第9話 吸血鬼談義
「いいえ。かつて一族に加えた女は強盗に心臓を刺され、塵と消えましたの」
「なるほど。不死の吸血鬼も死ぬ。しかも死体が残らない……おい、眼はどうした」
マリーの眼の色はすっかり青に変わっていた。
「師匠、あなたに会った瞬間、暗示をかけましたの、私の眼の色が茶色に見えるように。6年間、よく持ちましたわ」
コメルソンは細く短い溜息をついた。
「不死族は特別な能力を持つのか。人類の分類をするなら特別枠としてお前を標本にしたいところだ……名を……教えろ」
マリーは青い眼に多少軽蔑の色を湛え、名乗った。
「私の名はマリー・エティエンヌ。師匠、不死族は標本になど無理ですよ。だって、動く死体ですもの。あら、師匠、どうなさったの?」
コメルソンは突然の昏睡に陥っていた。
3月12日の夕刻に目覚めた時、彼は再び冴えた頭になっていた。
「ジャンヌ……いや、マリー。思い出したぞ、南米の町でお前のベッドはたびたび空になっていた。翌日のお前は快活だった。夜の間、何をしていた……」
「吸血鬼も人間同様に食事は大切ですわ。エトワール号では持ち込んだワインとバラ精油が私の代用食でした。でも、大西洋を渡るのに3ヶ月もかかったんですもの、人の血が欲しくてたまりませんでしたわ」
「夜中に人を殺したのか。何てことだ……!」
「誰彼かまわず襲いません。吸血鬼の存在を信じる人もいます、油断できませんわ。殺したのは数えるほどです。
リオデジャネイロでは、ブラジル副王の無礼に対し、私は彼の女官頭と贔屓の女優から血をいただきました。
モンテビデオでは1人だけです。ブレノス・アイレスの総督はとても良い方でしたからね。ご迷惑をかけないよう気を遣ったのです。
覚えていますか、夜の11時頃、標本ラベルの貼付け作業中にスペイン船サン・フェルディナンドが突風でエトワール号に衝突したこと」
「ああ……船首がもぎ取られた事故だな。ブーガンヴィル殿自らエトワール号に乗って、エンセナダ港まで修理に行ったな」
「サン・フェルディナンドは無免許水先案内人を乗せていました。彼の名はフェリペ。血の味はまぁまぁでした。あとで彼はラプラタ川に沈めておきましたわ、ふふふ」
コメルソンは小さく十字を切った。彼女の話に辛抱強く耐えているようだ。
「他に犠牲者はいるのか」
マリー・エティエンヌはにっこり頷いた。
「私の男装がばれたのはタヒチ島でしたわね。殿方にとっては楽園のような島。耕さなくても食べ物に事欠かず、島の女たちが慎みなく寝床に誘うのですから。
それでブードゥーズとエトワール乗員のほとんどが、あの島をエデンの園と勘違いしました。特にあなたはひどかった。古代ギリシャの愛の女神の誕生地、シテール島の如しと散々ほめちぎった論文を書いて、パリに送りましたわね! ああ、おかしい!」
「い……いつの間に読んだのだ」
「師匠ったら馬鹿みたいな思い込みで、タヒチの身分制を見抜けなかったんですね。あそこでは遠方からの来訪者が男なら島の女を差し出して交配させるのです。女は男の奴隷でしたわ。
来訪者が女なら、彼女に自分たちの種を撒くのです。だから、私が島に上がったらタヒチ男たちが取り囲んで大騒ぎしたのですわ」
「……タヒチ人は文明に侵されてないからこそ、男装したお前の本質を見抜いたんだ……文明は時として人の眼を曇らせるのだ」
「んもう、分かってない! 私の男装なんて、とっくに疑われていたのに。タヒチに付く前から、ブードゥーズでもエトワールでも、私が女じゃないかって噂になってたのに!」
「それは水夫の間でか?」
「いえ、幕僚の方々も。あなたと犬猿の仲だったべビス軍医は確かに見抜いていたでしょうね。ただ、あなたの耳に入らないよう皆が気を遣っただけ。もっともブーガンヴィル殿はタヒチを出航してから知ったようですけど!」
「それで犠牲者は誰なんだ」
「タヒチ出航後に水夫が死にましたよね。あなたが『込み入った病状』と診断していた人です」




