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泥水を啜る




禎兆元年(1581年)   五月中旬      尾張国春日井郡 清州村 清州城  朽木基綱




織田三介信意が降伏した。織田の重臣達に促されて三河に逃げた、いや追い払われたのだが岡崎城城主、坂井右近将監政尚に説得されて降伏してきた。もっとも簡単では無かった。最初に右近将監の息子である久蔵が使者として来たのだが久蔵が持参した右近将監の書状には自分が三介を説得して降伏させるので三介の命を奪うのは勘弁して貰いたいと書いてあった。


三介の手勢からは脱落者が続発し兵の減少が如何にもならなかったようだ。このままでは落ち武者狩りに遭う、惨めな最期を遂げる事になる、それよりは降伏をと坂井親子は考えたらしい。良い判断だ、最悪の場合は一緒にいる兵が逃亡する事よりも牙を剥く事を選ぶ。そうなったら助からない、その方がより惨めだ。


久蔵は父の右近将監が死ぬつもりかもしれないと疑っていた。俺もその可能性は有ると思ったので久蔵に俺の書状を持たせて岡崎城に戻した。書状には三介の助命とそれなりの待遇を与える事を約束すると記した。三介は降伏すれば殺されると怯えていたらしい。右近将監に勝手な事をするなと怒りをぶつけたらしいが久蔵が持って行った俺の書状を見て降伏を決断した。最初から戦う気なんてなかったんだろう。


三介の助命は已むを得ない。織田の一族、旧臣達の感情を考えれば殺すのは拙い。彼らは三介を軽蔑し嫌っているかもしれないが憎んでいるわけではないのだ。その感情は困った奴、出来る事なら七男、八男に生まれれば良かったのに、そんなところだろう。それを殺しては彼らの感情に妙なしこりを生じさせる事になる。そういう事は避けなければならない。


まあ戦いらしい戦いも無く滅んだ辺りは史実における武田の最後に似ているな。しかし織田の一族、重臣達の殆どは残っているし三介も生きている事を考えればこっちの方が遥かにましだ。何と言うか俺が圧し潰したというより織田家という組織が自壊したという方が近いと思う。予感は有ったんだがなんかあっけなかったな。あれよあれよという間に終わった気がする。


織田家は急速に拡大しあっという間に自壊した。まるで限界まで膨らんだ風船が針の一刺しで破裂した様な感じだ。もう風船は何処にも無い。三介が頼りなかった事も有るが信長の存在が大き過ぎた事が原因だと思う。史実もこの世界も織田家は信長の独裁体制だった。それに皆が慣れてしまっていた。信長亡き後の混乱はそれが原因だと思う。


この乱世では合議体制よりも独裁体制の方が向いている。独裁体制の方が非常事態への即応性が高いのだ。だからどうしても即応性を高めるために当主の権限が強大化せざるを得ない。というより当主が成功すればその持てる権限が強大化し即応性がより高まるのだと思う。実績が有れば家臣達も従順になる。


家を大きくした当主はその権限を適切に使ったのだと言える。だが組織としては(いびつ)だし非常に不安定だ。だから代替わりが有るとあっという間に勢力が縮小する。新たな当主の能力の欠如も有るが当主としての権限の縮小とそれに伴い即応性の低下が生じるだと思う。そしてその事が新当主への不満に繋がり家臣達の発言力の強化へとなる。つまり独裁体制から合議体制の色が強くなるのだ。その事が更に即応性を低下させる。悪循環だ。そして家が傾くのだと思う。


同じ弊害は朽木家にも潜在している。今俺に何か有れば朽木家はどうなるか? 弥五郎は俺に代わって朽木家を一つに纏められるか? ここ近年良くやっているのは分かるが俺の代わりを務められるかと言えば極めて心許ないと言わざるを得ない。朽木家も織田家同様強大では有っても不安定で脆弱なのだ。何とかしなければならん……。手は有るのだが弥五郎には試練になるな。しかし、可哀想だと言って躊躇っていて良いのか……。


三介の処遇は五千石程の禄を与える事にした。近江で屋敷を与えようと思ったのだが本人が嫌がった。俺に殺されると危惧でもしたのかと思ったが何の事は無い、ただ故郷を離れたくないという事らしい。馬鹿だよな、尾張に置いておけば俺が危険視すると思わないらしい。自分の立場が分かっていないのだ。相手が自分を如何思うかと言う配慮が全く出来ない性分なのだろう。これでは上には立てんな。


