第62話 「そこで逃げたら魂が死ぬ」
俺がタックルの対処法を理解していると察した沼端は、もう無造作に突っ込んでこないだろう。
そういう意味でも、手の内がバレていない初手で勝負を決められなかったのが痛い。
ついでに、中々の打撃が入った左の肩と側頭部に、深刻な鈍痛が残っている。
動けなくなる程のダメージじゃないが、回復する時間が必要なレベルだ。
「どうした、小僧……ガラにもなくビビってんのか」
「今日が初対面だってのに、人柄を分析してくれんな」
凝視しながら煽って来る沼端に、目を逸らさずに雑な返事でもって応じる。
怯んでいるとは認めたくないが、少なからず動揺はあった。
今の人生二周目になってから、初めて湧き上がる危機感。
下手をすれば負ける。
ここ数十年、一対一では味わったことのない感覚。
貞包のボディガードとして登場した芦名、アレもまぁまぁヤバかったが、敗北の予感は殆どしなかった。
だが今は、一つのミスで全てが終わる――そんな予感が消えてくれない。
「だから、サッサとバックレときゃよかったんだ。こういう連中ってのは、関わったらおしまいだからよ」
「ガッツリ関わってそうなアンタは、逃げるのに失敗したのか」
「ん……まぁ、そう言えなくもない。逃げたくても逃げられない場合もある」
「そいつは、俺だって同じだ」
やはりコイツには、桐子と似たような事情があるようだ。
その事情を思い出したのか、沼端は苦笑めいたものを閃かせて呟く。
「見捨てて逃げられりゃ、よかったんだろうがな」
「よかねぇよ。そこで逃げたら魂が死ぬ」
俺が断言すれば、沼端はいい一撃をもらった直後にも似た、気の抜けた表情を見せる。
しかし、それはすぐに消え失せて、落ち着き払った雰囲気へと転じた。
反射的に本音で答えてしまったが、もしかして余計なフォローになったのか。
そんなことを考えていると、沼端がスッと浅く腰を沈めて何かの予備動作に入る。
次にカウンターを失敗すれば、その次はない――だから、手段を選ばない。
「フッ!」
半瞬で間合いを詰められ、短く息を吐く音と共に牽制がてらな右のローキックが放たれた。
受けてもいいのだが、今の自分では勢いを殺しきれない不安が。
なので安全策を採ってバックステップで躱し、ポケットに手を伸ばす。
下がるのに合わせて二歩踏み込んできた沼端は、ガラ空きになった俺の顔面を狙って、左ストレートを突き入れる。
「おっ――」
速い、だが避けられなくはない。
しゃがんでしまうと、高確率でアッパーが来る。
スウェーでやり過ごしての反攻は、一撃で潰せなければ焼け石に水。
左か右に跳んでも、連続攻撃を呼び込むだけ。
再度の後退は、更に踏み込まれて選択肢を狭める。
だが、敢えてここは後退――踏み込ませるのではなく、誘い込むっ!
