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ある社会人の冬

未来、見つめて

作者: 腹黒ツバメ



〈未来、見つめて〉



 カノジョと喧嘩をした。

 きっかけは、とても些細な出来事だった。



 クリスマスイヴの夜、同僚のさな()さんにプレゼントをもらった。

 その日俺は残業で、会社では一年後輩であるカノジョは、先に帰って豪華な晩餐を用意しておいてやると張り切っていた。

 とにかく帰路に着く前、さな絵さんは俺に包装された小さな箱を手渡した。中身は、世情に疎い俺でも知っている有名な洋菓子店のチョコレートらしい。さすがは社会人だ。

 正直な話、カノジョのことで頭がいっぱいだった俺は、さな絵さんへのプレゼントなんて準備していなかった。

 心苦しくもそう告げると、さな絵さんは少し残念そうな顔つきになったが、すぐに表情を書き換え、いいよ別にあたしが勝手に渡しただけだから、と笑った。

 そんなやり取りをしていたら、すっかり遅くなってしまった。

 足早に会社を出て、カノジョが待つオンボロアパートに駆ける。

 そう、俺たちは同棲しているのだ。

 玄関を開くと、見事な膨れっ面が俺を出迎えた。

 俺のカノジョ――美佳(みか)だ。

 もう、遅かったじゃない。美佳は頬を丸めたまま言った。上辺は怒っているが本心は違う。台詞が芝居じみていた。

 だから俺も、どうかお許しくださいなんて大仰な仕草で、さっきもらった菓子箱を美佳に差し出した。

 それを怪訝な顔でしげしげと眺める美佳に、俺はかくかくしかじかとさな絵さんにもらった経緯を説明した。

 そして事件は起きた。

行男(いくお)の――馬鹿ぁ!」

 俺のおでこに鋭い衝撃。

 なにかを投擲されたのだと理解したのは、仰向けに倒れ込む俺の顔面に、その凶器が落下してからだった。

 ダウンした俺には目もくれず、蝶番が壊れんばかりに勢いよく寝室の扉を閉める美佳。籠城してしまったのだ。

 溜め息ひとつ、俺は上半身を起こした。

 顔の上から転がり落ちたそれを手に取ると、直方体のカラフルな包みだった。恐らくは美佳からのクリスマスプレゼント……だったものだろう。

 まだ正式に美佳から頂戴してはいないが、俺は興味の赴くままに包装を剥いた。背徳心はあったが、美佳の理不尽な攻撃への反感が勝った。

 かくして中から飛び出したのは、さな絵さんにもらったプレゼントと同じ店のブランドで、チョコレートで、十二個入りだった。

 要するに、モロ被りしていた。



 翌日から、俺たちは別々に出勤するようになった。社内では一言も口をきかないし、アパートに至っては顔も合わせない。同居していてこの状況はかなり気まずい。

 そもそもの発端が不幸な偶然と俺の無神経(自覚はある)なのだからすぐに謝れば解決していたはずだったのだが、タイミングを逃したというのと、なにより時間が俺を意固地にさせていた。今さら詫びるなんて情けないことができるか。

 そんな疎遠状態が続いたまま容赦なく時は過ぎていき、気づけばもう大晦日だ。仕事は年末休み、今日も美佳は寝室に籠りきりだ。

 その頃になると、さしもの俺も美佳が恋しくなってきた。

 頑なに守ってきた強情も氷解し、無性に美佳に会いたくなる。

 バラエティーの年末特番を眺めながらも、しかし俺の意識は寝室に向けられていた。どうにか仲直りしたい。

 意を決して起き上がり、寝室の扉の前に立つ。

 そしてノックしようと息を呑んだ瞬間、

「「……あ」」

 呆けた声が重なる。

 ちょうど扉を開いた美佳と視線が交錯したのだ。それだけで俺たちは、まるでできたてのウブなカップルみたいに赤面してしまう。

 なにも喋らない。ただ画面の向こうの芸人がやかましいばかりだ。

 そして最初に沈黙を破ったのは美佳だった。

「えっと……あのときはごめんね……?」

「いや、俺の方こそ……」

『あのとき』とはいつか、わざわざ言わなくたってわかる、例のクリスマスに起きた悲劇だ。

 それにしてもこういう場面では男が先に度胸を見せるべきではなかったか。まあ長いつきあいだし無駄に格好つける必要はないよな。

 はやる気持ちを抑え、呼吸を整え、俺はひとまず場を和ませようと冷蔵庫に駆け寄った。

「なあ、いっしょにこれ食おうぜ」

 取り出したのは、かさばって処理に困っていた菓子箱だ。甘党の美佳なら喧嘩のことなんて忘れて貪り食うに違いない。

 と、思ったんだけど、

「…………」

 美佳はただ残酷なほど冷ややかな眼差しで俺を捉えていた。

 え? どういうこと?

 当惑の後、すぐに俺は察した。事態の原因に。自身の愚かさに。


 このお菓子、さな絵さんからのプレゼントそのものじゃないか!


