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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

躁鬱花嫁の影と光

作者: 珠那実史仰
掲載日:2026/03/26

このエッセイは双極性障害に苦しむ専業主婦が、回らない頭と鉛のように重たい体の中で日々感じたことをまとめたメモをかき集めたものである。

毎日朝が来ることも冬の痛さが過ぎつつあるポカポカした春の訪れも何もかもが私には眩しすぎて億劫で、そんな変化なんてなければいいのにと思う。

 このエッセイは双極性障害に苦しむ専業主婦が、回らない頭と鉛のように重たい体の中で日々感じたことをまとめたメモをかき集めたものである。


私の名前は珠那実 史仰。自分の歳がいくつかしばらく考えなければ思い出せなくなってきた年頃の28歳だ。

現在は無職で1日の大半をベッドで寝て過ごす。外の賑やかな人々の声も窓の外から差し込む光も何もかも受け付けなくなった。友達はごく数人LINEで繋がっているだけの生活でこの変化のない生活が大好きで大嫌いだ。


そう、あれは幼稚園に入る前、戦隊ヒーローごっこをした時に起きた。

「私がヒーロー役で佳子ちゃんは怪獣役ね!!?」するとものすごい形相で佳子ちゃんがキレた。

「なんで私が怪獣なんてやらなきゃならないの??大っ嫌い!!!」

私はわけがわからなかった。なぜなら私は大っきくてトゲトゲしていて強そうな色をした怪獣の方がつるつる全身タイツのヒーローよりよっぽどかっこいいと思っていたからだ。要するに私は怪獣の方が好きだったので佳子ちゃんも怪獣が好きだと思って譲ってあげたつもりだったのだ。なのに酷く怒られた。しかし当時の私には意味がわからなかった。

小学校高学年あたりから友達と上手くいかなくなったり、中学でいじめにあったり、小学校では授業で全員発表という時間がありクラスの全員が自ら手を挙げて自分の意見を述べなければ授業が終わらないという恐ろしい時間があった。そんな時いつも最後のひとりになるまで手をあげられず泣いていたのはこの私だった。

そう、私は発達障害の特性、自閉症とADHDの特性を持ちながらも周りにいた大人に気づいて貰えず普通学級で義務教育を終え大人になった。

そして普通に就職した。

子供の頃からかなり気にする子供だった。

例えば給食を配膳する時、クラス全員分余らせたり足りなかったりしてはいけずにピッタリ分けなければいけなかった。それが上手くいかないともう怖くなってしまって給食係がとても嫌になってしまった。

また小学校1年生の頃、学校で習った歌を家で歌っていると母から

「史仰、鼻の穴膨らんでるよ」と大笑いされた。

それをキッカケに人の目が気になって歌えなくなった。声は小さく口も大きく開けることができなくなった。2年生の音楽発表会の日大勢の前で歌わなければならなかった私たち学年は体操服姿で元気にハツラツと歌った。しかし私は鼻が膨らんでるということだけが怖くて上着をはおいマスクをして前に出て歌い逆に目立つという出来事もあった。それをまた笑われてさらに恐怖は深まった。

それを機に人前に出ることがどんどん怖くなっていった。中学生になるまで音楽の授業は口パクだった。

また大学生になると顕著に発達障害が現れた。

それはバイトだ。私はいくつかバイトをかけもちしていて1つ目の荷物を分配するレールのバイト。これは大の得意だった。何時間でも商品を高いモチベーションで同じペースで分配したし集中できた。なにより人対人ではなく人対物な点がよかった。

2つ目学童保育。これは楽しかったが小学生が無茶ぶりをしてくるので対応できずに地蔵のように固まった。

問題は3つ目だ。幼稚園前からの幼なじみの結華から誘われた飲食店のバイトだった。

「結華、私は接客は絶対苦手だからキッチンで応募受けるわ。」

「おっけい、うちはバリバリ接客したいと思ってるからホールで受ける」

「同じ時間で入ろ」

「りょーかい!!!」

のはずだった。

しかしいざ受けに行くとそこにいた店長は

「あなたもホールでお願いしますね〜」と私の話を全く聞かずに去っていった。

最悪だ。ここからが地獄の始まりだった。

お客さんが来る度にゾンビが来たかのような怯え方をした私は鬼のように怒った。客が来て怒るバイトなんて失格だろう?案の定できないことの嵐で私はダメバイトとなった。何度も辞めたいと思ったし店側も何度も辞めさせたいと思っただろう。しかしそうならずにそこでのバイトを無事に2年間続けた。これは奇跡だ。結華が居たから。結華と一緒だったから成し遂げた結果だった。

この結華は後に医療関係者となりバリバリ働いた。そして私の病気の薬や状況をいつも気にかけてくれている。



周りの友人や社会人が働く中家で寝て過ごし掃除や洗濯は母が来てやってくれる。みんながお金を稼いで貯金をしている中私は少ない貯金を切り崩してひっそりと息をしている。この劣等感がより自己肯定感を下げた。食事を取ることも苦しい。食べるように促されなければ食べられない。

そんな私を見かねた母が精神科を紹介した。

精神科……抵抗がない訳ではなかった。しかし私はもうそこを頼らなければこの先生きていくことはできないと感じていた。


受診をするとすぐに薬が処方された。ここで私は辛い事実に直面する。アルコール禁止。飲み合わせが悪いためだ。辛いことがあると缶チューハイで意識を飛ばして強制睡眠をとっていた私にとってアルコール禁止は恐ろしい現実だった。

