悪夢の宴
私は日本のスポーツ教育を全否定するものではない。
しかるにこの、小中高と必ずやってくるこの陰鬱な祭りはなんなのか。運動が得意な者は運動が得意な者どうしだけで乳繰り合っていればいい。なのに体育祭は全校生徒参加ということになっている。どういう話だ。
「ノリが運動音痴ってのは、なんか意外ね」
「今まで私の体育での醜態をたっぷり見てきたであろう。運動はまったく得意じゃない。むしろ憎んでいるとすら言っていいね!」
「そんな自信満々にいうこと?」
いつもの昼休憩。地味同盟の会合もかなり回数を重ねてきた。大分私たちの心も解れてきたのではないだろうか。京香も佳奈も以前よりは穏やかな顔をしているようにも思える。平穏無事なのはなによりだけれど、地味同盟の遠大な野心実現のためにはそこまでまったりしていてもいいものなのかと思ったりする
今日は学食での会合である。私はいつものように味噌ラーメン、京香は肉うどん、佳奈はミートソースパスタを食べている。それぞれ違うけれども、麺類というのは共通している。学生という生命体は麺食動物であるという金言もある。誰が言ったかは分からない。
「身体を動かすの自体は嫌いじゃないんだけどねぇ」
私の運動音痴ぶりを痛感したのはじつに小学校中学年の頃、今では考えられないかもしれないけれども、当時の私はどきどきシャイガールであり、あんまり外で遊ぶこともしなかった。それを心配に思ったのだろう、母は私を地元の体操クラブに入れたのである。もちろんそんなガキンチョのころだから、特に否定することもなかったし、無闇な反抗心もまだなかった。
しかしわたしは前転するだけでも四苦八苦し、跳び箱は3段も跳べない残念過ぎる運動神経の持ち主が満天下に晒される結果となった。私はすっかり体育が嫌いになってしまった。上手く行かないけれど、好き、という心の持ち主は大したものだと思う、だが私はそこまでの大人物ではなかった。
「そういうあんたはどうなのさ、キョーカ?」
「私は別に好きでも嫌いでもないよ。でも気晴らしにはなるかな」
憎らしいほどの冷静ぶり。京香の精神年齢は確実に実年齢以上に行っている。それは羨ましいようなきもするし、気の毒な気もする。彼女は落ち着いた人生をこれからも送れるだろうが、情熱の低い人生でもありそうで、そこはちょっと心配だった。まあひとそれぞれだからあえて矯正しようとは思わないけれど。
「とにかく私は憂鬱だという話なのだ」
「そんな感じにはまったく見えないけれどね」
「そりゃ私の人徳さ」
なかば投げやりにわっはっはと笑って見せる。私のアンニュイさなど誰にも理解されないだろう。いつでも明るい浦部、と思われているようで、それはある程度意識していてそうしている。意識しなくてもそうなってしまうのでは? という異論は認めよう。そしてそこには目を瞑ってもらいたい。
だがしかし、私とて多感な時期の花の女子高生だ。なにも考えていないパッパラパーだと思われるのはいささか心外である。こんな私にだって憂いだり悩んだりすることだってある。モテないことも、仕方ないとはいえ完全に受け入れている訳じゃない。地味同盟はそういった地味の中で孤立しがちな悩みを共有し、一緒に戦おうという理念があり、それは私自身の為でもあった。
「で、カナちんは? 体育祭をどう思っているのさ」
「あたしは……うんどうが苦手とかそういう以前に、そういう学校行事が好きじゃない」
「うん……まぁ。前にも言ってたねそれ」
しかし彼女を孤立させる訳には行かない。そういう訳で、憂鬱ではあるがこういったイベントに地味同盟として参加するのにはそれなりに意義がある。
「運動そのものはどうなの」
「嫌い」
あまりにもあっさり言ってのけたので、私はすっかり呆れ果ててしまった。異様な程明確な意思の表明である。シンプルそのものであるがゆえにその言葉にはなんだか圧倒的な説得力を持つ。彼女の澄んだ声から放たれたのだからなおさらだ。横を見ると京香も鼻白んだ顔をしている。
「はっきりいうんだね」
「嫌いなのは嫌いだもん」
