表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

チュプとカロルとサーカスと

作者: スカイ

 冬の風はとても冷たい。冷気を伴った風が肌を突き刺す。頬が紅潮し、目からは自然と涙があふれる。マイナス10℃を優に下回る世界で大気が肌に触れた時、その体感温度はさらに低くなる。


 海はなおさらだ。


 野付半島は、北海道別海町に位置する日本最大の‘砂嘴'である。シベリアのアムール川河口付近で生まれた流氷が、はるばる旅して野付半島まで足を運ぶ。大鷲が上昇気流に乗り空を優雅に飛翔する。からりと晴れた大空に、よく通る声が響き渡った。

「おーい、チュプ!」

澄んだ空気を震わせて遠くまで響く声。その声に反応する影はない。

再び呼び声が辺りに木霊しようとした時、チョプは<ruby><rb>氷の下から<rp>(<rt>・・・・・<rp>)</ruby>顔をのぞかせた。

「また君か、カロル」

氷と氷の隙間から顔だけを出して、自分を見下ろすカロルを一瞥する。嫌そうなチュプの顔を見て、カロルは満足げに微笑んだ。

 チュプは3歳のゴマフアザラシである。『チュプ』というのはアイヌの言葉で『太陽』の意味をもつ。彼の母親がつけたもので、彼のお気に入りの名前だ。そして彼を流氷の上から見下ろすカロルは、5歳のレイブン――ワタリガラスである。

 ワタリガラスはユーラシア大陸全域、それから北米大陸に生息する大型のカラスの名称だ。日本では、北海道北東部に冬の間だけ渡ってくる、渡り鳥である。旅人は今年も例外なく、この北の大地へ渡ってきていた。


***


「君みたいな奴はなかなかいないよ」

唐突にチョプが言った。ワタリガラスにとって、アザラシのチュプは只の御馳走でしかない。筈なのに、暇つぶしとは言え世間話をする為だけに近づいてくるカロルに、チュプは少なからず不信感を抱いていた。

「お前は旨そうだからな、チュプ。朽ちるまで待っているのさ」

わざとらしく怖い顔を作って、カロルは低い声で言う。一度顔をしかめたチュプは、抑揚のない声で返事をした。

「そりゃ御丁寧にありがとうございます」

お辞儀の真似をすると、鼻先が海水に浸かった。

 喰う者と、喰われる者。自分達のおかれた立場を二人はよく理解している。弱肉強食の世の中で、双方に生まれた絆は、彼らの生死を左右する事もあるのだ。だからこその、ギリギリのジョーク。それは信頼の証でもあった。

 ひとしきり笑って、カロルが急に真面目な顔を作る。その事に気がついたチュプも、黙ってカロルを見上げた。丸く黒い瞳が、太陽の光を映して煌めく。

「変わり者が悪いとは限らないさ」

お前もそう思うだろ? カロルがチュプの顔を窺う。

「まあ、その通りだね。それに、君と話している私も、十分変わり者だろうさ」

言って辺りを見回す。彼らの周囲に他のアザラシはいない。ワタリガラスも、シロカモメも、オジロワシもいない。敬遠しているのか、はたまた偶然なのか。上昇気流に乗った大鷲が、澄んだ青い大空を優雅に旋回しているばかりだ。

「楽しく生きりゃ、良いんだよ」

楽しく。独りごとの様に呟いて、カロルは一度翼を大きく羽ばたいた。翼開長は優に一メートルを上回る。およそ、1.3メートルほどだろう。大きな翼が、しなやかに風を送った。

「君の発想はつくづく呆れるね」

得意げに笑うカロルを見て、チュプが大きくため息をつく。その瞳は嬉しさを灯していた。


 冷たい風が吹き、海面で波紋が踊る。流れてきた流氷を避けて、チュプが一度海へ潜った。残されたカロルは空を見上げ、太陽の光に目を細める。それから、再びチュプが顔を出すまで待つ。チュプの鼻先を海面に確認したカロルは、水面に顔を近づけてまた話し始めた。

「聴いてくれよ、次の旅で是非見に行きたいところがあるんだ」

「また何か集めるのかい?」

何? 光るもの? 半ばからかいながらチュプが訊ねる。慣れた様子でカロルが無視をした。陸を知らない海の友人に、冬まで溜めていた世界の話を、事細かに説明するのだ。そのおかげで、チュプは他のアザラシたちの中でも物知りの方だった。