ちぇっ、アルコールが禁止ならと今まで手もつけたことがなかったタバコに興味が出てきた。吸ってみっかな。やさぐれた気持ちでタバコを買いすってみる。恐ろしくむせた。でもタバコを吸っている自分が、むしゃくしゃして表現のしようがないやさぐれている自分を最大に表現しているようで、割とすきだった笑

普段外に出る時はジャケットにスカート、某有名ブランドのバッグと帽子で出かける私は、コンビニでタバコを買う際、(この子がタバコを吸うのかい??)とでもいうような店員さんのびっくりしたような表情がとてもよかった。

 試し吸い。

ある日私はパニック発作を起こした。死の恐怖、死にたくないのにしぬような言動を取ってしまう。

家の窓から飛び降りた。

気づいた時には人だかりができ救急車がきて名前を呼ばれていた。

(死ななくてよかったぁ。)

自ら死ぬような行動をとったのに生きていたことにすごく安心した。

そのまま救急車で運ばれて病院まで行った。結果全身打撲とヒビだった。これは初めてでは無い。何度も階段から飛び降りたり自殺行為を測ってしまうため、部屋の窓には全て私が開けられないようロックがかかっている。

精神科に通って何年か経った。

私の病気は双極性障害。広汎性発達障害。不安障害。パニック障害。

思っていたよりも重度だった。


お気づきだろうが私の小説には登場人物が非常に少ない。

人と関わるのが苦手なこともあり友達が少ない。

基本私と母と数人のLINE友達という小さいコミュニティで生活している。



基本友達とは遊ばない。

双極性障害とは気分が異常に高揚・活動的になる「そう状態」と、気分が深く落ち込む「うつ状態」を交互に繰り返す精神疾患だ。

躁状態のときには座っていられないくらい気持ちがソワソワいらいらしてしまい頭の中はごちゃごちゃしていてすごくうるさい。この時に買い物を沢山してしまう。主にとあるブランドが好きな私はそこの店舗に足を運び何かしら買い物をして帰ってきてしまう。

普段は寝ている私でも躁状態の時はびっくりするほど活動的になるのだ。コスメコーナーで美容部員さんにメイクをしてもらう。

「お綺麗ですよ、お悩みの毛穴も綺麗に消えてお肌につやが生まれましたね」

鏡に写った自分がとてつもなく魅力的に見えてしょうがなくなる。これも躁状態の特徴。

「本当!すごい!これ全部でおいくらですか?買います!!」

結果そこで紹介されたすべての商品をお買上げしてしまうという困ったことになる。

もともと貯金を切り崩して生活している私が散財の嵐でもう誰も止められない。

躁状態を止める薬を飲まないとソワソワイライラしてじっとしていられない日が続く。

医師が処方してくれた薬を飲むとびっくりするくらい落ち着くしその症状が消える。

しかし、その代償がある。

とてつもなくお腹がすいてしまう。また代謝が下がってしまう。

前回その薬を飲んだ時体重が1ヶ月で22キロも増えた。そこから運動しても食事制限をしても体重は全く減らない。今まで体重は40キロ台前半で何を食べても太る体質ではなかった自分が60キロ超の体重になったことが信じられなかったしとてもショックだった。

「信じられない!40キロ台に戻したい!!こんな薬飲まなきゃ良かった」

悲しみを通り越して怒りに震えた。

病気を治すために飲み始めた薬。症状は間違いなく良くなったが太ったことに過度なストレスを感じてしまってうつ状態になってしまった。食事が取れなくなり食べても戻してしまうようになった。

お店で同級生のお母さんを見つけて声をかけた。気づいて貰えなかった。すぐに声をかけたことを後悔した。自分が20キロ増量していたことを忘れていたからだ。

「史仰です!悠人の同級生の史仰!」

ここまで言っても伝わらなかった。あぁ〜もう最悪だぁ。

「えぇ史仰?!やだごめん全然気づかなかった全然違うじゃんなんで?太った?」

そう。これがおばさんのデリカシーの無さである。普通言っちゃいかんやろ。というセリフをなんの悪気もなくお吐きになる。

でもそんなところが好きだった。いつも気を使ってこれは言ってもいい、これは言っちゃいけないと常に頭の中で考えて、相手を傷つけないことを最優先に会話する。私だけでなく今の世の中にはきっと多い。

だけど悠人お母さんは違った。思ったことを素直にぶつけてくれるしそのセリフに変な裏はない。誰よりも純粋だった。

そう考えた時どんな生き方や言葉選びが純粋で素直で可愛いかさっぱりわからなくなった。

「そう、史仰だよ、精神疾患になっちゃって、薬の副作用で太っちゃったんだ」

人間って不思議だ。私は人に太たことも精神疾患になったこともバレたくなかった。隠し通して生きていきたかった。だけど悠人のお母さんは本音でぶつかってきてくれた。

その結果私は事実を包み隠さず話した。人間関係って難しいとずっと思っていたし今も思っている。だけど自分が思っているほど複雑では無いのかもしれないと悠人のお母さんの件から感じた。

 またふとした優しさや気遣いに守られる日もあった。私の祖父はまだ幼かった私を膝の上に乗せてあぐらをかいていた。そんなとき子供とは、孫とはまさかの動きをするものだ。唐突に勢いよく祖父の膝の上から立ち上がった。私の頭は祖父の顎を見事に直撃した。いてぇ!私は自分の頭をさすった、じいちゃんの方を見るとじいちゃんは痛くなかったよと笑って見せたので安心していた。

