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力では無く理(ことわり)




禎兆元年(1581年)   九月上旬      山城国葛野郡    近衛前久邸  九条兼孝




「相国府、でございますか」

思わず声が上擦ってしまった。

「うむ、太政大臣に就任した上で新たな政の府を開く、そういう事でおじゃろうの」

「……ですがそれでは新たにもう一つの太政官が出来るようなものではおじゃりませぬか?」

「ま、そういう事に成ろう。関白は不満かな?」

「いえ、そういうわけではおじゃりませぬが……」

語尾を濁すと太閤殿下が“ほほほほほほ”と笑い声を上げた。


「関白の気持ちは分かる。だがの、実を持っているのは向こうじゃ。となれば何らかの政の府が要る。これまではそれが幕府であった。征夷大将軍に就任し幕府という武家の府を開いて天下を治めた。武家の府で有る以上太政官とは別でおじゃった。前内府(さきのだいふ)は相国府という武家の府では無い、太政官の府を開いて政を執りたいと考えている」


「……幕府ではなりませぬか?」

殿下が苦笑を漏らされた。

「九州に己こそが征夷大将軍と騒ぐ愚か者が居よう」

「征夷大将軍に拘らずとも宜しゅうございましょう。南朝ではおじゃりますが鎮守府大将軍の例もございます。それをもって幕府を開かせる事も難しくは有りますまい」

「……」

殿下は何も申されない。


「飛鳥井権大納言からの報せによれば公方は必ずしも上洛を拒否しては居ないようです。それなりの立場を与えれば上洛いたしましょう。その上で征夷大将軍を辞任させるという手もおじゃります……」

太閤殿下が首を横に振った。


「なりませぬか?」

「なるまいな」

「未だ天下は統一されておりませぬ。征夷大将軍、鎮守府大将軍に就任し武家の頂点に立って天下に号令する。その方が……」

「関白、例え征夷大将軍が空いていても前内府は望むまい」

「……」

殿下が私を見た。


「麿もな、一度は鎮守府大将軍をと考えた事がおじゃる、だがいかんの」

「いけませぬか?」

問い返すと殿下が頷かれた。

「いかぬ。前内府を甘く見てはならん。あれは将軍になりたがって泣き喚く阿呆とは違う。将軍になりさえすれば天下を治められるとは思っておらぬのだ」

「と申されますと」


「武家の府は本来武士を治めるもの。それでは天下の政を執るには不適当と考えておる」

「しかしこれまでは」

「関白、鎌倉の幕府を滅ぼしたのは誰であった?」

虚を突かれた。太閤殿下が私をじっと見ている。

「……そういう事でございますか」

「うむ」


鎌倉の幕府を滅ぼしたのは後醍醐の帝であった。前内府は朝廷との対立を恐れているのか。

「武家の府を開き武家として天下を治めるから朝廷との対立も生じ易い。だが太政官の府を開き太政官として天下を治めるならば対立を少なからず避けられるのではないか。その方が世の中が安定するのではないか、前内府はそう考えているようじゃ」

「なるほど」


武家は力を持つ。なればこそ将軍職に就き力を持って天下を治めた。だが前内府は政を執る正当性を必要としているという事か。

「力では無く(ことわり)を必要としているのですな。天下を治めるに相応しい理を」

殿下が頷かれた。


「武家として幕府を開き朝廷を守る、それがこれまでの武家の有り様であった。武家はあくまで朝廷の外にあったのじゃ。だが前内府は武家として太政官の頂点に立ち公武を治めようとしているのだと思う」

「公武の統一、或いは合一でおじゃりますか」

「そういう事に成るのやもしれん」


溜息が出た。公武の上に立つ、それは一体如何いう事なのか。或いは帝と対等、それに準じる立場を得ようと言うのか。だが以前太閤殿下から聞いた話では前内府は帝の権威を必要としている。そして皇統にも関与しようとはしない。あくまで政を執るために太政大臣を必要としているだけなのか……。一度直接話してみた方が良いのかもしれない。


「我らは太政大臣を避け摂政、関白になる事を望んだ。それ故に太政大臣は実権を持たぬ名誉職となった。だが太政大臣は太政官の最上位の職なのだ。相国府が開かれるのであれば太政大臣はその地位に相応しい権限を取り戻すのかもしれぬ」

