相国府
禎兆元年(1581年) 八月下旬 山城国葛野郡 近衛前久邸 朽木基綱
「あっという間でおじゃったの」
「畏れ入りまする」
「ああも簡単に織田が滅ぶとは思わなんだわ。いや、あれは滅んだのかの? 麿には織田の家臣達は三介から前内府へと主を変えただけのようにも見えたが……」
太閤近衛前久が首を傾げている。そうだろうな、周囲にはそういう風に見えただろう。それだけに織田の家臣達には葛藤が有った筈だ。彼らは三介を、織田家を捨てたのだから。
「京では大層な評判じゃ」
「……」
「織田の事ではおじゃらぬぞ、弥五郎の事よ」
「弥五郎の事と言いますと?」
“ほほほほほほ”と殿下が笑った。扇子で顔を隠しながらチラリ、チラリと俺を見ている。八月下旬、暑いわ。屋内にまで蝉の鳴き声が聞こえる。背中を汗が流れるのが分かった。
「家督を譲り駿河へと送ると聞いた。鍛えるために駿河に送るのか、それとも徳川如きは自ら出るまでも無し、倅で十分という事なのか、皆興味津々でおじゃるの」
「左様で」
「どちらかの?」
顔を覗き込まれて思わず苦笑が出た。どうやら誰よりも興味を持っているのは目の前の殿下らしい。困ったものだ、一口茶を飲んだ。
「何時までも某の下に居ては窮屈かと思いまして」
「ほう、窮屈か」
「そろそろ自分の思う様にやってみたい、そう思う頃でございましょう。成功するも良し、失敗するも良し、得る所は有ると思いまする」
“なるほど”と言って殿下が大きく頷いた。
「武家は厳しいからの。かつて勢威を張った六角、朝倉、武田、北条、今川は滅びた。そして織田も……」
そう、武家は厳しいのだ。だからこそ弥五郎は自らの力を天下に示さなければならない。毛利は天下を望まなかった。だから領土を減らしても生き残る選択肢を選べた。その事で輝元を不甲斐無しと蔑む人間はいないだろう。元就は正しい遺言をしたのかもしれない。だが朽木はそれが出来ない。朽木は天下統一を目前にしているのだ。今の時点で天下を望まぬ等という事は出来ない。弥五郎は天下人にならざるを得ないのだ。当然だがそれに相応しい力が要る。天下を制する力が。
史実の徳川秀忠は関ヶ原の戦いの時に二十歳ぐらいだった。加藤清正、福島正則等の豊臣恩顧の大名が三十代後半から四十代前半だ。関ヶ原以後、十五年ほど平和が続き大坂の陣が起きて豊臣が滅ぶ。家康はその直後に死ぬから秀忠は三十半ばで本当の意味で天下人になった事になる。そして豊臣恩顧の大名は五十代前半から後半になった事に成る。この時代で言えば十分に老人だ。
関ヶ原から大坂の陣の間の約十五年、この十五年は戦国を血に塗れながら生き抜いて来た大名達が相次いで死んで世代交代が起きた時代だ。それによって戦争を経験していない、大坂の陣が初陣という大名が誕生している。つまり各大名家は創成期から安定期、守成期に移りつつあったと言って良い。戦国生き残りの大名は少数派でもう老人だった。先は長くない。武勲らしい武勲の無い秀忠に将軍が務まったのはそれらの要因が大きいと思う。
俺が何歳まで生きるか分からない。史実では関ヶ原の戦いに参加しているが歴史は変わっている。努力はしているが俺が長生き出来る保証は無い。そして弥五郎には俺が死んだ時、天下人として君臨するだけの力が要る。そうでなければ天下はまた戦国乱世の時代に戻るだろう。弥五郎の立場は徳川秀忠などよりもずっと厳しいのだ。
「官位の事、聞いておじゃる」
「はっ、何卒良しなに願いまする」
「うむ、案ずるには及ばぬ。冬になる前に望みは叶おう」
隠居は弥五郎が官位を貰った時だな。従四位下、朽木大膳大夫堅綱。うん、良いんじゃないの。このままいくと朽木家の嫡男が最初に付く官位は従四位下、大膳大夫になるのかもしれない。
「ところで政の府の事でございますが」