 日が経つにつれてそんな些細な出来事も忘れていたが、その日を機に祖父の歯はボロボロと抜け落ち、現在では上の歯は全滅、下の歯がラス2となった。

 あとから聞いた話だが私が膝から立ち上がったあの日、祖父は孫の頭突きを激しく受け前歯が折れたそうだ。周りにいた誰もが気づいたそうだ。しかし祖父は史仰が気にするから静かにとしーのジェスチャーをしてみんなを黙らせたそうだ。じいちゃんの歯が折れ始めたのは私のせいだ(笑)

 そんな優しい心遣いに守られて生きてきた私でもあった。


心療内科に行く時、私は酷く緊張する。

優しい白衣はいつも私の味方で「うんうん分かるよ、頑張って生きとるね」と声をかけてくれる。じゃあなぜ緊張するのか。一番の理解者でわかってくれると思っている主治医に私の気持ちや苦しみが伝わらないなんてことがもしもあったらとてつもなく辛いからだ。

この人にはわかって欲しい。私の苦しみをわかってくれる人だと過度な期待をしてしまう。

私は今までの人生を振り返ると人に過度な期待をして裏切られたと勝手に傷ついてきた。

たとえば高校の同窓会のときだ。

私は友達がいなかったしその学校に未練はなかった。今更会いたい友達もいないしむしろ会いたくなかった。なのにやたらと誘ってくる友達がいた。果歩だ。

「史仰、同窓会行こうよ」

「やだよ、誰にも会いたくないし行きたくない」

「いいじゃん、こういう機会滅多にないんだし、もしかしたら当時は嫌だったけどもう嫌じゃなくなってるかもしれないよ。みんな年齢重ねて大人になってるんだし、なにより私が居るじゃん、一緒にいようよ。私と一緒に行動してればいいんだよ、ね!行こ!」

全く気分が乗らない。果歩は友達も沢山いて同窓会はきっと楽しめるだろう。誘う友達もいるはずなのになんで私なの?

最後の最後まで断ったがとうとう私は同窓会に行くはめになった。

果歩だけが頼りだった。

会場に着いた。会場に着くやいなや果歩はたくさんの友達に声をかけられて呼ばれた。そしてあっという間にワイングラスを片手に「史仰!またね!またあとで!」と私の元から離れていった。

「えぇ??ちょっとまっ……」

ひとりぼっち。

(なんで?一緒にいるって言ったじゃん。だから来たのにどうして??)

裏切られた。と思った。

果歩は一緒にいると楽しい。だけどこうして学生時代から裏切られてきた。

みんな大人になったんだし、あの頃とは変わっているよと私を誘い出したセリフを吐いた張本人がいちばん変わっていなかった。

人間って変わらない。1人残された私は、端の方の過疎っているテーブルでひとりワインでも飲んでいた。飲まなきゃやってらんない。

そんな思い出もあった。

期待して裏切られる。昔から私はそんな運命と常に隣り合わせだった。

私は小学校の頃から友達のグループや誰と誰が犬猿の仲だとかそういうことに詳しかった。アンテナを常に張って生きていた。

A子とB子が2人ペアを組むことになりそうだけどこのふたりは確か今揉めている。そう思うと私はペアを組みたい友達と組むのをやめてA子!ペア組もう!と声をかけたりしていた。めちゃくちゃ気遣い屋だった。

だから毎日の学校に日々疲れていて学校は好きじゃなかった。

そんな私は先生から

「不登校のみかこちゃんが教室に来るから一緒に保健室に迎えに行って貰えないかな?ペア一緒に組んでもらえないかな?」

と声掛けされることが多かった。

正直かなり気遣い屋だった私には胃が痛い話だったがそれなりに快く引き受けていた。

よく学校通いきったなぁ。不登校の子の面倒を見ているようでそういう役割を担っているという気持ちが私を学校へ向かわせていたのかもしれない。だと思うと当時の先生は天才だ。

 当時不登校の友達と保健室でやり取りしていた私は不登校の友達からのSOSを受け取ったり相談相手になることが多かった。自分で言うのもなんだが真面目で責任感のある私は必死にその子の悩みを一緒に悩み、そしてその子の唯一の友達としての地位を獲得していた。しかし致命的だったのはドジであった点だ。

 ある日久々に上履きを洗おうと自宅に持ち帰ると母親がなにか入ってる……と。なんと不登校の友達からの手紙だった。年賀状交換しようとかかれたお手紙。危なかったドジでありズボラゆえ手紙に気が付かずに上履きを何日も履き続けていたようだった。手紙の上から。

 小学生の頃周りから注目を浴びたくなかった私はなるべく周りから目立たないように生活していた。ある日運動会で親御さんへの宿題というものが出た。今どき親御さんへの宿題というものは珍しいのかもしれないが当時は運動会の衣装を手作りするものがあった。私の母親は身内誰もが認める不器用である。そんな母が徹夜で作り上げたTシャツを使った衣装はとても可愛くきらびやかでクラスで話題になるほどだった

「史仰ちゃんの衣装すごい」「うちもあんな豪華だったらいいなぁ」

そんな声を誇らしげに感じながらいざそれを着用する体育の練習の時間が来た。だが、そこで私は驚愕した。頭が入らない。そう、うちの母親は首元までびっしりと飾りを縫いつけていた。その縫いつけ方が首元を閉めて首が通らない形状になっていた。最悪だ。あれだけ注目を浴びていただけあり、頭が入らなかったなんてみっともないことは言えないと思ったが結局私は憔悴しきった状態でその件を担任の先生に伝えた。

