先輩以上恋人未満
そりゃまあ、体育祭は気乗りしない行事ではあるけれども、そこまで毛嫌いしなくてもいいんじゃない? と内心では思っていた。ともすればルーチンワークで退屈になってしまうかもしれない学校生活のなかで、そういった非日常はひとときの気休めにもなるものだ。こういうときは目立たずやり過ごし、その空気だけを味わっていればいい。
というのが佐倉京香としての見解だった。けれどそれはあえて言わなかった。自分の思いを他人に強制するのは私の流儀には合わない。
とはいえ、一応参加するのだからそれなりに運動を増やすべきなのかなとも思った。もっとも過激な運動はしない。ほんのちょっとだけ筋トレをしてみたり、階段を多く昇ってみたり、乗るバス停の場所をちょっと遠くしてみたりとか、その程度の努力だった。付け焼刃ではあるだろうけれど、なにもしないよりかはマシだと思う。
ということを佳奈に言うと、彼女は、
「京香は真面目ね……」
とどこか羨むような声で言ったのだった。彼女を凹ませる気は毛頭なかったのだが。しかし真面目なのは自覚している。それ位しか長所がないとも言える。
「あたしもなんかしようかな」
「別に真似しなくてもいいんだよ」
ひところに比べて、私と佳奈の距離はだいぶん縮まったような気がする。中庭の件があったからだろうか。心を開き始めているのはいい兆候で、それは紀子も喜んでいるはずだ。しかしそれはまだ道半ばでもある。
「いや、やるよ」
なぜかぎらっとした瞳でこちらを見やり、宣言する佳奈。紀子はこの子の本質をアホだと言っていて、それが地味同盟に加えた最大の理由とも言うのだが、もしかしたらその見立てはあながち間違っていないのかもしれない。その上で前向きになりつつある。彼女は――果たして本来の姿を取り戻すことができるのだろうか?
そんな話をしている内に、遅れて味噌ラーメンを啜り終わった紀子が追い付いてきた。
「私ぁそんな話には乗らんよ」
「別にあんたに乗ってもらう期待はしていなかったけどね」
「運動神経ってのは才能なんだ。私ぁそれに恵まれなかった自分を快く受け入れるだけだね。あんたらもそうっしょ。無駄なあがきだと思うんだけどねぇ」
「別にいい成績を取りたいとか、そういう下心はないよ」
「あんまり真面目なのも息がつまるぜ」
私はそんなことを言う紀子を、ふんと鼻で笑った。
「おあいにく様。私はこういうやり方が性に合ってるのよ」
「いや、心配してるのはカナちんのほうだよ」
それはごもっとも。佳奈が無理をしていないかどうかだけはチェックしておかねばならない。体育祭まではそれがメインの仕事になるだろう。
◇
それとは別の日になる。金曜日。日曜日が体育祭当日なので学校はすでに準備シークエンスに入っている。前日にはリハーサルがあって、土曜日も学校に来なければならない。当日は父兄参観もあるけれど、あいにく私の親は都合が合わず来れない。まぁ私の惨めな姿を見られなくてもいい、とここはポジティヴに考えている。
で、昼休憩なのだがこの時紀子と佳奈はその体育祭の準備に狩り出されている。ちなみに私は昨日手伝った。大した仕事じゃないけど。しかしそのせいで地味同盟は一時的に分断されてしまった。
そういう訳なので、私はひとり侘しく学食で炒飯を食べていた。よくよく考えてみれば、学校のお昼時で彼女たちと一緒じゃないのも大分久し振りになっていた。淋しい、と思う感覚があったのが、私自身意外だった。ちょっとではあるけど。ひとりを苦にしないタイプだと思っていたのだが、彼女たちに対しては愛着が生まれ始めているようだ。
「なんか、退屈だなぁ……」
炒飯に手を付ける気に中々なれず、私はずっとボンヤリしていた。そういう時はぽこっと小説のアイディアが生まれることもあって、それはそれで刺激的なのだけど、今日に関してはそういう天啓も降りてこなかった。頭があまり回っていないような気がする。
