第3話 臆病な自尊心と尊大な羞恥心
その後、ルナフレーナは渋々ながらもアイリスに連れられ、学習室へと向かう。昼食が終わった後、宮廷の規則に従い、午後の勉強時間が始まるのだ。
廊下を歩く間、ルナフレーナの顔には不満の色が濃く浮かび、アイリスの後ろをしぶしぶとついていく。
彼女の心中には、勉強なんて面倒だという思いが溢れていた。
一方で、アイリスはそんな彼女の態度に一切構わず、まっすぐな足取りで学習室へと向かう。
学習室に入ると、そこにはすでに家庭教師が待っていた。
家庭教師は年配の女性で、白い髪をきれいに結い上げ、眼鏡の奥から鋭い目つきで二人を見つめている。彼女の名はラフィーナ。
宮廷魔術師としての地位も高く、長いローブをまとっている。
そのローブは濃紺で、魔法の符号や記号が金糸で刺繍されており、その神秘的なデザインが彼女の威厳をさらに高めている。
彼女の目は冷静でありながら、内に秘めた情熱がちらついており、教えることに対する責任感が強く感じられる。
ラフィーナはテーブルの前に立ち、教本を開いて二人に向き直る。
「さあ、午後の勉強を始めましょう。今日は魔法の基礎理論について、もう少し深く掘り下げていきます。まずは基本的なエネルギーの流れと、それをどのようにコントロールするかを説明します」
アイリスは真面目にテーブルの上の教本を見つめ、ラフィーナの言葉にしっかりと耳を傾けている。
彼女の姿勢はまっすぐで、手にはノートとペンが握られていた。
彼女は時折メモを取りながら、集中した眼差しで教師の話を聞いている。
その顔には理解しようとする熱心さが溢れている。
一方、ルナフレーナは全く別の方向を向いている。
彼女はどこからか取り出したトランプの山をテーブルの上に広げ、まるで周囲の状況などお構いなしにトランプタワーを作り始めた。
彼女の指先は慎重にカードを積み上げ、目の前のタワーに全神経を集中させている。
その顔には真剣な表情が浮かんでいるが、教師の話には一切興味がないことが明白だ。
ラフィーナはルナフレーナの不真面目さに気づき、ため息をつきながらも優しく声をかける。
「ルナフレーナ様、少しお話を聞いていただけますか? 今、大切なことを説明しているのですが」
しかし、ルナフレーナは顔を上げず、トランプタワーを崩さないように注意深く積み上げながら、「今忙しいから、後にしてくれる?」と、あっさりと返事をする。
その態度にはまるで悪びれる様子がなく、教師の言葉を一蹴するかのようだ。
ラフィーナは一瞬表情を引き締めるが、再び優しい口調で続ける。
「勉強の時間ですよ、ルナフレーナ様。少しの間でも集中していただけると……」
「集中してるのが分からない? こっちは今、トランプタワーを作ってるんだよ」
ルナフレーナは軽く笑いながら返す。その言葉には完全に教師を馬鹿にしているような響きがあり、教室の雰囲気を一層重くする。
アイリスはそのやり取りを横目で見つめながら、眉をひそめる。
彼女は教師の話に耳を傾けつつも、ルナフレーナの無礼な態度に内心で苛立ちを隠せない。その姿勢はまっすぐで、彼女の不真面目さを反面教師にしているかのように見える。
「この 魔法の理論はとても重要でして、入学試験にも頻出ですので……」
入学試験とは、帝立ルーフェンヴァルト学院へ入学するための試験のことである。
この学院は帝国の中で最も権威ある魔法学と政治学の教育機関として知られており、未来の指導者や魔術師を育成するための最難関の名門とされている。
他国の貴族や王族の子弟さえもこぞって入学を目指し、学問的な名声と影響力を高めるための登竜門となっている。
「そこらの貴族と違って、私は皇女よ。勉強しなくたって、入学できるわ」
しかし、この学院で重要視されているのは一に家柄、二に財産といった具合で、学力や才能だけでは決して入学が保証されるわけではない。
ルーフェンヴァルト学院の厳しい入学試験は表向きには学術的な素養を試すものとされているが、実際にはその背後で政治的な駆け引きや家系の影響力が働くことも多い。
したがって、貴族の中でも上位に位置する家柄の者が有利な状況にある。
ルナフレーナもまた、皇族として当然のようにこの学院への入学が期待されている。彼女自身が勉強に全く興味を示さなくても、彼女の立場と家系の影響力によって入学の門は開かれることだろう。
「そのようなことをおっしゃらないでください。入学してからも試験はあります。だからこそ、今しっかりと基礎を理解しておくことが重要なのです」
ルナフレーナはラフィーナの言葉を当然のごとく無視し、相変わらずトランプタワーに全神経を注いでいる。
