第86話 「海外ドラマでしか聞いたことねぇ役職だ」
トイレから出ると、見覚えあるのが二人、少し離れた場所で煙草を吸っていた。
片方は羽瀬の前座で出てきたが、金的をカマして一撃KOした赤タオル――今日は緑のタオルを頭に巻いている。
もう一人は、体育館裏で見かけた記憶がある、パンチパーマの薄い顔。
どちらも、電車でこの駅に到着した時、反対側のホームにいた奴らだ。
「んだぁ、テメェ! 水津さんドーしたぁ!?」
「あいつなら、便所の床と一体化してるぞ」
「あぁん!? 何フザケたこと言ってやがんだ、ボケがぁ!」
煙草を捨てて詰め寄ってきたパンチが、右手を伸ばし胸倉を掴もうとする。
こいつら、本当に毎度毎度どうしてコレをやりたがるんだ。
付き合う義理はないので、まずは鞄を背後に投げて両手を空けた。
それから左でパンチの手首を弾き、一歩踏み込んで右のバラ手で目を狙う。
「なっ――ふごっ! ぅああああああぁああああ、ぅんっ」
何も考えずに突っ込んできたらしく、反撃は笑えるほど綺麗に決まった。
両目を押さえて膝から崩れ、喚き散らそうとするパンチの脳天に、速やかに踵を落として黙らせる。
緑タオルは何とも形容しづらい変顔を浮かべ、コチラを見たまま動かない。
睾丸を破壊されかけた体験が、トラウマになっているのだろうか。
「お前はどうする? 試合放棄か?」
訊くや否や、緑タオルはブンブンと首を縦に振る。
捨てた鞄を拾って相手に近付くと、頭を止めて素早く後退った。
「まぁまぁまぁ、待てって! 違ぇんだよ、マジでな? オレはその……アレだ、付き合い! 付き合いで断れなかっただけで、無関係なんだって! な?」
「落ち着け。そっちが余計な真似しなけりゃ、こっちも何もしない」
まだ安心しきれてない様子の緑タオルは、ぎこちなく笑う。
「あん中で転がってる水津に、伝言を頼む。『雪枩はもう終わってる。その証拠もくれてやるから、俺に関わるな』ってな」
俺が便所の方を指差して言えば、またブンブンと首を縦に振る。
大輔が好き勝手やれてたのは、本人の能力ではなく雪枩家――というか、父親である力生の存在あってこそだ。
その力生は俺が半殺しにしたから、しばらくは病院暮らしだろう。
もしかすると、手下の誰かにトドメを刺されているかもしれない。
「もう何も、お前らを守っちゃくれない。誰かに恨まれてる自覚あるなら、逃げるか隠れるかしといた方がいいぞ」
権力の源泉である雪枩コレクションも、無効化するための準備中だ。
大輔や会ったことないその兄が家業を継ぐにしても、以前のような影響力は発揮できないだろうし、恐らくは報復攻撃によって潰される。
暴力や恐怖で他者をコントロールしてきた奴ってのは、大抵が似たような手段で反撃された末に滅ぶ。
綾子のストーカーらも、当然ながらそうなる――滅ぼすのは俺だが。
緑タオルが便所内の様子を確認しに行くのを見送った後、傍らに転がっているパンチをどうするか考える。
たぶん、親切な誰かがどうにかしてくれるだろう、と二秒で結論を出して学校へと向かうが、校舎が見えてきた直後に五時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。
「雪枩らに関わると、メシ抜きになりがちだな……」
ありがたみゼロの強制ダイエットなど、イラつかされるだけでしかない。
返り血がついてないかをチェックし、教師の声が聞こえる教室へと向かう。
英語の小島の発音がいいんだか悪いんだかわからない、独特な声が途切れたところでドアを開けた。
クラスメイトの視線が集中し、おっさん教師は手にしていた教科書を閉じると、顔を顰めて訊いてくる。
「何なんだぁ、おい……今から登校とか、やる気あんのか」
「やる気なかったら、完全にサボってますけど」
小島の物言いに不要な棘があったので、つい言い返してしまう。