 結果私は衣装を持ってくるのを忘れた忘れ物の人達と同じ体育着でその授業に参加になった。「なんで?」という周りからの目が痛すぎた。先生から先生にあの子は忘れ物をした訳ではなくこういう訳で衣装がありませんと報告があったのだろう。生徒指導の怖い先生が気の毒そうに珠那実ちゃんは忘れ物チームの中にいなくていいからみんなの中に入れといった。その気遣いがまたなんともいえなかった。忘れ物チームでいいですんわい。とてつもない恥をかいた。大変なことが起きたと帰るとすぐに母に伝えた。しかし母は自分の失態を笑い転げた。段々おかしくなってきた。深刻だと思っていたこともここまで笑い転げられるとおかしくなってくる。母のような不真面目で陽気な人も私には必要だ。

 この一族、真面目ではあるが1度笑い出すとツボにハマって笑いが止まらない。それが原因で曽祖父が入っているお寺に出禁になった過去がある。

 あれは曽祖父の13回忌だっただろうか。私の祖父はとても真面目な人で早朝7時頃から曽祖父のお墓の掃除をし、お寺の和尚さんに挨拶を済ませて丁重な行動をして法事に向かっていた。そして時間になりみんなが集まった。問題なく法要は進んで行った。しかしついに事件は起きた。お焼香の時間が始まった。目の前にお焼香の台があったにもかかわらず祖父の目に残念ながらお焼香は目に入らなかった。そして祖父は結界が張られたような入ってはいけない禁断のゾーンに入っていった。アタフタする和尚さん、身内に助けを求めて手をハタハタ口をアワアワとさせている。和尚さんが呼び止めてくれればいいのに。それが繰り広げられたことで身内一同がツボにハマった、「ぶぅぅッッッッ!!!!!」ひとりが吹き出したのをきっかけに全員が吹き出した。もう笑いが止まらない。何分だっただろう、苦しすぎて死ぬかと思うほど笑った。笑ってはいけないと思うほどおかしくてたまらなかった。前に座っていた祖母が1度険しい顔をして振り返り「しっ!」っと身内に呼びかけた。しかしすぐに前を向き直った祖母の肩は誰よりも揺れていた。しっ!とやった祖母が誰よりも笑っている。今度はそのことが可笑しくてしかたなかった。そして相変わらずお焼香を見つけられずに和尚さんの怒りの視線と身内の笑いを浴びた祖父が立ち尽くしていた。もう笑いが止まらない。笑いを止めようと鼻をつまみすぎた従姉妹の末っ子が鼻血を出した。もう最悪だった。

 そこから我々一族は二度と法要に呼ばれなくなった。

 確実に和尚さんは怒っていた。うちの母親は笑ったくらいで怒る和尚なんて修行がなってないんだ。もっとおおらかじゃないと和尚は和尚じゃないとか言っていって大笑いしていた。

 これは一族の黒歴史になると思ったが、楽しかった思い出として扱った身内たちのお陰で何とか笑い話として私も保てている。楽しい人の存在は堅物真面目を救う。

 そんな思い出もあった。


今朝は朝から激鬱状態。

ベッドから起きあがりトイレに行くことも困難な朝、床を這いつくばってトイレまでたどり着いた。

数々の嫌だった思い出がフラッシュバックする。

私の家は当時とても貧乏だった。しかし両親はその様子を子供たちには見せずに欲しいものは与えてもらい必要なものも揃えてもらった。そんな私が初めてお金のなさに不足を感じたことがある。それも私の躁うつ病の発病と関係している。

私は高校在学中かなり勉強を頑張っていた。

普通クラスから特別進学クラスへと昇り詰め上位を死守していた。特別進学クラスとは国公立大学やレベルの高い私大の受験に力を入れているクラスでそのクラスに入ったことを両親はとても喜んでいた。私はイコール進学を応援されていると思い更に勉強を頑張った。私の成績は発達障害の特性が強く出ていた。国語社会、98点。数学0点。

そんな成績だったが文系の大学であればなかなかいい所を狙えたし推薦も貰えることになった。某有名大学。大学に疎い私でも名門であることを知っていた。

「受かるんですか??」「大丈夫、少し背伸びするけど受からない大学じゃないから頑張ろう」先生は励ましてくれた。

しかし問題はこの後だった。

「うちはお金が無いから高卒のつもりだった」「お前は女なんだから大学なんて行かなくたっていい」「どうしても進学するなら県内にしなさい」親からのセリフに頭が真っ白になり言葉を失った。

じゃあどうして特進クラスに進むことを応援してくれたのか、特進クラスに入ったことを喜んでくれたのか。なぜ???そう思ったのに私はその不満を親にぶつけることができなかった。親からの反応が怖かったからだ。

この頃から勉強に力が入らなくなった。

周りが親に応援されながら名門の大学を受けていき自分の力を形にしていく中、私は先生から進めてもらった大学の受験権を破棄した。そして全く希望もしていなかったレベルの低い県内の国公立大学に進学した。特進クラスではない普通クラスの子の方がずっと上のレベルの大学を受験した。

入学の時から全くワクワクしなかったしもう辞めたかった。自分の理想の大学でないとはいえ大学は大学で入学費用も学費もかかる。そのことへの感謝もできずにそんなところにお金をかけるくらいなら就職した方が良かったと思った。一方で進学クラスにいながら就職することにならなくてよかったとも思った。感情が忙しかった。