それがいけなかったのだろう。
「やぁ、ステキにぼーっとしてるね」
気が付いた時、テーブルの向かいには蒔田先輩が座っていたのだった。
「はうっ?」
もうすこし注意していればそれは分かっただろうし、気持ちの整理も付いていただろう。しかしそれはひとえに私の不注意によって、完全な不意打ちになってしまい、そんな間抜けな声を出していたのだった。
「な、な、え、座るなら座るってちゃんと言ってくださいよ! 情けないじゃないですか!」
「ゴメンゴメン。佐倉くんがあんまりのんきな顔をしていたから、つい掛けそびれてしまった」
そんな顔はあんまり見たことなかったから、ちょっと眺め続けていたかったのさ、とまで言われた時、私の顔は火照っていた。赤い顔は分かり易い、とよく言われるから(そんな状況には滅多にならないけれど)、この時もそうなっていただろう。
「ヘンなこと言わないで下さい!」
「そんなにヘンかなぁ」
私が珍しく、ここまで狼狽していたのには理由がある。というのは、蒔田先輩とは部室以外ではまず会わないからだった。会いに行ったこともないし、向こうから来たことも、今まではなかった。廊下ですれ違う時はたまにあったけれど、そういう時もはっきり挨拶はせず、控えめに会釈するだけだった。
私は、蒔田先輩は先輩なのだから、その枠を超えて親しくするべきじゃないと思っていた。それは私が決めた規律だった。彼と親しく話せるのは文芸部の中だけ。それを学校生活全体に拡張すべきではなかった。向こうもあえて迫ってきたりはしてこなかったから、てっきり同じ思いなのだとばかりと決め込んでいた。
それがこの状況。なぜ。
しかしこうなってしまった以上はつっけんどんにも出来ない。距離を取るべき先輩だけど、無下にしていい先輩でもないからだ。だから私はあえて先輩が寄ってきたのかは訊かないようにした。
「落ち着いたかい?」
彼はニコニコしている。物腰柔らかな態度は大物感をそこはかとなく見せているのだが、いっぽうで「ステルス蒔田」なのは、ちょっと解せない。
「ええ……落ち着きました。取り乱してすみません」
「いいんだよ。それよりご飯食べないの? 冷めてしまうよ」
「え、ああ……そうですね」
どきどきしていた。私にはあるまじき落ち着きのなさだった。それがどういう訳なのか考えてみた――お昼ご飯は日常。そして蒔田先輩も日常。だがいっぽうの日常にもうひとつの日常が侵入することによって、そこには非日常が生まれていたのだった。そうだと思う。そして文芸部以外で見る蒔田先輩はなんだか凛々しくて――ああ、いやいや。
彼はカレーを持っていて、いまだぼうっとしている私を置いて、スマートに食べ始めた。流水の如く淀みがない。それでいて嫌味でもない。洗練されている、というのはこれを言うのだ。私はそれに憧れて目標にしているのだけれど、今のところ遠く及ばないでいている。まぁ男と女の差もあるんだろうけど。
それを追い掛けるようにして私は炒飯を食べ始めた。そしてすぐに後悔した。たまには別の物を食べようと思って頼んだのだ。しかしこの炒飯は中華の香りは全然せず、ただしょっぱからいだけだった。
「炒飯はウチの学食の三大クソマズメニューに入っているんだよ。知らなかったの?」
「知りませんでした……ちなみにあとのふたつは?」
「ハンバーグ定食と親子丼だね」
「そんな定番メニューをマズくできるなんて、やっぱりこの学食は駄目ですね」
「でも安いからなぁ。それに学食で食べる、っていう特別感はやっぱりあるよ」
すっかり気分が落ち込んでしまったが、頼んでしまったものは仕方ないから、これも乗り越えるべき試練だと思って食べ続けた。
