ツインテールを解かないで
第1章
「どうしてツインテールにするの?」
奏斗に聞かれたことがある。私は少し笑って返した。
「なんとなく。特別な日だけ、そうしたいの」
本当は、昔誰かに褒められたような気がするし、鏡の中に移る自分が特別に見えたからなのかもしれない。でも明確な理由は思い出せなかった。
◾︎
今日もいつもと変わらない穏やかな休日の昼過ぎ。私、高山美緒はデートの準備中、彼氏である原奏斗は食い入るように海外ドラマに夢中だった。あれを見るのはもう3回目ではないだろうか。何年も一緒に居るが、私にそれの良さは未だによく分からない。ただ、彼を王子様のような人に育ててくれたのがあの海外ドラマだとしたら、感謝はある。
車道側を歩いてくれる、重い荷物は何も言わずに持ってくれる、レストランでの注文も会計もスマート、食事や歩幅のペースは必ず合わせてくれるし、常に私を気にかけてくれる。最初こそ海外ドラマかぶれ?と馬鹿にすらしていたが、一緒に時間を過ごすうちにそれが心地よく、まるで自分がお姫様になったのではないかと錯覚するような感覚が特別になった。なのに、何故か時々、ほんの少しだけ息苦しさを感じる。それは、単に私がわがままなのか、それとも私が本当のお姫様ではないからなのだろうか。
「あれ今日ツインテールだ」
奏斗が目を細めて、指先で毛先を掬った。
「かわいい、やっぱり似合ってる」
彼に褒められる度に、お気に入りのツインテールがより特別なものになっていく。なにより、何年一緒にいてもこうして私を褒めてくれるということが嬉しかった。週末は彼の家に泊まって、デートをする。何気ない時間だけど一緒にいれば居るほど彼を好きになっていく。
「赤ちゃん、どんな物が好きかな〜」
私のお腹には新しい命が宿っている。まだ結婚の話も出ていなかったから、最初に彼に伝える時は人生で三本の指に入るくらい緊張した。でもそんな緊張を吹き飛ばくらい彼は喜んでくれた。安心したし、やっぱりこの人を選んで正解だったと心から思えた。
「どうかな〜、意外と外遊びが好きかもよ」
「僕は絶対、かわいいものが好きだと思うよ」
つわりも落ち着いた妊娠5ヶ月目。ようやく私たちは結婚、そして一緒に住む新居に向けて動き始めた。今日は一緒に新居用の家具を見に行こうと近くの大型ショッピングモールに向かっている。鼻歌混じりに運転する彼を横目に私は自分のお腹を少し撫でた。
「段差、気をつけてね」
彼は元々優しかったが、私の妊娠、そして赤ちゃんの性別が女の子だと知ってから余計に過保護になった。
「平気だよ、ありがとう」
私とお腹の子を守ってくれているんだろう。どこまでも優しくて頼れる王子様みたいな人。手を繋いでショッピングモールを歩く。今までなら立ち止まらない子供用おもちゃ売り場の前で彼が足を止めた。
「メルって名前、可愛いと思わない?」
女の子のお人形コーナーの前で立ち止まった彼はそう言った。
「うん、いいと思う。響きも可愛いし」
「だよね」
「リカも可愛いと思うけど」
「そう?僕の子はリカよりメルかな」
「ふふ、そうなの?」
新居の家具は思ったよりすんなりと決まった。ベッドにソファ、ダイニングテーブル。奏斗が新居への配送依頼書を書き終えて振り返る。
「疲れたでしょ?どこかで休憩しよっか」
「そうだね」
モール内のカフェに入る。こんな小さなカフェでも椅子を引いてくれるのだから彼は本当に王子様なのかもしれないと錯覚する。
「あ、いちごパフェあるよ、好きだったよね?」
「え?んー、どちらかといえばチョコパフェ」
「あれ、そうだったっけ」
理想の王子様のような彼にも欠点がある。それはちょっとだけ忘れっぽい所。気にならないような小さな記憶違い。それがあることで完璧な彼が人間らしいと思えてまた好きになる。彼は欠点すらもプラスに変えしまうのだ。
「引越しの荷物中々まとまらなくてさ」
「思った、奏斗の家まだだいぶ散らかってるよね」
「間に合うか不安なんだよね」
これももうひとつの彼の欠点。掃除が苦手なところ。適当なところに物を置いたり、突っ込んだりして必要な時に焦っているところをよく見る。そこも可愛らしいところ。
「私手伝おうか?次の週末」