「うむ、麿もその事が気になっていたのじゃ。兵庫頭から聞いておじゃる。麿に相談したい事が有るとな」
殿下が身を乗り出してきたので自分の思う所を話した。幕府の様な武家の府では朝廷との対立が生じがちである事。その分だけ不安定な組織になるであろう事。だが朝廷の内に入るとすればどのような官職の職掌で政の府を開けば良いのか……。上手く説明出来たとは思えないが殿下は真摯に聞いてくれた。小首を傾げたり頷いたりしている。時折“なるほど”と声も出した。
「なるほどのう、面白い話じゃ。いや、面白いと言うては不謹慎でおじゃるの。だが面白い。宮中では斯様な話は出来ぬしする者も居らぬ」
まあそうだろうな。でもなあ、面白がられていても困る。
「元々この国の仕組みは唐から学び取り入れました」
「律令か」
「はい。そして我が国の国情に合わせて作った」
「そうじゃの」
パチリ、と殿下が扇子の音を立てた。
「武家が登場した時、当時の朝廷は武家を朝廷の中に積極的に取り込もうとはしませんでした。疎外し蔑まれた武家は何かと不利益を押し付けられた。武家は自らを守ってくれる人物、組織を必要とした」
「それが源氏、幕府か」
「はい。朝廷が武家を疎外しなければ幕府は必要とされず朝廷は今でも力を持っていたかもしれませぬ」
「そうじゃの」
またパチリと音がした。殿下が感慨深そうな表情をしている。或いは朝廷が武家を積極的に取り入れた世界を想像しているのかもしれない。しかし無理だったと思う。元々律令制が導入されたのは古代の豪族の力を抑え朝廷の力を強めて中央集権国家を創るのが目的だった。その基になったのが公地公民と班田収授法だ。豪族が持っていた土地と民を朝廷の物にした。私有地と私有民を否定したのだ。
だが日本人は土地が好きだ。三世一身法、墾田永年私財法によって土地の私有が認められるようになると公地公民は徐々に崩れその土地を守るために武士が誕生する。朝廷が武家を疎外したのは朝廷の既存の組織では武家を受け入れる事が出来なかったからだと思うが律令制と武家が相容れない存在だからというのも有るのだと思う。
だから令外官である征夷大将軍による幕府が出来たのだ。要するに幕府と言うのは当時の矛盾、力を失いつつある公家と力を付けつつある武家、この矛盾を解消するために朝廷の外に出来た組織なのだと思う。朝廷の内では武家は受け入れられず矛盾の解消は出来なかった。建武の新政でも多くの武士が後醍醐では無く尊氏を選んだ事、新たな幕府の開府を望んだ事を考えればどう見てもそうなる。
「今では武家が力を持ち武家抜きで天下の政は成り立ちませぬ。しかし征夷大将軍は足利の無道によって権威を大きく落としました。そして朝廷には武家の居場所は無い。先程も申し上げましたが某はどうやって天下を治めればよいのか、いかなる立場で政の仕組みを整えればよいのか……」
「うーむ、前内府よ、そなた何者じゃ。ただの武家ではないの、まるで明法家じゃ」
殿下が俺をじっと見ている。明法家か、現在の言葉で言えば法律学者、憲法学者、そんなところか。しかしな、そんな変な目で見ないで欲しいな。こっちだって無い知恵を絞って考えているんだ。
「朝廷の中から天下を治めるとなれば某一人ならともかく家臣達も官職に付かねばなりませぬ。そうなれば公家の方々は今の官位を武家に奪われましょう。それは武家と公家の新たな対立を引き起こします」
「その通りじゃ」
公家なんて今じゃ実権のない官位を得る事だけが生き甲斐なのだ。それを奪ったらとんでもない事になる。殿下が苦い表情で茶を一口飲んだ。
「となるとやはり朝廷の外に作るしかあるまいの」
殿下がジロリと俺を見た。
「なんぞ良い考えが有るかな?」
「令外官は避けたいと思います。……太政大臣は如何かと」
「なるほど、太政大臣か。武家の府ではなく太政官の府よの」