「サーカスさ」

 得意そうに、胸を張ってカロルが言う。初めて聞く言葉に、チュプは首を傾げた。

「へえ、何だいそれは?」

「何にも知らないなチュプは」

好奇の目で見上げるチュプを見て、知っていたら面白くないんだけどよ、とカポンと笑う。ワタリガラスの特徴的な鳴き声の一つだ。留鳥達のカァカァと言う鳴き声とは違う、小馬鹿にしたような声である。

「サーカスは、俺も渡り仲間に聞いた話なんだが、団員達が観客に見世物をするところらしい。えらくアクロバチックな芸当をしたりしてね」

「意気込んだ割にずいぶん抽象的じゃないか」

「俺も見たことがないんだ。知りたかったら見てこいよ」

「是非海の中で公演していただきたいものだね」

今から説明するから、拗ねるなよ。悪びれる様子もなく笑って言う。

「アイツが見たっていうサーカスは、どうやらサーカスには色々種類があるようだが、確か‘チルクス・ノッテ’と言う団名だったな。なんでも、ライオンが凄いらしいんだ」

『チルクス・ノッテ』というのは、イタリアを拠点に活動するサーカス団の事だ。次々と展開される多様多種な演目は、観客を飽きさせる事を知らない。移動式のテントは、いつも満員御礼となっていた。

 ライオンか、と呟いてチュプがさも愉快そうに笑う。幼少期、ネコに襲われた事のあるカロルにとって、ライオンは恐怖の対象だった。もちろん、チュプもその事をカロルから聞いている。

「君は一度食べられて頭を冷やした方が良い」

「おいおい、冗談きついぜチュプ」

苦々しくカロルが呟いた。


***


「『空中ブランコ』って言うのが、ライアンのお気に入りらしい」

ライアンっていうのは、渡り仲間の名前なんだけどよ。と付け足す。

「普通のブランコとは違うのかい? 海辺の公園にもひとつある」

一度、ブランコを陸に見つけたチュプが、あれは何かと訊ねた事がある。気軽に鳥になれる人間の遊び道具、とカロルは答えていた。

「いやいや、そんなちっぽけなのと比べちゃ駄目だ。なんて言ってもスケールが違う」

海辺のブランコがハギマシコなら、空中ブランコはさながらオオワシか。

どうして知っているんだい? チュプが聞くと、カロルはしれっと答えた。「ライアンの再現飛行さ」

「人間はやっぱり空を飛びたいんだな」

自分で頷きながら、大空を仰ぐ。「自由を求めているんだきっと」旋回するオオワシを上目に見て独りごとの様に呟く。

「そう……かな」

言ってから少し考えて、チュプが呟いた。私も、空を飛べる君たちがうらやましくなる時があるよ。チュプが遠くの空を飛ぶシロカモメを見つめる。それに気がついたカロルは、笑みをこぼした。

「俺も、海の世界へ行ってみたい時がある」

「持っていないものは無性に欲しくなるんだね。お互い」

「人間も同じかもな」言ってすぐに、いや待てよ、と言葉を切る。チュプが小首を傾げて見つめる。

「ライアンが空中ブランコを気にいった理由を思い出した。ブランコに乗っている人間の少女が、回数を重ねるたびに少しずつ上達するんだって。それを見るのが、面白いんだってよ」