「本当に?ありがとう、めちゃくちゃ助かる」
運ばれてきたカフェラテを飲んで彼が一息吐いた。その呼吸のひとつも拾ってしまいたいと思うほど私は彼に惚れ込んでいる。私の初恋、初めての彼氏。そして私は彼の初めての彼女。初恋の人と結婚する確率は1パーセント未満だと聞いたことがある。私は運がいい。目の前の恋人を見てそう思った。
第2章
「ツインテール、似合ってる」
魔法みたいなその言葉は、今でもなんとなく頭の片隅に残ってる。あの時の私は、それを聞いてちょっとだけ自信が持てた気がした。だからかもしれない、ツインテールはいつの間にか、私にとってのお守りみたいなものになっていた。
◾︎
小学生のいじめの始まりの理由なんて、あって、ないようなものだった。
「かわいいから調子乗ってる」
「男好き」
「私の好きな人、取られたんだけど」
昨日まで友達だと思っていた子がいきなり言い放つ毒。でもそれが、その頃の私に染み渡って、血液ごと取り替えられたのかと錯覚するくらい全身に拡がって、動けなくなった。
これもまたひとつ驚いたことだが、人間は痛みを受け続けるとそれに麻痺して慣れてしまうらしい。そして一ヶ月もすれば、毒を巻いた張本人たちはそんなことも忘れ、次の標的を見つけていた。
「ペアになって答え合わせしてねー」
当時の私がいちばん嫌いな言葉だった。いじめは無くなったが、友達が戻ってこなかった私にとって地獄の時間。また下を向いて、先生が余ったなら先生と、と声をかけてくれるのをじっと待つ。
「ねえ、一緒にやろう」
声を掛けてきたのは先生ではなく、優等生と呼ばれていた原奏斗だった。整った顔立ちで優しい、原くんが好きなんて言う女の子も多い人気者。また毒を浴びるのが嫌で下を向いたまま首を振る。
「いいから、ほら、ね?」
彼は強引に私のプリントを奪い丸つけを始めた。仕方なく私も彼のプリントの丸つけをする。流石は優等生。全問正解の答案用紙を彼に返すと、彼は誇らしげだった。
「頭いいんだね、2つしか間違えてない」
「全部合ってる人に言われても嬉しくないよ」
原くんはそっか、と笑った。久しぶりに自分が教室で空気ではないように感じで心が軽くなる。
それから奏斗はよく私に構うようになった。朝教室に入ればおはよう、と笑顔をくれる。ペアになる時は真っ先に声を掛けてくれるし、私がひとりでいれば、友達の間をすり抜けて私のところまで来てくれる。まるで王子様みたいだとこの時初めて思った。
「なんでそんなに私に構うの?私平気だよ」
「怖くて、声掛けられなかったの後悔してたから」
「え?」
「女子が嫌がらせしてた時、ずっと後悔してた」
学校からの帰り道。冬の終わりが近づいてくるようなそんな空の色をした夕方。澄んだ空に響くように彼の声は鮮明に私に届いた。
「そんなの、いいのに」
「ツインテール、似合ってる」
唐突に奏斗はそう言った。顔に熱が広がるのが分かる。それは奏斗も一緒だった。
「それが、いちばん似合うよ、ツインテール」
「ありがとう…嬉しい」
その日から、ツインテールは私の特別になった。朝早く起きて鏡の前に座り、ツインテールに結って貰う。最近学校楽しそうね、なんてお母さんと喋る数分も私にとって宝物になった。
学校では奏斗が私の姿を見つけより早く、私が奏斗の影を探すようになった。
「奏斗!」
そう呼ぶと彼はいつでも笑って振り向いてくれるし、私の話を熱心に聞いて、欲しい言葉を返してくれる。それが嬉しくて、褒められたくて、私は1日も欠かさずツインテールで彼の前に足を向けた。
その日、奏斗は学校に来なかった。風邪だと先生が朝の会で言っていた。そしてまた気づいた、私は奏斗が居ないと一人ぼっちだったということに。また毒が全身を巡る。消えたと思っていたそれは、小さな衝撃でまた巡る。
「私、奏斗がいないとだめだよ」
彼が風邪から復帰した帰り道。私の口から出た言葉は震えていて小さくて、今にも消えそうだった。
「ひとりにさせないよ、大丈夫」
でもその小さな欠片を拾い上げてくれるのが奏斗だった。笑った顔が太陽みたいに暖かくて、言葉一つで私は解毒される。私にとって彼は解毒剤。毒が回ってしまうこの体にはなくてはならない存在なのだ。
