東海道分譲
禎兆元年(1581年) 六月中旬 駿河国安倍郡 府中 駿府城 朽木基綱
凄い城だと駿府城を見て思った。石垣造りで水堀が三重に有る。信長にとっては自慢の城だっただろう。この時代は殆どが山城だ、平地に三重の水堀なんて中々お目にかかれない。北条の小田原城なんて眼中にない、そんな信長の意気込みがひしひしと感じられる城だ。家康の造った駿府城に似ているのかな? 比べてみたいと切実に思ったが無理だな。詰まらん。
信長は居城を駿府城に移すつもりだったと聞いている。小田原城を軍事の拠点として関東を攻略し、駿府城を政務の拠点として織田領の統治を行う、そういう発想だったらしい。政務と軍事の拠点を別ける、安土城と岐阜城の関係に似ているな。安土城で政務を執り岐阜城を拠点として武田に対応する。信長らしいと思うと嬉しくなる。
駿府城の城代は池田勝三郎恒興だった。勝三郎恒興の母親は信長の乳母だから信長とは乳兄弟の関係になる。恒興の母親は後に信長の父、信秀の側室になって娘を産んでいるから恒興は織田家に信長という乳兄弟と母親と信秀の間に生まれた異父妹を持つ事になった。駿府城という重要拠点の城代を任されたのは能力以上にその濃厚な血縁関係が影響しているだろう。その勝三郎恒興が朽木に下った事で駿河の国人衆はそれに倣った。
勝三郎恒興の降伏は大きかった。駿河が朽木の物になると伊豆もそれに倣った。東海道は尾張から伊豆まで朽木家の領国となった。弥五郎が軍を進めると先を争って国人衆が服属し恒興以外の織田家の武将達も降伏した。国人衆の中には弥五郎に人質として年頃の娘を差し出す者も居た。人質とは言っても内実は側室にしてくれという事だろう。朽木家の世継ぎは未だ嫡男に恵まれていない。上手く行けば……、そんな狙いが有るのだと思う。
弥五郎の判断は人質を一時預かり全て俺に引き渡す、だった。あのなあ、軍の行動中に人質なんか預かったら面倒だろう。第一、朽木は人質は取らないがモットーだ。毛利から吉川次郎五郎経信、小早川藤四郎元総の二人が来ているがあの二人も人質ではなく見聞を広めるために来ている。要するに勉学とコネを作る為の留学生なのだ。少なくとも表向きはそうだし俺もそう思っている。毛利家の次期指導者達と朽木家上層部に繋がりが有るのは両家にとって有益だ。
この辺りの判断がなあ……。確かに東海道における織田の崩壊はあっという間だった。国人衆が信用出来ない、人質を取った方が良いんじゃないかという判断も有るだろう。それなら一時預かり俺の判断を仰ぐなどとせずに信用出来ないから人質を取ると俺に言えば良かったんだ。だがな、いざとなれば国人衆は人質を捨て殺しにして家の存続を図る。その辺りを考えれば人質を取る事に固執する事は無い。むしろ作戦行動中なのだから身軽な方が良い。人質が必要なら近江に帰ってから要求しても良いのだ。
結局俺が駿府城に来てから全部返した。裏切りたければ裏切って構わないと伝えた。その時にはそれなりの対応を取ると。人質を返して貰った連中は引き攣っていたな。国人衆から見れば人質を受け取れば何処かで朽木に緩みが出る、つけこむ隙が出ると思ったのだろう。残念だな、俺はそう思われる事が嫌なんだ。裏切られたくなければ強くなる事だ。
そして裏切れない様に様々な手段で絡めとる。関を廃し街道を整備し領内を豊かにする。朽木の支配下にある限り繁栄出来るのだと理解させる。それでも裏切る奴は容赦なく叩き潰す……。いかんなあ、弥五郎は如何しても俺に遠慮している。もう少し自分を出して良いんだが……。やはり俺の傍に居ては駄目なのかもしれん。俺に頼れない、自分で判断せざるを得ない、そういう立場にする必要があるのだろう。その中で失敗と成功を経験して成長していく。
十年、十年かけて一人前にすれば良いと思ったが織田家の事を考えると甘いのだと判断せざるを得ない。鉄は熱いうちに叩けと言うが今がそうなのだろう。信長と同じ様にするべきなのかもしれない。息子を方面軍司令官として扱い経験を積ませる。家康が将軍職を秀忠に譲り駿河に移ったのもそういう事なのだろう。教えるのではない、鍛える。そのためには独立させた方が良い。
