ブラインド
この物語はフィクションです
薬品の香りが漂う病院の一室。低いながらも包み込むような声の看護婦さんによれば、入院患者であるわたしに宛がわれたこの部屋は、三階に位置しているらしい。
その部屋でわたしは、ベッドの上で上半身を起こし、右の窓から吹き込んでくる柔らかで涼しい風を浴びていた。そして鼻から空気を吸い込み、秋の香りがするなぁ、なんて思ったりしている。実際にそんなことは分からないけれども、要は気分の問題だ。そう思えば、何となくそんな匂いがするような気がしてくる。
高校二年の夏休みに起きた、あの事故から約二ヶ月が経過した。
自分の置かれた状況にもようやく慣れてきた、とはさすがに言えないが、わたしの心は現状を徐々に受け入れつつあった。心の整理がついたわけではない。内に巣食った喪失感はちっとも消えてはくれないし、悲しくて心が苦しくなることはしょっちゅうある。けれども、絶望しかなかったあの時に比べれば、幾分かはマシになってきていた。最近は、これからどうするかとか、そういった前向きなこともちらほらと考えたりしている。単に諦めがついた、というだけのことかもしれないけれども。
お母さんとお父さんが死んで、頼れる親戚もいないわたしは身寄りを失くした。それに、あの事故で生き残ったわたしも無事では済まなかった。でも、世界は何事もなかったように回り続けている。泣こうが喚こうが、現実というどうしようもない壁が目の前に立ちはだかるだけで、当たり前だがわたしにとって都合のいいように転がったりはしてくれない。
ベッド脇のサイドテーブルでは、小音量でラジオがかけられているが、午後一時の時報が流れてからは、つまらない番組しかやっていない。だから今は、適当にFM放送を流しているだけだ。聞こえるのは知らない曲で、たぶん古いものだろう。
そんなわけで手持無沙汰になったわたしは、右手で髪の毛をいじり始めた。くるくると人差し指で顔の横の髪の毛を巻き取り、いっぱいまで巻くと指を引き抜いてそれを解く。それの繰り返し。
と、スライド式らしいドアがノックされた。
わたしは返事をして顔をそっちに向ける。すると、ドアが開いて誰かが部屋に入ってきた。
「さっちゃん、わたし」
「レナ?」
耳触りのいい女の子の声とセリフの内容から来訪者を推測する。
「正解」
レナは答えると、靴音を立てて近付いてきた。
床の上を何かが滑る音。きっと、レナが椅子を動かしたのだろう。
「一人?」
「そうだけど。何? わたしだけじゃ不満?」
「ただの確認」
もとよりお見舞いに来てくれるような友達なんてレナくらいしかいないし、来て欲しいと思う相手も特にはいない。
レナは、わたしが入院してから何度かお見舞いに来てくれている。その内の何回かは担任の教師と連れ立って来たことがあったが、今日はどうやら一人みたいだ。
それからわたし達は、いつものように雑談に興じた。学校で起きたこと、同級生のこと、教師のこと。どれもこれもそんな他愛のない話だが、こうやってレナと話しているこの瞬間が、わたしにとっては最も幸せな時間だ。以前は当り前に出来ていたのに今は出来ない、ということはたくさんあるが、このひと時だけは変わらない。
無論、全てが変わらないというわけにはいかないけれども。
「ねえレナ」
話題がひと段落したところで、わたしはレナの声がする方に顔を向けて言う。
「なに?」
「ちょっと散歩したいんだけど、いいかな?」
車椅子に座ったわたしは、レナに押されて病院の外に出た。そしてゆっくりとしたスピードで病院の敷地内を回り始める。
秋が深まってくるこの時期、夕方という時間帯もあってか、外の空気はいい具合にひんやりしている。病室では窓を開けて外気を取り込んではいたが、やっぱりこうやって外に出て直に触れるのとでは違うような気がした。
そんな空気を身体中に巡らせるかのように大きく息を吸い、そして吐きだす。