無理に近江にとも思ったが考え直して尾張に置いた。これから東へと兵を動かす。それを阻もうとすれば、或いは朽木の支配から脱却を図ろうと考えれば尾張で騒乱を起こして攪乱しようとする筈だ。その時には必ず三介を利用しようとするだろう。つまり三介の動きを見張れば敵の動きが見えてくる。そして織田家内部での反朽木勢力の炙り出しにも使える。三介は餌として尾張に置こう。どんな魚が掛かる事か……。


三介の降伏を伝えてきた坂井右近将監の息子、久蔵尚恒は史実では十五、六歳で姉川の戦いで戦死している人物だ。武勇に優れたなかなかの美少年だったと言われているが俺の前に現れたのは細面の中々の美男子では有るが眼光の鋭い危なそうな男だった。ちょっと謙信の若い頃に似ている。何と言うか、いかにも戦国の男、そんな感じがした。この世界の久蔵は信長の次女、相姫を妻としている。この相姫って史実では蒲生氏郷の妻になった女性だと思う。そういう事も有って三介は坂井右近将監を頼った様だ。


右近将監には今回三介を説得した事は織田家に対して何よりの恩返しだと文を送った。心の負担が軽くなる筈だ。そしてこれまで通り岡崎城を守り三河の旗頭として国人衆を纏めるようにと命じた。現状維持だ、右近将監も安心するだろう。そして久蔵には弥五郎に同行し三河、遠江、駿河、伊豆の平定に協力するようにと命じた。


まあ正面切って戦いを挑む国人衆はいないだろう。道案内に近いな。但し徳川が如何出るかという問題は有る。尾張の仕置きが一段落したら後を追わないといかん。後で蒲生下野守に全ては順調に進んでいると手紙を書こう。それと弥五郎の事、東海道の仕置を如何するかだ。そいつも相談してみよう。


幽閉されていた鷺山殿に会った。話してみて聡明な女性だと改めて思った。恨み言らしい事は言われなかった。考えてみれば彼女の実家は滅んでいる。親子兄弟で殺し合い嫁ぎ先とも戦になって織田家に滅ぼされた。乱世の厳しさは誰よりも分かっているのだ。これからは静かに親兄弟、そして信長、信忠の菩提を弔いたいと言われたから彼女の為に美濃に寺を建てる事にした。手厚く庇護しよう。その事が朽木家の尾張、美濃支配に役立つ筈だ。


鷺山殿からは信長の息子達、娘達の事を頼まれた。息子達は良い、成人したら取り立てれば良いからな。問題は娘だ。結婚しているのは長女と次女、残りは未婚だ。厄介なのは三女の藤姫、彼女は今年十八なのだが信長の死でごたごたが続いたために嫁ぎ先が決まっていない。鷺山殿は何度も三介にその事を言ったようだが三介にはそんな余裕は無かった。何とか彼女の嫁ぎ先を決めないといかん。武田、今川、北条、織田、結婚相談所の相談員みたいだな、俺。頭が痛いわ。ん、孫六が来たな。


「御屋形様」

「何用かな、孫六」

孫六は緊張している。

「黒野小兵衛様が」

「分かった、此処へ通せ」

小兵衛が来た。さて、何が起きたか? おそらくは信濃、甲斐の事だろう。心を落ち着けて深呼吸だ。




禎兆元年(1581年)   五月下旬       越後国頸城郡春日村 春日山城  上杉景勝




「御疲れでございましょう、実城様」

「うむ」

与六の淹れてくれた茶を一口飲んだ。美味い、沁みいる様な美味さだ。疲れたな、帰国してから御隠居様に挨拶をし皆の挨拶を受け溜まっていた政務を片付けた。書類の全てを見終わった頃には目が痛くなった程だ。何度も目元を指で揉んで疲れを(ほぐ)したが書類を見るのは好かぬな。


「与六、織田はもういかぬな」

「はい、降伏したかもしれませぬ」

「うむ」

織田はもう大将の居ない軍勢と同じだ。纏まって動く事が出来ずにいる。三介殿の器量が織田家当主に相応しからざるものとは分かっていたがまさかここまで酷い事になるとは思わなかった。華を織田に送らなかったのは真に幸いであった。


