第74話 「瑕が残るなんて、許せるワケないんだよ」
※今回は桐子視点になります
最後まで自宅とは思えなかったマンションに戻り、三階の三〇六へと向かう。
強制的に移住させられて数年、階段を上る足取りを軽く感じるのは初めてだ。
「ふぅ……くふっ、ふふふふふふっ……」
玄関に入り、閉めたドアに背中を預けて溜息を吐くと、不意に笑いが込み上げてきた。
作り笑いでも愛想笑いでもない、演技の混ざっていない本物の笑いが。
感情をコントロールできないのは役者失格という気もするが、どうせ失格の烙印を捺されている身なんだし、ちょっとくらい構わないだろう。
大笑いでも忍び笑いでもない、久々すぎて錆ついている感じのぎこちない笑いが、ダダ漏れ状態でしばらく続く。
「ふふっ……ふっふふふふふふはっ、はぇ……ぅうんっ!」
若干収まってきたところで、無理矢理な咳払いを挿んで漏れを止めた。
自由になる、ってのは言葉ではしょっちゅう聞くけど、実感としてはこんな風なのか。
刑務所や少年院から出た直後の役を貰えば、今なら最高の演技ができそうだ。
因習で雁字搦めな旧家から逃げて東京に出てきた少年、なんてのもアリかな。
無駄でしかない年月だったが、稀有な経験ではあったかもしれない。
もう一度やれと言われたら、言ったヤツを刺し殺しかねないけど。
「コイツはもう、いらないね」
首輪代わりのポケベルを取り出し、コンクリの三和土に転がす。
そして五回、十回と踏みつけ、体重をかけて踵で念入りに躙った。
ベキョッ――と乾いた音が響いて、靴底に破砕の感触が拡がる。
鳴る度に胃に痛みが走るようになっていた、悍ましい機械はもうない。
ここにあるのは、割れたプラスチックと潰れた電子部品が絡まっただけのゴミだ。
そのゴミを蹴り散らしたら、脱出のための準備を開始しなければ。
「荷物らしい荷物もないな、やっぱり」
狭いキッチンを抜けて八畳の部屋を眺めれば、本当に生活感が乏しい。
薄いマットレスを敷いたパイプベッド、二十型のテレビデオ、古本が乱雑に詰まったカラーボックス、その上に置かれた安物のプッシュホン、下着類の入ったプラ製の衣装ケースがいくつか。
机やテーブルなんてものはなく、衣装ケースがそれを兼任している。
押し入れには金属のパイプが通してあり、ハンガーラックとしても機能しているが、中身はスカスカだ。
通学用のドラムバッグに制服や体操着を詰め、隙間にシャツやパンツを捻じ込む。
教科書やノートは学校のロッカーに置いたままで、持って出たい私物の類は特にない。
昔は写真や貴重品の類も置いていたし、ビデオやCDなども持ち込んでいたが、用もなくやってくる大輔たちに壊されたり盗まれたりで、もう何も残っていない。
あいつらは、それが欲しいから奪うのではなく、僕を傷つけるためだけにそれをやる。
本当に楽しそうに、心から嬉しそうに、飽きもせず何度も何度も――
「おっと、危ない危ない。ちょっと気が緩んでるっぽい」
怒りも恨みも嘆きも苦しみも、なるべく表に出さないように生きてきた。
それが、今日一日だけで随分と崩れてしまっている。
もう自分の感情を誤魔化す必要はないのだろうが、ここまで操縦不能だと仕事に支障が出かねない。
仕事――そうだ、また演技の仕事に戻ってもいいんだ、僕は。
問題は、業界サイドから拒絶されないかどうか、ってことだけど。
「それはまぁ、薮上君の作戦がハマれば、何とかなるか……あとはコッチでも、やれることをやっとこうかな」
あの屋敷から持ってきたトランクを開け、収穫品を再確認する。
作品の評価は高いけどスタッフや役者との訴訟沙汰も含めたトラブルが絶えない、人間性が酷すぎる暴君監督。
少年愛嗜好が公然と囁かれている、特定事務所の十代のアイドルばかりをキャスティングするプロデューサー。
監督・脚本・音楽を担当した作品が大ヒットしたが、実際には作曲しかしてない疑惑が濃厚なミュージシャン。
死のうが消えようが個人的に痛くも痒くもない連中のを中心に、力生のコレクションから抓んできた「弱味」の数々だ。
これらを上手いこと使えば、復帰に有利に働くんじゃないかって計算がある。
コチラの名前を出さなくても、僕に都合がいい状況を作るのはそう難しくはない。
芸能界が複雑なようで単純なシステムで動いているのは、知識としても経験としても理解できてるからね。
「問題は、コレだなぁ」
僕が今ここにいる原因であり元凶である、赤瀬川志麻のやらかしが収録されたビデオを見詰める。