今のわたしは、出歩くことさえ一人ではできない。こんなふうに、誰かに助けてもらわないといけないのだ。一応訓練してはいるが、まだ成果は芳しくないし、なによりどうしたって安定性に欠ける。
レナは毎回こうして付き合ってくれているけれども、実際のところはどう思っているのだろうか。迷惑だったりしないだろうか。訊けば首を横に振るけれども、本当のところはどうなのだろう。嫌々ながらやっているに違いなんて言うつもりはないが、思うことが何もないなんてことは流石にないだろう。
「学校、何時になったら来れるの?」
頭上からレナの声が振ってきた。
「怪我はもうほとんど治ってるんだけどね」
「じゃあもうすぐ来られるの?」
「どうかな」
わたしは言葉を濁す。
「学校、行きたくないの?」
「そうじゃないけど」
むしろその逆だ。不思議なことに、前はあれほど行きたくないと思っていたのに、今では学校がとても恋しかった。
「身体のこと?」
躊躇うように間をあけてから、レナが言い当ててくる。
「……うん」
絶対安静の重病人とかではないのだから、可能か不可能かで言えば可能だ。
けれども、こんな身体じゃ学校に行ったところでしょうがない。まともに受けられる授業は一つもないし、学校行事にだってまともに参加できないだろう。そんな場所に行って何の意味があるのだろうか。それに、学校に行くのにだって今のままでは誰かに連れて行ってもらわなければならない。登下校だけでなく、学校での生活も人の手を借りなければならないだろう。
こんなこと、レナだって分かっているはずだ。
「だったら、わたしが手伝ってあげるよ」
やっぱりか、とわたしは思った。
レナが名乗りを上げてくるであろうことは予想できていた。けれども、そうなるとレナに迷惑をかけてしまうことになる。レナから言い出したことだし本人はそんなこと言わないだろうけれども、わたしとしてはそんなことは頼めない。
「いいよ。そんなことしなくて」
だからわたしは、そう答える。
「わたしじゃヤなの?」
「そうじゃなくてさ。そんなの、レナが大変でしょ」
「さっちゃんと学校行けるなら別にそんなことないよ」
「でも……」
そう言ってくれるのは嬉しいけれども、わたしは頷けなかった。かといって、突っぱねることも出来ない。
「じゃあ、学校行かないでどうするの?」
「うーん。まあ、色々考えてはいるんだけどね」
だからここでも曖昧なままにしておく。
「そっか」
レナは相槌を打つと、それ以上は追及してこなかった。
訊いてして欲しかったような、欲しくなかったような。
ぼかして言ったものの、実際のところは、これからのことなんて答えが出ているも同然だった。元より、選択肢などないようなものなのだから。ただそこに踏み出す勇気が無いだけ。もしレナが強く詰め寄ってくれば、わたしはそれを口にして否が応でも踏ん切りをつけていたかもしれない。だから、訊いてくれることを若干期待していた。けれども、やっぱり追究されなくてよかったとも思う。口に出さなければ、まだ保留のままにしておける。本当はどっちなのか、自分でもよく分からない。
しばらくすると、前の方から会話する女の子達の声が聞こえてきた。それは次第に近付いてきて、わたし達の左側を通って後ろに消えていく。。
声の様子からして、多分わたし達と同じくらいの歳だろうか。
そんなことを考えていると、レナが話しかけてきた。
「ねえ、一回だけでいいから学校行ってみない?」
「一回だけ?」
「うん。試しに一回だけ」
「試しに一回か。んー……」
レナの言葉を反芻する。
まあ、それならいいのかな。きっとレナに頼ることがあるだろうけど、一回だけなら許容の範囲といったところか。
それに、もしかしたらこの身体でも案外何とかなるかもしれないし、ものは試しというやつだ。
そんな言い訳めいたものを頭の中で組み立ててから、