「織田が滅んだとなれば徳川は大分苦しくなりましょう」

「うむ。諏訪は如何か?」

「はっ。村上、高梨勢が諏訪を攻めておりますが中々……」

与六が首を横に振った。簡単には攻め取れぬか。


如何も良く分からぬ。徳川甲斐守、どのような男か。北条を巧みに始末した事を考えれば謀略は拙くない。いや恐るべき男と言える。蘆名と組んだのも中々のものだ。だが戦は如何か? 小田原では籠城ばかりで戦の上手さは見えてこぬ。野戦にて器量を測ろうと村上、高梨勢に諏訪を攻めさせてみたが大きな動きは無い。今川、武田と何度も干戈を交えたのだ、下手ではない筈だが……。


やはり俺自身が諏訪から甲斐を狙うべきか。そうであれば甲斐守も小田原から甲斐へ出て来る筈。城から引き摺り出して野戦にて勝敗を決する。危険は有る、だが何処かで俺自身の武威を示さねばならぬのだ。今年は兵を休め来年の春に出陣する……。となるとやはり問題は蘆名か。後ろを攪乱されては堪らぬ。


「与六、華の事だが如何思うか?」

与六が頭を下げた。

「某は実城様の御考えに賛成致しまする。なれど越前守様、御方様は如何御思いかと……」

「うむ」

与六が語尾を濁し俺を見ている。両親を説得出来るか、それを危ぶんでいるのだと思った。


華を下野の那須に嫁がせる。那須家当主である修理大夫資胤から跡継ぎの弥太郎資晴の嫁にと打診が有った。修理大夫も蘆名と徳川が組んだと見ている。蘆名が徳川と結び関東で勢威を延ばそうとすれば下野の那須は危うい。だから上杉との結び付きを強めようとしている。そしてその事は上杉にとっても悪い事ではない。下野に頼りになる味方が居れば蘆名を押さえる事が出来るのだ。或いは那須と共に蘆名を攻める事も出来る。朽木と組んで徳川を攻め那須と組んで蘆名を攻める……。


やはり障害は父と母だな。本人が嫌がれば無理はさせたくないと反対するだろう。だが説得する(すべ)は有る。上杉を守るために女子でありながらも竹姫は戦場に出ているのだ。他家から来た嫁が戦っているのに上杉家の者がそれを黙って見ている事は許されぬ。華にも上杉を守るために那須に嫁いでもらう。そう言って説得しよう。父も母も反対は出来ぬ筈だ。竹姫が戦場に出た事には腹が立ったが今となっては幸いで有ったな。


そしてこれ以上御隠居様に無理をさせる事も出来ぬと言おう。御身体が万全でないのに戦場に出るなど無謀に過ぎる。御隠居様に万一の事が有れば必ずや上杉家は揺らぐだろう。無念だがそれが事実、そこから目を背ける事は出来ぬ。俺は未だ上杉家の当主として盤石の重みを持っているとは言えぬのだ。このもどかしさは弥五郎殿なら、いや弥五郎殿しか分かるまい……。




禎兆元年(1581年)   六月上旬      近江国蒲生郡八幡町 蒲生賢秀邸  蒲生とら




「……斯様な次第にて尾張、三河は当家の領国となり申し候。遠江、駿河、伊豆には弥五郎を遣わし候。徳川甲斐守儀、諏訪にて村上、高梨と戦の最中なれば海道筋に出る事は難しく三国、日を置かずして当家の分国になるものと思い申し候」

私が御屋形様の文を読み上げると祖父、蒲生下野守定秀が満足そうに頷かれた。


「夏前に戻る予定なれば東海道の仕置、甲斐、相模の事を下野守に相談致す所存、当方の隠居、弥五郎の家督相続も含めて御考え頂きたく候。……御祖父様(おじいさま)、御屋形様の文は以上ですがこれは?」

「とら、起こしてくれぬか」

「はい」

上半身を起こそうとする祖父を支え脇息を宛がうと祖父が身体を脇息に(もた)れさせながら太い息を吐いた。


「起きるのも一苦労じゃの、とら」

祖父が苦笑を浮かべた。

「左様でございますね」

気休めは祖父が喜ばない。食が細くなってから祖父の身体から力が少しずつ失われている。


「御屋形様も大胆な」

「と申されますと?」

「東海道の仕置を若殿に任せようと御考えなのかもしれぬ」

「まあ」

驚くと祖父が“フン”と鼻を鳴らした。

「そうでなければわざわざ家督の事を含めて考えよとは申されぬ筈じゃ」

「そうでしょうか」

疑問を口にすると祖父がじろりと私を睨んだ。怖い御顔、まるで御元気なころの様……。


「近年、御屋形様は若殿に様々な役目を与えておいでだ。四国遠征中の留守、御譲位の準備、美濃攻め、尾張攻め……。若殿は卒なく(こな)しておられる。しかし今一つ影が薄い、如何しても御屋形様の陰に隠れてしまう。その所為か頼りないと思われがちだ。御屋形様もその事を苦慮しておいでであろう」

