海辺の3人
「海はいいねぇ」
平凡なことを言う紀子だが、正直な所それには賛同せざるを得ない。私は子供の頃から海沿いに住んでいたが、ここまでなんとか持ち堪え、完全に壊れまではしなかったのはそこに海があったからかもしれない。
本当にイヤなことがあった時は、私はしばしばこの海岸にやって来た――ひとりで。ここはある意味私の聖域であった。そこに紀子と一緒に来るのは、なにか特別な意味があるようで、しかしないのであろう。所詮は小娘ふたり、世界になんの影響も及ぼさないちっぽけな存在だし、そんな小娘たちがうごうごしたところでなにか面白いことが起きる訳でもない。
しかしどこか愉快でもある。
「海は世界に繋がっている――そしてその底には地球そのものが存在しているのだ」
「大きく出たね」
「まぁ、私らが大きい訳じゃないけどね。でもなんだかこうやって見ていると、それに一体化しているような気がするよ」
紀子がそんな真面目なことを言うのも珍しいような気がした。いつもはおちゃらけている彼女が。しかしそんな彼女が言うからこそ、なんとなく含蓄があるような気がしてしまう。多分気のせいだろう。
「瀬戸内海は狭い海だけど」
「でもそこを出れば太平洋だ!」
そういった海路を通って、タンカーや貨物船は過ぎていく。しかし彼等は詩的に海を楽しんでいるのではなく、仕事の為、生活の為そうしているに過ぎない。そしてその仕事に生活を支えられているのが私たち庶民である。頭が上がらない。
「海には人生があるね」
「そこまで海が好きなの?」
「そりゃそうさぁ。私ぁ一年に最低一度は必ず海水浴に行くからね」
へぇ、と私は思った。失礼ながら、紀子がステキな水着を着て海水浴をしているイメージが湧かなかったからだ。学校の水泳ではスクール水着姿の彼女を見たことはあるけれど、そこからそれには簡単には繋がらない。
「その体型で?」
これはじつに失言であった。
「言ったな、このぉ!」
案の定紀子は怒り心頭になった。私の首根っこにつかみかかり、押し倒そうとするような勢いで力を入れる。
「そりゃ私ぁあんたみたくナイスバデーじゃないさ! でもそれが何だって言うんだい! 水着になる権利は誰にだってあるわぁ!」
私が「ナイスバデー」かどうかはともかくとして、そこは彼女の触れてはいけない所だったらしい。というか当たり前である。ひとの外見をことさらあげつらうのはひととしてやってはいけないことである。なのに私は反射的にこんなことを言ってしまった。これが悪い。こうやって、思ったことをついそのまま吟味もせずに言ってしまい、ひとを傷付けてしまう。そうして嫌われる。私も私自身が嫌いになる。だから高校に入ってからは慎重になっているつもり――そして人との関わり自体を避けてきた。しかし彼女があまり積極的に接近するので、私もつい素が出てしまった。
「……ごめんなさい」
絞め殺されても仕方ないな、という気持ちで私は謝った。謝って済む問題ではないことを分かりながら。そうして私は自己嫌悪に陥っていく。
しかし紀子は何故かそこで怒りを引っ込め、逆に私を気遣うような顔を見せた。
「いや、あぁ……そこまで凹むなよ」
「でもあたしはひどいことを言っちゃった」
「だいじょぶだいじょぶ。そこまで本気で怒ってる訳じゃないさ」
彼女は私の頭を撫でさえする。
「でも海水浴シーズンもとっくに終わったしね。来年は地味同盟みんなで海水浴場に行きたいね」
ここから近くには手頃な海水浴場がある。だから海水浴はこの辺りの住民にとってはごく身近なものだ。しかし、私が最後にそこに行ったのはいつ頃だろうか……
「カナちんは時折ヘンな方向を見るね。ボンヤリなんか考えてんでしょ」
「そんなところを見てるの?」
「見てるさ。お前の一挙手一投足すべてをなぁ!」
「やめてよ……」
「いや、それはさすがに冗談」