ぷぅ、という風に頬を膨らませる佳奈。しかし私は密かに感心もしていた。好き嫌いをはっきり公言するのはじつはとても難しいことだ。以前までの佳奈なら、それは出来なかっただろう。つまり彼女も成長している。亀の歩みではあるのかもしれないけれど。それに頬を膨らませる佳奈はかなりかわいい。ステキである。
しかしそのかわいさ――女の子のかわいさには当然付随してくるアホっぷりに彼女もすぐ気付いたようで。はっとして目を見開き、それから頬を赤くして俯き、恥じ入る。眼鏡が光を反射して瞳が見えなくなる。
この愛嬌こそが、彼女がひた隠しにしている(つもりの)本質だと思うのだが。
「ま、なんにせよ地味同盟の方針としては、体育祭はできるだけ頑張らない、ということで皆さんよござんすね?」
「異議なし」
「まぁ……」
地味同盟として明確な意思統一ができたのはこれが初めてだった。私は感無量だった。ばらばらだった心がひとつになっていく。それが「体育祭はイヤ」という恥ずかしいにもほどがある後ろ向きな理由だったとしても、それは着実な進歩だった。仲良くなれたような気がする。とすれば、こういった行事も中々捨てたものではないのかもしれない。
「でもなんだか情けない……」
佳奈がぼそっと言った。私は下品にも彼女にお箸を向けて言い返した。慰めとも言う。
「情けなくたっていいのさ。私らには私らの生き方がある。それだけだよ」
「あたしは……紀子のようには振舞えないと思うけど」
「そう、あんたなりの生き方でいいのさ」
とてもいいことを言った。そういう時はとても気分がよくなる。佳奈は腑に落ちない、といった感じで目を泳がせているが、彼女にだって分かる時は必ず来る。そのはずだ。
「なぁに悟った振りしたこと言ってんの」
「カッコいいだろう?」
「腐れ女子高生が言ってもねぇ……あんまり説得力ないわよ」
「そこは気付くな」
私はにやっと京香に笑いかけた。京香ははぁ、と溜息を吐いてから肉うどんの牛肉を思いっきり頬張った。食が細い彼女にしては珍しく豪快な食べ方だった。
「そもそも体育祭のあとすぐに中間テストっていうスケジュールがいい加減なのよ」
と京香が言った。それはその通りである。だからなにも私たちだけではなく、基本的に舞坂高校の生徒は体育祭には熱心じゃなく、毎年盛り上がりに欠ける。盛り上がっているのはここぞとばかりに目立てると思っている、体育会系クラブに所属しているおばかな奴らばかりだ。彼らはその他大勢が白けていることに気付いていない。いいところを見せればモテるとすら思っているようだ。アホらしいことこの上ない。
というようなことをしばらく話していた。スポーツマン憎しで盛り上がるのも、たしかに佳奈の言う通り情けなくはあるが、楽しいから仕方あるまい。それに「憎し」とはいってもそこまで本気で憎悪している訳じゃない。そういった感情とは一番程遠いのが女子高生という生命体なのだ。基本的にお気楽に生きている。
だったのだが。
「よぅ、馬鹿同盟。今日も懲りずに冴えない奴ら同士で付き合ってんね」
「地味同盟だ。間違えんな。間違えるとしてもせめて阿呆同盟と言ってくれんかね」
なぜ瀬島由美はいちいち私たちに絡んでくるのだろう――こと私に対して。というのは、彼女が絡んできたのは地味同盟結成以前からなのだ。それもかなり長い、腐れ縁と言ってもいいほどに長い。私と由美の確執は中学校の時から始まっている。その時から由美は派手な美少女っぷりを見せつけていて、当然性格も悪かったのだが、何故か人生で特に交わることもないはずの私に喰ってかかって来ていたのだ。これはその延長線上にある。私のどこが気に食わないのだろうか。それは決して解明できない謎であり、解明する気もない。
「また来た」
冷たい声で佳奈が言った。かなり突き放した言い方、声色だったのだが、由美はそちらには文句を言わなかった。ちょっとだけ目線を向けただけだ。
「私らは私らで誰にも迷惑掛けずに生きているだけだよ。どうしてオマエはそこまでこっちに突っ掛かってくる」
「決まってるじゃん。しょうもない奴らをからかうのが楽しいからだよ」
由美はニヤニヤと笑う。いちいち癇に障る女である。