彼女の顔には真剣な表情が浮かんでいるが、それは勉強への真剣さではなく、あくまで目の前の遊びに対するものだ。
その態度に、ラフィーナはもう一度言葉を続けようとしたが、その時、アイリスが冷ややかな声で口を挟んだ。
「この馬鹿皇女は放っておいても大丈夫ですよ。試験で痛い目を見るのは、ルナフレーナ様ですから」
その言葉に、ルナフレーナの表情が一瞬で変わった。
彼女はトランプタワーを積む手を止め、顔を上げてアイリスを鋭く睨みつける。
その目には不快感がありありと浮かんでおり、まるで縄張りを荒らされた猛獣のように目を光らせた。
「馬鹿はお前だよ、アイリス。勉学はできても、世情には疎いようね」
彼女の声は舞台の上で演じられる役者のように大げさで、自信に満ち溢れている。
「私を誰だと思っているの? 栄えあるディオザニア帝国の皇女、ルナフレーナ・ヴァル・ラヴェンブルクだぞ!」
彼女は椅子を勢いよく後ろに引き、立ち上がると、大げさな身振りで周囲に向かって手を広げた。
その動きはまるで演劇のヒロインのようで、彼女の顔には自信と誇りが満ち溢れている。
「試験で痛い目を見ることなどない! 陛下のご威光ある限り、皇女である私が試験ごときで挫折するなどということがあるわけがない!」
彼女の声は教室全体に響き渡り、その宣言には疑いようのない傲慢さが込められていた。
ルナフレーナの視線はまっすぐにアイリスとラフィーナに向けられており、その目には不遜の炎さえ宿っている。
「かつて、おじい様はこうおっしゃった。『皇帝は鹿を指して馬と為すことができる』と」
彼女の声はさらに高くなり、その言葉をまるで歴史的な名言のように語り始める。
鹿を指して馬と為すとは、本来の事実や真実をねじ曲げることで、何が真実であるかを支配者が決定できるということを意味している。
この言葉は、絶対的な権力を持つ者が自らの意志で何でも「正しい」とできるということを示唆している。
ルナフレーナは、この解釈を自らの正当性として誇らしげに掲げているのだ。
「つまり、私は何を書こうが、それが正解となるのよ! たとえ回答用紙を白紙で出そうが、ただ『ちくわ』と書こうが、それを正解とする力が私にはあるの!」
彼女は再び両手を広げ、頭を大きく後ろに反らして高笑いを始めた。
その笑い声は甲高く、冷たい学習室の空気を震わせるように響き渡る。
舞台上の演者が観客に向けて誇らしげに勝利を宣言するかのように、その笑いは一向に収まらない。
笑いながら彼女は目を見開き、まるで自分が何もかもを支配していると信じて疑わない様子だ。
その傲慢さと狂気に、アイリスもラフィーナも完全にドン引きしている。
アイリスの顔には深い皺が寄り、目は大きく見開かれている。
普段は冷静な彼女も、このあまりに常軌を逸した発言に対しては何も言えず、ただ呆然とするしかない。
口が半開きになり、その表情には信じられないという驚愕が浮かんでいる。
ラフィーナもまた、信じられないような表情を浮かべている。
彼女の瞳は広がり、その中には絶望と驚きの色が見て取れる。
長年の教職経験を持つ彼女でさえ、ここまで傲慢さと自己中心的な態度に直面したことはなかっただろう。
彼女は一瞬、何をどう教えるべきか、途方に暮れたように見える。
その様子を見て、アイリスは耐えかねたように低い声で毒づく。
「どうして陛下は自分の娘がここまで重症になるまで放置していたのかしら?」
さらにアイリスは冷たい視線をルナフレーナに向けながら、彼女の最も痛い部分を突き始める。
その性格を熟知しているアイリスは、どんな言葉が彼女の心を揺さぶるかをよく理解していたのだ。
「そんなことばかりしていては、多くの人に見下されますよ。皇帝陛下や皇太子殿下のこともあるので、表面上は敬いますが、内心ではルナフレーナ様のことを蔑み、距離を置くでしょう。つまり、皆から馬鹿にされるんですよ」
その言葉はまるで矢のようにルナフレーナの心を刺した。
顔色は見る見るうちに変わり、最初は紅潮していたのが、次第に青ざめていく。
彼女はアイリスの言葉の意味をすぐに理解し、内心で恐怖と不安が急速に膨れ上がっていくのを感じた。
誰もが自分を敬うべきであるはずなのに、その内心では侮蔑し、距離を置かれているという現実、或いは未来。
それを思うだけで、胃酸が込み上げてくる。
「気持ち悪い。……吐きそう」
ルナフレーナは口を押さえてつぶやき、まるで追い立てられるようにして学習室を飛び出し、トイレに駆け込む。
廊下を走る間、彼女の頭の中ではアイリスの言葉が何度も反響し、まとわりつくように離れない。