「それは皆が若殿を御屋形様と比べてしまうからでは有りませぬか?」

祖父が頷いた。


「確かにそうだ。だがだからと言って見過ごす事は出来ぬ。儂の見るところ若殿には苦労が足りぬ。いや、苦労されているのやもしれぬが御屋形様には及ばぬ。その事が頼りないと見られてしまうのだ」

「御祖父様、御屋形様も御苦労をされたのでしょうか?」

あの御屋形様が? 疑問に思っていると祖父が破顔した。


「当然であろう。近江の一国人領主が天下に覇を唱えるまでになったのだ。何度も泥水を啜る様な思いをされたであろうよ」

「泥水を啜る……」

祖父が頷いた。

「とらよ、良く覚えておくが良い。男とはの、どれだけ泥水を啜ったか、その泥水を吐き出さずに飲み込んだかで器量が変わるのだ。泥水の飲めぬ奴、吐き出す奴は頼りにならぬ。儂は幾人もそういう男を見た、性根が据わっておらぬ、堪え性が無いのよ」

「……」

祖父の表情が渋いものになった。


「残念だが若殿には泥水が足りぬ。御屋形様の跡を継ぐには足りぬのだ。だが跡継ぎが頼りないと思われてはならぬ。織田家の事を考えればそなたにもそれは分かろう」

「はい」

あの強勢を誇った織田家があっという間に滅んだ、信じられないほど簡単に。その事を思えば祖父の、そして御屋形様の不安は杞憂とは言えない。


「さて、考えなければならぬ。……東海道の仕置を任せると言う事は若殿を遠江、駿河の辺りに置くという事であろうな」

「まあ、近江では無く他所へ?」

問い返すと祖父が“うむ”と頷いた。

「そして徳川との戦を若殿に一任する御積もりであろう。甲斐、相模の攻略、上杉との協力を如何するか、その全てを若殿に委ねる。……失敗する事も有ろう、泥水を啜る事に成ろうな。だが徳川を下せば誰も若殿の器量を不安に思うまい」

「……」


「容易い事では無いぞ、徳川は決して弱くない。御屋形様もその事は十分に御承知の筈、その上で若殿を徳川にぶつけるおつもりだ」

「厳しいのでございますね」

祖父が“その通りだ”と頷いた。


「厳しい、しかし若殿のためでもある。今のままでは若殿は御屋形様の陰に隠れるひ弱な跡継ぎでしかない。何処かで若殿は己が力を示さねばならぬのだ。若殿は自らの立場を固めるために徳川を屠らなければならぬ、徳川を喰わねばならぬ。そして御屋形様はそれを信じて待たねばならぬ。若殿が泥水を啜る時、それは御屋形様が泥水を啜る時でも有る」

溜息が出そう、殿方はなんと生きるのが厳しい事か。


「……御祖父様、家督の件は」

祖父が私に視線を向けた。

「若殿を近江から移せば馬鹿共が若殿は御屋形様の御信任を失った、跡継ぎではなくなったと騒ぐやもしれぬ。さればこそ御屋形様は若殿に家督を譲ると御考えなのだ」

「……」


「遠江、駿河で四十万石程か、伊豆を入れてざっと五十万石。徳川とは五分。だが上杉の存在を考えれば若殿が優位では有る。問題は尾張か、尾張が揺れては三河以東は落ち着かぬ。若殿も十分に力を発揮出来まい。さて、その辺りを如何するか……」

祖父が宙を睨んだ。


「いや、それも泥水か……」

「御祖父様?」

「若殿を海道筋に置けば必ず徳川は尾張に手を伸ばす。反朽木勢力を徳川を使って炙り出し若殿に処断させる。なるほど、若殿に手を汚させる御積もりか……」

祖父が二度、三度と頷く。口元には楽しげな笑みが有った。






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