身から出たワサビ
星屑による、星屑のような童話です。よろしければ、お読みくださるとうれしいです。
ただし、今回はお食事中の方にはお勧めできません――お気を付け下さい。
朝の白い光に満たされた部屋。それを肌で感じたボクは、ベッドから飛び起きた。
カーテンを引き、窓を開ける。雲ひとつない、青い空。気持ちのいい風。やわらかい春の日差しが、ほほを暖めていく。
こんなにすがすがしいはずの朝なのに、何だかスッキリしない。さっきから、鼻の頭がムズムズしているせいだ。
(カフンショウ?)
眼ならともかく、花粉症で鼻の頭が痒くなるなんて、聞いたこともない。ボクは、右手で鼻の頭を触ってみた。
(ん? 何だこれ?)
緑の歯磨き粉みたいなのが、手にべっとりと付いている。とりあえず、舐めてみた。
「か、辛い! これ、ワサビだよ」
もつれる足を必死に動かしながら、朝の居間へと駆け込んだ、ボク。いつもドタバタと走り回るせいか、父ちゃんも母ちゃんも、こんなに慌てたボクを、全く気にも止めてくれない。
「マサオ、早く顔洗ってきなさい」
眼をこちらに向けもせず、目玉焼きを作りながら、母ちゃんが素っ気なく言った。
「た、大変だ! は、鼻からワサビが出た!」
ボクが息を切らしながらそう言うと、父ちゃんはテーブルでコーヒーをズズズと一回啜ったあと、新聞を読みながら、こう言った。
「身から錆びが出ただと? お前でも四年生になると、そういうことが言えるようになるんだな……。だから、いつも言ってるだろう。悪いことしたら必ず――」
「違うって! 錆びじゃなくて、ワ・サ・ビ! 鼻から出て来たんだよっ!」
「何? ワサビ? ワサビが鼻から?」
父ちゃんは、ボクの鼻の頭についたワサビを見ると、イスに座ったままの姿勢で、後ろ向きに引っくり返った。
やっと事の深刻さに気付いた母ちゃんは、ただおろおろとするばかり。目玉焼きは当然、真黒に――。
拭きとっても拭きとっても鼻の頭から湧いてくるワサビに、ボクはウンザリした気分になった。
◇◆◇◆◇◆
すぐに父ちゃんの運転する車に乗せられ、病院に連れて行かれた、ボク。
実はこの病院、既に今日、五軒目だ。
今までの四軒の病院では、どこの先生も、「こりゃ、わからん」と言って、ただ唸るばかりだった。でも、ここの病院の先生は、すごい博士だと聞いたので、ボクも両親も、期待していた。
「どうでしょう、先生。治りますか?」
母ちゃんの、泣きそうな声。父ちゃんは、横で腕を組んだまま、じっと黙っている。
「ううむ……」
白い口ひげを擦りながら唸っていた博士が、ついに口を開いた。
「うむ! 確かにこれは最高級ワサビだ!」
「はぁー?」
つい、裏返った声をあげてしまった、ボク。その横で、父ちゃんと母ちゃんが、同時にズバッとずっこけた。
◇◆◇◆◇◆
それからのボクの生活は、大変だった。
変な鼻を隠すために、包帯を顔にぐるぐる巻き。そのせいで、学校では皆からジロジロ見られる。テレビ局からは、あっちからもこっちからも、取材に来た。挙句の果てには父ちゃんまでが、
「博士のお墨付き最高級ワサビとかいって、売り出そうか?」
とか何とか、言い出す始末。
母ちゃんは「何をバカなことを」と少し抵抗して見せたけど、結局は満更でもない顔をして、ボクの方をチラリと見る。
(もうイヤだ。こんな家、出て行ってやる!)
家出を決めたボクは、すっかり夏に近づいた空気の中、ボクの全財産の入った財布を握り締めて、とぼとぼと最寄りの駅に向かって歩いて行った。
(とりあえず、終着駅まで行ってみるかな)
とそこへ、声を掛けてきたのは、優しそうに微笑む、見ず知らずのお兄さんとお姉さんの二人。たくさんのバッジが付いたお揃いの帽子が、カッコイイ。
「どこ行くの? 車で送ってあげるよ」
ラッキー!