二度、三度と殿下が頷いた。
太政大臣、太政官府の最高の地位では有るんだが現在では名誉職に近い。それに……。
「殿下、良く分からぬのですが太政大臣とは何なのです?」
俺が問うと殿下がぷっと噴出した。
「そなた、真に面白いの。……まあ分からぬでもない。太政大臣とは何か? 実はの、我等公家にも良く分からぬのじゃ」
「はあ?」
殿下が分からない? 唖然としていると殿下が口元に扇子を当てて“ほほほほほほ”と笑い出した。
「そなたもそういうかおをするのじゃな。太政大臣とはの、太政官における最高の官職じゃ。帝の師範であり天下の手本となる者が就く職とされていての、その職に相応しい人物がいなければ空席となる。即ち尋常の職ではない、則闕の官と言われておる」
その辺りは俺も分かる、恵瓊から聞いたからな。通常、朝廷で朝議、要するに閣議を主宰するのは左大臣だ。摂政、関白、太政大臣にはその資格が無い、いや朝議に参加する資格が無いらしい。左大臣が摂政、関白を兼任する場合には右大臣が朝議を主宰する。
まあ摂政、関白が朝議に参加する資格が無いというのは分からないでもない。両方とも令外官だからな。だが太政大臣は太政官のトップだろう。それなのに朝議の主催、参加する資格が無い。太政大臣とは何か? 俺でなくても疑問に思うだろう。
「太政大臣とは一体何をするのです?」
俺が問うと殿下が困った様な笑みを浮かべた。
「それがなあ、昔から問題になっているのよ。随分と昔の事だがその時の公家達が文章博士に太政大臣の職掌の有無を確認した事があっての」
「それで文章博士は何と?」
殿下が首を横に振った。
「何人かに確認したのじゃが意見の一致は無かったと聞いている」
「……」
文章博士ってその当時の秀才が任じられるんだけどな。太政大臣ってそんなに難解なのか?
「その中で一番明快であったのが太政大臣は分掌の職にあらずといえども、なお太政官の職事たりというものであっての。要するに太政官の最高責任者であり全ての職務について権限を持つ故に職掌の記述が無いというものであった」
「なるほど」
「その答申を出したのが菅公よ」
「はあ」
思わず間の抜けた声を出してまた殿下に笑われた。菅公? ここで菅原道真が出て来るのかよ。昔ってそんな昔? 歴史って凄いな。実感した。
「その職掌がはっきりせんという事が関係しているのかもしれんが我ら藤原氏は太政大臣よりも摂政、関白に任じられる事を、或いは左大臣のまま内覧に任じられる事を望んだ。その方が権限がはっきりしているから遣り易かったのではないかと麿は考えている。元々常設の官では無いのだがそれの所為で更に名誉職の色合いが強まった。そういう意味ではそなたが太政大臣に眼を付けたのは悪くない。そなたが太政大臣に就任しても公家からの反発は少なかろう」
そうなんだ。摂政、関白、左大臣、右大臣は公家達が就きたがるから反発が大きい。史実で秀吉が関白に就いた事、秀次が関白に就いた事は五摂家にとっては不満だったと思う。関白職が世襲で受け継がれては五摂家は五摂家でなくなってしまう。豊臣家が滅んだ時、朝廷は悲しんだと言われているが五摂家は別だろうな。ザマアミロ、そう思ったとしても俺は驚かない。
その点で太政大臣ならそれほど大きな反発を受ける事は無い筈だ。唯一の問題は帝が元服する時に太政大臣が加冠の役を務めるという事だ。太政大臣は帝の師だからということらしい。その時だけ太政大臣が必要となる。だがそれだって一時的なものなのだ。譲っても良いし自ら加冠の役を務めても良い。特に問題は無い筈だ。
「太政大臣になり幕府の様に府を開くか」
「そういう事に成ります。幸い全ての職務について権限を持つとお聞きしました。筋は立ちましょう」
「そうなるな」
