第8話 コメルソンの荷馬ですって?
マリーはコメルソンの粘り強さに半ば驚嘆した。死にかけている男のどこにこんな力が残っていたのか。
「マゼラン海峡のフエゴ島を探検した時、あなたは私に『コメルソンの荷馬』とあだ名を付けましたわね。本当にイヤでしたわ。私は牛馬でも奴隷でもありません。本物のジャンヌ・バレでも傷つきますわ」
コメルソンは話にならんと目を閉じた。
「あの状況では仕方がなかった。お前を男にしておくために、荒っぽい言葉が必要だったのだ。些細なことを根に持つとは……困った女だ」
マリーは同意した。
「ええ。でも、師匠も困ったものです。あなたは疲れを知らず、体力の限界を超えて働き、それに無自覚です。
また、自分にも他人にも厳しいがために同僚とはトラブルまみれ、私を道具のようにこき使う方の下で働くのは地獄でしたわ。
植物採集の道具はどれも重く、その全ては私が運びましたよね、師匠。時には食糧も武器も一緒に! ええ、荷馬になった気分でしたわ。
標本作りも大量の紙と重い木枠が必要で、エトワール号の船長室にずらりと並べて紙と重しを取りかえたのは私でした。師匠のハンモックの修理までいたしましたわ」
コメルソンはむっとしたが、女はニヤリと笑んだ。
「そうそう、あなたに感謝していることもありますわ。あなたは私に女を求めなかった。
南米のモンテビデオに3ヶ月滞在の間、ブーガンヴィル殿の命令で病院を開きましたよね。同じ部屋で寝起きすることになって、あなたが事に及ぶなら気絶させるつもりでした。手を下さずに済んで本当に幸運でした」
「なんという女だ……。私を気絶させるだと。殴るつもりだったのか」
「殴るですって! 殿方は二言目にはそう仰いますが、私はあなたを簡単に貧血状態にできますのよ、うふふふ」
「貧血だと?」
マリーから花のような笑みがこぼれた。初めて見せる顔だった。
「私は吸血鬼です。ワインや花の精、たまに人の血を吸って生きている不死族ともいえますね。あなたの首に指を触れるだけで血や生気を吸い取れますのよ」
コメルソンは少々の混乱を脇にどけて、学者の理性を保った。
「この期に及んで、冗談はやめろ。お前が魔物なら、とっくに島の司祭が気付くはずだ。手を出せ、脈を診る」
マリーは「どうぞ」と手首を差し出した。
「師匠、世俗まみれの司祭に悪霊が見抜けるとお考えですか。ふふふ」
「静かにしてくれ」
「ふふふ」
あなたらしいですわ、学者としては一流でも、社会常識はそこらの男と変わらない。時として非常識ですけどね。デュ・スメルと揉め事になったのは、哲学者ピエールをデュ・スメルの前で褒めたたえ、熱っぽくピエールの帰国を嘆いたからよ。敵を作るのがまことにお上手ですわ。
コメルソンは必死で彼女の血流を探った。
「おかしい……脈拍はどこだ……」
彼は記憶を辿った。
ロシュフォールで会った彼女は白い息を吐いていた。
1768年の年の年末からひと月以上の足止めをくらったマゼラン海峡でも、彼女は白い息を吐いていた。耳朶は寒さで赤くなっていた。
「この体は……生きているといえない。なのに、なぜ呼吸も体温もあったのだ」
「師匠、私は人間の真似が得意なのです。体温を上げ、頬を赤らめ、食事をし、いくらでも正体を隠せます。まぁ、たまに気づく人間はいますけどね」
「知恵に長けた魔物か。お前は……話に聞いた吸血鬼とかなり違うな」
「あなたが御存知の吸血鬼はどのようなものですか」
「夜に動き回る不死の化け物だ。十字架や聖書や太陽を恐れる。鋭い牙を人間の首に立てて血を喰らい、犠牲者は吸血鬼になって次の犠牲者を求める。
お前は太陽を浴びて元気だったし、牙もない。教会も司祭も十字架も平気だ。
動植物に亜種や変異種があるように、吸血鬼もそれがあるのかもしれない。他の不死族がいれば比較と特定が出来るだろう」
マリーはあきれた。こんな時でも、彼は博物学者以外の何者でもない。
「ジャンヌ、お前は同族に会ったことがあるのか」