それから数ヶ月が過ぎ、小学校を卒業して私たちは中学生になった。中学生になると、学校にいる顔ぶれも少し変わり、私がいじめられていたと知っている人はクラスにひと握りしか居なくなっていた。あの子、小学生の時ハブられてて、なんて最初こそコソコソと言って回っている子が居たけど、いつの間にかそんなことを言う人は居なくなっていた。
そしてひとつ、気づいたことがあった。小学生の頃にいじめられる原因になったかわいいは、中学生にもなると武器になるということ。
「かわいいね〜モデルさんみたい」
「何部入るの?一緒に見学行こ!」
「次の移動一緒に行こう」
自然と周りに女の子が集まり、ひとりになることが無くなった。必然的に、奏斗と過ごす時間も減った。そしてもうひとつ、気づいたこと、異性を本格的に意識し始めて男子は男子、女子は女子とどこか見えない線があるようだった。私の学校だけかもしれないが、それが顕著に現れて、なんとなく、奏斗とふたりで話すのが恥ずかしくなった。
「最近冷たいね」
奏斗がそう言って寂しそうにしていたのを覚えてる。冷たくしてる訳では無い。ただ、あの頃のように男好きと言われるのが嫌だったし、私は奏斗といるよりも女の子といる方が楽しかった。
「ねえ!何食べる?」
「私ガトーショコラ!」
「どーする?」
近所のファミレス。部活帰りに校則を無視して仲良しの部員たちと寄り道。それすら特別に思えるのだから、この数年間というのが大人になっても忘れられないのは当たり前のことだと思う。目の前にメニューが開かれる。
「んー、今日はいちごパフェかな」
奏斗といるよりもずっと楽しかった。誰がかっこいいとかテレビの俳優がどうだとか、どうでもいい話をすることが海外ドラマの話や、ハリーポッターの話をされるよりもずっと。だから大切なことを忘れてしまっていたんだと思う。私が奏斗に毒を与えてしまったということに。
「ていうかさ、ずっとツインテール?」
「え?」
部員のひとりが私の髪型を指さしてそう言った。これはいつからか私の特別なお守りになっていた。似合うと言ってくれた時から私を守るための鎧。
「絶対他の髪型も似合うよ!」
「ポニーテールとかさー、お団子とか!」
「巻いたら先生に怒られるけど他のも見てみたい」
いつの間にか、ツインテールは自分で結えるようになりお母さんと会話する時間も無くなっていた。むしろ、会話をすることも煩わしくなっていた。思春期と片付けてしまえばそうなのだが、その頃の私にとってそんな簡単な言葉で片付けられるようなことではなかった。
「じゃあ、してみようかな」
次の日、私はポニーテールをしてみた。いつもは綺麗に左右に分ける髪をひとまとまりに持ち上げる。少し手が震えるのは腕が疲れるからなのか、それとも、別人になるような感覚が自分を支配するからなのか、自分を、誰かを裏切っているような気がするからなのか分からなかった。鏡に映る自分に少し怖くなる。それは鎧を脱いだからではなく、新しい自分を見つけた高揚感から来るものだった。
教室に入ればみんなが私を見て、褒めてくれた。
「やっぱり似合うと思ってたー!」
「他の髪型もしてきてよ!」
友達に囲まれる私はもうひとりじゃない。本当の意味で解毒されていく感覚。応急処置なんかではなくて、心から満たされるのがわかる。承認欲求、否、私が元々持ち合わせていた自信が戻ってきたの方が正しいかもしれない。
「ツインテールの方が似合うよ、絶対」
奏斗だった。階段の踊り場。少し下を向いてバツが悪そうに私のポニーテールを見てそう言った。
「そう?私はこっちも気に入ってるけど」
「なんか変わったね」
「ふふ、明るくなったでしょ?」
「うん、凄くね」
彼は私の変化を喜んでいないようだった。それに居心地が悪くなり、踵を返そうとすると、腕を掴まれる。
「ひとりにしないって、約束したから」
奏斗は私の目を見て真っ直ぐそう言った。暖かくなる反面、ザラっとした不思議な感触が心を撫でる。
「私もう平気だよ、奏斗」
「平気じゃないよ」
「…どうしてそう思うの?」
「僕の好きな髪型じゃなくなったから」
胸がぎゅっと締め付けられる。また顔に熱が集まる。あの時と一緒だった。それがあの頃よりどうしようもなく恥ずかしくて、拒絶するように腕を振り払う。