「――とぉ」
「ザリガニかぁっ!?」
「カメムシだ」
ポケットから抜き出した、催涙スプレーを構える。
コレの威力を見ている沼端は、慌てて顔を背けて足を止める。
ダメージを気にせず突撃される危険もあったが、賭けに勝ったようだ。
カラの容器を放り捨て、無防備に晒された顎を右の裏拳で弾いた。
パカンッ、と乾いた音が響く。
我ながら、見事に決まった一撃だった。
脳を揺らされた沼端は、膝からグニャンと崩れてステージの床に沈む。
まともに撃ち込んでも、首周りの筋肉に邪魔されダウンは奪えなかっただろう。
しかし、咄嗟にスプレーから顔を背けた結果、沼端のガードは穴だらけ。
若干の卑怯さがあるような気もするが、道具を出しただけで使ってはないからルール的にはギリセーフ……のハズだ。
「さて、と」
そんな言い訳は脇に置いて、仰向けに倒れた沼端を見下ろす。
この場の戦力としては、おそらくこのおっさんが切札だろう。
ならば誰も俺に勝てない、と諦めてくれればいいが、きっとそういう流れにならない。
まともにやっても勝てないからと、新たなデタラメが繰り出されるハズだ。
沼端も、放って置けば間違いなく再戦するハメになる。
「ちょいと気の毒だが……」
相手は気絶しているので、どんな攻撃だろうと自由自在。
半端なダメージで復帰されても困るので、さっきのハゲ共と同じくゴツいダメージで動けなくなってもらうか。
いくつかの候補を素早く思い浮かべた後、悪名高い関節技の体勢に入った。
沼端の左の膝をガッチリ固め、肘の内側でフックした踵を手加減なく捻る。
「んぁがががががががががっ! かっ――なばっ、もっ――」
あきらかにヤバい音が膝から弾けた後、沼端の絶叫と悶絶が続く。
極まれば最後、あっという間に膝の靭帯や半月板を破壊する凶悪さなので、ほぼ全ての格闘技で禁じ手とされる技――ヒールホールド。
教えてくれたチャクラも「使うのは命の危険がある時だけな」と言っていた程だ。
とりあえず、現状はだいぶ命の危険があるから、使ってもOKなタイミングだろう。
「早めに医者に行っとけよ、オッサン」
「おぅっ――ほぅっ、むおっ――ぜうっ」
偽善的だとは思いつつも、沼端に一声かけて立ち上がる。
だが返事はなく、意味を成さない濁った呻きだけが繰り返された。
左耳の聴こえ方に、少し違和感が残っている。
鼓膜にダメージが残ってなければいいんだが。
そんなことを考えながら、ハンマーを回収して深めのポケットにぶち込む。
「お? ……消えやがった」
ステージを降りる前に桟敷を見るが、力生の姿がない。
桐子もおらず、弓女だけが虚ろな表情でコチラを見ている。
フロアでは、さっき壊滅させた黒服たちが相変わらず転がっていた。
傷面男が見当たらないが、力生と一緒に逃げたのか。
「コッチはコッチで、何があった」
いつの間にか静かになっていた大輔は、白目を剥いてグッタリした状態で座席の一つに体を預けている。
微かに胸が上下しているので、死んではいないようだ。
抑えておくのが面倒になって、百軒が締め落として大人しくさせた、とかそんな感じだろうか。
その百軒はどこだ――と見渡せば、少し離れた座席の陰に潜んでいるのを発見した。
「よっ、と」
ステージから飛び降り、百軒が何を仕掛けてくるかを想像しつつ、六角棒を回収。
何を考えているかわからんが、ロクでもないことを企んでいるのはほぼ確実だ。
沼端との戦闘中に仕掛てこなかったし、そこまで異常な選択肢はなさそうだが。
ケースAは中距離から拳銃による射撃。
ケースBは近距離から刃物による奇襲。
ケースCは戦意喪失してひたすら隠遁。
「Cだとラクなんだがなぁ……」
口の中で呟き、百軒が潜伏している場所へと接近していく。
あと三歩か四歩かな、というタイミングで不意に殺気が膨らんだ。
百軒の潜んでいる場所より、もっと上の方から。
反射的に伏せるのとほぼ同時に、金属の矢が飛来して床を跳ねる。
虚脱した雰囲気は偽装だったのか、それとも自分の義務を思い出したのか。
身動きが取れなくなる前に、弓女の陣取る桟敷まで駆ける――
「おーぅ、そこまでだ」
隠れていた百軒が、俺の進路を塞ぐように現れた。
右手に拳銃を構え、勝ちを確信したドヤ顔を浮かべている。
まさかのケースD、至近距離から拳銃による脅迫だ。
銃はまたトカレフ――ではなく、ユーゴ製のザスタバM57か。
どいつもこいつも、安物ばっか使うなと説教したくなるな。
「勝ったつもりだったか、クソガキ? 散々に暴れやがって……なぁ、オイッ!」
「まったく……ピストル好き好き大好きすぎだろ、反社ちゃんたちは」
「あぁ!? 何だっ――あぉっ」
コチラの額に銃口を突き付ける動きを察した瞬間、六角棒で右手首を打つ。
無警戒だった百軒の手から、アッサリとザスタバがこぼれて床を転がった。