弥五郎を駿河に置いて相模から関東への進出を任せよう。近江に帰ったら蒲生下野守と話す。下野守が俺の問いに如何いう答えを出したか……。下野守も六角の後継者問題では苦労をした筈だ。俺と似た様な事を考えたんじゃないかと思うんだが……。
弥五郎の事も有るが東海道の仕置を如何するかも問題だ、頭が痛いわ。特に尾張だな、織田の臭いが強過ぎる。史実だと織田の一族、譜代は全国に散らばってしまったがこの世界では殆どが尾張に残っている。東海道の重要拠点である尾張がそれって如何見ても面白くないだろう。……やはり城を築くか。大きな朽木の城を築いてそこを拠点に織田の臭いを消してゆく。
史実の家康も似たような事を考えたのかもしれない。天下の有力大名には尾張にルーツの有る人間、織田、豊臣に縁故の有る人間が多かった。尾張が東海道の要衝という事だけでなく徳川の臭いで織田、豊臣の臭いを消す、そういう考えが有ったのかもしれん。城主は如何する? 松千代を元服させて城主にするという手も有るな。……なんだかなあ、やってる事は信長とか家康の真似ばかりだ。先人の知恵かな、それとも発想力の無さか。落ち込むわ。
弥五郎を駿河に、松千代を尾張に。そうなれば徐々にではあるが三河、遠江を東西から押さえて安定させる事が出来るだろう。そして御油、見附を直接押さえる。そうする事で東海道と本坂道を押さえ物流を押さえる事が出来る筈だ。気賀もこちらの影響下に置く事が出来るだろう。あの辺りが安定すれば三河も落ち着く、後は人の配置だな、今直ぐは止めた方が良いだろう。徳川攻略後に人を動かす。東海道はそれで大丈夫、だよな……。
禎兆元年(1581年) 七月中旬 近江国蒲生郡八幡町 蒲生賢秀邸 黒野影久
「横になっていて良いぞ、下野守」
「なれど」
「話は少し長くなる、楽な方が良い」
「では御言葉に甘えさせていただきまする」
下野守殿が孫娘のとら殿に支えられながら横になった。また少し痩せた様に見える。御屋形様も痛ましそうな御顔だ。
下野守殿が横になるととら殿が頭を下げて部屋を出て行った。
「東海道が朽木家の領地に成りました事、真に祝着至極と思いまする。おめでとうございまする」
「うむ、思いの外に上手く行った」
「やはり上杉の甲斐攻めが効きましたようで」
「そうだな」
確かにそうだ、あれで徳川は動けなくなった。
「下野守、間違いなく上杉は方針を変えたぞ。越後に攻め込まれたのが大分効いたらしい。上杉は関東よりも蘆名を重視している」
「と申されますと」
「風魔が報せて来たのだがな、上杉は下野国の那須弥太郎資晴に華姫を嫁がせるつもりだ」
「なんと」
下野守殿が驚きを表した。御屋形様が頷く。
「那須家というのは源平の合戦で活躍した那須与一の末裔だそうだ。下野国那須郡を中心に勢力を張っている。そして那須郡は蘆名と領地を接している。蘆名を牽制するには格好な存在だな」
「なるほど」
「この縁談、那須家の方から持ち込んだらしい。那須家の当主、那須修理大夫資胤は分家や重臣の力が強いので手を焼いている様だ。上杉の力を借りて外も内も抑えようとしている」
「上杉はそれに乗ったのですな?」
御屋形様が“そうだ”と頷かれた。
「謙信公が蘆名を抑えられたが婿殿にとっては自分の非力さを指摘された様に見えたのかもしれん。関東管領に拘れば相模を獲らねばならんが簡単には小田原城は落ちない。このままでは蘆名と徳川に掻き回され自分の当主としての権威が否定されかねぬ。それよりは那須家と結んで蘆名を抑え朽木に相模を攻略させて自らは甲斐を攻め獲る。先ず甲斐を攻め獲り後は蘆名を攻めるつもりだろうな。だからこちらに協力したのだ」
下野守殿が大きく頷かれた。
「甲斐を上杉、相模を朽木、徳川は身動きが取れませぬな」
「下野守殿、おそらく上杉が先に甲斐を獲る。だがそうなれば甲斐の忍びは徳川を見捨てよう。徳川は目と耳を失う。小田原城は攻め易くなる」
「なるほど」
俺と下野守殿の遣り取りを御屋形様は頷きながら聞いていた。
「さて、下野守。この度得た東海道五か国の仕置き、俺の隠居の事、如何思う。重蔵に遠慮は要らぬ。既に話してある」