言葉の少ない親とは誤解ですれ違うことが多かった。

そして大事にされているという実感も薄かった。この大学の件で私はかなり親を恨んだ。

辛かった。

そしてその5年後私はさらに苦しむことになる。私には妹がいる。学力で比較すれば申し訳ないが私の方がレベルが高い。

そして妹にも進学の時期が来た。妹も私と同様かなり勉強していて、教員になるといいそれなりの大学を希望していた、県外四大……妹よ……残念だがお前は進学はできない早く諦めた方が良い。苦しむ前に。と思っていた。

 妹は寡黙だ。そこからしばらく妹の進学状況は聞いていなかった。ある朝突然今日利花ちゃん受験だからと母から告げられた。県外、私大、四大。嘘だ……私は頭が真っ白になった。私の時には全く成立していなかった話が成立している。ばかかばちんどん屋!私は部屋を飛び出した。

 私の受験の時とは状況が変わった珠那実家。父の仕事は軌道に乗り妹の大学進学費用も整っていた。

 しかし私は許せなかった。そして許せない自分に腹が立った。自分と同じ思いをせずに済んだ夢が叶う妹のことを喜ぶことができなかった。なんだそののうのうのした顔と態度は。顔を見る度腹が立った。姉失格である。

 そして私にはもうひとつの夢があった小学校1年生の頃からの夢であったテーマパークダンサーである。小学校一年生からタップダンスをならい、その後ジャズダンス、テーマパークダンスと経験した。その夢は両親に伝えていた。習わせてくれるということは応援してもらえている。そう思っていたが、様々な理由からそれもまた反対された。ここで私は完全に深い闇の中に落ちていった。親からの多分受からないと思うよ。ダンスの先生が言う受かるよ!の台詞とは裏腹に激しい反対を受けた。私にとって大事な事は受かるか受からないかでは無かった。夢に向かってチャレンジした、行動を起こしたということだった。大学もそうだったが私は挑戦させて貰えないという不完全燃焼の闇にもがいていた。もういい。私の人生こんなもん。もしそんな同じ境遇の人がいたら是非チャレンジだけはさせて欲しいと親に頼んで挑戦して欲しい。チャレンジできなかった悔いは時間は解決しない。

 出口の見えない真っ暗闇でもう消えてしまいたいともがき苦しんだ。気がついたらかなり時が経っていたようだ。

 そんなタイミングで私は就職していた。好みでもない学部に進んだということもありここもまた好みでは無い職種だった。楽しくない、私の居場所はここじゃないとずっと思いつつもそんな気持ちに蓋をして私はこの仕事がすきだし向いていると錯覚させながら働いた。そう思わなければ働くことが出来なかった。そしてそこそこなブラック企業だった。お金が欲しい、でも辞めたい。この頃から自分の体重や見た目が極度に気になるようになり始め、毎日体重を測った。そして私は日に日に食べられなくなっていった。

とある人達と「ありがとう」についてディスカッションがあった。

 親にありがとうと言っているか、感謝を持っているか。各々が意見を述べた。毎日朝昼晩食事を作ってもらった際ありがとうと感謝を述べているという青年。こまめに意識して感謝を口にしているという青年。ありがとうとは口にはしないものの常に感謝を感じている男性、感謝の言葉や行動を起こす前に両親がなくなってしまったという男性。

 私は感謝を言うべき時が人より多い。何故ならまず朝起きることができない、洗濯物が干せない、朝ごはんの後片付けができない、掃除ができない、お昼の支度も食事もできない、お金の管理もできない、薬の管理もできない……何もかもできない。

 やってもらうことが多い分感謝は多い。普通、感謝が多いということはとても良い事だと捉える。しかし私の場合はありがとうという言葉を発すると同時に、またできなかったという尾びれがつく。ありがとう……自分でやるべきなのにやらせてしまってこんなこともできない自分。とありがとうの裏側で自分を責めている。ありがとうは人を幸せにすると言うけれど、言われた側はそうかもしれないが、言った側は私と同じように罪悪感という大きな尾びれがついている人もいるかもしれない。

 素直にありがとうと喜べる素直な気持ちもこの病気から奪われてしまった。

 弟夫婦に第2子が授かったと話が入った。

おめでとう!!そう祝いたかったしそう祝うはずだった

しかし私の様子がおかしかった。

私は双極性障害で大量に薬を飲んでいる関係で妊娠できない。妊娠を強く望んでいるつもりはなかった。

しかしわたしは嫉妬していた。

そこで初めて私もどこか片隅で子供を授かりたい、子供を授かる未来や夫を父親にさせてあげたいと思っているということに密かに気づいた。

素直におめでとうと祝えなかった自分の器の小ささと悲しさに飲み込まれそうだった

そして妊娠しないという理由を盾に遊びたいという気持ちが強くある自分もいた。今しか遊べない。遊べるだけ遊び尽くしたかった。しかし体調が悪かった。

 体調がいい日、所謂躁状態の日、私はずっと習いたかったタップダンスやバレエをならいたくなる。問い合わせの電話をしてみようというところまでいくが、自分はどこかで今躁状態だということに気がついているゆえ、電話するに至らない。どこか教室に通いたい気持ちはあるがうつ状態になるとあんなに通いたかった教室が一気に億劫になってしまう。だから習い事は向いていない。

