第85話 「手加減すると約束したな……あれは嘘だ」
「ヒヒッ、ヒヒヒッ……ちったぁ『やる』みてぇだな」
「お前らのツレがヘッポコすぎるだけだ」
ゆっくり距離を詰めてくる筋肉デブの動きに合わせ、こちらは少しずつ後退。
足運びや構えの雰囲気からして、打撃よりも「組む」「掴む」からの攻撃が主体だと予想される。
気になるのは、一瞬で人数が半減した動揺が既に収まっていることだ。
もしや、コイツと水津二人で戦力の九割とか、そういうバランスなのか。
「わかってんな、ピン。遊びはナシだぞ」
水津から、指示なのか何なのか不明瞭な発言が出る。
表情から真意を読み取ろうとするが、感情を表に出さないのが得意なのか、またヘラヘラ笑いに戻っていた。
その水津に人質として取られているミツコは、漫画だったら魂が出てそうな虚無フェイスで口が半開きだ。
ピンと呼ばれた筋肉デブは、両手の指を組んで逆に反らし、ペキパキと軽快な音を鳴らしながら言う。
「オレがマジでやっと、すぐ壊れちまうんでなぁ……いつも手加減してんだ」
「心優しきモンスター気取りか」
「けどな、オマエは別なんだわ。水津さんからもよぉ、好きにしていいって言われてっから……ま、覚悟しとけよ」
「熱烈な告白サンキューな。コッチは手加減してやるから、安心しとけ」
半笑いで煽りながらクイクイ手招きすると、ピンは軽く腰を落とした前傾姿勢へとシフト。
耳が変形してないんで、使うのは柔道技ではなさそうだ。
となると第一印象の通り、ラグビーかアメフトの経験者だろうか。
突進力を活かすにはこの便所は狭すぎるが、どうするつもり――
「ぉおおおおおっ!」
思考を寸断する雄叫びと共に、ピンが意外な速度で突進してくる。
タックルで潰してから、グラウンドに持ち込む器用さはないだろう。
おそらくは肩で弾き飛ばして、倒れるかヨロケるかしてノーガードになった対象を殴る蹴る、ってのがコイツの必殺コンボだ。
シンプルすぎるが、体格差のある相手には有効な戦法と言える。
「それもこれも――」
小声で呟きながら、サイドステップでピンの進行方向から外れた。
俺を視認せずに突っ込んできてるから、急な方向転換は不可能だ。
壁にぶつかるのを待つのもいいが、より効果的になるようサポートしてやる。
「――当たれば、だっ!」
ドタバタ駆けてくるピンの右脚が床に着く寸前に、横合いからの足払い。
「ぷぉっ――ぶきっ!」
足首を狙っての一発が綺麗に決まり、ピンは便所の床にヘッドスライディング。
短い距離を滑った後、壁に頭頂部を打ち付け「ゴスッ」と音を立てて急停止した。
この段階でもリタイヤ状態だろうが、念のためにトドメを刺しておこう。
「そういえば、手加減すると約束したな……あれは嘘だ」
「はごぅ――」
もう聞こえてないだろうが、処刑宣告をしてから後頭部を踏み抜いた。
首周りが結構な太さなんで、イマイチ効いてない感じがしてならない。
俺の体重が足りてないのも、攻撃力不足につながってそうだが。
そんな反省をしつつ俯せの横面にサッカーボールキックを追加し、水津の方へと向き直って告げる。
「さて、と。手下は全滅したけど、お前はどうするよ」
「……だから、何だってんだ」
「言葉は通じても会話が成立しないパターンか? こっからどうするつもりなんだ、って訊いてんだよ。やんのか? 逃げんのか?」
「どっちでもねぇな……まぁ、とりあえず今日のところは勘弁してやる」
「いきなり新喜劇メソッドを持ち出すな。俺が関西人なら派手にズッコケてるぞ」
リアクションに困って、失笑に近い苦笑を返した。
だが水津は、フザケた様子もなくドロッとした視線を向けてくる。
いかんな――こういう目をしてる奴は、高確率でロクでもないことをやらかす。
経験則に従って警戒心を高めていると、水津がシガリロをミツコの顔に近付けて弾き、軽く火の粉を散らす。
「あぁづっ」
「何してんだ、オイッ!」
反射的に怒鳴ると、水津はグニャリと顔を歪め、寧猛な笑みを浮かべる。
生理的不快感を掻き立てる、獣めいた厭らしい笑顔だ。
勝ちを確信した人間は時々こんな風になるが、水津はどこでその判断に至ったのか。
少し考えたが、おそらく「ミツコを使った脅迫が効く」との確信を得たのだろう。
ミツコのお下げを掴んだ水津は、シガリロの火種をコチラに向けて吼える。
「上等なクチ利いてんじゃねえ! 次はこのガキの目玉に根性焼きだっ!」
明らかに自分が不利な状況でも、一点突破で行けると踏んで強気でゴリ押す。
大した胆力と言えなくもないが、流石に付き合っていられない。