彼女の胸は激しく上下し、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
トイレに駆け込むなり、ルナフレーナは便器に顔を近づけ、嘔吐してしまった。冷たいタイルの床に膝をつき、息を荒げながら、彼女の身体は震えている。
吐き気は止まらず、涙が溢れそうになる。
彼女の誇り高くも、実は脆い自尊心が、この一瞬で粉々に砕け散ったような感覚に襲われた。
「くっそ、アイリスめ! 皇女である私の心を傷つけやがって!」
ルナフレーナは叫ぶように言いながら、便器に手を叩きつける。
怒りと屈辱で声が震えている。
「私は優れているんだ……誰よりも美しく、賢く、強いはずなんだ! お兄様もそうおっしゃった!」
だが、その言葉には以前のような確信はなく、むしろ自らに言い聞かせるような弱々しさが滲んでいた。
自分が他人に見下されているかもしれないという不安が彼女を飲み込み、心の中で渦巻いている。
むしろ、よく今までそんな事に思いをはせなかったのかが不思議だ。よほど、甘やかされた育てられていきたのだろう。
「こんな思いをするくらいなら、いっそのこと人類を絶滅させようか……」
狂気じみた口調で言いかけるが、その瞬間、トイレのドアがノックされる。
「ルナフレーナ様、大丈夫ですか?」
アイリスやラフィーナ、侍女たちが彼女を心配して駆けつけてきたのだ。
ルナフレーナは、トイレのドアの外で聞こえる心配そうな声に一瞬驚き、そして少し迷ったようにため息をついてから、ゆっくりとドアを開ける。
顔色は青ざめており、目元は赤く、明らかにさっきまでの高慢さとは違う弱々しい姿を見せていた。
彼女は胃を抑えながら、苦しそうな声で侍女の一人に頼む。
「胃がキリキリするから……薬を持ってきて」
侍女の一人はすぐに頷き、焦った様子で走り出す。
残された侍女たちやアイリス、ラフィーナもルナフレーナの異様な様子に戸惑いながらも、何とか彼女を落ち着かせようとする。
アイリスは、まさかルナフレーナがここまで脆い心を持っているとは思っていなかったようで、少し優しい口調で問いかける。
「大丈夫、ルナフレーナ様? 急に気分が悪くなったのなら無理しなくてもいいのよ」
「無理をなさらず、少し休んでください。誰にでもそういう時はありますから」
「ルナフレーナ様は、やればできるお方です。やる気を出しさえすれば、誰にも負けませんよ」
アイリスやラフィーナに続いて、侍女たちもルナフレーナを励ますように言葉をかけると、ルナフレーナは最初こそ疑わしげな目で彼女たちを見ていたが、徐々にその顔にほころびが見え始める。
彼女の中で小さな自尊心の炎がまた燃え上がるのを感じる。
おべっかを受けると、その気になるのがルナフレーナの性質だったのだ。
「そうだよな。私はやればできる子だよな」
彼女は言いながら徐々に自信を取り戻すような表情になる。
自分が称賛されるのを感じると、自然と気分が良くなってくるらしい。
トイレに駆け込んだ時の不安はどこかへ消え去り、再びその顔には薄ら笑いが浮かぶ。
アイリスは、内心では呆れながらも、彼女を立ち直らせるためにさらに言葉を添える。
「さすがルナフレーナ様。帝国の未来を担うお方ですから、ちょっとしたことで落ち込む必要はありませんよ」
ラフィーナも好機と見たのか、それに乗るように微笑んで言葉を重ねる。
「勉強に少し付き合ってくださるだけで、きっと驚かれることでしょう。皇女殿下が本気を出されると、どれほどすごいか、皆が知ることになります」
彼女らの言葉を耳にするたびに、ルナフレーナの気分はどんどんと良くなっていく。表情はどこか滑稽に輝き、まるで子供が褒められて喜ぶように頬を赤らめながら頷いた。
「なら、少しくらい勉強に付き合ってもいいかもな」
周囲の人々は、それを聞いてさらに調子を合わせる。
「さすがは皇女殿下! ルナフレーナ様の勤勉さにはいつも驚かされます!」
「ルナフレーナ様は本当に素晴らしいお方です!」
ルナフレーナは、その言葉にさらに気をよくし、次第に体調もよくなっていくのを感じる。
彼女は少し誇らしげに胸を張り、先ほどの弱々しい姿とは打って変わって、自分が英雄であるかのような堂々たる表情を浮かべている。
その単純さと滑稽さがますます際立ち、周囲の者たちには苦笑いを浮かべるしかなかった。
「まあ、仕方ないから、今日は少しだけ集中してやってみるわ」
ルナフレーナがそう宣言すると、周囲の人々は一斉に頭を下げ、何か偉業を成し遂げたかのように褒めたたえる。
トイレに駆け込んでいた時の脆さはすっかり忘れ去られ、彼女の機嫌はすっかり元に戻っていた。