「分かった。後で医者の人に言ってみるよ」
***
次の週の土曜日。わたしが学校に行く日がやって来た。この日を選んだのは、朝の電車が空いているのと、学校が午前中で終わるという理由からだ。
朝、病院までレナに迎えに来てもらったわたしは、車椅子に乗って学校に向かう。学校の最寄り駅まで電車で行き、そこからの短い距離を徒歩で移動する。徒歩といってもわたしは座っているだけで、歩いているのはレナだけなのだけれども。
事故以来、病院の外に出たのは初めてだ。部屋の外に出るということに変わりはなくても、病院の敷地内を散歩するのとではやっぱりスケールが違ってくる。だから出発前は不安だったし、道中も怖さが完全に消えることはなかった。何度も通った道のはずなのに、全く未知の場所のように思えた。
それに、やっぱり車椅子は目立つのか、電車でも道でも人の視線をかなり感じた。こういうのはあまり良い気分にはならない。自分が異端なのだという自覚が強まってしまう。意識しすぎから来るただの思い込みなのかもしれないけれども。
正門を抜け、グラウンドの横を通って昇降口に辿り着く。時間帯が早いせいか、人の気配はあまり感じなく、静かだ。
「上履き取ってくるね」
そう言って、レナが車椅子の後ろから離れる。途端、言いようのない心細さが胸の内に去来してきた。わたしを置いて何処かへ行ってしまったというわけでもないのに。
「十八番だっけ?」
「うん」
答えて、脱いだ靴を右手に持って待つ。するとすぐにレナが戻ってきて、「はい」と上履きを左手に渡し、代わりに靴を回収していった。
「ん。ありがと」
お礼を言って上履きを履く。
「よし。じゃあ行こ」
靴を下駄箱に入れて戻って来たレナに手を引かれてわたしは立ち上がる。
この学校にはバリアフリーな設備もエレベーターもないので、二年生の教室がある四階まで車椅子のまま行くのは出来ない。なのでここからはわたしも歩きだ。
レナに先導され、ゆっくりと校内を進む。歩く練習をしているとはいえ、やはり不安は拭えなかった。一年以上通っているとはいえ、目を瞑って歩けるほど身に沁み込んではいない。
「そういえば席替えしたんだっけ?」
「したよ」
「わたしの席どの辺?」
「廊下側の一番後ろ。元々は真ん中の方だったんだけど、それだと不便だからって昨日交換したの」
「へー。誰と変わったの?」
「絵里香ちゃん。はい到着」
そうこう会話している間に教室の前に着いたらしく、レナが足を止める。思ったより遠く感じたのは、移動速度が遅いからだろう。とりあえずは問題は起きなかったけれども、スムーズにとはいかなかった。
教室の扉が音を立てて開き、わたしはレナに続いて教室に足を踏み入れる。
まだそんなに人が来ていないのか、教室内も比較的静かだった。それでもクラスメートから注目を集めているんだろうなと思いながら、わたしの席に案内される。教室には後ろの扉から入ったので、席はすぐそこだった。
「じゃあ、先生に言ってくるね」
硬い椅子に腰を下ろして鞄を机の横に置くと、レナは教室を出ていった。わたしが来たことを担任の教師に報告しに行ったのだ。
一人になったわたしは、掌で机の表面を撫でながら教室の様子をイメージする。黒板に教卓、そして微妙にずれて並べられている四十二個の机と椅子。黒板の両脇には掲示板があり、時間割や連絡事項が書かれたプリントが画鋲でとめられている。そして後ろの黒板には、カラフルなチョークで時間割が大きく書かれている。
長い夏休みを経て久しぶりに来た学校だ。けれども、何かが違う。
そんなことを思いながら、レナが戻ってくるのを待った。
チャイムと共に四限目の授業が終わり、放課後が訪れた。授業終了の挨拶が済むと同時に、教室中が騒がしくなる。ほとんどの生徒が荷物を鞄に仕舞うなどして帰りの支度をしているだろう。
