佳奈の気持ち
蒔田良明先輩はとてもいいひとである。京香の話を聞いている限りでもそれはよく分かっていたのだが、実際に接することによってそれがよく分かった。それに文芸分野にも良く精通している。もしかしたら、彼の30年後は私の好みになっているかもしれない。しかしまだ若いので射程範囲外になるのだった。
もちろんそれだけではなく、京香が彼のことを好きなのだから自分がそこに横恋慕する気は毛頭ないのである。京香は隠しているつもりなのだろうが、じつにバレバレでいっそ気持ちいい位だ。
でも――ひとを、男の人を好きになるとはどんな感覚なのだろう?
私はそれをまだ知らないでいる。確かにフィクションのナイスミドルたちには恋をしているのかもしれないが、それはあくまでフィクションと消費者たる私で完結するものであり、本当の恋とは言えない。では本当の、リアルの恋とはどういうものなのだろうか。私は本当の意味での初恋を経験していない。いささか歪んだ趣味(ファザコンの気はないはずなのだが)であることを差し引いても、これは栄えある女子高校生としていかがなものか、と思わなくもない。かといってそれは無理矢理するものでもない。
もしかしたら、私は色恋に関しては特にナイーヴなのではないかと疑っている。性欲に関しては……その……ノーコメントだが、ひとを好きになることに対して怯えているようなところがあるのではないか、と自己分析している。
かと言ってひとりでも平気、という訳でもない。地味同盟結成前はひとりだったが、孤独は仕方ないとは諦めても、平然としているのではなかった。ひとりも嫌、友達沢山も嫌、という非常にワガママな私だったのだ。無理をしていたとも言う。
その意味で、渋々認めざるを得ないが、地味同盟はそんな私に丁度いい友達付き合いを提供してくれたのだった。それが紀子の策略、計算通りだったのかは分からない。何せ勢いで生きているちゃらんぽらん女だ。私を巻き込んだのもたまたまなのではないかと思っている。それだけ地味だったのもあるが。
しかしまだ怖さもある。元々の性格のちゃらんぽらんさは紀子にも負けていない。そもそも何故私が孤独の隘路に詰まっていったのかを考えなければならない。浮かれて調子に乗って、阿呆で、それで周囲を呆れさせてしまったのだ。空気を読むのが苦手、とも言う。しかしそこで開き直れるほどの図太さもなかった。
今回文芸部を見学するに当たって、その、お調子者の自分が再びちらりと顔を覗かせてしまった。思い付いてしまったのだ。京香が不憫だったのもある。しかしそれは言い訳に過ぎない。かあっと顔を赤くする京香を見て満足しながらも、同時になんでこんなことをしてしまったのだろうと自己嫌悪もしたのである。
「楽しんでいるかしら?」
と、また自分の世界に入り込んでいる所に、不意に星崎先生が話し掛けてきた。その所作はとても柔らかく、声も優しい。私は慌ててぶんぶんと首を縦に振った。
「楽しいです! 楽しいです!」
「ふふ、橘さんも一学期の時に比べて大分明るくなったわね」
「……気を遣わせてしまって申し訳ありません」
「いいのよ。生徒の心を健やかに育てるのも教師の仕事のひとつなんだから」
星崎先生は理想の女教師である。言うまでもないがファンも多い。理知的で鋭い容貌をしているから、マゾの気がある男子にとってはたまらないらしい。彼女がSとは思えないが。そういう訳でファンは大多数。女子にも沢山いる。かく言う私もそのひとりだ。尊敬しているし、同時に嫉妬もしている。女の理想形のひとつだと思う。恋人がいない訳ないのだが、さすがに教師のプライベートにまでは踏み込めない。
しかし京香にはヘンな思い込みがあるようだ。蒔田先輩と星崎先生が付き合うのではないか。それがお似合いだと思っている。私の見立てでは、蒔田先輩は星崎先生を好きなのだろうが、それは恋愛感情ではなく、親しいのは親しいけれども、それは家族のような親愛であるように推察された。
「ねえ、橘さんも創作してみない?」
「はい?」
出し抜けにそう言われたので、私はひどく間抜けな声を出してしまった。恥ずかしい。しかしなぜ彼女はそんなことを言うのだろうか。だれかれ構わず「書いてみない?」などと聞いて回っているのなら、それは間違いなく変態である。しかしそうではないのだろう。私が抱えているモヤモヤを見抜いて、星崎先生はそう言っているのだろう。
しかし――私は自分の葛藤を創作に昇華するとか、そんなことは考えもしなかった。あくまで自分は消費する側で、作り手に回るなどとは毛ほども思わなかった。自分にそういう才能がないのはよく分かっている。
「佐倉さんも仲間が欲しいって思っているわ」
「いや、創作仲間とかは別に求めていません」
「無理しなくていいのよ。仲間は多いほうが良いに決まっているんだから」
別に無理なんか……と素っ気ない京香である。彼女にしてみればそういうものなのだろう。こと創作、小説とか詩とかに関しては、彼女は孤高を貫いている。ちなみに彼女の作品を読んだ事はない。ちょっとは興味あるが、京香が見せたくないのであれば、そこは無理強いできない。