「なにそれ、どういう意味?」
「好きって意味だよ」
真っ直ぐにそう伝えてきた彼。
本当の意味で、私がツインテールを解いた瞬間だった。
第3章
「どうしてツインテールにしたの?」
市役所職員が書類に目を通している時に、隣に立つ奏斗が不意に口を開いた。
「だって今日は特別な日だから」
奏斗との婚姻届を提出する特別な日。結婚記念日。特別な日のツインテール。それを聞いて彼は満足気に笑って、照れたように言った。
「やっぱりいちばん似合ってる」
◾︎
「あ、やっぱりガムテープ足りないや」
よく晴れた日だった。奏斗のなかなか片付かない荷物を要るものと要らないものに仕分けして梱包していく。
「近くのコンビニで買ってきなよ、私食器棚やるよ」
「高いところのは危ないでしょ。あっちの本棚の方にしてよ」
どこまでも優しい彼はそう言って優しく私の背中を押し返した。あれ、財布どこだっけ、なんて言ってまたさっきソファに放り投げた財布を見失って探している。
「ソファの上、さっき投げてたでしょ」
「本当だ!本当に僕、ミオが居ないとダメだね。ミオも僕が居ないとダメだと思うけどさ」
ふわりと笑う顔を見て頷く。確かにそうだと思った。奏斗の趣味の海外ドラマや映画の影響か、彼が本当にお姫様扱いしてくれるから、友達と出かけた時でさえ、うっかり助手席の扉が開くのを待ってしまったり、椅子が引かれるのを待ってしまうことがある。癖というのは恐ろしい。
「すぐ帰ってくるね」
彼はそう言ってコンビニに向かった。
私は奏斗に言われた通り、本棚の整理に取り掛かる。英紙の書籍がズラリと並ぶそこに、よく見ると1冊、鍵のかかった本があった。でもその小さな南京錠はロックがされていない。奏斗らしいな、と思わず笑みが零れる。
表紙を開くと“to.M”と書かれていた。この小さな南京錠と厚手の表紙。奏斗の好きな海外ドラマに出てくる日記帳によく似ている。
「私のこと、Mって…本当に変な人」
Mと表記してあるのは、彼が変なところが海外かぶれだからだろう。これも彼の好きなドラマで、友人同士がイニシャルで呼び合っているのを聞いたことがある。さすがに日本でそれをやる人はいないから、日記に採用するのが彼らしいと思った。
“Mの笑った顔が好きだ。癒される。”
“ツインテールのMを見ると満たされる”
“Mが僕の名前を呼ぶだけでいい。今はそれでいい”
私と付き合う前の日記なのだろうか。どれも箇条書きで明確な日時の記載はない。ただ、これを読むだけでも私への愛が伝わってくるような気がして恥ずかしくなる。
“僕がひとりにしないと約束した。必ず守る。”
“Mが初恋だ”
涙が出そうになった。今日私はこの人と籍を入れた。お腹には大切な命がいる。こんなに幸せでいいのだろうかと目元に溜まった涙を必死に堪えた。
“Mがいちごパフェを食べて笑っていた”
“世界一可愛い彼女にはいちごが良く似合う”
「え…?」
思わず声が出た。いちごパフェを好きなのは私では無い。ではこれは、私以外の誰かに向けられた日記なのではないだろうか。心臓の音が早くなる。緊張で目の奥が痛くなるような感覚、これは絶対に涙から来るものではない。
“Mにポニーテールなんて似合わない”
“ツインテールのM以外なんて意味が無い”
“僕以外の人間と喋るMはもうMではない”
“消えてしまえばいい、あんなMいらない”
筆圧がだんだんと強くなっている文章。不思議と脳はクリアで冷静に、これは別の誰かに書かれた日記だと認識している。
“僕が似合うと言ったのに”
“僕だけ見ていれば良かったのに”
“あのツインテールが繋がりだったのに”
ツインテールへの異常なまでの固執。目が回りそうになる。今零れている涙が、何に対しての涙なのか分からない。裏切り?いや、きっとこれは過去の話。大学生の時に出会って丸六年。彼が浮気してる素振りなんて全くなかったし、私以外をあんなに優しい目で見つめているところ、見たことがない。
“死ね死ね死ね死ね死ね”
指が微かに震える。私の知っている奏斗が書いている文章だとは思えなかった。その箇条書きを最後に、残りのページには何も書かれていない。開いてすぐの表紙裏には“to.M”の文字があった。じゃあ背表紙の裏には?