紀子はニヤニヤ笑う。そこにいやらしさを感じないのは彼女の人徳ゆえであろう。私は笑顔を作るとどうしてもヘンな感じになってしまうので、そこは純粋に羨ましい。嗚呼、私はどうしてここまで偏屈屋になってしまったのか。そしてそんないやらしい私に絡み続ける浦部紀子という存在は何者なのか――それを地味同盟結成以来ずっと考えているが、未だに答えは見つからない。
「カナちんは思想家か哲学者になれる素質があるね」
「そうかなぁ」
わたしはなんでもないことをしちめんどくさく捏ね繰り回しているだけだ。そんな高尚なものではない。
「ま、いつでも深く考えるのも疲れるから、たまにはからっとしなよ」
「からっとね……あたし、そんなに湿ってる?」
「雨も滴るいい女さ、あんたは」
そんなことを話している内に風が弱まってきて、雲もすくなくなってきた。10月も間近だが、気温はまだまだ温かいし、陽が落ちるのも底まで早くはない。でも、スマホで時間を確認するといつの間にか15時になっていた。時間が経つのが早い――紀子と話しているからだろうか。確かに彼女と一緒にいると、時間を忘れられる。それがいいことなのか悪いことなのか、それを判断する基準は私の中にはない。
「紀子はアウトドア派なの?」
「なんだいきなり。何故そんなことを訊く」
「だって、毎年海水浴に行くって言うから」
なんともなしの雑談。しかしそんな陳腐なことをするのも久々なような気がする。認めざるを得ないが、紀子を前にすると何故か私の警戒心が和らぐのである。
彼女は言った。
「別にアウトドア派でもインドア派でもないよ。楽しいことはなんでもやるのがモットー! 要するに遊ぶことは何でも好きなのさ」
「そういう生き方は、いいね」
「そうだろうそうだろう。バキバキ真似していいんだぞぅ。いや真似させてやる」
それが地味同盟ということなのか? と私は思った。彼女が仲間を欲しているのは間違いない。しかしそれがどうして私なのか?
「……どうして、あなたはあたしに構うの」
「そりゃあ、あんたには見所があるからさ。私なりに人を見る目はあると思っているつもりなんでね」
「それ、曇ってない?」
「そんなこたぁないさ。自信を持て、橘佳奈。お前は面白い。すくなくともびっくり面白くなれる才能を秘めている」
「それもカンなの」
「それだけじゃないよ。私ぁこの2-D組に入った時から、慎重に自分の同志になり得る存在を観察していたからね」
ということはつまり、地味同盟の着想は気まぐれに生まれたものではないということだ。彼女は彼女なりに真剣に考えている――表面上はどれほど阿呆としても。
「およ」
てぃん、と紀子のズボンから音が鳴った。スマホの通知音だ。ちなみに私のほうでもそれは鳴っていた。ということはつまり。
「もうすぐキョーカも来るってさ」
「文芸部ではどういう活動してるんだろうね」
「そりゃあ、そのぉ。愛する先輩としっぽり……」
「紀子はたまにおっさん臭いね」
「参ったか」
「自慢することかな」
そうこうしている内に、本当に京香がやって来た。いつでも凛としている彼女だが、今日はことさら凛々しい顔をしているような気がする。ヘンな喩えになるかもしれないが、それは確信を持って戦場に向かう戦士の如き表情だった。この平和な現代日本、その中でも一番平和でのんきな種族である女子高生が見せる表情ではない。なにかあったのだろうか。それはどこか楽しそうでもある。
「よっ、ノリ、カナちん」
「今日はヘンに軽いねぇ。なんかあった。もしかして蒔田先輩と……むふふ」
「むふふじゃないわよ。でも嬉しいことがあったのは確かね」
「ふぅん……」
唸ったのは私だった。
「でも私だけじゃないんじゃない? カナちんもいつもよりはスッキリした顔してる」
「そう……かな」
京香はにっと白い歯を見せた。これほど表情豊かな彼女もあまり見ない。その疑問を持ったのは私だけではなく、紀子も同じようだった。
「ホントになにがあった? いやむふふじゃなくて真剣に」