それは、凄く努力家だね。チュプが黒目がちの瞳を丸く開き頬を緩めた。

「人間は、持っていないものを自分のものにする強欲さを持ってる」

カロルは自分の出した結論に満足したようだった。


 それから、サーカスの話は続く。綱渡りの話までした時、チュプがふと疑問を口にした。

「君の友人は、‘人間たちの娯楽施設'へどうやって入ったんだい?」

あれ、言ってなかったか。カロルは忘れていたよと呟いて、面白い秘密を教えてやる、と悪戯に笑みを浮かべる。

「俺たちワタリガラスは、人間の中に紛れ込む事が出来るんだ」

「魔法でも使うのかい?」

チュプが不思議そうに首を傾ける。

「欺くんだ。同族だと思わせる。一度道を尋ねられた事があるから、彼らには俺たちワタリガラスがちゃんと人間に見えているらしい」

「それで君は、話しかけられてどうしたの?」

「聞こえなかったことにしたよ」

言って、ニヤリと笑う。やっぱりそうなるんだ。チュプがため息交じりに呟くと、仕方がないだろ、と言い訳をした。

「結局、カラスはカラスなんだ。見た目は人間だとしても、彼らの言葉を話す事は出来ない」

「カラスだって気付かれることは無いんだね」

「俺は気付かれた奴の話を聞いたことが無いな。ライアンも、サーカスを見た年から一年間は、渡りを止めて、サーカスの常連客になったくらいだから」

「変な奴」

「そう、変なやつさ。とびきりな。だから、俺は<ruby><rb>こいつ<rp>(<rt>・・・<rp>)</ruby>がなかなかに好きなんだ」

カロルが、『こいつ』と言ったことに違和感を覚え、チュプは眉をひそめた。難しい顔をするチュプを見て、カロルは口をほころばせて「後ろを見ろよ」と促す。訝しげに振り返った先には、カロルより一回りほど大きい、一羽のワタリガラスがちょうど優雅に降り立ったところだった。

「やあ、チュプ。僕はライアン。君の事は、いつもカロルから聞いているよ」

流氷をぴょんぴょん飛びながら近づいてくる。チュプが海へ潜ろうと鼻先を沈める。ワタリガラスが生きているアザラシを食べることは無い。それでも、アザラシの死肉を好物とする彼らを、チュプは良く思っていなかった。気が付いたカロルは、こいつは俺と同じような奴だと思って良い、と声をかける。わずかに眉をひそめたチュプは、海面に目だけを残して身を沈める。警戒している二つの眼を、親しげに見つめる彼は、カロルと同じ5歳のワタリガラスだ。友人を出迎えるカロルを横目に見て、チュプがぼそりと呟いた。

「変な奴」


***


「本当は君と話をしたかったけど」

残念そうに言って、ライアンは後ろをチラリと見る。チュプがそれに続く。視線の先には、一羽の雌のワタリガラスがいた。流氷の上から、海を覗き込んでいる。チュプが反射的に鼻先まで潜った。それを見ていた二羽の捕食者が笑う。彼女は、とライアンが言った。

「僕の妻になる方だ」

「ライアンは彼女にお熱なんだ」

カロルがニヤリと笑ってライアンを見る。ライアンも照れつつ、嬉しそうに笑う。

「そう言うことなんだ。じゃあな、チュプ。また逢う日まで」

翼開長は1.4メートルほどの大きな翼を羽ばたかせ、ライアンが大空へ飛翔する。途中で彼の恋人が合流し、二人はじゃれ合いながら空を旋回した。ワタリガラスは生涯、同じ相手と過ごすと言われている。

「お幸せに」

誰に言うでもなく、チュプが独り呟いた。


***


 じゃれあいながら飛ぶ恋人たちは、遠くの空へ消えてしまった。群れの元へ戻るのだろうか。どちらにせよ、此の辺りから離れる事はないだろう。時折甘えた鳴き声が響く。次の渡り――春の訪れまで、彼らは野付周辺に滞在する。

「雪だ……」

ふいにカロルが口を開いた。綺麗な結晶になっている、大粒の雪が舞い降りる。はじめ、チュプの鼻先に降り立ったそれは、いつしかあちらこちらで踊っていた。見上げると、青かった空もいつの間にか灰色である。

「この時期の雪は、春を必死で押し戻しているみたいだ」

「それは、面白い発想だね」

口元を綻ばせてチュプが言うと「そうか?」と首を傾げた。それから空を見上げて呟く。この時期の雪を見ると、いつも思うよ。

「雪は嫌いじゃないけど、降っているよりは晴れの方が良い」

恨めしそうに雪を見るカロルに、飛べないのかい、とチュプが聞く。

「飛べるさ。でも、晴れているときの方が、気持ちがいいだろ?」

私はよく解らないや。ほんの少し悲しげにチュプが笑った。

「気持ちが良いんだよ。泳ぐときでも、そう言う時があるだろ?」

考える素振りを見せるチュプに、だろ? と再度問いかけようとした時、チュプの顔が何かを思い出したように明るくなった。

「私は夏の干潟の方が好きだ」

チュプの様なゴマフアザラシは、流氷と共に着て、流氷と共に去るものが多い。しかし、野付半島は、例外的に夏の間も定住するゴマフアザラシが多かった。野付湾には、シャチやキツネなどが立ち入ることのできない『陸地から離れた浅瀬』が多く存在するのが主な理由だという。思い出しているのか目を細めるチュプに、カロルが呆れた表情を向けた。