「なっ――おぃコラ! 暴れんなっ!」
「うぅうううううぅううぅっ!」
ミツコは限界に達したのか、唸り声を発して両手をデタラメに振り回す。
ここだ、と判断した俺はポケットに手を入れ、中にあるものを握り込む。
そしてミツコがよろけ、カクンッと膝から崩れかけた瞬間。
水津との密着が解けたその隙に、手の中の八面体をアンダースローで放った。
「ぶぇっ――うぉ、ほぅん」
何度かの短い呻き声に、金属塊がタイルを跳ねる音が続く。
目に根性焼き、とかほざいていたせいで、釣られて目を狙ってしまった。
威力よりも速度を重視した一発だから、潰れるまではいかないだろう。
そんなことを考えつつ、命中を確認すると同時に駆け出して水津に迫る。
「んがぁあああああぁ! おああぁああああっ!」
水津は背中を丸め、左目を押さえて喚いている。
ようやく人質状態を脱したミツコは、その傍らでへたって動かない。
彼女を巻き込まないような攻撃は――と選択する前に、体は半ば勝手に動く。
何とも言えず丁度いい位置に、水津の頭が下がっていた。
そこを目掛けて、加速の乗った右膝を跳躍してカチ上げる。
「ぅらっ!」
「べひゅあっ――」
芯を捉えた感触が、強烈な反動と共に伝わってくる。
水津の両足が浮いて、丸まっていた背筋も伸ばした状態で壁にぶつかった。
イの字みたいなポーズで数秒貼り付いた後、意識を飛ばしたらしい水津は、便所のタイルと情熱的なキスを交わす。
グシャとかゴシャとか、あまり人体から出ないタイプの音がして、紅色がタイルの溝に幾何学模様を描いていく。
「ふわっ、わわゎわなわわっ、わゎなわわゎななわ」
人体同士の衝突事故をアリーナ席で目撃したミツコは、小刻みに震えながら何だかわからない呪文のようなものを唱えていた。
盛大にテンパるのも無理もないが、この状態で放っても置けないので、落ち着かせるために「パンッ」と大きく拍手を打ってから声をかける。
「アンタも災難だったな……怪我、してないか」
「けっ? ケガぁ……は、してない、よ?」
「髪や眉が、ちょっと焦げてるな。とりあえず、代理で復讐しとこう」
言いながら、火の消えてないシガリロを拾って、水津の頭皮を炙っていく。
だいぶ遠くまで意識が飛んでるのか、クリリンっぽく根性焼きの痕をつけても反応がない。
そんな光景にミツコはドン引きするかと思ったが、慣れたのか麻痺したのか何も言わずポケーッと眺めていた。
叫ばれたり泣かれたりよりマシだが、これはこれで不安になる無反応ぶりだ。
「えぇと……コイツらに盗られたりしたモンは」
「あの、カバンとられて……コインロッカーの中に」
「そっか。ちょっと待ってろ」
たぶんコイツが持っているだろう、と水津のポケットを探る。
予想通りに、プラスチックの番号札が付いた鍵が出てきた。
それをミツコに手渡しながら、腰を屈めて目線を合わせつつ言う。
「あのな、今日あった色々の全部。コイツらに捕まったことも、このトイレであったことも、できれば忘れた方がいい」
「でも……遅刻の理由、どう説明したら」
「人に話すとな、サボったと思われて先生や親に怒られるより、七十倍くらい面倒な状況になる。わかってくれ、ミツコ」
つい脳内で設定した仮名で呼んでしまうと、首を傾げて問い返された。
「ミツコ……? リカ、だけど」
「あぁそう、リカね。とにかく、電車で居眠りしてたら無限に往復してたとか、そういう嘘で誤魔化しとけ」
「う、うぅん?」
微妙に納得してない気配があるので、もうちょっとフォローしておくか。
「だったら、妙なトラブルに巻き込んだ詫びに、リカが本当に困った時、俺が一度だけそれを何とかしてやる。俺が誰なのかは、そこのアホ共に聞いてるだろ」
「神楠高校一年の……ヤブガミケイト、さん」
「そんで、俺がメチャクチャ強いのも見たよな?」
確認すると、リカはコクコクと頷いた。
この反応なら大丈夫か、と投げ捨てられていた自分のカバンを開く。
そしてノートに電話番号と名前を書いて破り、畳んでリカに渡す。
「イザって時は、そこに連絡するか学校まで来て呼び出せ」
「うん……ありが、とう?」
「じゃあ、気を付けて学校行くなり、家に帰るなりしてくれ」
ありがとうでいいのかな、みたいな雰囲気で返事をしたリカは、若干フラフラしながら便所を出て行った。
俺もサッサとこんな臭い場所から出て行くか、と思いつつ金属弾を拾う。
出る前に水津や手下の財布を抜き取って、身分証明書の類や仲間の電話番号が並んだメモ、それとファイトマネーを没収する。
「学校に着いたら五時間目が始まってそうだな……」