「左様でございますな」

皮肉な事だ、我ら公家が避けた太政大臣を武家が政を執るために必要とするとは……。




禎兆元年(1581年)   十月上旬      近江国蒲生郡八幡町  八幡城  朽木基綱




辰と桂に子供が生まれた。辰の子が先に生まれ桂の子が五日程後に生まれた。どちらも男の子だ、ホッとした。辰は男の子を欲しがっていたからな。辰に女の子で桂に男の子だったら悲しんで大変だっただろう。綾ママも篠も喜んでいた。俺も嬉しい、これで温井の家を再興出来る。義務を果たしたような解放感が有った。辰の子を駒千代、桂の子を康千代と名付けた。


去年、一昨年は女の子が三人続いたのだがな。今年は男の子が二人だ。不思議な感じがする。辰に男の子が生まれた事で篠が積極的だ。辰が二人目を身籠った時から積極的だったんだがより一層積極的になった。男子を産んで三宅の家を再興したいと考えているようだ。そうだよな、頑張らないと。こうなると側室を迎えるのも楽じゃないわ。


桂が康千代を産んだ事で今川氏真夫人春姫は大喜びだ。康千代の康は北条氏康の康でもある。夫人は俺が生まれた子に尊敬する父親の一字を付けた事が嬉しくて堪らないらしい。何度も礼を言われた。まあ俺としては健康に育ってくれ、そんな気持ちで付けたからちょっと困惑している。


もっとも喜ぶ気持ちは良く分かる。北条家は男子が少ない、そんなところに朽木家に北条の血を引く男子が生まれたのだ。おまけに俺が名前にも配慮した、そう思えたのだろう。安心したのかな、そろそろ出家して夫の、そして北条一族の菩提を弔いたいと言っている。康千代の成人後は北条の姓を名乗らせて関東に置くのも良いかもしれない。


まあ問題も有る。園が秘密を母親の嶺松院、そして春姫に話した。話さなくても良いと言ったのになあ。だが俺が娘の龍姫を可愛がるのを見て、康千代への配慮を知って辛くなったようだ。当然だが二人は仰天した。慌てて俺の所にやってきて“申し訳ありませぬ”と頭を下げるからこっちも困った。俺としては休息所が出来たと思えば良いんだから気にするなと言ったんだが向こうにしてみれば“はい、そうですか”とは頷けんよなあ。


結局改めて今川家から側室をと言っている。候補者は氏真の娘、夕姫だ。だがなあ、夕姫は永禄十一年生まれで未だ十四歳だ。勘弁してくれと言いたいんだが園は出家したいと言っているし嶺松院としては今川と朽木を繋ぐには夕姫を俺の側室にするしかないと考えているようだ。朽木と北条が関係を密にしつつある、その事も影響しているだろう。


弥五郎に頼もうか? 弥五郎は駿河に行くのだし今川の娘を側室に入れているのはそれなりに意味が有ると思う。駿河の国人衆に対して影響力を発揮し易い筈だ。夕姫は悪くない、時折園の所で話をするが素直でコロコロと良く笑う明るい娘だ。カステーラを食べて美味しいと無邪気に喜んでいるところは家を失った暗さは無い。問題は弥五郎に世継ぎが居ない事だ。奈津が男子を生んでくれれば弥五郎に頼める。年も似合いだろう。……弥五郎は嫌がるかな? 真面目だからなあ。取り敢えず側室問題は保留だ。


徳川から使者が来た。降伏したいと言ってきたが拒絶した。徳川が織田、北条にした事を考えれば到底受け入れる事は出来ない。徳川は小さい、小さいにも拘らず生存意欲と上昇志向が強過ぎる。生存意欲が強いのは構わない、これは当然の事だ。だが上昇志向が強いのは困る。この二つが結び付くと碌な事にはならない。懐に入れる事は危険過ぎるのだ。徳川の使者は酒井忠次だったがその事を伝えた。忠次は乱世である以上生き残る為には仕方が無いと弁解していた。生き残る為か、それは俺も同じ想いだ。だからこそ徳川は受け入れられない。徳川は危険なのだ。史実でも、この世界でも。


九月の末に関白九条兼孝が八幡城に来た。吃驚したわ。辰と桂の御産騒ぎの時に来たから向こうも吃驚だったな。わざわざ来たのは足利義昭の件、飛鳥井の伯父の件だった。もっともそいつは表向きの事で本当の狙いは新たな政治体制についてだったようだ。かなり気にしている。相国府を開けば俺が太政官の上に立つというのが気にいらないらしい。つまり俺の立場が帝に準ずる、或いは匹敵する立場になるのではないか、国に二人の主が出来るのではないかと案じている。