下野守殿が俺を見たから頷くことで答えた。
「お訊き辛い事では有りますが御屋形様は若殿に御不満をお持ちで?」
下野守殿の問いに御屋形様が僅かに顔を顰められた。
「不満か、多少は有る。だが不満以上に不安が大きい。弥五郎が若いなりに良くやっている事は認める。しかし俺に万一の事が有った場合、それを考えざるを得ぬ。俺は心配のし過ぎだと思うか?」
御屋形様が下野守殿と俺を見た。大丈夫だと安請け合いは出来ぬ。今、御屋形様に万一の事が有れば朽木は混乱するだろう。第二の織田になりかねない。
「弥五郎が元服した時、十年かけて物事を覚えろと言った。十年経てば弟達も元服しその方を助けてくれるだろうとな。だがなあ、今のままで十年過ごさせて良いのかという疑問を持った。今のままでは十年後も何処かで俺に頼るだろう。だが十年後には俺は四十を過ぎている。三好修理大夫殿、上杉謙信公、織田弾正忠殿、いずれも四十代で病に倒れた。俺が同じように倒れぬという保証は何処にも無い。このままで良いのか、そう思わざるを得ぬ」
御屋形様の表情、声には苦渋の色が濃い。
「それを考えると外に出して経験を積ませるべきではないかと思うのだ。弥五郎にとっては苦しかろうが後々の事を考えればその方が良いのではないかとな。勿論失敗すれば弥五郎の立場は厳しいものになる。だがそれでも弥五郎を育てるためには外に出すべきではないかと……」
御屋形様が太い息を吐かれた。
「外に出し、世継ぎ問題が起こらぬように若殿に家督を譲ろうと御考えなのですな?」
「その通りだ」
御屋形様の答えに下野守殿が頷いた。
「良き御思案かと思いまする」
「下野守、賛成してくれるのだな」
「はい、相模から関東へと朽木の力を延ばせれば誰も若殿に対して不安を覚える事は有りますまい。それに上杉が甲斐に向かうとなれば、……風は若殿の背を押しておりましょう」
「うむ」
御屋形様が満足そうに頷かれた。
「御屋形様、若殿には何処までをお任せなさるおつもりで?」
「今回得た五か国全て」
「尾張も含むのですな?」
「うむ、但し尾張には新たな城を築き松千代を入れる」
「松千代君を」
下野守殿が目を剥いた。
「尾張は織田の臭いが強過ぎる。松千代を入れてその臭いを消そうと思っている。そして松千代はあくまで弥五郎配下の一人の将だ」
下野守殿が唸った、そして俺を見た。
「重蔵殿は存じておられたようだな?」
「如何にも」
「大胆な事を御考えになられるとは思わぬか?」
「確かに、そして周到でも有る。如何にも御屋形様らしいかと」
「それもそうか」
下野守殿が笑い、皆で笑った。
「某、賛成致しまする。後は人にございましょう」
「人か」
「はい、若殿の周囲に誰を置くか」
「なるほど、それが有ったな」
「血縁、そして細川、明智、黒田、小早川は避けられませ。どうせなら、厳しく行くべきかと思いまする」
今度は御屋形様が唸られた。
「分かった、それには気付かなかった。礼を言うぞ」
下野守殿が嬉しそうな笑みを浮かべた。
「年内には弥五郎を駿府城に送る。松千代を尾張に送るのは城を築いてからだがそれまでには元服を済ませる事に成る。尾張の城は大きな城を造るぞ。織田の臭いを消す巨大な城をな。尾張と言えば朽木の造った城、皆にそう言わせるのだ」
三人の笑い声が上がった。
禎兆元年(1581年) 八月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木小夜
御屋形様が暦の間に人を集められた。弥五郎夫妻、傅役の竹中半兵衛殿、山口新太郎殿。弥五郎の傍に仕える浅利彦次郎殿、甘利郷左衛門殿、黒田吉兵衛、明智十五郎、細川与一郎、小早川藤四郎。そして相談役の黒野重蔵殿。不思議な事、何故私と奈津殿が呼ばれたのか。
「弥五郎」
「はっ」
「その方、駿府城に移れ。尾張、三河、遠江、駿河、伊豆を譲る。ざっと百二十万石を越えよう」
皆が顔を見合わせた。表情が強張っている。平静なのは御屋形様と重蔵殿だけ。海道筋の国を譲るとは一体御屋形様は何を御考えなのだろう。駿府城に移れとは? まさか弥五郎の器量を見限った? 分家させるという事?
