心の扉
学校の屋上が基本的に閉鎖になったのはいつの頃なのだろうか。どこかで飛び降り自殺が問題になって、大体の学校ではそうなっている。しかし抜け目のない、悪い生徒はそれを破って、どこか通り抜けられる場所を探して入り込むのである。私もその恩恵に授かった。そういう訳で、私もなにか塞ぎこむことがあればよくここに来ている。ということはかなり頻繁となる。
自殺を考えるほど陰鬱にはなっていない。今回はあの意地悪な女子グループに対する錨もあったのだから、若干前向きではある。しかしいつも、どうしてこうなんだろうと自分を責めてしまう。逃げてしまう自分に。ちゃんと自分と向き合っていないような気がする。
すっとフェンス越しの屋上端に寄ると、下ではこの寒空の中でも部活をやっている生徒が一杯だった。ここにいるとその声や走る音、野球部の金属バットで打たれた球、ぱこぉんと甲高い音を響かせるテニス部がよく目立っている。これぞ青春、といった感じで、それが私には無縁だと気付くと、また嫌な気持ちになってしまう。
かつては普通に生徒も屋上に昇れた証がある。学校の外側に沿うようにして並んでいる木のベンチである。点くことのない電灯もある。その寂れた感じが自分の陰鬱に合っているようで、自虐的な快感すら得られる。それを求めて来ているところもあるのだ。
しかし私が陰鬱になっているのはそれだけではなかった。むしろこちらのほうが大きいのかもしれない。ここ最近、すこし気分が晴れる時間も多くなって、それが少々気持ち悪くもあったけれど、前向きに行こうとはしていたのだ。地味同盟のことも鷹揚に受け入れられるような気もしていたのだ。しかしこういうことでリセットされる。
比較しても仕方ない、とは分かっている。しかしここで、逃げた私と立ち向かったの紀子の差が気になってしまい、劣等感が生まれてしまう。同じ地味女でも気の持ちようははるかに違う。そもそも彼女を地味と言っていいのだろうかという疑問もあった。その性格はとても明るく、ひとを引き付けるものだ(だからこそ私も地味同盟に籍を置いているのだが)。性格は地味ではない――私とは違って。
「はぁ……」
独りになると余計気が沈むのは分かっている。しかしどうしようもない。もしかしたら私はそれをこそ望んでいるのかもしれない。自分を罰したいのかもしれない。どうしようもなくマゾヒスティックな気持ちになるが、愉快とはほど遠い。
どうしてなんだろう。このままずっと影の女のまま一生を過ごすのだろうか。以前ならそれを運命として仕方ないとしていた。だがあの――その、明るい紀子と交流することによってなにかそこから抜け出せるような光明を見出したような気がした。でも今日のようなことがあるとそれが錯覚だと悟り、その落差に突き落とされる。その繰り返し。
「あたし、不安定になってるな……」
あまりよくない。中途半端に希望があるからむしろひとは惑うのである。「この門をくぐるもの、一切の希望を捨てよ」――地獄の門にある文言はむしろ優しさなのではないか、と思ってしまうのが私だ。
頭の中には黒い靄が掛かっている。それは決して晴れない。一生こうなんだろうと思う。いつか大人になって、自分自身を受け入れられるようになっても、それは付き纏っているような気がする。なにも知らなかった、明るく無邪気な子供時代にはもう永遠に戻れない。淋しいことだが、仕方ない。
「あうう……」
ああ、駄目だ。ああいうことがきっかけになって、私の中に住んでいる黒い獣が蠢く。その獣は決して襲ってくる訳ではない。しかしその凶器的な瞳で私を睨み続け、怯ませ続ける。こいつには絶対に勝てない――しかし見たのも久し振りのような気がする。
西日も落ちてきて夜がやって来ようとしている。12月の午後は長い夜の時間。日照時間が短いのが、また。
帰るべき時間なのは分かっていた。しかし私はどうにも帰る踏ん切りが付かなかった。戻ると負けのような気がしたのだ。どういう基準の勝ち負けかどうかは分からないし、そもそもここにいるだけで負けのような気もするが、そこは気付かない振りをした。
