きたいな。伯父上なら何かを感じた筈だ。ああ、それと大膳大夫に報せておかないと。
禎兆元年(1581年) 十二月上旬 駿河国安倍郡 府中 駿府城 朽木堅綱
徳川が攻めてきた。兵力は三千、甲斐守は小田原に居るから家臣が率いているのであろう。直ぐに軍議を開いた。竹中半兵衛、山口新太郎、浅利彦次郎、甘利郷左衛門、佐久間右衛門尉、柴田権六、池田勝三郎、森三左衛門、そして風間出羽守。私が関東攻略を命じられた事で出羽守率いる風魔は私の直属になって関東の、徳川の情勢を調べている。
「三千の兵が甲駿街道を南下、根原を越え人穴に向かっておりまする」
出羽守の報告に皆が首を傾げている。三千の兵、中途半端だ。
「皆は如何思うか? 忌憚無く意見を述べよ」
声をかけると皆が頭を軽く下げた。
「陽動、挑発、牽制、いずれともとれるが甲斐守が御屋形様の出方を見ている事は間違いあるまい」
半兵衛の言葉に皆が私を見た。表情が動きそうになったが耐えた。私の出方を見ている、甲斐守は試しているのだ。おそらくは家臣達も私を計っている。我慢しなければならぬ。父上の様に、慌てる事無く落ち着くのだ。
「おそらく甲斐守は小田原で戦の準備をしていよう。惑わされてはなるまい」
「同感だ。だが放置は出来ぬぞ。このまま南下させれば大宮だ」
大宮か、大宮は六斎市が開かれる町だ。確かに放置は出来ない。
「甲斐守の狙いは? 駿河か、伊豆か」
「分からぬ、だがどちらに進むとしても駿東郡を抑えようとする筈だ。南下する三千は囮、本命は甲斐守の率いる兵であろう」
駿東郡か、駿東郡を抑えれば駿河と伊豆を分断出来る。そうなれば伊豆は孤立する。伊豆の国人衆は徳川に靡きかねない。
「兵を二手に分けよう。一手をもって駿東郡を守り甲斐守を抑える。もう一手は南下する徳川軍を甲斐に押し返す」
私の言葉に皆が頷いた。
「佐久間右衛門尉、その方一万の兵を率いて南下する敵を抑えよ。打ち破る必要は無い、抑え甲斐へ押し戻すのだ」
「はっ」
右衛門尉が頭を下げた。父上は右衛門尉は守りに強いと言っておられた。適任だろう。
「柴田権六、森三左衛門は右衛門尉を助けよ」
権六と三左衛門が頭を下げた。
「池田勝三郎と山口新太郎は駿府城で留守を頼む。兵は五千を置く。私は残りの兵を率いて駿東郡に行く」
直ぐに動かせる兵は三万。私の率いる兵は約一万五千、それに駿河、伊豆の国人衆に触れを出せば二千から三千は集まるだろう。
「佐久間殿」
彦次郎が低い声を出した。
「何かな、浅利殿」
「御貴殿程の方にこのような事を言うのは釈迦に説法であろうがお聞き下され」
「はて、何であろう」
右衛門尉、彦次郎の表情が硬い。武田は織田に滅ぼされた、その所為で織田の旧臣達と彦次郎、郷左衛門の関係は微妙だ。私も気を遣う。
「敵は右衛門尉殿が近付けば後退し甲斐領内に引き摺り込もうとするのではないかと思う。甲斐領内は地形が険しい、大軍の利が生かし切れぬ。用心して頂きたい」
「……」
「特にこの時期は信濃は冬支度に入り兵を動かす事はまず無い。甲斐は全ての兵を動かせる。油断は禁物にござる」
「なるほど」
右衛門尉が頷いた。権六と三左衛門も頷いている。
「右衛門尉、頼むぞ」
「はっ」
「出陣だ! 準備に掛かれ!」
“おう”という声が上がって皆が起ち上がった。疲れた、と思った。