その間は会話はなかった。元々私も彼もお喋りな方ではない。すくなくとも食事の最中にぺちゃくちゃ喋るような不躾さはなかった。
そういう訳で食事自体はすぐに終わった。蒔田先輩も食べ終わっている。そして昼休憩の時間はまたっぷり残っていた。それがまずかった。
私から先に席を立つなんてできない。しかるに蒔田先輩は動こうとしない。となると私は縛られたままになる。念の為に行っておくけれど、いやらしい意味ではない。
こうなってしまうと会話が存在しないのが気まずくなってくる。彼が柔らかい顔をしているからなおさらだ。なにか喋らなきゃ、喋らなきゃ、と焦り、この時期に合わせた、つまらない話を始めた。
「明後日はもう体育祭ですね」
「俺にとっては最後の体育祭だね」
最後、という言葉に、いずれ来る別れを予感してすこし沈んだが、気にしないようにした。
「先輩はどの競技に出るんですか?」
「走り高跳び。そんなに激しく動かなくていいからね」
「運動は好きじゃないんですか?」
「好き好んで文芸部を創設するような男が、運動得意だと思うかい?」
そりゃあ……と言って、それから私は言葉を失った。まったくの事実だったからだ。
「高校3年間で――体育祭と球技大会は最後まで好きになれなかったな」
遠い目をする彼。彼は彼でそれを淋しく思っているんだろうか。そして来年、私も同じような思いをするんだろうか。1年後なんか想像もできない。
「卒業すれば、きみとも先輩後輩ってことにはならなくなるんだね」
「そんなことないです。たとえ離れたとしても、私にとって蒔田先輩は先輩です」
「そうか……先輩か……」
蒔田先輩はなにか含みのあるような言い方をして、たまに見せる憂い気で色気のある顔を見せて、しかしそれは一瞬だけですぐにいつもの柔和な顔に戻った。
「そう言ってくれるのなら、俺は嬉しいよ」
蒔田先輩の進路は明確に決まっている。同じ市内の国立大だ。学校トップ3に入る成績を誇る彼は、きっと受かるだろう。大して頭の良くない私は追い掛けられないだろう。だからこそいつまでも先輩、と言ったのである。
――というところで私はふと思った。
私は彼を追い掛けたいんだろうか?
その答えが出る前に、蒔田先輩は皿を持って立ち上がった。
「拘束してすまなかったね。じゃあ、また部活で会おうね」
「は、はい……」
そうして去って行く。その仕草も淀みなく、嫌味もない。
残された私はどうしていいか分からなかった。ここに居続ける理由はなくなってしまった。だけれどすぐに動くのもなんだか勿体ないような気がしたのだ。この時間の余韻をもうすこし味わっていたいような――でも、なんで?
それを破る蛮族どもが襲来してきたのは、それからしばらくしてからだった。
「ふっふっふ、見たぞ見たぞ。憧れの先輩との密会をなぁ!」
いつの間にか仕事を終えたのか、紀子がそんなことを言ってきた。佳奈もいる。
「そんな真っ赤な顔の京香、初めて見た」
頭に血が上る、という表現が比喩でなく起こるのを私は自身で実感していた。
「あんたらは関係ないでしょうがッ!」
「おお、珍しくキョーカが怒ってるぞ。私怖ぁいん。カナちん、助けて」
「いや、それはあたしには無理」
「いつから覗いてたのよこの出歯亀どもがッ! 悪趣味にもほどがあるわッ! っていうか密会ってなによ! ここはみんなのいる学食じゃんッ!」
がたん、と私が立ち上がると、ふたりは狼狽えるような演技をしながら、しかしその顔は私を揶揄するものでいっぱいだった。許すまじ。私たちの聖域を踏みにじるこいつらを。こういうことがあり得るから私は蒔田先輩となるべく文芸部以外では会わないようにしていたのだ。
しかしあとになって思ってみると――
この時、私らしくもなく激昂してしまったのは、確かに理由があったのだった。しかしその答えに辿り着くまでには、まだまだ時間を要した。