 結果私は小学生の頃からの趣味である天体観測を楽しむことにしている。最も気まぐれでいい趣味だからだ。星を見たい日は見る。鬱の日は見ない。ただそれだけ。

 うつ状態の日は家の中で家庭用プラネタリウムをつけて楽しみ、躁状態の日は外で望遠鏡を覗き写真を撮る。そして時々プラネタリウムや展望台に出かける。

 毎日毎日朝は来て次の日が始まる。やる事があって楽しいことがあって行く場所がある。そんな人にとっての明日は素晴らしくてあっという間で意味のある明日なのだと思う。だけど私は予定も無くただただ体調が悪い日々で寝れたらいいのに寝ることもできずにつまらない思考を働かせながら横になっているだけでその日が終わる。そしてまたその次の日も繰り返しだ。なんのために生きているのか分からない1日1日がとても長くてしんどい。だからといってなにかすることは出来ない。体が鉛のように重たくて思考回路もおかしくてまともに動けやしない。

 精神障害者になった。苦しくて辛い先の見えない精神障害者なら、生まれつき学習にも成長にも障害があるけどニコニコ楽しく過ごしている子の方がずっと良いと思った。羨ましいと思った。

 繊細で何もかも理解していてちょっとした事で傷付く。そんな精神障害者なら何も分からずにこにこできる知的のタイプの障害者の方がずっと幸せだと思った。

 精神疾患があるとその家族や身近な人まで傷つくことになる。身近な人、大切な人が自分を大切にできない姿、いくら大切な存在だと伝えても届かないその虚しさは精神疾患者の身近な人にしか分からない。大切な人にいくら大切だと伝えても伝わらないこのつらさは家族や関係者にしかわからない。家族に負担をかけていて申し訳ない。消えたい。だけど消える方が家族に負担がかかる。どうすることもできない私はやってくる1日1日をただ毎日やり過ごすことしか出来なかった。死んだらいけない。家族が悲しむから。家族に迷惑がかかるから。精神疾患持ちは自分はもちろん辛いが自分が苦しんで生きているという現実で家族を傷つけていることも辛かった

 特に妹は進学したかった姉を知っていながら自分だけ進学したことを何かと思っているだろう。姉を差し置いて進学したことを罪悪感を抱いているとしたら私の死は妹には重いだろう。

 妹とは謎の助け合いをする場面が多々あった。私の父親は怖かった。幼少期の頃から食べ物の好き嫌いは許されず嫌いなものは器に盛られ食べ切れるまで何時間でも見張られる。しかし私はどうしても食べられないものがいくつかあった。魚とレバーだ。妹は好き嫌いはないため怒られない。この好き嫌いで怒られている姉を見ているのがとてつもなく嫌だったようだ。妹と私は横に並んで椅子に座り正面に両親が座っていた。妹は完全に私の好き嫌いを把握していた。食事を始めてしばらく経つと椅子の下から妹がヘイとカモンと手を出して私のレバーを誘うそして、父の目を盗んでレバーを妹の手に。素早くすでで口に運ぶ妹。時に失敗して床が魚まみれになった日もあった。そんな妹のお陰で父上の雷をくらわずにすんだ姉。小さい頃から父親にはビビって過ごした。

 私には推しがいる。その推したちに共通しているのはみんなアホなところだ。アホで何も分からなくてだけど元気が良くて何事も楽しそうでポジティブなところがとっても好きだった。私はいつも頭で考えてしまって楽しむということをつい忘れて笑顔どころではなく眉間に皺を寄せ頭を抱えている。本当に彼らを尊敬している。

 そして祖母や母もその類の人間だ。失敗や怒られること、恥をかくこと。ドジの家系なため沢山見てきた、私ならもう二度とその人とは会えない、その場には行けないと思うほどのトラウマになるレベルのドジをしでかしているのに祖母や母はゲラゲラと笑い転げ、一向に反省している様子は見られない。そのメンタルが欲しかった。

 そしてわたしは終始気まずかったがふたりや身内があまりにも笑うので最終的には一緒に笑ってしまうという結果になる。その事もあってか、幼少期から大人になるまで「胃が痛い」が口癖だった。私もその不真面目さが欲しくて求めていた。

この病気を患った私は私自身のことがいちばん信用出来ないし1番怖い。明日の約束をしてもその明日は体が鉛のように重たくて頭が靄がかったようになり動けずキャンセルする日、感情のコントロールを失って大切なものを手に取ってぶん投げる日、泣き叫ぶ日、自分のコントロールを失い自分を自分として扱えないことが一番の恐怖だった。また大きな声を出したらどうしよう、またものをこわしたらどうしよう。常に怖いのは自分とそれを見た今まで味方でいてくれたであろう人に失望され見放されるのではないかということだった。

そしてもうひとつ辛いのは薬によるものなのか病気の症状によるものなのか分からないが全く頭が働かない点である。まるでモヤがかかったような、頭に霧がかかったというかフィルターでもかかっているかのようなモヤッとしたものがありそれがどうしても取れない。今までは勉強すればそれが身になっていく、自分の頭の中に入っていく感覚がありそれがやり甲斐となり楽しかった。しかし今は違う。何を勉強してもそれが身になっていかない。覚えられない。頭が働かない。楽しむことができなかった。常にぼーっとしていて自分が廃人のように感じられてしまう。夢の中のことなのか現実なのかの判別すら怪しい時もある。

 私はダンスが大好きだった。しかし久々にダンススタジオでダンスをやった際、30分間みっちりダンスを習ったにも関わらず初めの5秒ほどしか振り付けを覚えることができずに終わった。楽しむどころか傷ついて終わってしまった。小学生の頃に大好きだった天体。天文学を勉強するのが大好きでかなり詳しく勉強していた私は得意であり楽しみであると思っていた。しかし当時の記憶は全て忘れて新たに覚えようと思っても全く記憶にはならなかった。ピアノ、ベース。楽器にもチャレンジしたが新しい情報がその霧のフィルターに邪魔されて入っていかない。自分の身になることが好きだった、学ぶことが好きだった私は失望してしまった。楽しみが無くなった。心は見えない臓器なのにその臓器のせいですべての体の機能が落ちて正常に働かなくなる。心というより頭の病気なのだとは思うけれど辛いのは心。本当に不思議な病気だと追う。

