時は過ぎゆく――残りわずかな時間で
「もうすぐ期末テストね。勉強ちゃんとしてる?」
彩乃先生はクラスの副担任、そして文芸部の顧問ということもあって、学校では一番距離の近い先生だった。しかしそれもなんだかおかしく、そういう距離になってからじつは1年も経っていない。にもかかわらず私は長年彩乃先生に見守られ、育ってきたように感じてしまうのだった。
「古文は完璧ですよ」
「あらあら。私に気を遣っても仕方ないわよ」
じつはあんまりテスト勉強はしていない。それに罪悪感がなくもないけれど、彩乃先生はそれを見抜いているような気がする。もっとも私はそもそもがつがつと点数を追い求めるタイプじゃない。優等生に思われるのも、あまり好きじゃない。しかし周りにはそう見えるらしい。地味だからだろうか。実際の所は全然違うのに、中学生の頃辺りから私は一方的にがり勉優等生に見られることが多い。見た目の印象はそれだけ重要で、怖い。
「それにしても蒔田先輩、遅いですね」
「そうねぇ。でも京香さんとふたりでいる時間はそんなに多くないから、こういうのも結構いいかもしれないわね」
そう言って彩乃先生はにっこりと笑う。本当に出来過ぎたくらいの美人で、おまけに性格も素晴らしくて、非の打ちどころのない完璧超人。このひとが裏に隠しているいやらしい部分とかはないのだろうか、と疑ったりするくらい、どこまでも素敵、素敵すぎて嫉妬にも憧れにもならない。異星人のようですらある。
「ちょっと眩しいわね。カーテン閉めるね」
日差しのきつい西日を嫌って、彩乃先生はさっと白いカーテンを窓に掛けた。代わりに明りを点ける。しかしなんだかそれが物寂しいような気がするのは何故なのか。
「うーん」
さっきから蒔田先輩に呼んでもらうための掌編小説を書こうとして原稿用紙とにらめっこをしているのだけれど、今日はあまりいい言葉が降ってこない。雑念が頭を支配しているような感じ。でもその雑念も詳しく言語化はできず、なんだかもどかしい。
「うーん、うーん、うーん」
「便秘?」
そう言って彩乃先生はくすくす笑う。そういった下品な冗談も彼女が言うと洒脱に思えるから不思議だ。なんというか、パーソナリティが根本的に違うような気がする。その辺りも異星人的だ。
「お尻じゃなくて頭が便秘気味ですね」
「あらあら、それはよくないわ」
それまでは向かいに座っていた彩乃先生が立ち上がり、私の真横に座り直した。しかしそんな重圧を掛けられると書けないものがもっと書けなくなる。なんだか頭の前あたりが重くなってしまう。
「でも小説は書けない時は書けないものじゃない? 私は書いたことないから分からないけど」
「小説なんて誰にでも書けますよ。そうだ、星崎先生も一度書いてみたらどうです? 私、先生の書いた小説……まあ詩とかでもいいですけど、一度読んでみたいです」
「ううん、私もね、文芸部の顧問やるからにはそういうことも出来なきゃなってチャレンジしてみたことはあるのよ。でもダメ。なにか書こうとすると頭がばらばらになっちゃうの」
「意外ですね。先生はなんでも出来そうなのに」
「こう見えて……っていうのもおかしいけれど、私って不器用なの」
まあ、小説なんてものはなにか鬱屈したものを抱える奴にしか書けないものなのかもしれない。なにもかもが優雅で完璧な彩乃先生が書けない、というのも分からない話ではない。それは蒔田先輩にも言える。彼も小説は書いてみたけど無理だと言った。
「京香さんは知り合いの書いた小説を読んでみたいと思うの?」
「ちょっと興味はありますね。為人を知ってるひとの創作がどうなのか、それは」
「じゃあ浦部さんとか橘さんとか……地味同盟、って言っているの? そういった友達と創作し合いっこしてみたら?」
その着想自体は私にもあった――特に佳奈あたりはとんでもない作品を書いてしまうのではないかという身勝手な期待がなくもない。
しかし彼女たちは拒否するだろう。そして小説とは強制して書かせるものじゃない。
「どうせなら、あの子たちも文芸部に入ればいいのに。楽しいと思わない?」
「嫌ですよ」
「なんで嫌なの?」
「……なんでだろう」
これもまたいまいち言語化できない。私がこの空間を、秘密の隠れ家としているから? ――そんな馬鹿な。しかし彩乃先生と蒔田先輩との3人だけの空間が居心地いいのは確かだった。私は賑やかしいのはそんなに得意ではないし、こういった静かな空間だからこそ、長続きしているとも思える。
そうこうしている内に、がらりと控えめに部室の扉が開いた。蒔田先輩だった。彼はいつものように飄々としたにこやかな顔をしていた。