「夢を見つけたからね」
なんじゃそりゃ、と紀子は呻いた。私はぼうっとしてそれを見ていた。確かに京香の顔は、人生に何かの目的を見つけたひとのそれのような気がする。そんなものなど見たことはないから、完全に想像で思っているのだが。
「夢? そりゃ文学関連かい? そうかぁ、本気でプロ作家を目指す気になったか」
「そこまでじゃないけど」
「いやいや、夢を持つのはいいことだ」
「ノリはなんか夢はあるの?」
「私の夢は――途方もなくでっかいものさ!」
紀子はそう言い、ラジオ体操の後半の動きみたく、ばっと大きく両手を広げ、背中をのけ反らせた。なんだか嬉しそうである。
「私の夢は、この世に生きるすべての阿呆が、幸せに生きるようにすることさぁ!」
「そりゃ本当に遠大ね。本気の阿呆でしか考えないことじゃない」
「ふはは。私は人類史上類を見ない革命家になるつもりなのだ」
「つまり世界平和を願っているってこと?」
訊いたのは私だった。紀子は自信満々そうな笑みを、さらに深める。
「世界平和にはなにが必要だと思う?」
「そりゃ、穏やかな心とか、思いやりの心とかをみんなが持てば……」
「そりゃ正論。でも平凡だね。世界平和に必要なものは、本当に必要なものは――みんなが阿呆になることなのさ! 阿呆は世界を救う! 地味同盟はその革命を起こす第一歩なのだ。素晴らしいとは思わんかね、きみたちィ。私たちの戦いは絶対に勝利する。そして私たちは世界を救った聖女として未来永劫崇められるのだ」
「そんな妄想をしているのは、本当にアホね」
「ていうか単に口から出まかせ言ってるだけでしょ……」
「それはそれぞれ正しい。でも私は本気だよ」
それから彼女は静かに、だが確信的に言った。
「世界は変わる」
「いやだからそのネタは京香には分からないって」
「反応できるお前さんはすごいよ。胸を張れ」
「やだ」
おいてけぼりな京香はやや不満気な顔をしていたが、すぐに凛々しい顔を取り戻した。
「ま、カナちんも結局はアホってことね」
「あぅぅ……いや、別に自分が賢いとは思ってないけどさ」
「これでいいのだ。バカボンのパパさんはとてもいいことを言う。真理だね」
わはははは、と魔王にでもなったかのように紀子は哄笑する。世界平和を望んでいるはずではなかったのだろうか。
「いやぁ、じつに楽しいね。うん、楽しい。私たちはゴールデントライアングル。そうは思わないかい?」
「相性がいいのは認めなくもないけど」
「そうだろうそうだろう」
場がなんだかおもしろおかしくなっていく。そういう時、私は自身の「陰」を忘れている。こんな気持ちになったのはいつぶりだろうか。気持ちがいい――しかし、その気持ちよさは味わってはいけない麻薬だと警戒している自分がいるのも、また事実だった。
まだ私の扉は完全に開いていない。開けてもいけない。
「なんなら私らで漫才トリオ目指そうか。まずは松竹芸能に入って……」
「なんで吉本じゃなくて松竹なの?」
「単純に私の趣味」
紀子は悪びれもなく言った。しかし私は自分が芸人になった姿など想像もできないし、できたらさぞかしおぞましいだろうことも分かっていた。
「私は芸人になんかなりたくないわよ」
「あたしも」
「ちっ。肝心なところでノリの悪い奴らめ。でもまあ私もなりたくはないけどさ」
「じゃあなんで言った」
「そりゃあ、その。勢いで」
「あんたはほんと勢いだけで生きてるねぇ」
女子高生のお喋りというのは一度始まったら簡単には止まらない。キャピキャピしたものではないし、むしろダサいけれど、それでもいいのかもしれない。こういった女子高生がこの世界の片隅に存在することくらい、神様は許してくれるはずだ。
「しかし、海はいいねぇ……」
「うん、海はいいね」
「海はいい……」
そうヒートアップしたおばか女子高生どもを鎮めたのは、やはりその雄大で世界に繋がる海なのだった。