 これで和解は完璧におじゃんだ。せっかく自然消滅の一途を辿っていたはずの確執を無粋にも蒸し返すなんて、大馬鹿か俺は⁉

 背筋が凍るような視線に俺が戦慄していると、突然の凄まじい強風が前髪を後ろに揺らした。

 そしてすでに俺の双眸に美佳は映っていなかった。

「ぐ……!」

 美佳が走って部屋を出ていったのだ。

 俺も続いて鍵もかけずにアパートを飛び出す。彼女の心情はさっぱりわからんけど、ここで追いかけなくちゃ男じゃないだろう。

 道路に出て左右に首を振ると、美麗なフォームで駆けていく美佳の背中を見つけた。そういえば彼女は高校生時代に陸上部に所属していたと言っていたか。まるでアサファ・パウエルだ。

 しかし万年帰宅部だった俺も負けてはいられない。必死に腕を振り、膝を前へ押し出す。

 五分ほど走っただろうか、俺は奇跡的に美佳に追いついた。

 美佳の手首を掴んで引き寄せる。俺たちは肩で荒く息をしながら向かい合った。

 目を逸らした状態で美佳は呟く。

「……離して」

「駄目だ」

 即答。

 捨てられてしまう。そんな予感が頭をよぎって、俺は彼女の手を握る拳にさらに力を込めた。

 本当なら、今こそ謝るべきだった。

 しかし不安が脳を支配し、思わず強気で空っぽの感情が吐露する。

「子どもみたいな真似しやがって……。だいたい家出したってどこへ行くつもりだよ。こんな時期ならなおさら、凍え死んじまうぞ」

 違う。そんなことを言いたいんじゃない。

 案の定、美佳はそんな俺に腹を立てて柳眉を吊り上げた。

「そんなの行男には関係ない」

 そして彼女が次に吐いた台詞を、俺は一生忘れないだろう。

「どうしようとあたしの勝手でしょ。泊まるところなんて腐るほどあるし、あたしが出ていけば行男も家の寝室が自由に使えて万々歳じゃない」

 瞬間、左胸の辺りでなにかが暴れ出して、止められなくなった。遠慮や自重は固く封印されて、静かな夜空も会話が漏れ聞こえる近辺の家庭も気にかけず、知らずのうちに叫んでいた。

「そんなの絶対に許さない!」

 荒ぶる感情に、身勝手だと俺の冷静が告げた。

 なんで俺が憤怒しているんだ。すべては俺の鈍感が招いた失態で始まり、もちろん責任も俺にある。逆上するなんて理に適わない。

 わかっているのに、衝動は収まらなかった。

 だって――

「おまえを愛してるんだよ! どれだけ喧嘩したっておまえが好きなんだ、ほかの野郎になんて渡すもんか!」

 美佳の肩を揺さぶりながら、俺は住んでいるオンボロアパートのことを思い出していた。

 つきあってから二年、ずっとあの部屋で同棲してきた。笑顔を交わして、互いを肌で感じて、ときには怒鳴り合ったりもして。俺たちの過去は、すべてあそこにあった。

 そして、数週間前から俺たちは新居を探していた。

 将来を想定した、もっと広くてきれいな家を。

 そうだ。不動産屋を巡り、住宅雑誌を眺めていたあのとき、俺たちは未来を見据えていたんだ。

 輝かしい未来、これからも続いていく幸福。

 恋人になって早二年、出会ってからは三年も経つ。

 もうガキの恋愛ごっことは違うんだ。

 俺たちはそれだけの期間をともにして、そしてまだ先がある。こんな風に仲違いすることだってあるけれど、今さらその程度で冷めるような柔い愛じゃない。

「あたしも」

 熱っぽい囁きに回想が途切れると、美佳が照れ混じりの表情で俺を捉えていた。扇情的に濡れた瞳が俺を滾らせ、そして、

 抱き締めたのは俺だった。

 だけど言いわけをさせてくれ。


 キスをしたのは、彼女からだったんだ。


 愛を確かめ合う熱い、甘い口づけ。

 人が見てるかも。そんな逡巡は胸の火口の奥に溶けた。

 輪郭のはっきりした月が照らす寒空の下、それでも俺たちの身体は火照りきっていた。



 ちなみに、後で美佳から聞いた話なんだけど、さな絵さんはその昔、美佳と俺を賭けて勝負していたらしい。そして今でも独り身を貫いているのは、まだ俺に未練があるからなのだと。

 ……まあ、驚きはしたけど。

 俺には美佳がいるし、どうでもいいや。



 無事に帰宅した俺たちは、コタツを囲んで年越し蕎麦をすすった。蕎麦の湯気で額に汗が滲む。

 適当にテレビを点けると、新年へのカウントダウンを目前に控えていたが、特に感慨深いこともない。それにしても、慌ただしい幕切れだったなぁ、今年。

 ちらりと美佳を見遣ると、彼女も無感動にテレビを観ていた。

 こんなもんだ。なにせ普通の日常を送ってきただけなんだから。

 考えながら蕎麦を味わっていると、

「ねえ、そういえばまだ行男からクリスマスプレゼントもらってないんだけど」

 美佳がテレビから目を離さずに尋ねてきた。

「あ? 時期も外れちゃったし、また今度渡せばいいだろ」

「えぇー」

 不満げに唇を尖らせる美佳に、俺は心の中で悪態を吐いた。

 ――そんなに愚痴るならもっと気を遣えよ! 馬鹿!

 というのも、室内は存分に暖まっているというのに、美佳は帰ってから今までずっと手袋を着けっぱなしだった。そのせいで箸を握ることすら覚束ないようで、蕎麦を口に運ぶのに苦労している。

 まさか勘づいているのか? 俺が、彼女の左手の薬指が裸になるのを待っていることに。

 俺は汗ばんだ手でポケットの小箱の感触を確かめた。ずっと以前から渡す機会を窺っていた、美佳へのクリスマスプレゼント。

 幸せな未来を誓う贈りもの。

 それからまたしばらく話していると、壁掛け時計が午前零時を示し、画面の向こうが騒ぎ出す。

 そして彼女は手袋を外した。







 読んで頂きありがとうございます!

 下らないことで喧嘩をして、でも結局は大好き、そんなひねくれた時期なんだと思います。

 ああ、喧嘩する相手がほしいなぁ……!

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