本来ならわたしもそうするはずだが、現在わたしが肘をついている机の上には何も置かれていない。何故なら、今のわたしにとって教科書やノートは何の意味もなさないからだ。なので授業中は、押し寄せる睡魔と戦いつつ、教師の声とチョークが黒板を叩く音に耳を傾けていただけだった。
喧噪の中、机から動かないでいるわたし。なんだかとても場違いな感じがする。……実際、本当に場違いなのだろう。空気というか、目に映らない雰囲気がそう告げてくる。
「玄観、金田だけど」
腕を上に伸ばしていると、背後から担任に声をかけられた。
「はい」
振り向きながら返事をすると、
「今日はどうだった?」
と訊いてきた。朝礼前に言っていた通り、わたしの様子を見に来たのだ。
担任は今朝も、報告から戻ってくるレナと一緒にわたしのところに来た。わたしとしては放っておいて欲しいのだけれども、教師の側としてはそういうわけにはいかないのだろう。流石に授業の合間の休み時間には来なかったが、授業担当の教師に何か言っておいたらしく、教師達には色々と気を使われた。
「不自由なかったってことはないだろうけど、問題はなかったか?」
「大丈夫です」
一度レナにトイレまで連れて行ってもらったが、あとは座っているだけだったので、特別なことは何も無かった。
「ならよかったけど……なんかあったら俺でも友達でもいいけどちゃんと頼れよ」
「はい」
「授業は分かったか?」
「まあ、だいたいは……」
というのは嘘で、どの授業もあまり理解できなかった。元から真面目に授業を受けるタイプではないので、前と変わらないといえばそうなのかもしれないけれども。ただ何というか、自主的かそうでないかの違いは判然と存在している。
「そうか。もう帰るのか?」
「ええっと、南城さんは……」
言いながら首を右に回して、顔を教室の中央へ向ける。
「何?」
するとすぐに、その方向からレナの声が聞こえた。すでに傍まで来ていたようだ。
「もう帰る?」
わたしが勝手に決めるわけにはいかないので、レナにお伺いを立てる。
「そのつもりだけど、何か用事ある?」
「ううん」
学校に残っていても出来ることなどないし、わたしのような人間はさっさと退散するに限る。
「というわけで帰りますけど」
合意形成ができたところで、その旨を担任に伝える。
「なら校門まで送ってくよ」
「あ、ありがとうございます」
担任の申し出に、別に来なくてもいいのになと思いながらも、とりあえずお礼を言う。来なくていいというよりかは来て欲しくないのだが、それを口にしないくらいの弁えはある。
「じゃあ行こっか」
レナが手を取って立たせてくる。ついでに鞄も取ってもらって、わたし達は教室を出た。
***
学校に行った日から一週間が過ぎた。
今日も、お見舞いに来てくれたレナに車椅子を押してもらい、病院の敷地内で散歩している。さっき車の音が聞こえたので、現在地は駐車場の辺りだろうか。気にも留めていなかったので、今自分が何処にいるのか完全に見失ってしまった。
あんなことをしたからといって急に何かが変わるわけもなく、わたしは相変わらず病院での生活を続けている。いつもと違うことがあったとすれば、昨日に担任が訪ねてきたことくらいか。
「ふーん。それで何だって?」
担任が来たことを教えると、レナはそう訊いてきた。
「別に、適当に話してっただけ。調子はどうだー、とか。これからどうするんだー、みたいな」
他にも世間話みたいなことはしたけど覚えていない。
「何て言ったの?」
「うん?」
「これからどうするか」
「それねぇ……」
「何て言ったの?」
言い淀むわたしに、レナが不服そうに催促してくる。
「んー」
やっぱり、いざとなるとすんなりとは言えない。もちろん、言わなければならないということは分かっている。いずれ知ることになるとはいえ、わたしから言わないのはフェアじゃない。ただ、それには心の準備が必要で、口を開くにはいくらかの時間をかけなければならなかった。