 躁鬱花嫁の影と光といいつつ、花嫁エピソードが全く出てきていないことにお気付きだろうか。

 私は21の頃より中学生時代からよく知っているお兄さんである方と交際し24で結婚した。その21の頃には既に病気は発病していたが彼の器は思っている以上に大きかった。いや、鈍かった(?)朝起きれない日、お弁当が作れない日、お帰りなさいと出迎えられない日、妻としてやるべきことができない日が沢山あった。夫はそんなことは気にしなくてもいい好きなように楽なように生きていてといつも言ってくれるが、自分で言うのもなんだが根が真面目な私はそんな私を許せなくてでも出来なくて葛藤の日々だった。

 昼間寝たきりで全く動けなくて辛かった日、夫が今日はどう?調子は元気?と私に聞く。「うん!元気だよ」と力を振り絞って夕飯の支度をする。夫は私の元気な様子を見るととても喜ぶ。幸せな錯覚に真実を付け足す必要はない。時には錯覚している方が幸せなこともある。嘘では無い嘘、嘘だけど嘘では無い。そんな日々を花嫁は生きていた。夫は器が大きい、私は失敗すると過度に落ち込む。しかし夫はいつもそんな私を見て笑っていた。嫌な笑いではなくて暖かい笑い。失敗しても幸せでいられるんだ。その思いが私を安心させた。今まで成功は明るい。失敗はドン底。そんな極端な考え方をしてきた私にとっては大きな経験だった。また夫はADHDや双極性障害って正常じゃないかもしれない、だけどだからといってそれがほかより劣っているとは限らない、他の人が見えない景色がみえたり新しい角度があったり、聞こえない綺麗な音が聞こえたり四季を感じられたり。夫の言葉は短くて特に語るとかはしないけど私にとって新しい何かをくれるそんな存在

 こんな優しく尊敬すべく夫と結婚し新築の家も購入し、何もかも上手くいっているように見える私の幸せを全て奪っていくものは病気だ。

この病気でなかったら幸せすぎる人生なのに。この病気が私に存在する意味は何か。なにがどうなってこの病気に付きまとわれているのか。幸せなはずの日々に幸せを感じたいと常に願う日々を過ごしている。

 病気にかかりながらも、花嫁になれたことが奇跡なのだ。そこが私の陰の中に潜む光だった。

 その幸せと病気の苦しみのちぐはぐがなんとも気持ち悪くて、罪悪感さえ芽生えてアンバランスな人生となっている。病気なんて消えてしまえ。

 話は変わるが、私は母のマインドをとても尊敬しているし母のマインドで生きたいと思っている。

 例をひとつあげる。

 母と私は家の近くの散歩ルートを頻繁に散歩していた。毎回すれ違う男性がいた。「こんにちは」決まって私と母はその男性に挨拶をした。しかしその男性が挨拶を返してくれることはなかった。私はだんだんその男性には挨拶をしなくなった。どうせ挨拶返してくれないから。しかし母は毎回必ずその男性に挨拶をし続けた。私は母に聞いた。「お母さん、あの男の人挨拶絶対返してくれないじゃん、なんでいつも絶対挨拶するの?もうしなくて良くない?」すると母から帰ってきたのは衝撃的な一言だった。

「えぇ?あの男の人挨拶返してないの?知らなかった」

「は?いつもしてないじゃん」

「そうなんだ〜」

「…………」

「別に挨拶いらないし」

「どういうこと?」

「相手が挨拶したかしないかは私たちには関係なくない?」

「返事がないと嫌じゃない?」

「大事なのは私たちが挨拶したかしないかで、相手が返事したかしないかは別に重要では無いよ。挨拶した事実が大事。ほら、自己肯定感ってやつ?私は挨拶したんだからそれでいい」

 私は驚愕した。その世界線で生きたことがなかった。

 私は相手の顔色や反応を見ていつも生きていた。それによってメンタルが左右されていた。だからいつも情緒不安定だった。母の一定のメンタル、揺らがないマインド。羨ましかった。

とある薬を飲み始めてから2週間がたった。自分が病気であることを忘れるくらい体調が心身共に良い。相変わらず食欲は治まらず太ることは諦めなければならなそうではあったが、ここまで心身の調子が良くなるなら多少太ってもいいかなと思った。

 今日はわたしとはちがう疾患だが、精神疾患を患っている方と話をした。食欲が収まらないことが辛い、太ることが辛いと話するとその方は「私も当時そうだったよ。だけど当時はその体重と体にお肉が着いていなければ支えきれないほどの精神状態だったんだよ。そのお肉に守られて体が持っているんだよ」と言われた。たしかにそうかもしれないと思った。そう思ったらかなり思考が軽くなったし体についてくれているお肉に感謝ができるようになった。

 人が苦手な私。だけどこうした人からの新鮮な思考に救われることもあり、人との関わりに前向きになれる事もある。


ある日地元で桜とランタンのイベントがあった。満開の桜の中で願い事を書いたランタンを飛ばすというイベントだった。「いつまでも夫婦仲良くいられますように」「家族みんなが健康でいられますように」そんな願いを書きたかった。しかし私の願い事はただ1つ「早く病気が治りますように」そのことがいつまでも夫婦仲良くいられる秘訣で家族みんなが健康でいられることに繋がるからだ。病気が良くなることしか考えられなかった。