ちなみに今日はいつもの腰巾着、唯はいない。こいつがひとりでいるのは結構珍しい。
「オマエ友達すくないっしょ。だから仲良い私らに構って欲しいんだろ。そうだそうに決まってる」
「はぁ? 私は友達一杯なんですけどー」
「その割にはあのコバンザメとつるんでるとこしか見ないけどね」
「あんたらみたいにいちいち固まってないと肩身が狭い、みたいなせせこましいことがないだけだって。馬鹿じゃん?」
私はすこじずつイライラしてきた。向こうも同じだろう。言ってしまえばこんな時間ははっきりと人生の無駄である。こんなことに時間を割くのならもっと建設的なことに向けたいものだ。だが振りかかる火の粉は払わなければならない。
「さっきから聴いてたけど、あんたら体育祭の文句ばかりじゃん。でもねぇ、仕方ないよねぇ。見るところのないザコ女がそんな煌びやかな世界を恨むのは。それにそろって運動音痴なんでしょ? なんなら運動音痴同盟に名前変えたら? 略してうんち同盟!」
そう言って由美はひとりでけらけらと笑う。そんなしょうもないことをひとりで言って盛り上がるその胆力(あるいは無神経)ぶりは褒めてあげなくもない。
「華の女子高生が下品な言葉使ってんじゃないよ。ていうかうんちで盛り上がるってオマエは男子小学生か」
私がなにを言っても由美は堪えず、不敵な笑みを見せるだけだった。暖簾に腕押し、とはちょっと違うかもしれないが、なんとなく手応えがない。そして言い合いは泥沼になっていく。繰り返しになるが無駄な時間なことこの上ない。
「そりゃあ、私らは運動音痴さ。でもオマエはどうなんよ」
「え、あ、あたし? そ、そりゃあもう……」
「馬鹿め。同じクラスだってこと忘れてない? オマエの体育の成績もあんまりよくないんだって、こっちもハッキリつかんでんだからね」
由美はかあっと頬を紅潮させた。不本意ながら、その顔はちょっとかわいいと思ってしまった。そしてその思いはすぐに掻き消した。
「中学からそうじゃん。オマエも運動音痴だし、部活にも入ってなかったっしょ」
「でもあんたよりかはなんぼかマシよ、デブ」
「あっ。その禁止ワード言ったな! そんなこと言うなら私はオマエを完全に敵認定するぞ!」
「今だってそうじゃん。悔しかったら痩せてみなよ」
「いぁわぁせぇてぇおぉけぇば……ッ!」
自制心は強いはずなのだが、「デブ」と言われるのだけは本当に我慢ならない、一番私の癇に障る言葉である。ふとっちょとかふくよか、とかほかにも優しい表現は日本語にある。しかしなぜそんな一番暴力的で侮辱的な言葉を使うのか。私はいよいよ我慢ならなくなり、握りこぶしを作って、本当に殴り掛かる――その一歩手前まで行った。
その私を止めたのは誰か。それは意外にも佳奈だった。
「このドアホ」
彼女はすっくと立ちあがり、私の頭をぺしりと平手ではたいた。続いて由美の頭も。私たちは反射的に「痛ッ」と言って、それからあまりの意外な展開に言葉を失くした。
いつの間にか彼女の皿は空になっていた。ついでに言うと京香のどんぶりからもうどんがなくなっている。私が由美との言い争いに夢中になっている内に、彼女たちはすっかり食べ終わっていたようだ。
「ふんだ。行こ、京香」
「そうね。ノリ、あんたはここで頭を冷やしてなさい。瀬島さんも」
そしてふたりはそのまま食器を戻し、学食を去って行ってしまった。残されたのは私と由美、それから味噌ラーメンである。
由美はなんだか毒気を抜かれたような顔をしていた。私もそう変わらない顔をしていたはずだ。ともあれ、佳奈の水差しは絶妙なタイミングだったと言わざるを得ない。そうでなければ本格的な喧嘩に発展していたはずだ。
なんだかいたたまれない気持ちになった。
「まぁ……運動音痴同士、一時的に共闘してやってもいいぞ」
「誰があんたなんかと。ああ、なんか冷めちゃった。あたしは行くわ。またね」
そして由美まで去って行って――残されたのは私ひとり。
「なんじゃ、そりゃあ……」
茫然としていても始まらないので、私は座り直してラーメンをひとり侘しく啜り始めた。麺はすっかり伸びていて、侘しさはさらに増したのだった。