要するに帝の地位、権威が揺らぐのではないかと思っているのだ。面倒だわ、朝廷というのは強い庇護者を必要としているのだがその庇護者との距離の取り方、これの見極めがつくまでは公家達は非常に疑い深い。こっちは政権の正統性を確立したいだけだ。納得したのか、しなかったのか。何度か頷き何度か首を捻っていた。幕府の方が良いんじゃないかとも言っていた。


幕府というのは武家の府であって天下の府ではない。武家が幕府で天下を治めるのは本来イレギュラーな形なのだ。俺は天下の統一には武力が必要だが統治は法的な正統性が必要だと言っているだけだ。そして帝の権威を否定するとか肩を並べようとかしているわけでもない。むしろ太政大臣が政を執るというのは帝の権威を上げる事になると思う。それも言ったんだが納得したかな?


関白が不安視しているのは今の太政官が相対的に地位を低める事になるんじゃないかという事だろう。いや、太政官だけじゃないな、摂政、関白も地位の低下が生じるかもしれない。結局それが帝の権威を低下させる事に成るのではないか、そう見ている。その辺りの不安を如何解消するかだな。帝の権威を立て朝廷の面目を立てる方法、そいつが有れば関白も納得する筈だ。要検討だな。


九州に下向した飛鳥井の伯父は上手く義昭を説得しているらしい。義昭はかなり迷っている。それなりの待遇をしてくれるのであれば、身の安全を保障してくれるのであれば上洛しても良いと考えているようだ。九州で反朽木勢力を集結し上洛戦を挑む、それが義昭の望みだった。だが流石に難しいと思い始めたらしい。特に義昭よりも幕臣達が弱気になっている。


足利の権威は地に落ちている。どれほど書状を出しても大友も龍造寺も島津に協力しない。そして中国、四国は完全に朽木の影響下にある……。伊賀衆の報告では義昭の前では強気な事を言うが幕臣同士で集まると途端に弱気な発言が出るようだ。彼らの本音はこのまま九州の僻地で朽ち果てたくない、それよりは降伏しても畿内に戻りたいだ。


関白は准三宮の待遇を与える事で義昭の望みを叶えたいと考えている。俺としては異存は無い。准三宮なんて形式だけで実はないのだ。それで義昭が満足するなら安いものだ。だが義昭には三好左京大夫義継を殺した前科が有る。この部分は義昭、幕臣達も気にしている。身の安全が保障されないのではないかと危ぶんでいるのだ。義昭が、幕臣達が表向きは強気な発言をするのもそれが有る。


実際俺から松永弾正、内藤備前守に義昭を呼び戻したいと打診したが二人からは最低でも義昭には三好家に対しての詫び状の提出と隠居、出家をして貰わなければ納得がいかないと文が来ている。これは無視出来ない。准三宮の待遇を与えた後、隠居、出家をして貰う。詫び状は三好家だけじゃない、伊勢家、細川家、一色家にも出して貰う必要が有る。義昭の嫡男は俺が烏帽子親になる事で将来を保証するし領地も与える。そういう形でけじめを付けたいと伝えた。


これについては関白も納得しているし太閤近衛前久も同意している。三好、松永、内藤の三家は畿内の有力者なのだ。この三家を怒らせるのは朝廷にとっても得策ではないという判断がある。義昭を戻しても義昭が殺されてしまっては朝廷の権威に傷が付きかねない。伯父御には義昭を説得して貰わなければならん。もう少し苦労して貰う事になるだろう。まあ苦労するだけの意味は有る。来年には准大臣、儀同三司に任じられる事になりそうだ。関白がそのような事を言っていた。どうやら帝の御内意が有ったようだ。


島津は義昭を薩摩に押し止めようとしているらしい。義昭に何処まで利用価値が有ると考えているのかは分からない。だが此処で義昭に去られれば島津は義昭に見捨てられたと周囲は見る。島津の面目は丸潰れだ。それを防ぐには義昭に島津なら上洛の可能性が有ると思わせなければならない。結構厳しい。島津が焦って戦を起こすようだと危うい事に成る。


伯父御が薩摩に下って以降、島津修理大夫義久と日向に居る伊集院掃部助忠棟との間で文の遣り取りが頻りに有るらしい。おそらく義昭の上洛問題で一向門徒が動揺するのを防ぐためだろう。やはり義久と忠棟の間には密接な繋がりが有る。となると反目は表向きの可能性が高いな。掃部助忠棟は修理大夫義久と反目していると見せかけて一向門徒の心を獲ろうとしていると見た方が良い。つまり顕如は邪魔なのだろう。少しづつ顕如も実権を失いつつ有るという事だ。しかし顕如がそれを黙って認めるとも思えん。何処かで反撃する筈だ、それが何処か……。