「お前の様な奴を怠け者というんだ」

 

 東の空は、すでに暗くなり始めていた。ぽつりとカロルが呟く。

「そろそろ日も暮れるか」

「戻るのかい?」

チュプも、東の空を見つめて問いかけた。留鳥であるハシボソガラスの群れが、シルエットとして空に浮かぶ。皆、住処へ帰るのだ。響いて聞こえてくる彼らの声を聴きながら、残念そうにカロルが応じた。

「そうだな、俺も帰るよ。また明日来る」

「来なくていいのに」

即答するチュプを見て、不敵に笑って言う。

「そうか? まあ、検討しておくよ」

「気をつけて帰るんだよ、カロル」

鳥目なんだから、と皮肉をこめて微笑む。お前は保護者か、とやにわに作った不貞腐れた顔は、すぐにいつものにやけた顔に戻った。

「任せとけ。また明日な、チュプ」

「また明日、カロル」

助走をつけ飛び立ったカロルは、すぐに長い翼を大きく羽ばたいて飛翔する。ワタリガラスは留鳥のカラス達とは異なり、上空を滑空することが出来る。チュプはその姿を、目を細めて見送る。

 猛禽達とさほど違わない美しいシルエットが西の空へ消えた。


***


「おーい、チュプ!」

4月半ばの早朝。まだ少しだけ冷たさを伴う暖かな風に乗って、カロルの声が木霊した。暫くしてチュプが海面に顔を出す。それを確認したカロルは、上空から舞い降りて海に浮かぶ流木へ乗った。チュプも流木の方へ泳いでいく。

「やあ。おはよう、カロル」

さざ波の唄に遮られないよう、チュプは声を張り上げる。流氷は、一週間前に太平洋へ去って行ってしまった。カロルも同じように、よく響く声を張り上げた。

「おはよう、チュプ。良い朝だ」

かすみががった空は青く、転々と積雲が浮かんでいる。チュプが空を見上げて、その通りだねと同意した。

「そろそろ……かな?」

ここ最近、カロルたちワタリガラスは食糧を探すのに勤しんでいた。久々にチュプの前に顔を出したカロルに、チュプは疑問を問いかける。気候の大きな変化から、それは容易に想像できる疑問だった。珍しく真面目な面持ちでカロルは頷く。

「ああ、今日発つんだ。行く前に報告しておこうと思ってよ」

「そうか、この後行くんだね」

そうか、と目を閉じる。さざ波が歌う。再び目が開かれた時、チュプの瞳に映ったのは、いつも通りのにやけた顔だった。

「食われるなよ」

「君こそ、のたれ死なないようにね」

お前は俺が食べるんだから。愉快そうに笑うカロルを、チュプはものともせずに一蹴する。言った後に、チュプも自然と笑みが漏れた。

「また来年、この世で会おうな」

「うん、また来年、この世で」

生き抜く事さえも難しい自然の中で、捕食者と被食者は再会を誓う。瞳の奥には優しさがあふれていた。

「じゃあなチュプ」

「気をつけて」

バランスを崩すことなく、上手に流木を蹴って、飛翔する。すぐに上昇気流を捕まえたカロルは、一度優しい声で鳴くと、群れの元へ去って行った。そのシルエットが点になるまで見送ったチュプは、おもむろに空を仰ぐ。昇って来た太陽を見つめた瞳は、眩しさを感じて細くなった。「また来年、か」独り呟いたチュプは、海の世界へと去っていった。水飛沫が太陽にきらめく。

 残された流木は、ただひたすらに揺れていた。



ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。


北海道のワタリガラスは、ロシア・北方領土方面から渡ってくるので、実際にイタリアでサーカスを見る事の出来るワタリガラスは、北海道には居ないようです。例外もあるかもしれませんが……。

私がネット上で見かける方は、北海道外の方が非常に多いです。少しでも、北海道の自然を体験していただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