 体にできるポリープや癌、発疹等と違って精神疾患は目に見えない。その分理解もされにくい。世の中の全員に理解されたいとは思わないが少しでも理解が進めばもっと生きやすくなるのにと思う。主にかけられる言葉にある。「やる気の問題だよ」「サボってるんじゃないの」「これだから今の若い世代は」そういう言葉がいちばん傷つくし、直接言われなくてもそういう空気を勝手に感じて傷ついてしまうこともある。

私は夫と祖父母の四人家族で生活している。元々賃貸で生活していた私たち夫婦と祖父母がどうせ家賃を払っているのなら一軒家に家賃分の支払いをして住もうとなった事がきっかけである。また、高齢になってきた祖父母の助けになればと思い同居をこちら夫婦から提案した。その頃まだ病気はここまで酷くなっておらず、祖父母をサポートしようという気持ちでいた。しかし結局私は病気が酷くなり私たち夫婦の食事や洗濯物まで祖父母に負担をかけることになってしまった。こんなはずでは無かった。金銭的にも身体的にも楽をして欲しかったし、孫と楽しく過ごして欲しかった。そんなふうに思っていたのに現実は違った。孫夫婦の家事まで担い疲れ果てた祖母は疲れて昼間ほぼ寝て過ごした。そんな祖母を見ているのが辛くなった。そんなタイミングで私の両親の家が完成した。相談した結果私たち夫婦は祖父母と別居し夫婦で過ごすことになり、祖父母は私の両親がたてた家に住むことになった。祖父母を振り回し負担をかけ申し訳ない気持ちでいっぱいになった。この罪悪感が辛かった。

私の祖母は女子高生のようである。寝ながら寝落ちするまでイヤホンをしてTikTokをみたりYouTubeをたのしんでいる。少し前まで流行っていたきつねダンスとやらも祖父が踊り楽しんでいた。なんでも検索する祖母はタブレットも持っており今どきだ。しかし検索の仕方が「人参しりしり、食べられる方法を教えてください」ととてもお婆さんである。お婆さんなのか若いのか分からない祖母がとても面白い。そしてこの祖母、貰い物のグロスをチークとしてほっぺたに塗っていた。血は争えない。なぜなら私は小学生の頃から中学生までの6年間、百均のスティックのりをリップとして唇に塗っていた。ベタベタだった。なのに気が付かなかった。なぜ。

今までこの病気でかなり苦しみ生きる希望を失ってきた。しかし周囲のサポートやたまに訪れるちっぽけな楽しみのお陰で私は生きている。


私は1人病気となり、私にしか分からない苦しみや寂しさ、恐怖を体験した。いくら慰められてもいくら寄り添われてもこの苦しみは自分にしか分からないとその優しさを受け取らず跳ね除けてきた。

 この病気の苦しみは私にしか分からない。この恐怖は私にだけしか分からない。今もそう思っている。

 しかしこの病気と闘っているのは私だけではなかった。

 孫の、娘の、嫁の、姉の、友の苦しみをわかってあげられない苦しみや虚しさ、どんな言葉も届かない切なさを周りの家族も抱き苦しんでいた。いくら食事を作ってあげても家事を手伝っても、ものを買い与えても、慰めても、笑わせても治らない人間。その人間を前に彼らも一緒に悩み病気と戦い向き合っている。その苦しみという点は病気の戦いと変わらなかった。

 一人ぼっちだと思っていた。だけどみんなで戦っていることに変わりはなかった。そこを忘れてはいけなかった。

 病気の人、苦しい人は、きっと周りの人に、わかったようなこと言わないで。この苦しみは私にしか分からないと思うかもしれない。だけど、この苦しみは私にしか分からないと言われる側にしか分からない苦しみがある。寄り添ってくれた人にそういう思いはさせてはいけないとこの病気になって学んだ。

 その人にしか分からない悩みは誰にでもあるのだ。

 病気を分かろうとしてくれようとする家族、理解しようとしてくれる家族に対し、私がすることは分かってくれようとしてくれたことをわかること、理解しようとしてくれていることを理解することだった。

 そこが私には足りなかった。酷なことをしてしまったと反省をした。

 母は、「史仰はひとりじゃない、家族でみんなでたたかってるじゃん、みんながついてる」いつも言ってくれていたその言葉を跳ね除けてきた自分だった。

 自分で自分を苦しみ追い込んできたことに気が付かなかった。しかし病気が酷くなるといつもそのことをすっかり忘れて自分の殻に閉じこもり苦しむ。この繰り返しだった。

これからはこの光たちを暗闇の中に光る星生きる希望とし、見失いそうな時には望遠鏡を覗いてみる。

そしてできればモヤやフィルターを外したクリアな視界で輝く星を見たい

またこの経験が夜空を照らし包み込む満月のような優しさを持った人として、人の痛みも哀しみも包み込み理解できるような器を持てる人となりたい。

そんなあれこれを繰り返してこの病気と向き合い挫けないように生きていきたい。


双極性障害で苦しむ私の日々を綴っただけの物語です。苦しい描写の中にもクスリと笑えるような思い出話や家族のエピソードも入っています。

今後もこの病気と付き合っていく中で大切なこと、同じ病気と闘っている人、全く違う境遇の人、身近にこの病気を持っている人がいる方の参考になれば幸いです。

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