禎兆元年(1581年)   十月上旬      近江国蒲生郡八幡町  八幡城  朽木堅綱




暦の間には父上が一人ポツンと居た。

「父上、お呼びと伺いましたが?」

「うむ、今少し近くへ」

「はっ」

二躙(ふたにじ)り程近付くと父上が首を横に振った。もっと近くという事か、更に二躙り。父上がまた首を横に振り扇子で其処へという様に指し示した。父上から一間程離れた場所だった。その場所に躙り寄ると父上が頷かれた。


「近々、朝廷より使者が来る。その方は従四位下、大膳大夫に叙任される」

「はっ」

従四位下、大膳大夫。父上が初めて就かれた官位。それを私に……。既に知っていた事だが改めて父上から伝えられるとずしりとした重みを感じた。自分に務まるのだろうか。


「その後、家督を譲る」

「はい」

「その方は駿河に行く。覚悟は出来たか?」

「……良く分かりませぬ。行かねばならないとは思っておりますが……」

叱責されるかと思ったが父上は“正直で良い”と頷いただけだった。


「辛かろうな、だが耐えて貰わねばならぬ」

「……」

「今新たな政の仕組みを考えている。既に太閤殿下、関白殿下にはこちらの意の有る所をお伝えした」

「はい」

新たな政の仕組み、父上が幕府ではない政の仕組みを御考えなのは知っている、一体どのような形なのか……。


「それが定着するまでには時間(とき)がかかるだろう。俺からその方へ、その方からその方の子へ、少なくとも五十年はかかると思う。そのぐらい経てば世の中も落ち着くだろう」

「五十年、でございますか?」

「うむ」

父上が頷かれた。五十年、私は六十を越えている。父上は八十……、おそらく生きてはおられまい。


「その五十年は力が要ると父は思っている。世の中を乱世に戻そうとする者を圧し潰す力が、平和を守る力が。俺が守りその方が引き継ぐ、分かるな?」

「はい」

「そのために力を付けるのだ。その方は未だ若い、辛かろう。だが朽木家の嫡男として生まれてしまった。こればかりはどうにもならぬ。力を付け、この父を助けてくれ」

「父上……」

「頼む」

父上がじっと私を見た。


哀しそうな目だった。父上は苦しんでいる、そして私に済まないと思っているのだと思った。自分一人では解決出来ない問題を抱えてしまった。その重荷を私に背負わせる事を哀しんでいるのだ。

「必ずや御期待に添いまする。駿河に行き徳川を滅ぼしまする」

父上が頷かれた。


「その方の傍には竹中、山口、浅利、甘利を除けばその殆どが旧織田の家臣となる。不安かもしれぬが案ずるには及ばぬ。あの者達は織田殿に従って織田家を大きくした者達だ。実力は本物だ。そして東海道の情勢に付いては朽木家の者よりも遥かに詳しい。上手くその力を使え」

「はい」


「弥五郎、焦るなよ」

「はい」

「徳川は五十万石に足りぬ身代だ。その方の身代は百二十万石を越える。そして徳川は朽木だけでなく上杉も敵にしている。徳川にとっては重すぎる敵だ。辛かろう。それは甲斐守だけでなく家臣、国人衆も感じている事だ」

「調略を使うのでございますね?」

父上が“そうだ”と頷かれた。


「窮鼠猫を噛むの例えも有る。野戦で一気に決着を着けようと思うな。少しずつ、ゆっくりと、徳川の衣服を一枚ずつ剥ぐように攻めていけ。いずれ徳川の家臣、国人衆の心が折れる。そして甲斐守を裸にするのだ。手強い敵、堅固な城に籠る敵はそうやって倒す。小田原城攻めで試すと良い」

「はっ、御教示有難うございます」

耐えなければならない、苦しんでいるのは私だけではないのだ。父上も苦しんでおられる。……駿河に行こう、そして力を付けて此処に戻ってこよう。







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[良い点] コミックスから入ってこの話まで一気に読みました。 [気になる点] 内容が飛び飛び? [一言] ここまで読んで面白かったので小説版を買おうかと悩んでいるのですが書籍版は省かれている描写部分等…
[一言] コミックスから入って、単行本を全て読んで(電子版で購入)、続きを読みたくてとうとうなろうまで来ました。 もともと戦国時代ものは食わず嫌いだったこともありほぼ知識0でしたが、とても面白く読んで…
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