「じゃ、駅までお願いします」
ボクは、お姉さんが開けてくれたドアから後ろの座席に飛び乗った。
ドアを閉めた途端、お兄さんは帽子を脱ぎ、その長い金髪を振り乱して、急に怖い声を出したんだ。
「お前、有名なワサビ少年のマサオだろ? オレ達は、お前を誘拐した。さっさと、家の電話番号を教えろ」
アンラッキー!
知らない人に付いて来た、ボクがバカだった――。お兄さんはボクから家の電話番号を聞きだすと、上着ポケットの携帯電話を取り出した。
「ワサビ少年は、こちらであずかった。返して欲しかったら、お金を用意しろ」
電話するお兄さんの横で、ケッケッケッと茶色い歯をむき出しにして笑うお姉さん。電話を切ったお兄さんが、ケラケラと笑い出す。
「お前の母さん、面白いな。誘拐したと言ったら、『どうか、鼻だけは傷つけないで』だってさ」
なにぃ! それは聞き捨てならん。ボクの命より、高級ワサビのほうが大事なのか?
ボクは、香水の匂いのプンプンする車の中で、暴れ始めた。必死にボクをおさえる、お兄さんとお姉さん。
「鼻のワサビなんか、なくなっちまえ!」
すると、今までずっともぞもぞしていた鼻の頭が、不意に何ともなくなった。包帯を少しゆるめて、鼻の先っちょをさわってみる。
――ワ、ワサビが止まっている!
「ワサビ、出なくなったよ――ほら」
ボクが鼻の頭を見せると、お兄さんとお姉さんが、急にがっくりと、うなだれた。
「お前なんか、ワサビ出ないなら、ただのコゾウじゃん」
ボクは、まるでタバコの吸殻を捨てるかのように、ポイッと車からつまみ出された。お兄さんとお姉さんを乗せた白い車が、ブオンブオン大きな音を立てて、どこかへと走り去っていく。
(ふうう、助かったあ)
ボクは、何事もなかったかのように、てくてくと歩いて、家に戻った。
「よかった! 生きて帰ってこれたのね」
く、苦しい――。
家に着いたボクを待っていたのは、母ちゃんの『ぎゅうぎゅう』抱きしめ攻撃。それはもう、骨が折れてしまう、と思うくらいのぎゅうぎゅう度合い、だった。
ふと横を見ると、そこには、いつものように、黙って腕を組んでいる父ちゃんがいた。その湿った両眼が、赤く腫れている。
そんな状態の中、ボクはもうワサビが鼻から出なくなったことを教えた。
「そんなこと、どうでもいい!」
母ちゃんは泣きながらそう言ったけど、さっき、ワサビの出る鼻を傷つけないでって言ったのは誰だよ! まあ……いいか。
でも一生、忘れないからな!
――ともあれ、ボクは自由になった。今日から普通の小学生だ! と思っていたら、何だか左の脇の下がもぞもぞする。
(ま、まさか……)
思ったとおりだ。脇の下から、ワサビが出てきた! 脇に触れた指の先には、ツンと鼻につく匂いのする、緑色のワサビがべっとり。
(もう、有名人はこりごりだ)
ボクは、脇の下に大きめのバンソウコウをはると、黙っていようと決心した。
◇◆◇◆◇◆
あれから、一ヶ月。
もう、世の中の人は、すっかりボクのことを忘れているようだ。テレビでは、ワサビのワの字も出てこない。
普通の少年になったからには、ボクには夢がある。
それは、一流の『寿司職人』になること。
最高級の寿司ネタに、最高級のご飯。そして、たっぷりついた『最高級ワサビ』。
「ヘイ、おまち!」
そんなかけ声とともに、せいいっぱい握った最高級の寿司を、おなかいっぱいお客さんに食べてもらうんだ。
わくわくするなあ。
ああ、もちろん、脇の下のワサビの事は、一生の秘密だけどね。
〈おわり〉