前々から思っていたけれど、蒔田先輩と彩乃先生は少し似ているような気がする、顔立ちもそうだし、性格もそうだし、なにより纏っている雰囲気というのか、そういうものが同質であるような気がするのだ。それゆえこの部室は柔らかく、そして温かい。
地味魂を持っている私が居座っていいものなのか、と時折不安になる位に。
「遅れてごめんね」
「いえ、いいんですよ」
「良明くん、なにかあったの?」
そんな大したことじゃないんですが、と言って蒔田先輩は苦笑した。
「俺は数学が苦手だから、その辺りで相談に乗って貰ってたんです」
「国立大を目指すんですものね。受験生はたいへんだぁ。私は理系は捨てて私大に走ったからそこらへんの苦労は分からないわ。ごめんね」
蒔田先輩と彩乃先生が仲良くしているとなんだか気分が落ち込んでくる。前にはなかったことだった。嫉妬とか、そういう感情とはまた違うような気もする。分からないことばかりが増えていって、すこし気持ち悪い。
「すみません、今日は全然書けないんです」
「そんな日もあるさ。いいよいいよ。そういう時は『溜め』の時間だと思うといい」
私が書けない日は、読書の回になる。しかし最近は目ぼしい新刊も出ていないし、文芸誌の発売日もまだ先だった。要するに話題もすることもない。となるとどうでもいい雑談になってしまう。私はそれでもいいのだけれど、果たして蒔田先輩が私なんかと話していて楽しいのだろうかという疑問は常にある。
まあ、おおむね変わらない文芸部の光景。
しかし今日はそれがなんとも愛おしく、そして切なく感じられる。何故だろうか。冬だからだろうか。しかし私は冬にセンチになる性格でもない。
すこしだけその理由について考えてみた――そしてその答えはあっけないほど簡単に見つかった。馬鹿馬鹿しくも、重大な事実。来年になれば蒔田先輩は卒業する。ここで彼と過ごせる時間はもう3ヶ月も残っていないのだ。ここに至り、私は紀子が言っていたことを軽く切り捨ててしまったのを後悔し始めた。ああ、なんとも愚かしいことに、奴の言っている話は正しい。
そういう気持ちになって見て見ると、この部屋が余計光り輝いているように見えて、ますます手放したくなくなり、しかしどうしようもない。彼のことも。
だから考えないようにしよう、と思った。雑念が増えるのは好みじゃない。もっと、すっと集中していられる時間のほうが好みだ。簡単に言えば、小説に没入できる時間こそが私にとっての至高。
そのはずなのに、踏み込んできたのは蒔田先輩からなのだった。
「こうして佐倉さんと文芸部で一緒に過ごせるのもあとわずかだね」
そんな言われ方をすると、どうしても意識してしまう。終わりが近付いている――そしてそれは終わらせていいものなのか、と。
私は彼のことが好きなのだろうか。まずはその根本的なところから向き合わなければいけないはずなのだけれど、それができない。男子とはまるで縁のなかったこれまでの17年間の人生。小説では一丁前に恋愛を書いているけど、実際には恋なんてしたことない。あるいはこれが初めてなのだろうか。いやいや、そう決まった訳じゃない。でも蒔田先輩は魅力的なひとだと思う。でもそれが即ち恋に繋がるかというと、それはまた別問題。そのはず。そのはず。
好きじゃなくても彼氏を作ることは出来るかもしれない。この世の彼氏彼女、夫婦の全てがアツい感情を持っているとは限らない。パートナーがいないと一人前じゃない、という見栄で繋がっているだけに過ぎないのかもしれないのだ。だから私も深く考えずに恋人くらい作ったっていい。
でも、その気持ちが本物で、本物故に重すぎたら。
そして本当に本物なのなら。
地味同盟の中で、ふたりを出し抜いてそんな破廉恥な真似ができるのか、という問題もある。あのふたりなら――きっと祝福してくれるとは思う。しかし、それに甘えていいものなのかどうか。
恋とは。
ただひとつ言えるのは、私は蒔田先輩を、良明先輩を見ていると胸がどきどきする。それだけ。でもそれはなんの確証にもならない。ひとを好きになるとは……
「別に、今生の別れになるという訳でもないですし」
「そうだね。俺は卒業してからもきみとのつながりは捨てたくないな」
私は卑しいことを考えてしまった――彼のほうから告白してくれればこんなに悩まずに済むのにな、と。傲慢に過ぎる。彼のほうが私を好きかどうかなんて、まるで分からないのに。
そうやって雑念が膨れ上がったまま、その日を過ごし、それはさらに膨張していくのだった。私の中で、止められないほどに。しかしそれが爆発してしまった時、私はどうなるのだろう。まったく分からない。