殿下が頷いた。全ての職務に付いて権限を持つからそれを助ける部下を持つ。その部下を朝廷では無く別の府に求めるわけだ。筋は立つ。
「御賛同頂けましょうや?」
「……名は何とする?」
「名でございますか? さて……」
名を求めてきたという事は賛成か。太政大臣府ではおかしいな。大臣府でも変だし……。考えていると殿下がニヤリと笑った。
「相国府は如何かな?」
「相国府? 良い名だと思います」
「そうであろう」
“ほほほほほほ”と殿下が笑った。相国府か、太政大臣の唐名が相国だった。平清盛は平相国と呼ばれていたな。一応筋道は出来た。後は中身を如何するかだ。これからがまた一苦労だな。
禎兆元年(1581年) 九月上旬 近江国蒲生郡八幡町 蒲生賢秀邸 平井定武
「見舞いに来てくれたのか、加賀守殿」
「具合は如何かな? 下野守殿」
「見ての通りだ。起きるのも辛い」
下野守殿が横になったまま答えた。大分具合が悪いようだ。声に力が無い、そして酷く痩せていた。
「医師は何と?」
「見せておらぬ」
「何故?」
下野守殿が微かに笑みを浮かべた。
「腹に膈が出来た。もう助からぬ」
「……」
「そのような顔をするな、加賀守殿。人間何時かは死ぬのだ」
そうだな、人間何時かは死ぬ。……思えば良く生きた。お互い何処かの野末で屍を晒してもおかしくは無かった。
「とは言っても中々未練を断ち切れぬ。困った事だ」
下野守殿が苦笑を浮かべた。
「それが人であろう。私もまだまだこの世に未練が有る」
「そうか、安心した」
二人で声を合わせて笑った。正直親しくは無かった。何処かで肌が合わなかった。だが六角家を、朽木家を共に支えてきた。そして共に笑う事は出来る。その死を悼む事も出来るだろう。
「若殿の事、東海道へと御屋形様に進言したのは下野守殿だな?」
「分かるかな?」
「分かる。御屋形様が何度か下野守殿を見舞ったと聞いた。ただの見舞いでは有るまいと思った」
「正確には御屋形様から若殿と東海道の仕置きを如何するかとの御下問が有った」
「……そうか、御屋形様から御下問が」
下野守殿が頷いた。
「御屋形様は苦しんでおいでであった。今のままでは若殿のためにならぬのではないかとな」
「なるほど」
「不満では無く不安なのだと仰られた。儂に御下問が有ったのも死を間近に迎えた儂なら遠慮せずに進言出来ると御考えになったのかもしれぬ」
「そうかもしれぬな」
下野守殿が私を見た。
「なあ加賀守殿。どれほど勢いの有る家であろうと愚かな後継者がそれを滅ぼしてしまう。我らはそれを見てきた。それは御屋形様も同様であろう。御屋形様にとっては天下の統一以上に若殿を鍛える事は大事な事なのだと思う。若殿に力が無ければ御屋形様が天下を獲ってもまた乱れる事になる」
「そうだな」
天下人は天下に一人。その重さがどれ程の物かは周りからは分からぬ。今その重みを最も切実に感じておられるのが御屋形様。だからこそ不安に思われるのであろう。
「不安かな、加賀守殿」
「正直不安は有る。某にとって若殿は可愛い孫だ。将来の天下人など如何でも良い、ただ可愛い、苦労はさせたくないと思う気持ちが有る。それではならぬと分かってはいるが」
下野守殿が頷いた。眼に私を気遣う様な色が有った。
「気持ちは分かる。しかし残念だが朽木家は大きくなり過ぎた。加賀守殿の願いは叶えられまい」
「……」
「悪いお方を婿にしてしまったな。今少し弱い、愚かな御方であれば加賀守殿もこのような心配はせずに済んだものを……」
「そうかもしれぬ。駿馬を婿に迎えたと思ったがどうやら婿に迎えたのは獅子であったようだ」
下野守殿が頷いた。因果な事だ、皆が天下に振り回されている。私、小夜、弥五郎、そして御屋形様。皆が天下の重みに呻吟している。この苦しみはこれからも終わる事無く続くのだろう。因果な事だ……。