でも失踪したままだとみんなに迷惑を掛けるかもしれない。お母さんやお父さんは怒ったり悲しんだりするんだろうか。別に家出なんか考えていないけれど。
で、それでまた鬱になる。まさに負のスパイラル。
「どうしてあたしって女なのかなぁ……」
偏見かもしれないが、こうやってなにか助けを待っているような感じがどうしようもなく女々しい。男に生まれていれば、こんなことに悩む必要もなかったのではないか、などと想像してしまうのである。
「はぁ……」
「あんまりため息つくなよ。幸せが逃げちまうぜ」
まったく不意に声を掛けられたので私ははっとしてそちらに向いた。あまりに自分の殻に籠りすぎて、彼女の接近に気付いていなかったのである。なんたる不覚。
「紀子……」
彼女だった。どうしてここを嗅ぎ付けたのか。いや、それは誰でも分かる話か。私の浅知恵くらい、すっぱりと見抜くなど彼女にとっては造作もあるまい。
「やっぱりここにいたんだね。まあ屋上はいいよね。気分が晴れるから」
「あたしはあんまり晴れない……晴れたくて来てるんじゃないし」
「じゃあなんでさ」
「独りになりたいだけ」
私はベンチに座っていたが、紀子はまったく遠慮せずにその隣に座って来た。そしてスカートが伸びるのも構わずに股を開けてどっかとし、おまけに私の肩に腕を回してきた。
「あいつらのことは気にすんな。あんたは何も悪くないって。もちろん私もね」
「それは……分かってる、分かってるけど!」
感情のブレが大きくなっているのに気付いた。こここのタイミングで紀子が現れ、思ったよりも激しく揺さぶられている。目の奥に熱いものが込み上げてくる。どうしようもない。どうしようもない。
「それでもっ! あたしはこうするしかないの! 紀子のようには振る舞えないッ!」
感情が爆発する――止められない。止めたいのに止められない。こんなみっともない姿を誰にも見られたくない。しかも、それを見ているのが紀子だなんて!
どんどんぐずぐずになってくる。鼻水も出てみっともないことこの上ない。誰にも見せたくなかった私の恥部をいま晒している。
しかしその時、確かに――陰鬱ではなかったのだ。
「なんぼでも泣くがいいさ。涙が涸れるまで付き合ってやんよ」
それから紀子は続けた。
「そんで、泣き終わったら空に目を向けな。いいお月さんが出てるぜ。オリオン座も見えてる。冬だねぇ」
「あぅぅぅ……」
「ほれ、胸を貸してやるよ」
あまりの男前っぷりに私は――完全に陥落してしまった。
「うわああああああああああんんんッッッ!」
「よしよし。お前はいい子だ。それは誰にも否定させないよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「なぁにも謝る必要はないさ」
この時、浦部紀子は私の心の中で完全に不動の、神棚のようなところに収まったのである。きっとこれは一生変わらないという確信があった。
で、涙が涸れた訳ではない――きっとこれからも泣く時があるだろう――が、気持ちが落ち着いたあと、彼女の言う通りに夜空を、月を眺めていた。
一点の曇りもない程の清々しさ、とまでは行かなかったが、やや爽やかではあった。
「でも、私はあの場面で堂々とは振る舞えないよ。そうできる紀子が羨ましい」
「あんたがそれを出来なくたっていいのさ。あんたにはあんたのいいところがある。そうやってお互いの足りないところを補うのが友情ってもんだぜ」
「そんなベタなことを」
私はおかしくなって笑ってしまった。憂鬱は過ぎ去っていた。そしてまた光明が見えてきたような気がした。
しかし。
「で、あたしのいいところって、具体的にはどこ?」
しかし、紀子は腕を組んで、
「さあ、それはよく分からんなぁ」
と言った。
肝心なところで締まらないのが、なんとも地味同盟らしい。