これを見せられた後の、力生の言葉を全て無視していれば、どうなっていたか。
そんなことを考えてみたが、すぐに意味がないと気付いて切り上げた。
だって、あの日のあの場面に戻っても、僕は絶対に同じ選択をするから。
僕なんかと違って、赤瀬川志麻には過去にも現在にも未来にも代わりがいない。
演技力と存在感が唯一無二と言っていい彼女は、「真のスター」として記憶されるべき人物なのだから。
「瑕が残るなんて、許せるワケないんだよ」
下らん薬物を持ち出したプロデューサーも、こんな場への参加を許した事務所も、いずれは相応の報いを受けてもらわないと。
馬鹿共の罪の証拠として、このビデオはしばらく僕が預かっておくか。
それに万が一、シマちゃんが結婚して引退だの芸術家に転身だのと血迷い始めた時は、これが抑止力になって――
「いやいや、ダメだって……考え方が力生に寄ってる」
気を取り直して、トランクの空きを細々とした物で埋めていく。
必要なさそうだけど、悪用されると面倒かもしれない書類や手紙。
何が写っているか知らない、大輔らが置いていった使い捨てカメラ。
残していくのが何となく躊躇われる、歯ブラシや普段使いの食器。
大体こんなもんかな、と思えた辺りで容量もほぼ一杯になった。
気分的には放火するか爆破するかして、燃える部屋をバックに颯爽と出て行きたい感じだが、社会はそれを許してくれない。
なので、数年を過ごした牢獄とのお別れは、特に劇的なイベントもなく終了した。
荷物はそこそこ重たいが、階段を下りていく足取りは、さっきよりもっと軽い。
色々とやるべきこと、やりたいことはあるけれど、まずは与那原さんに連絡だな。
「番号、変わってなきゃいいんだけど……」
部屋からでもよかったが、盗聴を警戒して公衆電話を使うことに。
マンションから少し離れたボックスに入り、受話器を外してテレホンカードを挿入。
アドレス帳のヤ行を開いて「ヨナさん・会社」の横に書いてある番号をプッシュする。
三回半のコールの後、男の声が明るく応答してきた。
『ハイッ、こちらヨナヨナ工芸っ!』
「あ、社長の与那原さん、いらっしゃいますか」
『ワタシですけど。えぇと、そちらは?』
「ちょっと憶えてもらってるか、どうか……役者やってた榛井肖なんですけど、わかりますか」
『んんっ!? 榛井クンって……あの榛井クンかぁ? えぇ、何でぇ? どしたぁ? 何やってたのさぁ、今までぇ?』
驚きと嬉しさと戸惑いをゴチャ混ぜにしながら、標準語に独特の訛りが残った懐かしい声で、テンション高めに色々と訊いてきた。
数年ぶりの会話にブランクをまるで感じさせない態度は、相変わらずの心地よさだ。
与那原さんの本業は大道具や舞台美術の製作だけど、副業で内装や美装の工事も請け負っていたはず。
なので、質問に一通り応じた後にコチラの用件を切り出し、簡単に事情を説明する。
「――って感じでして。内装の方の仕事を頼みたいんですよ、超特急で」
『おぉぅ、いいよーぅ。榛井クンが俺のこと、忘れてなかったのも嬉しいしなぁ!』
「いやぁ、僕の方は忘れられてたら気まずいな、ってドキドキでしたけど」
続いて支払い方法や金額の話になるが、標準的な工事価格よりだいぶ値引かれている雰囲気。
それなりに仲良くしてはいたが、ここまでサービスされる関係でもなくないか、と心配になって確認しておく。
「あの、ヨナさん。その値段だと、ちょっと安すぎません?」
『んー、かもしれんけど、半分は御祝儀だなぁ。ワザワザ俺んとこ電話してきたってのは、アレなんだろ?』
「……どれです?」
『トボケんでいいってぇ! 芸能界に復帰する準備ができてっから、その挨拶回りの一環てな感じだろ? わぁかってるってぇ!』
「あぁ、ハハハッ……わかっちゃいましたかぁ」
よくわからないが、理解られてしまったので、そういうことにしておこう。
どうせなので、僕が復帰に向けて色々と動いている、みたいな噂を流してもらうのもアリか。
そう気持ちを切り替えると、与那原さんにアレコレと未定な予定を吹き込み始めた。
現状では単なる大ボラだけど、一年後――いや、半年後には大体が現実になっている。
そう確信している人物を演じながら、徐々に自我と役柄の境界線は溶けていく。
三十秒とかからずに、桐子晶は榛井肖へと切り替わる。
それは僕にとって、何の違和感もない当たり前の幕開けだ。
今回で幕間その2は終了になります。