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第6話 知らずには死ねない

 マリーの眼にわずかに迷いが浮かんで消えた。

「実を言うと、私はジャンヌが幼い頃からの友人でした。彼女にラテン語の基礎と薬草の取扱いを教えたのは私です。

 彼女は両親亡きあと、クリュニー近くの私の家を訪れ、フィリベール・コメルソンの家政婦になり、さらに愛人になったと打ち明けました。


 彼女はロシュフォールに行く前にも会いに来ました。世界一周の探検隊に男として参加すると告げ、軍船に乗る前に薬草処方を確かめると言って書架の梯子に上りました。本当に彼女らしくない最期でした、わずか9ピエ(約3メートル)の高さから落ちて首を折ったのです」


 コメルソンは嘆息した。

「ジャンヌは苦しんだのか」

「ほぼ即死でした。死の直前まで彼女はいかに男装が心躍るものであるか、喋っていました。彼女の眼は煌めいて、そうですね、野心ある者が周囲を驚かしたがっている眼でした。

 彼女を弔った日、私は決心しました。ロシュフォールに行き、あなたの承諾があれば、彼女の代わりに船に乗ると」

「ジャンヌはどこに眠っている」


 マリーはそこだけ嘘をついた。

「私の家の近く、ボジョレーの丘を眺める場所です」


 潮騒がコメルソンの記憶を洗う。

 妻が出産で没したあと、家政婦に雇ったジャンヌ・バレは献身的で好奇心に溢れ、すぐに彼の仕事を理解した。

 彼女は薬草にとても詳しかった。

 そうか、偽ジャンヌは彼女にラテン語まで教えたのか。道理でジャンヌは何を教えても呑み込みが早かった。教え甲斐があった。素敵な女助手だった。そうだったのか、この教師ゆえに。 


 突然、コメルソンの眼の前の女から偽ジャンヌの薄皮が剝がれていった。

 彼は目を凝らした。本物のジャンヌ・バレは彼より13歳年下だ。ならば偽ジャンヌは若く見積もって30代のはずだが、彼女は20歳前後の若さを湛えていた。


 偽ジャンヌはずっと真面目な青年だった。どこにいても沈着冷静で、泣き言一つ言わない。理論的な言動を保ち、女性特有のものとされた衝動的感情的な行いを決してみせなかった。

 あの日焼けした彼女はどこへいったのか。


 コメルソンは初めて彼女に鋭い観察眼を向けた。

 ジャンヌ・バレと偽ジャンヌは似ていた。

 黒髪に茶色の眼、頬骨は高く、しっかりした顔立ちに厳しい頬の線。背丈もほぼ同じだ。それが彼の眼をくらませた。忠実な助手の本来の姿を、彼は知らないままだった。

「君は何者だ、本名は何と言う」

 コメルソンは激しく咳いた。胸の痛みが強まった。

 

 マリーはアヘンチンキの瓶を取り、スプーンで彼の口に流し入れた。

「今更知ってどうなります。あなたの探求心を私に向けないでください」

「探求は私の使命だ。冥途の土産と思って教えてくれ。最期の頼みだ」


 マリーは彼の粘り強さは常軌を逸していると恨んだ。

「お断りします。私はジャンヌのままでいたいのです。あなたは後悔なさるかもしれません」

「駄目だ。君は私の従者であり、命令に従う義務がある」


 しばし、沈黙があった。

「命令と仰るなら、告解のあとでいたしましょう」

 彼女は洗濯場へ行き、主人の寝間着に水をかけ、足で踏んだ。

「あの男は知りたがりが過ぎる。知らずには死ねない性分なのだわ。後悔してもしりませんことよ!」


 1773年3月11日の朝、フラック教区の副司祭が来て、コメルソンは簡単に告解を済ませた。

「健康を損ねたのは自身の熱意がさせたことであり、思い残すことはない。神の憐れみを与えたまえ」

 本来は教会の司祭が行う終油の秘蹟を副司祭が代行し、さっさと帰った。

 コメルソンの関心は偽ジャンヌの身の上だけになっていた。

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