「池田勝三郎はその方の配下になる。駿府城を居城とし相模から関東へと攻め込め」
「畏れながら若殿は嫡男、朽木家の世継ぎでございます。この八幡城に居て然るべきではございませぬか?」
半兵衛殿の言葉に何人かが頷いた。
「吉日を選んで弥五郎に家督を譲る」
“父上!”、“御屋形様!”、声が上がった。
「御屋形様、弥五郎は未だ弱年、当主となるのは荷が重うございまする」
「母上の申される通りにございまする。朽木家の当主になるなど」
私と弥五郎の言葉に御屋形様が首を横に振られた。
「案ずるな、全てを譲るとは言っておらぬ。東海道五か国を譲る故関東に攻め込め、天下統一へ力を貸せと言っている」
「……」
「弥五郎、何時までも俺は居らぬぞ。今のうちに当主としての力を付けておけと言っている。ここに居ては俺の陰に隠れたままだ。それで良いのか? 後で苦労するのはその方だぞ」
「……」
弥五郎の表情が歪んでいる。弥五郎も不安に思っているのかもしれない。
「俺が生きている内なら失敗しても取り返しが付く。俺が庇ってやる事も出来る。だが俺が死んだ後では取り返しがつかぬ事に成りかねぬ」
「……」
「織田家を見れば分かろう。当主になる経験を積まなかった者が当主になった。当主としての力量を持たぬ者が当主になった。それが織田家が滅んだ理由だ」
「……はい」
「このままではその方もそうなるぞ。今の内に外に出て力を付けるのだ。俺が居なくても朽木が揺るがぬだけの力を付けろ」
「……」
「徳川を叩け! 相模を獲り関東へと進むのだ。朽木家の当主として相応しい力を持っていると皆に示せ!」
「父上……」
弥五郎! 何を悩むのです、返事をしなさい! 御屋形様はそなたの答えを待っています。
「出来ぬのか? 出来ぬのならその方には世継ぎの資格は無いぞ。俺はその方を廃さねばならん。だがそれで良いのか? これまでの事を全て無駄にする気か? 皆がその方に期待している、俺もだ。期待しているから外に出すのだ。出来ぬのか?」
「……そのような事は有りませぬ」
「ならばその方は自らの力で朽木家の当主である事を証明せねばならぬ。戦え! 逃げる事は許されぬぞ」
「……駿府へ行きまする」
弥五郎が頭を下げる、皆がそれに続いた。
禎兆元年(1581年) 八月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木奈津
弥五郎様、竹中半兵衛殿、山口新太郎殿、浅利彦次郎殿、甘利郷左衛門殿、黒田吉兵衛殿、明智十五郎殿、細川与一郎殿、小早川藤四郎殿。弥五郎様の部屋では皆が沈痛な表情をしていた。困った事。
「弥五郎様、おめでとうございまする」
私が祝いの言葉を述べると皆が慌てて祝いの言葉を口にした。でも弥五郎様は浮かない表情のままだ。
「真に目出度い。家督を継ぎ五か国を任されるとは」
「関東へ兵を進めよとの命令も受けた」
「急ぎ準備を整えなければなりませぬな」
「うむ、忙しくなる」
年長者の声が明るい、務めて座を明るくしようとするかのように。そして弥五郎様を含めて若い者達の表情は暗かった。
「その方等は真に目出度いと思うのか? 奈津、そなた真に目出度いと思うのか?」
不機嫌そうな御顔。
「はい」
弥五郎様が私を睨んだ。でも兄の仏頂面よりはずっとまし。
「父上は私を頼り無いと御思いなのだぞ」
「仕方ありませぬ。頼り無いのですから」
弥五郎様が顔を顰め“御寮人様”と私を窘める声が聞こえた。新太郎殿? それとも彦次郎殿かしら。
「でも期待しているとも仰られました。御屋形様の後を継ぐという事は天下を受け継ぐという事でございます。そんな簡単に受け継げる物でもございますまい」
「……」
「そのために御屋形様は駿河に行って力を付けよと仰られているのでございます。期待されているというのは嘘ではございませぬ。御屋形様は弥五郎様を励まされているのでございます」
「そんな事は分かっている」
拗ねておられる。少し可愛い。越後の兄とは大違いだ。
「でしたらそのように落ち込まれる事はお止め為されませ。弥五郎様が落ち込まれていては皆が心配致します。駿河に行って力を付ければ良いと割り切れば宜しいでは有りませぬか」
弥五郎様が唇を噛んだ。未だ納得されていない。
「若殿、御寮人様の申される通りにございます。徳川を倒し関東へと兵を進めれば御屋形様も若殿の力量を御認めになられましょう」
「半兵衛殿の申される通りです。何より五か国を任されたという事はそれだけの力量が有ると御屋形様が認められたという事にございましょう。これまでは御屋形様の元で経験を積まれました。今後は一人でやってみよという事。一つ上の立場になられたのでございます」
「……そう思うか、郷左衛門」
少し表情が緩んだような気がする。まるで城攻めの様。
「しかしな、吉兵衛、十五郎、与一郎、藤四郎とは別れなければならぬ」
名を呼ばれた四人が俯いている。御屋形様は四人を自分が預かると仰られた。弥五郎様にとって歳の近い四人は愚痴や弱い所を見せられる無二の存在なのだと思う。兄にとっての与六の様な存在。だからこそ御屋形様は四人を弥五郎様から遠ざけようとしている。弥五郎様をより厳しく鍛えるために……。