人間というのは不思議なもので、本当に見たいものがある時、怖さよりも好奇心が勝つ。それを捲る指は心の小さな震えを凌駕するほどに脳からの伝達を受け取っていた。
一枚の写真落ちる。小学生くらいだろうか。
奏斗と、ツインテールの女の子。
“君のツインテールに似た女の子に出会った”
“君のツインテールを見た以来の衝撃だった”
背表紙にはそう書いてあった。写真を拾い上げてなんとなく、裏を捲ってみる。
“好きだよ、メル”
“きっとあの子もツインテールが似合う女の子になる”
最終章
「きっとこの子もツインテールの似合う子になるね」
あの時、奏斗がどういう顔をしていたのか、今思い出そうとしても思い出せない。それくらい言葉の圧は強く残酷に、私に突き刺さる。
◾︎
インターフォンが鳴り、一気に現実に引き戻される。解除ボタンを押すと、彼がエントランスから入口まで歩き出す映像が映し出される。
日記を元の場所に戻し、キッチンに向かう。ポットに水を注ぎ終わった頃に玄関の扉が開く音がした。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
近くのコンビニガムテープ売ってなくてさ〜なんて笑う奏斗を見る。彼があの日記を書いたのか、私は今でも信じられない。信じられないからだろうか、口から出る言葉はスラスラと嘘を並べる。
「そろそろ休憩でお茶しよ」
「いいね、僕も喉乾いた」
これは母になる強さなのか、それとも人間的な防衛本能なのか、はたまた女だから出てくる嘘なのか。自分で自分が分からなくなるほど混乱しているのに彼に見えている自分がいつも通りなことに矛盾が生まれ、また混乱する。
彼が私に本棚の整理をなぜ頼んだのだろうか。あそこに日記があることを、彼のことだから忘れていたのかもしれない。それとも、最愛の存在に気づいて欲しかったのだろうか。
マグカップを2つ用意して、ティーバッグをいつものキッチンの引き出しから取り出す。日常の積み重ね、ひとつも怪しさのない動きが、逆に怪しいのではないかと疑心暗鬼になる。
彼はなぜ平然と笑い、私と一緒にいるのだろうか。私に誰かを重ね、またお腹の子にも誰かを重ねようとしている。その事実がどうしようもなく気持ち悪くて、胸が痛い。
「あれ、本棚整理してない?」
「あー、うん、疲れて休憩してたの」
「体大丈夫?」
心配そうな目で私を見つめるそれがやっぱり偽りだなんて思えなかった。この六年、私が見てきた彼は一体誰だったんだろう。否、彼が見てきた私は一体誰だったんだろう。
“メルって名前、可愛いと思わない?”
“そう?僕の子はリカよりメルかな”
背筋が凍るようなことを思い出した。なんで今、思い出したくない記憶ばかりが流れ込んで来る。
“あ、いちごパフェあるよ、好きだったよね?”
彼は私じゃない、初恋の人を見ていた。
“あれ、今日ツインテールだ”
“かわいい、やっぱり似合ってる”
吐き気がしてシンクに顔を向ける。それに気づいた彼が近寄ってきて、背中を摩った。
「大丈夫?座った方が、」
「平気、つわりかな」
そんなわけ無かった。これはこの、目の前にいる男への嫌悪感。拒絶。気持ち悪い。本気でそう思った。それと同時に自分が見てきた、大切にしてきたものを失いたくないという感情が溢れて涙が出た。
「本当に大丈夫?」
顔を覗き込んでくるのは、紛れもなく私が愛した男で、奏斗で。貴方の目には今、誰か見えているの?
「うん、なんか変だね、幸せで」
「うん、僕も」
奏斗がツインテールをするりと撫でて、そのままお腹に手を当てる。瞬間、お腹の中からグッと押されるような感覚がした。我が子の拒絶なのだろうか。それとも、この中にいるのは、
「やっぱり子供の名前はメルがいいと思うんだ」
「絶対にツインテールの似合う可愛い子になるよ」
幸せそうに笑う奏斗に薄く笑みを返す。
「そうだね」
私はツインテールを解けずに、ただ、特別が崩れていく音だけを聞いていた。