最終話 遠い潮騒
マリーは饒舌なジャンヌに不穏なものを感じた。
彼女の無垢に取って代わったものがあった。
マリーは問うた。
「あなた、コメルソンをどうするつもりなの」
「ふふふ。彼は持病がある。航海は彼の体にとっては厳しいものになる。決して長生きできないわ」
梯子を登る音が運命の軋みのように鳴った。
「コメルソンは」
直後にジャンヌは足を滑らせた。
彼女はさかさまに落ち、頸を折った。意識はなく、虫の息だけが続いていた。
「ああ、ジャンヌ。まだ死んではいないわ!」
マリーは咄嗟に己の血を瀕死のジャンヌに吹きこんでいた。
ジャンヌは何日たっても目覚めなかった。吸血鬼に変化したまま、彼女は眠り続けた。
マリーはジャンヌを館の地下室に隠し、その胸に手紙を置いた。
『ジャンヌ、あなたの代わりにエトワール号に乗るわ。必ず戻るから待っていて。血が私の一族について教えてくれるから、心配ないわ」
こうしてマリーはロシュフォールに向かった。ジャンヌに血を与えた時、彼女の未知の世界への強烈な欲求がマリーに流れこんでいた。
それはマリーを突き動かした。
静かに生きてきた彼女に突然の情熱が宿ったのだ、船に乗ろうと。
「船に乗るというあなたの望みを受継ぐわ。戻ったら航海の記憶を全て見せるから待ってて!」
コメルソンの眼がカッと開いた。
「ジャンヌ、何てことを考えたのだ、お前は……! お前は私を裏切るつもりだったのか」
次の瞬間、彼はこときれた。
神の御国でジャンヌと会うはずなのに、彼女は魔物の闇の中にいた。おのれ、マリーめ……。
洋上に夜明けが来た。窓から陽が射した。インド洋の潮騒は男の死にかまわず打ち寄せていた。
マリーは人間の姿に戻った。
「師匠。ですから私は言いましたのに。吸血時に記憶の遣り取りをコントロールできないと。私に御自身の探求心を向けて良いことなど無いと。
知らずに逝けたら幸せだったかもしれません。でも、あなたはとめるすべを持たないお人ですから仕方がないですわ。
それにしても苦い血でしたね。本当にあなたらしい……」
マリーはコメルソンの虚ろな眼を閉じた。
ふと頬をつたうものがあった。
「ふふ、眼から水が出るなんて。師匠、これは哀しみでも憐れみでもありません。忍耐の旅がようやく終わったからですわ。地獄とは言いましたが、あなたの狂った情熱だけはけっこう好きでしたの。ええ、とても好きでしたの。
だって吸血鬼は情熱を持てませんから。情熱を持てば必ず人の世に何かを遺す、そして正体を晒され人間に退治される。それが化け物の宿命ですわ」
コメルソンの没後、彼のコレクションは船に乗った。
マリーはジャンヌ・バレの名で、ポート・ルイに海軍兵士向けの酒場を開いた。
デュ・スメル知事はミサ直後に店を営業した罪で、酒場に罰金を科した。
思うつぼだった。同情を寄せた海軍士官があっと言う間にマリーの一族に加わり、ふたりは形式的な結婚をした。帰国には何かと便利だったからだ。
200年後、ジャンヌ・バレは目覚めた。が、硬直した体は動かなかった。
彼女はマリーから記憶を受け取ったのち、吸血鬼の生を拒んだ。
ジャンヌの閉じた眼からは涙が流れた。
「マリー、私は航海の途中でコメルソンを見捨てるつもりだった。彼に成り代わりたかったのよ……。
今になって目覚めたのは神の罰だわ。
どうか私を灰にして海に流して……私は流れていきたいの、潮騒の響くフランス島まで……」
マリーはジャンヌの望みどおりにした。
彼女はロシュフォールの海岸に立った。軍港として栄えた歴史は過去のものだった。海軍医学校は博物館に代わり、昔の面影はすっかり去っていた。そしてインド洋の潮騒も遠いものになり果てたのだ。




