第5話 師匠は厄介の種を撒く
マリーはコメルソンを見ずに言った。
「私は助かりました。船長室のおかげで男装を続けられたのですから。
太平洋のタヒチ島で私の秘密が露見した時はたいへんでしたね。タヒチ男たちが私を女だと言って取り囲み、服を脱がそうとした事件です。あなたは何もできなかった。ブードゥーズ号の士官が剣を抜かなければどうなっていたでしょう。
あの後、私はブーガンヴィル殿に秘密を打ち明けました。あの懐の広い方は静かに私の話を聞くだけでした」
海軍王令法違反の件では、今でもコメルソンに罪の意識は全く無い。自分の正義に非の一片もないと言いたげに沈黙していた。
マリーは勝手に続けた。
「ブーガンヴィル殿はあなたと私を本国の軍事法廷から逃すために、この島に降ろしたのです。この熱帯の島からパリに論文を送る道を残してくれました。粋な計らいではありませんか」
コメルソンはやっと応えた。
「ジャンヌ、私はブーガンヴィル殿の鋼の意志と明快な態度、柔らかな知性を心から尊敬していた。私より年下にもかかわらず、彼は頼れる父のようだった。別れは辛かった……彼は哲学者ピエールと並ぶ私の知己だ」
マリーは再び喉元にこみあげたことばを呑みこんだ。
そうでしょうとも。あなたは鋭敏な感覚と熱弁で軍船幕僚の何人かを辟易させた。異常なまでの情熱は子供じみた粘着気質となって現れ、たびたび敵を作りましたね。特にエトワール号のビベス軍医との反目と言ったら大人げなかったこと。彼は私まで眼の仇にして悪口を言いふらしたのよ。
悶着を収めるのはいつもブーガンヴィル殿。彼の心遣いはまさに父親でしたわ。
あなたは痛風の持病を理由に看護と収集の助手は必須と国王に申請しましたね。そのうえで、私を男装させて従者ジャン・バレを捏造した。あなたは国王を欺いて平気でいる。まさに悪党の行いですわ!
マリーは米と魚のスープを運んだ。爽やかなレモングラスの香りがした。
「植物園のハーブです」
「コシニュに持ってくるよう頼んだのか」
「いいえ。勝手知った園なら守衛の眼を盗むのは簡単です。現知事は行く当てのない私たちを追い出したのですから、これくらい拝借してかまいません」
「お前は時々驚くべき速さで遠くへ行って戻ってくる……」
コメルソンは何とかスープを口にした。
「私が死ぬと、お前は王の博物学者助手の肩書を失う」
マリーは少し首を傾けた。
「師匠、私の肩書はエトワール号を降りた時に失っています。今になって私を気にかけるのですか。私が偽者のジャンヌ・バレと御存知なのに。もし本物のジャンヌが生きて同行していたら、どうなさいます」
コメルソンの眉間の皺がぐっと深くなった。秀でた額は疲れ切っていた。
彼の46年の記憶の岸に、フランス島の潮騒がうちよせる。
「6年前、お前はロシュフォールに現れ、ジャンヌの急死を告げた。あの時の私の衝撃は想像できんだろう。その上、お前はジャンヌの代わりに世界周航に同行すると申し出た。
私はジャンヌを失った哀しみと助手を得た安堵に引き裂かれ、船が大西洋に出るなり船酔いに倒れ……痛風も出てしまった」
「20日も寝込んだ原因はそれでしたか。あなたの体調が臍を曲げる時も、仕事同様に徹底していますね」
「お前は言った。
『本名は明かさないし、自分について多くを教えない。私はジャンヌ以上に薬草に詳しく、頑健さは彼女がそうであるようにあなたを助けるためにある』
その言葉どおり、お前の働きぶりは凄かった。30キロの荷物を担いで、マゼラン海峡の岩山を何日も歩いた。探検隊の幕僚も水夫も、お前を女と思わなかっただろう」
マリーは微笑みもせず、こたえた。
「彼女の望みでしたから」
コメルソンはふと訊いた。
「まだジャンヌ・バレの最期を詳しく聞いてなかった」
「お聞き苦しくありませんか」
「語ってくれ」




