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第13話 ジャンヌ・バレの望み

「違う!」

 コメルソンの粘り強さが意外な形で噴出していた。

「お前が血を吸う時、私の記憶がイヤでも見えるだろう。私がジャンヌと過ごした日々だ。彼女を大切にしたことに嘘がないと分かるはずだ」


「師匠、今日は1773年3月13日です。よろしいのですね」

「ああ……潮時だ。それから偽ジャンヌのマリー、お前には感謝している。お前が居なかったら、私はもっと早くに死んでいたかもしれん……お前は良い助手だった、分かってくれ」


 コメルソンの右手が震えながらもしっかりとマリーの手を握っていた。

「師匠、あなたの心は存じていますわ」


 博物学者は眼を閉じた。死相が顔を覆っていた。

 マリーは彼の額に手を置いた。

「あなたは生涯を生き切った。魂は神の元に召されるでしょう。お別れです、師匠」

「お別れだ、マリー・エティエンヌ」


 マリーの指が彼の額から首筋へ移った。耳のすぐ下から、彼の生気が彼女の指先に流れだした。同時に彼の記憶も流れこんだ。

「ああ、私の知らないジャンヌだわ!」


 コメルソンの記憶の中のジャンヌは、男装を試していた。

 パリの住まいの隅っこで、コメルソンがジャンヌの胸に布を巻いている。彼女は庶民の長ズボンを履き、喉を隠すようにスカーフを巻いた。シャツに胴着を着て、髪を短めに束ねたジャンヌは自分の姿に満足していた。

「師匠、これで私は男ですね。なんて素敵でしょう、あなたの従者として堂々と付いていけます。スカートでは入れない場所に行って、自由自在に動けるのですから!」


 男になったジャンヌをコメルソンは「ジャン」と呼んだ。

「いいか、ロシュフォールには出航直前に来るのだ。もちろん男の姿でだ。誰にも疑う隙を与えないように」

ジャンヌは落ち着いた態度で頷き、輝く瞳でコメルソンを抱きしめた。男装はジャンヌを女の枷から解放したのだ。


 コメルソンの記憶がマリーに流れる時、逆にマリーの記憶もコメルソンに流れこんでいた。

 この時ほどインド洋の潮騒がうるさかったことはなかった。

 コメルソンは知らなくてよいことを知ってしまった。


 ジャンヌはマリーの家にいた。

 クリュニー郊外の小さな家に蝋燭が灯っている。マリーは机でハーブ精油の調合を書きつけていた。高い書架の梯子に手をかけたのはジャンヌ・バレだ。


 彼女は無垢な笑顔を見せつつ、梯子を一段登った。

「マリー、私は男になったわ、ジャン・バレよ。コメルソンの女じゃなく、一人前の男、一人前の博物学者として生きてやる。


 昔、家政婦紹介業の女に言われたわ。

『コメルソンは奥さんを亡くした。そのうち愛人になれと要求されるかもしれない。断ってもいいけど、断らない方が賢いし、幸せだよ』

 その言葉はウソだった。

 私は世間知らずだった。愛人は何の保証もない。コメルソンは私が妊娠したら、里子に出せと命令したわ。私を自分の従者にしておきたかったのよ。


 彼の赤ちゃんは天国に召されて良かったの。

 彼は愛人の子供のことは少しも頭になくて、育っても教育を受けさせる気はなかった。悲惨よ。

 これからはどんなに辛くても男の姿でいるわ。師匠が私を女扱いしたら『ジャンヌ・バレはもういない』って言うつもり!」


 ジャンヌはまた一段登った。

「ねえ、マリー。不思議よ。男の格好は偉くなった気がする。二度とスカートを履きたくないし、胸の谷間を晒したくない。

 なぜ女の服はあんなに不便で下品なのかしら。男を楽しませるための服としか思えない」


 ジャンヌはさらに梯子を登った。

「私はコメルソンからたくさん学んだわ。

 世界周航から戻ったら独り立ちしてやる。ジャン・バレの名で本も出版してやる。男の持ち物を失くした理由も考えてある。子供の頃にトルコ海軍に捕まって宦官にされたってね!」


 ジャンヌは、いや、ジャン・バレは笑っていた。

「男でいるって素敵だ。力が湧いて自由で、何だってできる気がする!」

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