反抗や反論に慣れてないらしい相手は、俺以上に不機嫌さを丸出しにして質問を追加してくる。
「で? どうしてこんな時間になったんだ」
「ちょっと電車が混んでまして」
フザケた返事に教室内に軽めの笑いが起き、小島は怒気を閃かせる。
「チッ……もういい、サッサと座れ」
ここでキレても生徒たちをドン引きさせた挙句に授業が滞るだけ、との判断ができたらしく、小島は咳払いを一つ響かせてから授業を再開。
トラブルに巻き込まれたのを察したようで、瑠佳と奥戸が俺の方をチラチラと見てきた。
特に問題はない、というメッセージを込めて小さく手を振れば、何を間違えたのか瑠佳も手を振ってきて、奥戸はチョキを出してくる。
そんな二人に苦笑いを返して、自分の席に腰を下ろす。
机に入れたままの教科書を開き、授業を聞き流しながらこの半日を振り返る。
朝からイベントが多すぎるというか、家を出て学校に来るまでに三回バトルが発生するのは、流石に根本からオカシいだろう。
雪枩グループの襲撃に関しては、何かしてくるかもと思いつつ、面倒だからと放置していた俺のミスと言えなくもない。
今後も色々なトラブルに関わるだろうから、全部に自分で対処するスタンスは考え直した方がよさそうだ――
「じゃあ次、56ページの音読を……薮上!」
さっきの意趣返しなのか、小島が教科書を読めと指名してくる。
立ち上がる俺を見ながら半笑いなので、たぶんコチラを不真面目な落ちこぼれ予備軍、とでも認識しているのだろう。
不真面目なのは大正解だが、この程度の英語もまともに読めないと思われてるのは、いくら何でもナメられすぎだな。
『――――――――、――――――――。――――! ――――――――。――――――? ――――――――――。――――、――――――』
「おっ、おいおい? もっとゆっくりでいいぞ、ゆっくりで」
日常会話くらいの速度でスラスラ読み上げていくと、小島が口を挟んできた。
仕事柄、英語と中国語は普通に使いこなせるし、韓国語とロシア語もそれなりで、ドイツ語やスペイン語やフランス語などもある程度はイケる。
生活していくのに必要なら、人間は大概のことは学習するものだ。
ゆっくり、との指示に従って今度は俗語表現を混ぜて更に日常会話っぽくすると、小島が呆れ顔で止めてくる。
「わかった、わかった! もういい。その次を……柏崎」
「えっと……どこからっすか?」
俺の喋りを聞き取れなかったのか、次に指されたヤツが困り顔だ。
中身はいい大人だが、ジジイになってからも大人気なかった俺なので、この程度の対応は当然のようにやる。
その後は特に何事もなく授業が進行し、チャイムと共に終了。
短いHRの後で放課になると、瑠佳と奥戸が寄ってきた。
「だいぶレベル高い重役出勤だなー。上級副社長くらいかー?」
「海外ドラマでしか聞いたことねぇ役職だ」
「めっちゃ顔が疲れてるけど……また何かトラブルに巻き込まれてる?」
「正解だ、サメ子。朝から十人とバトって、八人倒してきた」
そう答えれば、瑠佳は眉間に女子高生にあるまじき皺を刻み、奥戸は下唇を突き出した渋味たっぷりの表情に転じる。
その報告が冗談なのか本当なのか、二人とも判断に迷っている感じだ。
先に気を取り直した奥戸が、俺の肩をバンバン叩きながら言う。
「まぁアレだー、本気でヤバくなったらすぐ言えよー」
「安心しろ、ちょっとヤバいくらいで普通に頼る」
「そう言いながら遠慮すっからなー。オレとお前と大五郎の仲だろー」
「急に知らん人が混ざってきたが?」
しつこく肩を叩く奥戸の手を躱して脇腹に突きを入れてると、瑠佳がちょっと真面目な顔で訊いてきた。
「そこまでドタバタあって、わざわざ学校に来たのはどうして?」
「会いたいヤツがいる――いや、お前じゃないからな」
ほんのり乙女心を出したポーズをキメてくる瑠佳に、緩いチョップでツッコミを入れる。
そんなことをしていたら、会いたかった相手が歩いてくるのが見えた。