小さく唸りながら、伝えるべき言葉を頭の中で幾度となく反芻する。
そして、覚悟を決めて一気に言う。
「わたしさ、特別支援学校に行こうと思うの」
「何それ?」
「障害者支援学校って言えば分かる?」
「え……じゃあ、学校やめるの?」
緩やかに動いていた車椅子が止まった。
全く予想していなかったのか、レナの声からは動揺が伝わってくる。
「うん」
わたしは首を小さく上下に動かし、肯定する。
「……なんで?」
「なんでって、そりゃあわたし、こんな身体だし」
「でも、この前はちゃんと学校行けたじゃん」
「行けてないよ。レナがいなきゃ無理だったし、授業も訳分かんなかったし」
「前は分かってたみたいな言い方じゃん」
「まあそうだけどさ」
茶化すようなレナのツッコミを軽く受け流す。
「なんかさ、あそこはわたしがいるべき場所じゃないなって思ったの」
「それどういうこと?」
レナの声が、頭の後ろから顔のすぐ右横に移動した。
「うーん、何て言うんだろう……わたし、助けてもらわなきゃなにもできないしさ」
「だから助けてあげるって言ってるじゃん」
「それがヤなの」
わたしは言う。
「そうやって迷惑かけるのが」
「だから迷惑なんて思ってないよ」
「レナが思ってなくても、わたしが嫌なの」
レナが迷惑に思って用と思ってなかろうと、わたしは後ろめたさを感じるのだ。レナに限った話ではない。わたしがいるだけでいろんな人に余計な負担をかけてしまう。そういった思いが拭えないのだ。こうやって散歩に付き合ってもらいながら言うのはおかしいのかもしれないけれども。
「……だからそこに行くの?」
「うん」
「……先生にも言ったの?」
「うん」
そこで会話が途切れる。
レナは今、一体どんな思いでいるのだろうか。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも他の何かだろうか。この状況で、わたしは何と言うのがいいのだろうか。
分からないということが、不安となって押し寄せてくる。レナがどんな表情をしているのか分かれば少しは解消できるかもしれないけれども、口惜しいことに、それを知る術をわたしは持っていない。あの事故以来、レナの顔が観たいと思ったことは幾度となくあるけれども、これほど強く思ったのは初めてだ。
「わたしはさ、さっちゃんと一緒にいたいの」
「わたしも、いたいよ」
「じゃあ――」
「でもやっぱり駄目だよ」
レナの言葉を遮るようにして否定する。
「レナとは友達でいたいからさ、頼りきりになるようなことしちゃ駄目だと思うの」
「だけど……」
レナの声からは、悲愴感が滲み出ていた。
大げさすぎやしないかと少し呆れる。と同時に、心のどこかで否定しきれないでいる自分もいた。共鳴するように、心のうちに押し込めていた気持ちが引きずり出されていく。
レナと離れたくない。それが偽ることのないわたしの望みだ。学校でおしゃべりしたり、お昼を一緒に食べたり、何処か遊びに行ったり。そんな前と同じように生活を送りたい。
その気になれば、そのいくらかは叶えることができるだろう。しかし、それには犠牲が伴う。
だから、これが二人にとって最もベターな選択なのだ。
「別にもう会えなくなるってわけじゃないんだから」
死に分かれするわけじゃない。それこそ、その気になればいつだって――というのは言い過ぎだろうけれど――会える。お母さんやお父さんと違って。
「その学校、どこにあるの?」
「県内の学校って言ってたけど、何処にあるって言ってたかな……?」
答えようとしたが、医者から聞いた地名が記憶からすっぽり抜け落ちていた。担任が来た時にはまだ覚えていたはずなのに。
「遠いの?」
「近くはないみたい。寮があるって言ってた」
「じゃあそこに住むの?」
「家から通うわけにもいかないしね。そうなるんじゃない」
「そっか」