作品を見せられるのは信頼しているひとだけなのだろう。蒔田先輩と星崎先生がそれに当たる。そこには迂闊には入り込めない空気があった。
しかし「創作してみない?」と煽られると――もしかしたら、やってもいいかもと思ってしまう。やはり私の本質はお調子者なのである。凸凹な私が創った作品は、きっと凸凹になるに決まっている。美術の授業で描いた絵画もなんだかへんてこだった。スマートになれない呪いが私には掛かっていて、それは一生解呪できない代物なのだった。
いずれにしても、もし万が一私がおかしくなって創作活動を始めたとしても。それはこの文芸部とは違うところで、となるであろう。星崎先生は部活動が活発になることをの損でいるのかもしれないが。それは顧問としては立派な姿なのだろう。しかし私はこの文芸部の中心が蒔田先輩を中心にして、そこからの拡がりをそこまで求めてはいないのを分かっていた。言い換えるならば、この世界、この宇宙は京香、蒔田先輩、星崎先生の3人で強固に形作られていて、それで完成している。異分子が入る隙間はないし、もし入ってしまえばそれが崩壊することにもなりかねない。
私はお邪魔虫になるつもりは毛頭なかった。
「大丈夫です。あたしはあたしの道を貫きますから。それは京香も分かっているはずです」
しかしまあ、この返答は我ながら非常におかしい。どうにも最近、調子が狂っているような気がする。ついて出てくる言葉がなんだかヘンなものになってしまう。頭の中で考えていたものが、口と言う変声器を通すと、なんだかヘンテコなものになってしまう。だがさらに、ここが最もおかしいところなのだが、私はそのヘンテコさをことのほか楽しんでいるのである。少なくとも悪い気はしていない。どういうことか。ああもう。
「まぁ、これから佳奈が入ってきたらなんだかヘンになりそうですし」
「カナちんが入部するなら私も入るぜ!」
「やめろ」
京香はいつになく強い口調で言った。
「そうしたら文芸部が地味同盟に乗っ取られるのと同じじゃない」
「あんたがいる時点で、文芸部は地味同盟支部みたいなもんさ」
「ふざけんな!」
別に紀子も本気で言っているのではないのだろうし、京香も本気で怒っているのではないだろう。しかし私は別のことを考えてもいた。確かにこの今の文芸部は3人の、狭いながらも強靭で豊穣な世界が成り立っている。しかし来年には蒔田先輩は卒業してしまう。となると部員は京香ひとり。私はこの部室でひとりっきりになって原稿用紙に向かっている京香を想像してしまった。かといってそこに私が入るイメージも湧かない。紀子はもっとあり得ない。
そこには、出兵した夫の帰りを待って家を守る妻のような感じがあった。そして夫は帰らぬ人となって、それでも後生貞操を守り続け……
「それはいかん! いかんぞキョーカ!」
私はなにを口走っているのだろう。
「なにがいかんのよ、カナちん」
「え!? あ、いや、あのその」
「あんたがなに考えてるかは、まあ、なんとなく分かるけど、私はそんなんじゃないからね」
「おお、キョーカとカナちんで素晴らしい世界が出来上がっておる」
「すばらしいっすかぁ?」
なんだか訳の分からない状況になってしまった。この出鱈目ぶりが地味同盟と言えば、確かにそうなのかもしれないが、なんとなく釈然としないものは残る。
そんなおばかな私たちを、蒔田先輩と星崎先生は優しく見守っている、ような気がする。果たしてこれでいいのか。
「俺も卒業後の文芸部をきみたちが守ってくれたらいいと思うんだけどね……でも無理強いは出来ないか」
「いいんです。私はこれでいいんです」
「でも現実的な問題もあるのよ」
そう。蒔田先輩が去って、部員が京香ひとりになると廃部の危険性がある。聞くところによれば、こんな小規模の部活動が承認されていたのは蒔田先輩が学年最上位に入るほどの優等生だったからお目こぼしされていたらしい。
「でもだから無理矢理こいつらを入れたって仕方ないじゃないですか。それなら廃部のほうがまだいいです」
「そんな淋しいことを言わないで」
星崎先生は本当に淋しそうである。しかし京香の言い分もごもっとも。私たちが入部して文芸部が地味同盟部になってしまえば、それはなんだかしっちゃかめっちゃかというか、本末転倒である。
「創作活動はひとりでもできますし」
「どうしたらいいのかしら……」
「まぁ、来年になったら1年生も入ってくるから、入部希望者もいるんじゃないかな」
蒔田先輩は飄々としている。お気楽とも言える。そして京香はいつまでも冷静。このふたりがくっつけば、それはさぞかし素敵なカップルになるだろう。間違いない。だから私は応援する。そこに嫉妬はない。この世に幸せなひとが増えれば、それはとてもいい。その中に京香が入っているのなら――私はそれを願ってやまない。