感情の読みにくい平坦な声でそれだけ言うと、レナは黙りこくった。
レナから新しい反論が無いということは、わたしの考えを理解してくれたと見ていいのだろうか。どうにも判断しにくい。それに、納得したということをレナがはっきりと言わないうちに、話を勝手に切り上げるのはどうかと思う。かと言って、説得を続けるタイミングでもない気がする。
だからわたしも、口を噤んだままでいた。
「ま、しょうがないか」
不意に、レナが沈黙を破った。
「さっちゃんが決めたなら、わたしがどうこう言うことじゃないしね」
「いいの?」
「だって決めたんでしょ?」
「うん」
待っていた答え。のはずなのに、わたしの心は満足とはほど遠いところにあった。
理由は、まあ何となく分かる。分かるけど、今はそれを胸の奥に押し留めておく。
「寒くなってきたし戻ろっか」
レナはそう言うと、車椅子を押し始めた。
***
***
さっちゃんがいなくなってから、結構な年月が過ぎた。わたしはすでに高校を卒業し、四年制大学もついこの間ストレートで卒業証書を貰ったばかりだ。五年と半年くらいといったところか。
さっちゃんと連絡を取り合わなくなってから久しい。どちらから切ったというわけでもなく、気付いたらそうなっていた。メールは使えないし、電話というツールはどうも使いづらく、次第に頻度が減っていったのだ。いわゆる自然消滅というやつで、未練が無いわけではないけれども、だからどうかするというほどでもない。学校を卒業して仲の良かった友達と縁が切れてしまうみたいに。
あんなにも離れたくないと思っていたのに。
わたしというのは、随分と薄情な人間なのかもしれない。昔を思い出したりして、そんなことを今でもたまに思うのだ。これもやっぱり、思うだけだけれども。
「うん。二十二分発に乗るから」
わたしは、新しく買ったばかりのスマホを耳に当てながら、駅の改札を抜ける。
「だから十一時頃には着くけど、正確な時間はそっちで調べて」
階段を下り、一つしかないホームに出る。
「じゃあ、また後でね」
そう言って電話を切ると、わたしは電光掲示板を見上げ、電車の発車時刻と行き先を再度確認した。それから手近な青いベンチに腰をおろし、電車が来るのを待つ。
平日の昼間ということもあって、ホームにいる人は疎らだった。わたしを除いて三人しか見当たらない。
五分ほど経つと、電車の到着を告げるアナウンスがホームに流れた。そしてそれとほぼ同時に、右手に持っていたスマホのバイブレーションが作動した。
わたしは立ち上がり、スマホを操作しながら白線の傍まで移動する。
見てみると、大学の友達からメールが。内容に目を通してから、返信用の画面を開いて文章を打ち始める。
そうしている間に、電車がホームに入ってきた。
わたしはスマホの画面に視点を合わせたまま、その車体を視界の片隅に収め、そ億度を落とす電車の動きに合わせて扉の前まで移動する。
電車が完全に止まって扉が開くと、中から人が出てきた。
白杖が見えたこともあり、わたしは左に動いて道をあける。その人は杖を左右に振りながら電車を降りると、わたしとは反対の方向に歩きだした。
入れ替わりに乗り込もうと顔を上げる。
と、今しがたすれ違った人の後ろ姿を、わたしの目が捉えた。
「さっちゃん?」
わたしの声に、その女の人は足を止めて振り返った。
「……もしかして、レナ?」
僅かに逡巡したのち、懐かしい声でわたしの名を口にする。彼女にはわたしの姿が見えているはずもないのに。
途端に、心の奥から何かがせり上がってくるのを感じた。
サングラスを掛けているせいか、以前とは雰囲気は違う。
けれども、そこにいるのは紛れもなく、かつて別れを惜しんだ友達だった。
視覚情報なしで書いてみたらどうなるのかな、と思い立って書いた作品
その点についてでもそうでなくても、意見や感想もらえたら嬉しいです




